White White Betrayal
陽光を照り返す純白の大地は白色電球のようにも見えた。
空は雲一つ見当たらない快晴。
天の青と地の白に挟まれた俺の頬を一滴の汗が伝った。
双眼鏡から目を離し、地平線に目を凝らす。
黒い姿と灰の姿。
見間違えようもない。唇月と妃だ。
距離は――――少なく見積もっても数百メートルは離れている。
曹長の言葉通りなら軽機関銃の射程内だが、こちらから向こうが見えるということは、向こうからもこちらが見えるということ。
不用意な行動は死を意味する。
軽率な行動は
(!)
蟻のようにしか見えない二人の背後で白い蝋が盛り上がった。
見る見るうちに肥大化したそれは彼女たちの『後方』へ向かって走る。
大きくうねる津波は唇月の肌と同じミルク色だった。
(何で進路と逆方向に……?!)
数秒、数十秒が経過する。
蟻のようにしか見えなかった二人が親指ほどのサイズになり、人差し指ほどのサイズになる。
ざあああ、と白い波が彼女たちの背後に戻って来た。
それも、見たこともないほどの高さになって。
「!」
このオフィスビルの半分ほどはあるだろう。
地上数十メートルに及ぶ蝋の津波。
ビル内部で息を殺す避難民が声なき悲鳴を上げるのが分かった。
押し寄せる津波は今にも唇月と妃を取り込んでしまいそうに見えた。
――――が。
唇月は前を向いたまま、そっと片手を地についた。
せり上がる津波が急停止し、ぐりんとUターンして再び彼女たちの後方へ走り出す。
まるで壁にぶつかって跳ね返る浴槽の中の波のように。
(……! そういうことか)
俺はビルの室内階段を駆け下りながら彼女の狙いを悟った。
あれは「もし自分が狙撃によって命を落とすことがあったら、特大の津波がこの地を覆う」という意思表示だ。
接触前に殺されることを防ぐための津波。
既に彼女はこちら側全員の命を握ったにも等しい。
悪寒のあまり首筋に冷たい汗が浮いた。
戦いは既に始まっている。
和解を嘯く殺し合い。
互いに互いを殺す意図があり、その準備も整っている。
違いがあるとすれば、俺たちは唇月を殺すことが目的だが、当の彼女の目的は俺たちを殺すことではない、という点だろうか。
窓を破られたオフィスフロアに至る。
本来なら地上四階か、五階ぐらいの高さだろう。
オレンジジュースのパックをちゅうう、と吸い潰し、ゴミ箱へ。
部屋の隅に立つワイシャツ姿の曹長が小さく頷いた。
俺は目線をそちらへ向けないように気を付けつつ、懐へ手を入れた。
櫛を開き、髪を梳く。
鏡を見る。
多少寝不足だが、肌の手入れも体毛の手入れもばっちり。
――申し訳ないほどに色男だ。
窓枠を跨ぎ、蝋の世界へ。
唇月と妃は中指ほどの大きさになっていた。
黒ずくめの唇月と灰ずくめの妃はとにかく目立つ。
特に妃は背が高く、歩き方もモデルのよ
どおおん、と。
すぐ近くで蝋の塊が爆ぜた。
「!」
びくりと身を震わせた俺は周囲を見渡す。
一晩降り続いた蝋に覆われ、枝すら突き出していない純白の世界。
その一角に、ごくさりげなく蝋の『泡』が固まっていた。
落ち葉に紛れる蛾、あるいは枯れ枝に紛れるナナフシのように、蝋の泡が岩に擬態している。
人間一人が隠れられるほどの白い泡の塊。
そこに、妃の『雷』が直撃した。
「……」
飛び散った飛沫が、ぼろぼろと音を立てて地を打つ。
一部は雪のように舞い、つかの間、風に踊る。
一体どれほどの距離があるだろう。
二百メートル。いや三百メートルか。それとももっと近いのだろうか。
何であれ、既に妃は必殺の射程に入っている。
不用意な動きをすれば即、殺される。
どおん、と。
続けて雷が放たれた。
別の泡が破壊される。
蝋の泡は吹雪が止んですぐにあちこちに設置した。
妃はそれを一つずつ、緩衝材を潰すように丁寧に破壊していく。
もし中に人間がいたらひとたまりもないだろう。
――誰も潜ませなくて正解だった、と曹長は今頃安堵していることだろう。
どおん、と。雷が一度爆ぜる。
どど、どおん、と。更に三度の雷。
俺が唇月たちに近づくにつれ、左右で白い泡がびしゃりべしゃりと爆ぜる。
俺はその地獄のような光景を、ただまっすぐに歩く。
微かに、風が吹いた。
「……」
俺は指を口に入れ、宙に翳す。
――大丈夫。こちらは風下ではない。
どこかに設置された蝋の綿毛がこちらに飛んできている、なんてことはない。
さしもの唇月も天候を操ることはできないし、風向きを正確に読むこともできないのだろう。
俺は野球選手のように軽く右腕を回した。
このジェスチャーの意味は『綿毛の心配は無い』。
ビル内に潜む紫苑と優姫、曹長への合図だ。
再び白い大波が迫る。
もはやそれは怪獣並みの大きさになっていた。
だが唇月は軽い所作で地に手を置き、自らを飲み込もうとする津波をぐりんとUターンさせた。
唇月に忠実な白い怪物は再び彼女の後方へ走る。
じっとりとシャツが汗ばんだ。
唇月、妃との距離、約100メートル。
二人は静かに、しかしじっくりと周囲を観察しているようだった。
不審な場所へは妃が雷を放ち続けており、こちら側の小細工は一切通用しない。
どおん、どばん、とあちこちで白い蝋が噴き上がる。
ごごごご、と地響きと共に津波が迫る。
先日見たものの倍はあろうかという津波。
がららがら、と白い波の中で金属製の瓦礫がぶつかり合い、音を上げている。
(……!)
かたかたと地が揺れていることに気付き、俺は冷や汗を流した。
あの仕掛けは大丈夫だろうか、と。
津波は再び唇月に近づき、あやされるようにUターンする。
俺は僅かに歩を速め、二人に近づいた。
「おはようございます。ヨーコーさん」
「おはよう」
相手が敵であれ、礼儀には礼儀を。
色男の基本だ。
俺は汗に濡れた髪を軽く手で払い、呟く。
「本当に来るとは思わなかった」
「そうですか? こう見えて大胆なんですよ、私。……ね、妃?」
周囲を警戒していた妃は少しだけ頬を赤らめた。
何の話なのかは詮索しないことにする。
「自衛隊は?」
来た。
俺は平静を装い、腕をまっすぐ上に上げる。
蝋に塗り固められたビルの一角がはらりとほつれた。
無数の剣が地を打ち、がしゃんがしゃんと食器じみた音を立てる。
そこでは大人ほどの幅と長さのある剣が円状に柵を作り、一体の白魔人を閉じ込めていた。
中に入っているはベッドにそっくりな白魔人だった。
四つ足の代わりに太い鍵が六つ生えており、フットボードに当たる部分からは老人の顔が四つ伸びている。
鍵足をがちゃつかせて檻の中を這い回る白魔人は昆虫のようにも見えた。
四つ首老人の顔は喜怒哀楽の表情で歪んでおり、獲物を探す鳥のように左右や上下へくりくりと首を巡らせている。
「あれですか」
「あれだ」
唇はじっと白魔人を見つめ、俺はじっと唇月を見つめていた。
細い首。
細い手足。
掴めば折ることは簡単だろう。
だがそれをすれば、今まさに折り返し地点に至り、こちらへ向かって来る津波を止められない。
あの津波は下手をすればビルをへし折りかねない。
絶対に、ここより後ろへ向かわせてはならない。
「三つ綿毛を差し上げたはずですが、白魔人はあれだけですか」
「あれだけだ。五人いっぺんに吸い込んでアレになった」
「残りの二つは?」
「使ったけど、吸い込んでくれなかった」
予定通りの回答。
唇月に聞かれるであろうことはある程度シミュレーションしている。
自然な答えをしようと不自然な答えをしようとどの道殺し合うことにはなるのだが、重要なのは唇月を騙すことではない。
重要なのは――
「三つのうち一つはゴム製の偽物だったんですけど、そうですか。使えたんですね?」
「?!」
ぎょっとする。
思考がもつれ、次の言葉が出て来なくなる。
今こいつ、何と言った? 一つはダミーだった?
吸血鬼の姫君を思わせる唇月の顔に暗い笑みが浮かぶ。
「なーんちゃって、ね」
「……!」
「冗談ですよ、冗談」
真偽不明の言葉に意図不明の笑み。
寝不足の頭を揺さぶられるようで、思考が淀みかける。
「残ってる人たちを見える場所に並べてください」
予想通りの言葉。
俺は腕を斜め四十五度に振り上げた。
白魔人を封じていた群青が声を上げる。
俺の位置からは見えないが、ビルの窓際に避難民が集まっているはずだ。
彼らは二つの理由でこの場を離れなかった。
一つは、『自衛隊の不在』を確かめたい唇月に呼び出されることが分かっていたから。
もう一つは俺たちと自衛隊だけをこの場に残してどこかへ行けば、置き去りにされるのではという不安があったから。
理由はともかく、俺たちは約70名を背にした状態で唇月たちに挑むこととなった。
唇月はじっとビルを見つめている。
妃だけは俺から目を逸らさない。
臍に冷や汗が溜まり始めていた。
次だ。
次の言葉を間違えてはならない。
「確かにいないみたいですね」
唇月が黒縁眼鏡の奥から俺を見据える。
「それじゃあ――」
「傘」
矢庭に放った一言が唇月の動きを止めた。
「はい?」
「お前の傘だ。あれは今どこにある?」
「さあ。蝋の中なんじゃないですか」
「いや、違う。あそこだ」
俺は親指で遥か後方を示した。
そこではワイシャツ姿の曹長が黒い傘を掲げている。
「あら。拾ってくれたんですか?」
「そうだ。まずあれを返したい」
唇月はじいっと俺を見つめる。
「あの傘、特注品だろ? このまま無くしていいのか?」
「紳士ですね」
「紳士じゃない。色男だ」
妃、と少女が呟く。
手の中の雷雲を霧散させ、妃は訝しむ目で俺を見る。
俺が合図をすると、曹長が歩き出した。
近づくにつれ、ごつっ、ごつっという重たげな足音が耳につく。
もう少し優しく歩いてくれないか、と俺は冷や冷やした。
ここで彼女たちに素性がバレてはいけないのだ。
曹長はまだ唇月たちを攻撃するわけではない。
足音が俺から数メートルのところまで近づいた。
妃は俺越しに曹長を見つめ、唇月は面白がるように俺を見つめている。
距離、数メートル。
「待て」
呟いたのは妃だった。
犬用マズルガードの奥で唇が動く。
「シン。あいつ、堅気じゃない」
低い声。
俺はぎくりとしたが、曹長は平然としている。
「根拠は?」
「気配と、筋肉のつき方。普通の奴じゃない。今すぐ殺した方がいい」
「……」
唇月が俺を見た。
探るような、試すような目。
じわり、と。
内腿が汗で濡れた。
俺はただ黙って唇月を見返す。
「そんな見え透いた手を使うわけないでしょ、さすがに。ねえ、陽甲さん?」
ああ、とうわごとのようにつぶやく。
妃はまだ疑っているようだったが、それ以上は何も言わなかった。
良し、と。
俺は心中小さくガッツポーズを決める。
ここで見破られたら最悪のプランに移行する手はずだったのだが、それは免れた。
「シン。ボディチェック、するね」
「いいよ」
妃は呪い殺すような目で曹長の全身をくまなくチェックした。
くまなくと言っても、彼女は唇月を護衛しなければならないのでその動きは慎重だった。
俺はさりげなく曹長の右手親指を見た。
――立っていない。曲がったままだ。
これは『このまま妃を絞め殺すことはできない』の意思表示だ。
(……そっちのプランもダメ、か)
どの道、唇月が津波を連れてきた時点で強襲系の作戦は台無しになっている。
俺は悔しさを感じることはなかった。
プランは樹形図のように組み立てている。本命さえ実行できるのならそれで問題ない。
「いい。通れ」
妃の刺すような目を受けながら、曹長がひょいひょいと唇月に近づいた。
以前も見た黒い傘には新月の黒い円から満月の黄色い円に至るまでの三十の月がぶら下がっている。
「どうも」
唇月は花束を受け取る王女のごとくそれをかき抱き、ばっと広げた。
もちろん、内部には何の仕掛けもない。
盗聴器。爆弾。毒の粉。
唇月はそうしたものを探しているようだったが、見つからなかった。
妃も傘の方に目を取られている。
「いい傘ですね。つい盗んでしまいそうになりました」
「でしょう? 気に入っているの。拾ってくださったの?」
「ええ。貰い受けようかとも思いましたが、こちらの彼にハンサムではないと説かれましてね」
曹長は害意がないことを示すように、あるいは軽妙さをアピールするように、両手をホールドアップした。
(!)
俺は跳ねる心臓の音を妃に聞かれないよう、息を殺す。
これは――『本命がイケる』の合図。
曹長がここに来た理由は唇月の抹殺ではなく、仕込んだ作戦が本当に実行できるかどうかを判断し、それを周知するためだ。
「では、私はこれで」
曹長は急ぐでもなく、焦らすでもなく、踵を返して悠々とビルへ向かった。
呆気ない邂逅をどう思ったのか、曹長の背を見る唇月は目を細めている。
「それで、陽甲さんは私と一緒に来るんですよね?」
「ああ。一緒に行く」
「……」
「……」
心にもない言葉であることはお互いに分かっていた。
唇月は俺が本心で裏切るとは考えていないはずだ。
俺は櫛を取り出し、髪を梳く。
鏡を取り出し、自分の顔を覗き込んだ。
――申し訳ないぐらいに色男だ。
「相変わらずナルシスティックですね」
「俺はナルシストじゃない。この顔が美形だとは思ってないからな」
櫛で髪形を整え――――る振りをしながら、底部のスイッチを入れる。
ボタン電池式の豆電球が強い光を発し、それが鏡で跳ね返って後方への合図に変わった。
これは『群青。そろそろ出番だ』の合図。
「唇月」
「はい」
「何が目的だ」
「……」
「お前、その気なら俺たちを殺せるだろう。自衛隊も何も関係なく。……」
嫌らしい微笑が浮かんだ。
どうやら、当たっているらしい。
「……何が目的だ。まさか本気で俺を仲間にしたいわけじゃないだろう? 俺をダシにして、何をする気だ」
曹長たちは殺すことだけを目的としているが、俺はどうにも気になっていた。
こいつの目的は俺たちを殺すことの『先』にある。
それを知らずに彼女たちを屠ることができるのか。
できたとして、その先に未来があるのか。
唇月は値踏みするような目で俺を見ている。
光沢のない黒曜石を思わせる瞳。
感情は読み取れず、意図すらも読み取れない。
「……シン」
「分かってる」
津波が迫ってきている。
そろそろ唇月は振り返り、あれを押し返さなければならない。
俺はもうひと押しすることにした。
「条件次第では力になる」
「条件?」
「お前が俺たちをすぐに殺さないのは、「お前が欲しいものは俺たちを全滅させても手に入らないから」だろう?」
「……」
「その津波を止めたら、話ぐらいは聞く」
「そんなことを言って、私たちに銃弾を浴びせるつもりだろう」
割り込んだ妃に俺は首を振った。
「じゃあ人質を出す。人質を肉の壁にすればいい。俺の仲間の群じょ「私が欲しいのは」」
唇月が言葉を被せる。
「綺麗なものです。気持ち悪いものをぜんぶ津波で押しつぶして、綺麗なものだけを世界に残したいんです」
「……?」
「分かりませんか?」
唇月は妃の腰に手をやった。
その手が例えようもなくいやらしい動きで尻を、腰をなぞる。
妃は色っぽい溜息を漏らし、身じろぎした。
まさか、と俺は頬を引き攣らせた。
「女……?」
唇月は無言のまま、にたりと笑った。
呆れと同時に徒労感が募った。
そんなくだらない欲望のために、こいつらは人を殺すのか、と。
そんなくだらないことのために、俺や自衛隊は翻弄されているのか、と。
「あなたには分からないかも知れませんが、とても大事なことです。私にとっては」
唇月は窓に集う避難民を見渡し、告げる。
「前に見た、迷彩柄の水着の人」
「!」
「それに昨日一緒だった女の子。あの二人が欲しいです」
「優姫さんと紫苑を……?」
「はい。あの二人をここに連れてきてください。そうしたらこの津波を止めてあげます」
がらがらがらがらという轟音。
白い大津波が決断を迫るかのごとくこちらへ走って来る。
「……」
難問、だった。
優姫と紫苑を渡せば、この厄介な津波は止まる。
それは曹長たちによる射撃が可能になることを意味する。
だが唇月は当然優姫を紫苑を盾にするだろうから、結局状況は変わらない。
遠ざかったところで改めて津波を起こされる可能性も高いし、何よりうっかり逃げ遂せられた場合、優姫と紫苑がとんでもない目に遭う。
本命の作戦に支障は出るか。
いや、おそらく出ない。それどころか好都合ですらある。
俺は少し悩んだ末、首を縦に振った。
「ふふ」
唇月はまず優姫の全身を舐めまわすように見つめた。
上から、下まで。
包帯に血を滲ませた優姫は珍しくうろたえているようだった。
まさか同性からこんな視線を向けられるとは思っていなかったのだろう。
腰を見られれば腰をくねらせ、胸を見つめられれば上半身を逃がそうとしている。
踊るヒマワリのような姿だ。
「……」
一方、紫苑はむっつりした顔のままだった。
唇月は恋人を抱くように紫苑の腰に手を回し、何事かを囁いた。
が、紫苑はその手首に手を置き、億劫そうに振り払う。
「いいですね。すごくいいです」
唇月はうっとりと二人の肢体を眺めている。
妃は不機嫌そうで、こめかみに青筋すら浮いていた。
「二人とも蝋を操ることができる、という点に運命的なものを感じます」
唇月は俺を見た。
「この二人、お借りしていいですか?」
「お借りして何する気だ」
「秘密のパーティーです」
「……」
当然、ダメに決まっている。
だが断ればいつまで経っても話が前に進まない。
つまり、本命の作戦が発動できない。
それに先ほどビルに話を持ち帰った時、避難民の多くは紫苑と優姫を差し出すべきだと主張した。
本人たちの目の前で。
俺はより色男な道を探したが、見つからなかった。
昨日と同じく、俺は今日も無力だった。
「いいよ。行く」
優姫が肯ずると唇月は舌なめずりした。
年上が好みなのだろうか。興奮を隠しきれていない。
「いいですね。すばらしいです」
唇月が紫苑に顔を寄せる。
紫苑は無言でそれを見返す。
「あなたも来てくれますよね? シオンさん、でしたっけ」
「……」
唇月の腕がタコの触手のごとくカーディガンに絡む。
紫苑は鬱陶しそうにそれを振り払った。
「私、好きな人がいるんですけど」
「そそる話ですね」
唇月がぞくぞくと身震いする。
「それで、来てくれないんですか?」
「まあ、行くけど」
紫苑がちらとこちらを見る。
大丈夫だ。
本命が発動すれば何の問題もない。
「ところで、紫苑さんはとても荷物が少ないんですね?」
言葉の通り、紫苑はポーチしか身に着けていなかった。
一方、優姫は大きなナップザックを背負っている。
「……」
「バッグ、無くしちゃったんですか? ふふ……」
意味深な微笑。
紫苑がつっけんどんに言い返す。
「津波」
「そうですね。止めましょうか。嘘は気持ち悪いですから」
唇月は振り返り、白い大地に手を置いた。
もはや地を覆う怪物ほどに巨大化した波が静止する。
落ちる影は広く長く伸び、太陽すら隠すほどだった。
「……待って」
踵を返そうとした唇月の背に優姫が声を投げる。
「私たちが一緒に行けば、もうこっちの人たちには手を出さないんだよね?」
「さあ。どうでしょう」
「約束するならついて行く」
振り返った唇月の目に差すようなものが映った。
「離れたところで津波を出されたら終わりだから。それが無いっていう『約束』が欲しい」
「……約束ですか」
「そう。約束。約束してくれるなら――紫苑ちゃんは知らないけど、私はあなたの言うことを聞く」
その言葉を検討するかのように唇月は考え込んだ。
約束。
美学を尊ぶ彼女にとってこれほど強い縛りは無い。
この言葉を使うよう提言したのは群青だ。
「……いいですよ。あなたが素直にしてくれている間、私はこの能力を使わないと約束します」
「!」
ぷわりと黒い花のように傘が広がった。
唇月は既に俺に背を向けている。
「妃。後ろをお願い」
こくりと頷いた妃が雷雲を掲げ、優姫と紫苑は唇月に従った。
四人は大きな津波をかわし、どんどん遠ざかっていく。
俺から三メートル。
五メートル。
十メートル。
――二十メートル。
「あっ?!」
がくんと優姫が膝を折った。
何事かと唇月が振り返るが、妃はこちらを見つめたままだ。
「――」
「――」
声は少し遠いが、何を話しているのかは分かる。
靴ひもがほどけてしまった、だ。
優姫はごくさりげない仕草で片膝をつき――――地に手を置いた。
この世界に蝋がある限り、唇月の能力は無敵だ。
――『蝋がある限り』。
なら、蝋の無い場所で戦いを挑めばいい。
四人の足元がぶわりと柔らかく崩れる。
蝋を『泡』に変える優姫の能力。
さしもの妃も後ろ向きに歩きながらこの事態に反応することはできなかった。
アリジゴクに吸い込まれるかのように。あるいは、排水溝に吸い込まれるかのように。
四人が地の底へ吸い込まれていく。
「――!」
「――――!」
「――!!」
ぼばあ、と崩落する白い地面。
俺は地を蹴った。
昨夜のうちにこの辺りに積もっている蝋は『燃やし』尽くしている。
あるのはぽっかり空いた空洞と、それを支える群青の剣、それに真っ白なダミーの天井だけ。
つまり、この辺り一帯が原始的な落とし穴になっている。
もちろん、落ちる先が蝋に覆われた地面では彼女たちの有利が揺らがない。
そこに蝋がある限り、唇月は無敵なのだ。
なので、俺たちは落とし穴の底に細工をした。
細工と言っても単純なものだ。
俺たちの能力は蝋に「触らなければ」発動しない。
なら、触れさせない。
俺は穴を覗き込んだ。
四人が落ちたのは、氷の洞窟を思わせる四方十数メートルの空間だった。
その周囲は色とりどりの布で覆われている。
壁も。
床も。
もちろん天井も。
「?!」
妃ともつれて落下した唇月が周囲の光景に愕然としている。
カーテンやカーペット、毛布が敷き詰められた世界。
ここで蝋に触れることはできない。
蝋に触れられなければ、彼女たちは無力だ。
唇月は縋るような格好で崩落した泡に触れようとしたが、その手は空を切った。
崩落した泡は紫苑の能力でムカデに変化し、四方に散っていく。
少女の手はぺたぺたと絨毯を叩くばかりだ。
がちゃちゃ、と軽機関銃が構えられる音。
優姫と紫苑は既に唇月と妃の下を離れており、それぞれ別の自衛隊員に合流していた。
曹長も拳銃を構えている。
俺は穴を滑り降り、群青と合流する。
群青は落とし穴の底部に開けられた横穴を通り、ここに駆け付けていた。
「コンプリートか」
「コンプリートだ」
拳を打ち鳴らす。
しんしんと、蝋の雪が舞っていた。