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White White World

 


 色男ハンサムの人生は苦難に満ちている。


 なぜなら、神様に愛されているからだ。



 色男ハンサムとは絶えず自分自身を磨く男のことを指す。

 磨くとは、自分より硬いものでごしごし己をこすること。

 面倒だが髪や眉を整え、億劫だが肌の手入れをし、辛くてもジムに通って汗を流し、金と時間をかけてファッションを学ぶ。

 色男ハンサムは己に甘えを許さない。


 そして真の色男ハンサムは神様に愛される。

 神様に愛されると、もっともっと男を上げることを求められる。

 もちろん神様は寝ている間に眉の形を整えてはくれないし、化粧のノリを良くしてくれることもない。

 神様は俺の肉体ではなく、人生を磨いてくれる。

 苦難という硬い石で、垢のつきかけた人生をごしごしこすってくれるのだ。


 だからだろう。

 俺の人生が苦難の連続なのは。






陽甲ようこう! そっちに行ったぞ!!」


 男の声が俺の耳に飛び込んだ。

 きーん、と逆側の耳へ抜けるような怒鳴り声。


 視界は白一色。

 雪景色にも似ている。

 本物の雪景色と違うのは、白い大地からビルや電柱が突き出していること。

 それから、目の前に化け物が迫ってきていること。


 軽トラック並みの巨体を誇るイノシシが俺に突っ込んでくる。

 色は景色と同じ純白。

 塗装し損ねたフィギュアのようにも見えるが、ぎょろりと動く目や躍動する筋肉は生物そのものだ。

 俺までの距離、七十――いや八十メートル。


 俺はパチンと畳んだくしを懐にしまい、四分の一にカットしたオレンジをがぶりと齧る。

 口の中に甘い果汁が広がるのを感じながら、地に両手を置く。

 気合を入れ、力を込める。


「せー、のっ!!」


 白い地面を押したり引いたりするわけではない。

 胸の奥にでんと置かれた真っ白な粘土を一瞬で別のものに作り替えるイメージ。

 そのイメージを両手を通して大地に、そして現実に投影する。


 ゆらりと地が揺れる。

 否、波打つ。

 次の瞬間、白い地面が間欠泉のごとく噴き上がり、イノシシの進路を塞ぐ。


 獣は急には止まれない。

 勢い余ったイノシシは白い壁に顔面から突っ込んだ。

 自動車事故並みの音が響き、僅かに地が揺れる。


 ――――が。


「お?!」


 白い壁を突き破ったイノシシは平然と俺に突っ込んできた。

 そうだ。忘れていた。

 こいつらに痛覚は無い。


「え、ちょ――」


 ぐんぐん距離を詰められ、さあっと血の気が引く。

 トラックに轢かれる直前はきっとこんな気分なのだろう。

 足が強張り、思考がもつれる。


「!」


 轢殺まで三十メートル。

 二十メートル。

 ようやく頭が再起動する。腿を叩く。ダメだ。動かない。


陽甲ようこうっ!!」


 男の声。

 かわせるか。ギリギリか。

 ゆっくりと流れる時間の中、イノシシの目の前を白いムカデがさっと過ぎった。

 二匹、いや三匹のムカデだった。大きさはヘビほどもある。

 イノシシの注意が僅かに逸れる。


 その隙に俺は横っ飛びし、硬い地面の上を転がった。

 白イノシシは数秒前まで俺の居た場所を通り過ぎ、そのまま白い壁にぼごんと突っ込んでいた。


 心臓が己の役割を思い出し、今までの分を取り返そうとするように激しく高鳴る。

 全身に血が巡り、はっ、はっと呼気が乱れる。


「正面から受け止めるって気概はカッコ良いけど――」


 セーラー服姿の少女が一人、俺を見下ろしていた。

 表情は陰気そのもので、ぼそぼそと喋る少女。 


「棒立ちは良くないと思う」


 背は低く、紫色の艶やかなカーディガンを羽織っている。

 ゆるゆるした黒髪を飾るのはオオムラサキと呼ばれる蝶の髪飾り。

 一対の蝶を鎖で繋いだデザインのイヤーカフが片耳を彩り、両手首にはチェーンの千切れた手錠が幾つも巻かれていた。


 俺は立ち上がり、頭一つは小さい彼女を見下ろす。

 少女は黄色いレモンをがじがじと齧っていた。見ているだけで舌が痺れそうだ。


「ありが――」


「『棒立ち』……」


 にたーっと。

 ハロウィンのカボチャお化けめいた薄笑み。


「エロいね……」


紫苑しおん


「何?」


「セクハラだ」


 少女は神妙な面持ちで俯き、ややあって顔を上げた。

 つるつるの頬に朱が差している。


「い、今ここで?」


「違う。したいわけじゃない。お前のその発言が俺の――」


「おい遊んでるな! また来るぞ!」


 男の声。

 分かっている。

 あいつらは痛みを感じないだけでなく、疲労もしない。


 見れば方向転換した純白のイノシシが地を掻いていた。

 白い地面はスケートリンクのようにかちかちなので、かつっ、かかつっと硬質な音が響く。


 紫苑が暗い顔で呟いた。


「……もう面倒だから自衛隊の人呼んで殺してもらおうよ」


「ダメだ」


「何で?」


 俺が答えるより先に真っ白な剣がイノシシの背を叩いた。

 かつん、と弾かれた剣が地面を転がる。


 イノシシが振り返った先には小粋なハットを被る男の姿。

 長い茶髪を外跳ねさせた彼はライダージャケットにデニムを合わせている。

 年は俺と同じ18だが、どう見てもホストだ。


 彼は口にしていた柚子ゆずの切れ端をぷっと吐き捨てる。


「どうする、陽甲。こいつ、脚が止まらないぞ」


 男――群青ぐんじょうは地に手を置いた。

 突進するイノシシの眼前に無数の剣が生まれ、柵となる。

 がしゃあん、と剣の柵は破られたが、群青は既に真っ白な大地を横に駆け抜け、物陰に飛び込んでいた。


「ねえ陽甲」


 俺が一歩踏み出すと、紫苑は呆れ交じりの溜息を漏らす。


「中に入ってるの、まともな人じゃないかもよ? また問題起こしたらどうするの?」


「その時はその時だ。重要なのは――」


「ハンサムかどうか?」


「その通り」


 あの化け物――『白魔人ホイップマン』の中には人間がいる。

 より正確な表現を使うなら、『人間を核に構成されている』。

 内部にいる人間を引き抜けば白魔人の体は自然と崩れ、地に還る。


 逆に言えば、中身を抜かない限り体表をいくら削っても無駄だ。

 この白い地面と同じ成分で作られている白魔人は崩れてもすぐ元通りになってしまう。

 現に先ほど壁に突っ込んだイノシシの顔面に傷らしいものはない。


 しかも奴らは鉄のように硬い。

 中に手を入れることができるのは、ごく限られた人間だけ。

 そのごく限られた人間に、俺、紫苑、群青の三人が当てはまる。

 白魔人およびこの真っ白な大地に触れた時、群青はその部分を剣に変え、紫苑はムカデに変えることができる。


 ルールは三つ。


 ①白魔人はほぼ無敵である。

 ②白魔人の核は人間である。

 ③俺は中の人間を助け出せる。


 色男ハンサムならどうすべきか。――言うまでもない。


「命がけでカッコつけなくてもいいと思うけどな、私」


「命は賭けない」


 色男ハンサムとは堅実な生き物だ。

 ゆえに俺も堅実だ。

 見返りの期待できない冒険は、しない。


 俺は爪先で軽く地を叩いた。

 靴の踵にローラーが飛び出す。

 このつるつるした地面の上だと、これが一番動きやすい。


「フォローよろしく、紫苑!」


「むー」


 ぶつくさ言いつつも紫苑は両手を地面に置いた。

 ずるりと這い出した白いムカデがかしゃかしゃと地面の上を走り、俺に追従する。

 しゃああ、しゃああ、と滑走しつつイノシシの尻を睨む。


「群青! もっかいさっきの奴頼む!」


 直進するムカデと二手に別れ、迂回しつつイノシシへ。

 群青の生み出した3メートルほどの長さの剣が柵となって白魔人を封じ込め、そこにムカデが殺到する。


 俺は滑走しつつ、腰を落とした。

 スケートリンクの霜を手で掬うように両手を地面に走らせる。


(イメージ……)


 ぶわりと立った波が徐々に巨大化する。たてがみのように揺らめき、やがて硬質化する。

 高さ数メートル、長さ十数メートルに渡る白い壁。

 いや、これは『壁』じゃない。

 ――『炎』だ。


 更に俺はS字を描いて走り回り、辺りに背の高い壁を作り出す。

 群青と紫苑も爪先を叩き、俺に続いて周囲を滑走する。


 二人は俺の作った壁に隠れ、現れ、また隠れる。

 不定期にムカデを放ち、剣を放擲する。

 イノシシは狙いを定めあぐね、左右にぐりぐりと首を動かすばかりだった。


 群青が盗塁するように大きく飛び出す。

 イノシシの顔がそちらを向いた瞬間、俺は力強く地を蹴った。

 しゃあああ、と空気が頬を撫でる。

 あと少し。

 二十メートル。

 十五――




 ぐりん、とイノシシがこちらを振り向く。 




「い?!」


 加速していた俺は今更止まれない。

 このままでは正面衝突する。

 いくら体内に手を入れることができるとは言え、突進に伴う運動エネルギーまで相殺できるわけではない。

 正面衝突しようものなら俺の全身はバラバラだ。


「ちょ、お、あ……!!」


 俺は両腕をぐりんぐりんと回したが、体はベルトコンベアに乗せられた豚のごとく白魔人へ突っ込んでいる。

 イノシシが待ち構えていたようにかかっと地を踏み鳴らす。


 まずい。

 左右にかわすか。

 いや、多少角度を変えても無駄だ。


 防御。

 できるわけがない。


 死ぬ。

 ――このままでは、死ぬ。


(……!)


 俺が死ぬ。

 そう意識した瞬間、胸の奥に湧き上がったのは恐怖ではなく罪悪感だった。


「陽甲っっ!!」


 紫苑の声で現実に引き戻される。

 俺の肉体はまだ滑走していた。止まるか進むか。選べるのはこの一瞬だけだ。


「!」


 進路に群青の剣を認めた俺は前進を選ぶ。


 速度を落とさず突っ込み、再び腰を下ろす。

 そこに転がっていた群青の剣を掴み、手の中で液体じみた白い炎に変える。


 白魔人は生物ではない。

 だが生物の性質をほぼ忠実にコピーしている。

 なら――――


「っそらあっっっ!!」


 帯状に変化した白い炎をイノシシの顔面目がけて放り投げる。

 べしゃりとパイ投げのように目を塞がれたイノシシは足をもつれさせ、盛大に転んだ。

 大質量のトラックとすれ違う感覚。コンマ一秒遅れ、ぶわりと強風が巻き起こる。


 方向転換し、転んだイノシシに突っ込む。

 胴体にぬぼりと手を入れると、触れた部分が白い炎と化した。

 温かくやわらかな感触にたどり着く。

 服を引っ掴み、思い切り引っ張る。


「ぃぃぃ――よいしょぉぉぉ!!!」


 勢いに任せて人間を引き抜く。泥の中から芋を引きずり出すように。


 ずるりと現れたのは髪の薄くなった男性だった。

 その瞬間、イノシシが動きを止める。

 軽やかな滑走音と共に近づいた紫苑が軽く手で押すと、イノシシだったものはがらがらと音を立てて崩れた。


「ヒヤヒヤしたな」


 しゃああ、と群青が駆け付ける。


「今までの奴に比べてマトモな形をしているから弱いと思ってたんだが」


「逆だったな。次から気を付けよう」


 俺はローラーを引っ込め、救助した男の首を叩いた。

 ごぼりと口から白いものが溢れる。


「白いのがこんなにいっぱい……」


 ぼそりと呟いた紫苑を無視し、俺と群青は男性をうつ伏せにした。

 ごぶっと更に白いものが溢れたかと思うと、男はせき込み、ようやく意識を取り戻す。


「大丈夫ですか?」


 外傷は無いようだが、衰弱している。

 群青は男の鼻にブランデーの小瓶を近づけ、スキットルから水を飲ませた。

 幸いなことに、男はすぐに言葉を発し始めた。

 群青が手短に状況を説明していると、紫苑が天を仰いだ。


「どうした?」 


「……降って来た」


 コバルトブルーの空を見上げると、はらはらと白い粉が舞っていた。


 その一つが俺の手に乗る。

 冷たいが、雪ではない。


 ――――ろうだ。






 数か月前の俺も同じ景色を見ていた。


 土曜補習から帰る途中だった俺は手の平に乗った白い粒に首を傾げ、それから空を見上げた。

 三月の青空を覆う雪は雨よりも優しく、柔らかく、人や家屋に降り注いでいた。

 クリスマスには遅すぎるな、とぼんやり思った。


 幻想的な光景に目を奪われたのは数十秒のことだった。

 その雪は、俺の手の中で決して溶けようとしなかった。

 地面はあっという間に白く覆われ、気づけば頭の上には皿一杯分ほどの雪が乗っていた。

 雪の正体が『蝋』だと気づいた俺は慌てて家に駆け込み、海一つ隔てた土地に住む両親に電話をかけた。


 蝋の雪が降り始めた翌日、道路はスリップを防ぐために封鎖され、電車はすべて止まった。

 翌々日、蝋の重さに耐えかねた電線が切れ、無理やり出勤したサラリーマンのバイクが事故を起こし、あちこちで火の手が上がった。


 一週間後、家屋が蝋に埋もれ始めた。

 世界は雪景色に覆われ、非常事態宣言が発令された。


 十日後、水と電気の供給が止まり、携帯電話を初めとするネットワークが完全停止した。

 各地に自衛隊が派遣されたが、除去も救助もまったく追いついていなかった。



 一か月後。

 しんしんと降り続ける蝋の雪によって、世界は静かに滅びた。






 三か月経った今、俺はあの日と同じ空を見上げている。


 今もこうして降る蝋は一般家庭に流通していた石油由来のもの――いわゆるパラフィン――ではなく、動物や植物由来のものに近い性質を持つという。

 だがそんな話、俺たちにとっては大きな意味を持たない。


 蝋は放っておけば無限に積もる。

 不用意に溶かせば雪崩が発生し、ささいなきっかけで広範囲が火の海と化す。

 世界は今日も死にかけている。


「戻ろう。嫁尾よめお曹長に報告しないと」


 俺の言葉に群青と紫苑が頷いた。


 俺たちが避難したショッピングモールは人でごった返し、水と食料は見る見る減っていく。

 ゾンビ映画などでは「逃げ込めば安全」と言われるショッピングモールだが、残念ながらそれは少人数の場合に限られる。

 人間は最低でも一日に1リットルほどの水を摂取しなければならない。

 そして避難先に集った人間は100名ほど。つまり、毎日大きめのペットボトル50本ほどの水が消費される。

 入浴、トイレ、洗濯を除いてその量だ。到底足りるわけがない。

 俺たち三人は日々、周囲のコンビニや民家から水と食料を調達して回っていた。


「あっちの方、もっと探索したかったね」


「大人一人抱えての捜索は無茶だ」


 白い蝋に包まれた世界を俺たちは静かに歩き出した。

 男性に肩を貸す群青が途中で振り向き、告げる。


「陽甲。探索、お前と紫苑の二人で続けるか? あまり遠くまで行かないのなら――」


「いや。別の奴に襲われるかも知れない。その人を連れ帰って、それから出直そう」


「……相変わらず堅実だな」


色男ハンサムこころざしているからな」


 俺たちを悩ませるのは増え続ける蝋と減り続ける物資だけではない。


 白魔人ホイップマン

 人を襲い、取り込み、核とするあの化け物がいつ頃からか世界を闊歩し始めた。


 姿かたちは様々だ。動物系の時もあるし、植物や人間型の時もある。

 体表は驚くほど硬く、破壊されても無限に再生する。また、好んで人を襲う。

 組成は蝋なので高熱を発するものがあれば体を溶かすこともできるのだが、現状、世界に電気は通っていない。


 白魔人を撃破する方法は二つ。


 最も手っ取り早いのが自衛隊に銃撃してもらうことだ。

 奴らは所詮、『蝋』の化け物。ほかほかの弾丸は障子戸を破るように奴らを貫通する。

 ただし、中の人間は確実に死ぬ。


 もう一つの方法は俺たちの『能力』。


 俺たち三人は『柑橘類を口にする』という行動をトリガーに『蝋』をどろりと溶かし、別のものに変えることができる。

 ただし、自由自在に変形させることはできない。

 どうやら俺たちは蝋を『自分が最も恐怖しているもの』に変化させているらしい。

 俺は炎。群青は刃物。紫苑はムカデ。


 群青は幼い頃、ストーカーに滅多刺しにされた姉の死体を目撃して以来、刃物恐怖症になってしまったという。

 紫苑は生まれて間もない頃、揺りかごの中で数匹のムカデに襲われ、アナフィラキシーショックで死にかけた。

 俺は旅先で大火事に巻き込まれ、手足を振り回す焼死体を目撃して以来、火に猛烈な恐怖を覚えるようになった。


 俺たちのトラウマは決して珍しいものではない。

 俺たちより酷いエピソードを持つ避難者は大勢いるだろう。

 だが現状、『能力』を使えるのは俺たち三人だけ。それが事実だ。


 かつては白魔人に対抗できる自衛隊と一緒に外部を捜索していたが、今はもっぱら俺たちが物資の回収に当たっている。

 理由は簡単だ。

 統制する者がいないショッピングモールの中で、略奪や喧嘩が相次ぐようになったから。

 食品フロアを自分たちの寝床だと主張する一家や、トイレを占拠して通行料を巻き上げようとする一家も現れた。

 やむを得ず、自衛隊にはそちらの対応に回ってもらっている。

 熊は子供がいる時に最も狂暴になるらしいが、人間も同じだ。

 家族を守るためなら何でもやる。そんな考えを持つ人々は少なくない。

 そしてそれは決してよこしまな考えではない。


 彼らが争わずに済むよう、より多くの物資を回収し、より多くの白魔人を討伐するのが俺たちの役割だ。


「食い扶持が増えたって怒られそうだね」


 紫苑の呟きに俺は首を振った。


「増えたのは仲間だ」


「ものは言いようだよね。この前助けた人、誰かと喧嘩したらしいよ?」


「原因は水を一本多く貰ったとか、そういう話だったんだろう? 皆がイライラしないように俺がもっと頑張って水とメシを集めるさ」


 紫苑がうっとりと表情を蕩けさせる。


「素敵……。抱いて?」


「ダメです」


「分かった。じゃあ今夜も陽甲をオカズに一人寂しく――」


「セクハラだぞ、紫苑」


「嬉しい? ねえ嬉しい?」


 ぴょこぴょこと紫苑がウサギのように俺の周囲を跳び回る。


「その内、陽甲が触った蝋が紫苑の形になるんじゃないのか……」


 群青のついた溜息が六月の大気に溶けた。


(!)


 足元から覗くオレンジ色の物体に気付く。

 それはねじれたカーブミラーのようだった。

 鏡には俺、嬉野陽甲うれしのようこうの姿が映っている。


 今日もばっちり一時間かけて手入れをした顔に、あえて染めなかった黒い髪。

 耐久性の高い学ランの前面を開き、オレンジ色のシャツを覗かせた小粋な佇まい。


 身長165センチ。体重80キロ。

 かつての愛称は『動けるデブ』。略して『ウブ助』。


 俺は髪に櫛を入れつつ、ぱちんとウインクをする。

 鏡に映る丸っこい男が同じようにウインクした。

 ――申し訳ないぐらいの色男ハンサムだ。


「お。止んだ」


 180を越える長身の男、群青が天を仰ぐ。

 そこには澄み渡る快晴の空があった。


「ツいてるな、群青」


「……また降り出すかも知れないだろ」


「そしたらその時またげんなりすればいい」


 俺はぱちんと櫛を開く。


「小さな喜びを大事にするのが」


「ハンサム?」


「その通り」


「お前の哲学は難しいな」


 群青がハットを抑え、小さく笑った。


 色男ハンサムの人生は苦難に満ちている。

 だが暗くなってはいけない。

 世の中に陰気な色男ハンサムなどいないのだから。




 ――――と。




「!」


 俺が急停止すると、紫苑が振り向いた。


「どうしたの?」


「……今」


 今、女の悲鳴が聞こえた。


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