カエルのウタ
生物室のドアを恐る恐る開ける。
中は薄暗く、人体模型が真横にあったので「ひっ。」と叫び声を出し、思わず後ずさりしてしまう。
電気が点いていないのでここには居ないのだろうか。
桃子がまわれ右しようとしたその時 「なんですか?」 と奥から声が聞こえてきて、もう1度声を上げるはめになった。
「電気もつけないで何してるんですか?」
桃子はスタスタと声のする方に近づく。
----周りの棚に並ぶホルマリン漬けには目を向けないように------
「はあ、まあ生体の観察というか。」
武田先生が準備室から顔を出して「ああ、相川さんでしたか。」と、ちょっと驚いた顔をした。
(誰と思って返事したんだろ・・・・。)
なんとなく、胃の方がもやもやした感じがする。
桃子が怒ったような戸惑ったような顔をして立っていると、足元に何かが通り過ぎた------。
いや・・・・通り過ぎたというより何かが跳ねている。
「あっ!」
先生が慌ててそれを捕まえようとしたが無駄だった。
1匹2匹ではない。 準備室の方から数十匹もいるだろう。----カエルが飛び出して来たのだ。
桃子はそのまま固まってしまった。
別に怖くて動けないのではなく、へたに動くと踏みつけてしまいそうで動けないのだ。
(お願いだからこっち来ないで。)
自分は透明人間だ、といわんばかりに息も殺している。
その願いも虚しく数匹が彼女の足に貼りついた。
冷たくヌルっ、とした感触を脚に感じて全身に鳥肌がたった。
失神しそうになるのを(こんなカエルまみれの中に倒れたらえらい事になる!)と、かろうじてこらえ、右手に持っていた傘でカエルを追い払う。 ------というか振り回していた。
「うぐっ!」
運よく振り回した傘が、這いつくばってカエル奪取中の先生の股間に直撃した。
先生が後ろを向いて悶絶している。
桃子はカエルを追い払いながら「ごめんなさいっ。」と一言。
こちらはそれどころではないのだ。
傍から見たら、傘を振り回している女生徒。股間を押さえて蹲っている先生。数十匹の跳ねるカエルと、かなり滑稽な姿に映ったにちがいない。
(私に生物室は鬼門だわ。)
先生も落ち着き?をとりもどし、ようやくカエルを集めて一息ついたところで桃子は確信したのだった。
右手に握っている折りたたみの傘は、いろんな所にぶつけたのだろう無残な姿になっていた。
「あの・・・・これ返しにきたんですけど。」
さすがに渡しづらく、おずおずとそれを差し出す。
思い返してみれば、それで先生の急所をヒットさせてしまったのだ。
「あ、ああ。わざわざありがとうございます。」
武田先生はそんな事気にする風でも、気を悪くするでもなくその傘を受け取った。
「すみません。ぼろぼろにしちゃって。」
「気にしないで下さい。この傘もこんなになるまで使ってもらって本望でしょう。」
「使い道は雨傘としてじゃなかったんですけどね。」
桃子に突っ込まれて先生は困ったように笑った。
と、ちょうどその時「武田先生。」と、若い女性の声がした。
生物室のドアの前で呼んでいる。
桃子は開いたドアからきれいに化粧した女性が顔を出すのを見た。
「あら、相川さん。こんな所で何してるの?」
その女性が先に桃子に気が付き声をかける。
なんとなくその声が厳しく聞こえたのは桃子の気のせいだろうか。
「吉塚先生。」
桃子は、男子生徒に人気のその女教師の名前を確かめるように呟いた。
「武田先生に傘を借りてたので返しにきたんです。」
「そうなの。」
その理由に納得したようで、声色が柔らかいものに変わった。
「もうすぐ5限目が始まるわよ。そろそろ教室に戻りなさい。」
「5限目は吉塚先生の授業です。」
「あ、あら。そうだったわね。先生は武田先生に用事があるから。」
用事があるわりには、一向に生物室の中に入る様子はみられない。
きっとこの薄気味の悪い部屋に入る勇気がないのだろう。
武田先生がドアまで歩み寄ると「どうしたんですか?」 と訪ねた。
「いえ、その。」
ちら、と桃子の方に視線をやり、あからさまに言いづらそうな顔をする。
それに気づいたのは桃子の方であった。
(私が邪魔な訳ね・・・・・。)
なんとなく腹だたしくも思ったが、気づかない振りをしてそのままそこに突っ立っているのも嫌だった。
桃子は無表情で「じゃあ、傘すみませんでした。」と武田先生に言うと、何事もないように生物室を後にした。
廊下を歩いていた桃子は窓の外の雨音に気付き、足を止めてそちらに視線をやった。
窓には怒ったような顔をしている少女が映っている。
(何の用だったんだろ、吉塚先生。)
吉塚先生が来たとき、武田先生は驚いた表情をしていなかった。
時々生物室に来るのだろうか。
仕事の話だろうか。
二人はつきあっているのだろうか、そんな噂など聞いたこともないが。
桃子は窓の外に視線をやりながら、二人の事ばかり考えていた。
そして、自分がなぜこんなにも二人の事が気になるのかと不思議に思った。
本来桃子は他人に左程興味が湧かない。
誰と誰が付き合ってるだのという噂話も右から左へ抜けて殆ど覚えてもいないのだ。
そんな彼女が今はその他人の事で頭がいっぱいなのである。
「変なの。」
呟き、もうその事は考えないというように頭を軽く振った。
---------窓の外の雨がアンバランスな音色を奏でていた。