君の死に際にキスをしよう。
白いワンピース。それが一番はじめの君への印象。
真っ白なワンピースは、まるで異世界に連れていかれたかのような錯覚を覚えるくらい、神秘的で。
そこから伸びる細く、薄い肌色の手足と憂い気に揺れる瞳。光を吸収するような黒髪は肩をさらりと撫でていて。
ざぶざぶと音をたてながら水をかき分けて海に入る彼女の、その姿があまりにも綺麗だったから。
口の端の滲んだ血や、青くぼやけた首元の痣に、一瞬気が付くことができなかった。
ハッとして「おい!」と声をかけても気付いていないのか、あるいは気付かないフリをしているのか、彼女は全く反応を示さずただ水をかき分けて進んでいく。
嫌だった。真っ白なワンピースが水にぬれて、グレーになっていくのが。
綺麗だと思ったその肌に、毒のような痣があるのが。
とうとう彼女は深くなるところまで進んでしまったみたいで、足を取られたようにどぼん、と沈んだ。
それでもまだ進もうとしているみたいで、波に押し戻されないようにもがきながら進む。
聞こえていないと思いながら、それでも声を出すことはやめずに、「おい、よせ!」と大声を張り上げながら海に飛び込んだ。
もうすでに水を飲んでいるのか、時折苦しそうに水面に顔を出して咳き込んでいる。無意識に酸素を求めている自分に気付くと、またわざと潜って自分を追い詰めていく。
すでに彼女は追い込まれているのだろう。最後の味方である、自分さえも見捨ててしまうほどに。
それでも「生きたい」という体に、酸素を求めてしまう自分自身を、恥ずかしいと思っているのだろう。
まだ俺と彼女の距離は遠い。必死に水をかいても進んでいるのか、本当にこの距離を詰めて彼女の手を握れるのか、不安になるくらいに。
はやく、はやくと急く意識とそれに追いつかない自身の体に歯痒さを感じながらも、ただ必死にもがくかのように泳ぎ続けた。
もう、足はつかない。波の間に一瞬顔を出して酸素を求める。それと同時にまた波がきて海水を一緒に吸い込んでしまう。せっかく吸い込んだ酸素をすべて吐き出して、また酸素を求めて彼女は顔をあげた。苦しそうにもがいて、でもその苦しみは彼女の望んだもので。
望んでいても、受け入れることは簡単じゃあない。それほど恐ろしいものを求めているのだ、彼女は。
もう少し、もう少しだ。あと少しで彼女の手を握ることができる。俺がその手を握った時、果たして彼女は握り返してくれるのだろうか。振り払うのか、その力すら残っておらず、尽きてしまうのか。
どれも怖い。握り返された時、俺はまだ彼女を美しいと思えるだろうか。振り払われた時、俺は傷つかずにいられるだろうか。握った手の体温が戻らず彼女が尽きてしまった時、俺は…。
手に触れる、彼女の手。頼む、美しいままでいなくてもいいから握り返して、生きたいと願ってくれ!
そんな俺の願いは見事破られ、振り払う力も握り返す力も彼女には残っていなかった。
ただ薄く開いた瞼から、なにもうつさない真っ黒な瞳で、俺を見ていた。
怖かった。死に触れてしまうのが。それでも、助けたいと思ってしまった。
迷惑かもしれない。もうこのまま死んでしまいたい、苦しみに耐えかね、さらなる苦しみに耐えてようやく目前にした死が、いまにも彼女を包み込んで安らぎを与えようとしている彼女の最後の支えを、俺が奪おうとしているのかもしれない。
それでも、救いたいと思ってしまったんだ。
必死に片手で水を掻いて、彼女を救おうと必死に、ただ必死に。
「―――…なんてことが、あったでしょう…」
そういって微笑むのは顔に優しい皺を刻んだ年老いた女性。
こちらも皺だらけの手を握り、「あぁ、」と短く返事をした。
「私ね…本当に、殺してやろうかと思ったの…あぁ、やっと死ねると思ったのに、って…」
「あぁ…そういって、殴ったな。邪魔してすまなかった。」
その言葉に小さく笑った女性は、握った手を優しく握り返してくれて。
「でも、あなた、言ったでしょう…何度でも邪魔してやるって…私が死のうとするたびに、キスしてやるって…」
「人工呼吸だ」と訂正しても、クスクスと笑って「あれはキスですよ」なんて返されてしまう。恥ずかしさに握った手に力をこめると、愛しそうに指で俺の手を撫でた。
「うれしかったの…死にたかったはずなのに、邪魔をするって言ってくれたあなたが、天使のように思えた…」
「今のお迎えの天使は、お断りもできるんだな」とおどけてみせると、「何度断られたかしらね」なんて、また笑って返される。
天使だなんて。俺だって、ずっと思っていたよ。真っ白なワンピースの背中には、羽根があるんだと思わせるくらい、君は綺麗だったよ。
呼吸が浅くなる。眠たそうにまどろむ彼女は、まだだめだというようにゆっくりと首をふった。
「ね…私、いまね…死のうと、してるんですよ…」
ゆっくりと首を俺のほうに向けて。優しく、ただ優しく微笑む彼女。その皺だらけの頬を撫でてやる俺の手も、同じくらい皺だらけだった。
気持ちよさそうに目を瞑る彼女に、まだ目を閉じないでくれと願ってしまう。握った手にもう一度力を込めると、やっぱり愛しそうに指で俺の手を撫でた。
ゆっくりと薄く瞼を開いて、俺の言葉を待つ。
最初に君を助けたいと思った時。君が生きたいと願ったら、君の美しさが消えてしまうかもしれないなんて、俺は思ったけど。それは間違いだったな。
生きた君はとても美しかった。誰よりも美しかった。
そして死にゆく君も。
最期まで、どこまでも君は美しい。
「あぁ…なら、キスしないとな…」
その言葉に嬉しそうに目を細める。ゆっくりと腰をあげ、彼女の唇にできるだけ優しく、唇を押し当てる。
壊れないように、壊さないように。流れる時間はゆっくりで、その一瞬は生きた今まで全てを思い描けるくらい、永遠だった。
ゆっくりと離れた唇は、嬉しそうに笑っていて。
「あぁ…私、今…いままでで一番…生きたい…そう、思えてる…」
そして彼女は、眠るように息を引き取った。
「俺は今、いままでで一番、死にたいと思ったよ、」
さようなら、美しい君。また逢う日まで。
投稿がはじめてなので、テスト感覚で書いた短編です。短いので暇つぶし程度になったらいいなぁと思います。