父と電車
「ただいま・・・・。」
声をかけるも、マンションのドアを開けるも返事がない事は分かっている。
桃子は鞄をダイニングの椅子に置き、冷蔵庫からパックのいちご牛乳を取り出すとごくごく、とそのままラッパ飲みした。
行儀が悪いと自分でも思うのだが、別に誰もそれを咎める者もいないので(そしていちご牛乳は桃子しか飲まないので)それを止めることはなかった。
「おかえり」
声がして牛乳をこぼしそうになった。
誰も居ないと思っていたのに、振り返るとダイニングの入り口に髪の色の明るい上下ジャージの背の高い男が立っていた。
「居たんだ。びっくりした。」
桃子がごほごほとむせていちご牛乳をテーブルに置いた。
「ああ。今日は早いな。」
その男------相川孝平は冷蔵庫を開けミネラルウォーターを取り出す。
「まあね。」
孝平が横切った時に香水の香りがしたが、それには気付かない素振りで答えた。
(いつも私が帰ってくる時はいないくせに)と、桃子は内心悪態をついた。
喋るのが面倒なのでそのまま自分の部屋に向かおうとして、思いなおし足を止める。
「そういえば、昨日駅で見かけた。」
孝平はちょっと驚いた顔をして桃子を見る。
(何日ぶりに目が合ったかな。)
などと思いながら自分の父親を眺めた。
「・・・・・そうか。」
孝平はそれ以上言い訳するでもなく、慌てる素振りも見せなかったので桃子は軽く溜息をついた。
「それだけ。」
と言い、今度は本当に自分の部屋に足を向けた。
−−−−−パタン−−−−−−−−と部屋のドアを閉めた。
その音は桃子と孝平との間にある心のドアのように思えた。
いつもそうなのだ。
何事が起こっても、父はまるで自分の事ではないように興味を示さない。
それは桃子に対してだけではなく、誰に対してもである。
そしてそれは、桃子が幼少の頃から変わっていない。
それが孝平の性格からくるものなのかどうかは桃子には分らなかった。
というか、自分に興味のない父親に対して桃子も(ただ面倒をみてくれる人)くらいにしか思っていなかったのである。
ベッドの上に制服のまま ごろん、と横になる。
とたんに睡魔が襲ってくる。
「今日は眠い・・・・。」
ふわあ、と大欠伸をして壁にかけている時計に目をやる。
時計の針は午後5時を指そうとしていた。
ゆっくりと瞼が下がる。
うと、うと。と、意識がぼんやりしてくる。
瞼の裏に浮かんだのは、武田先生が困った顔で「この香水は・・」と園田先生に説明している様子だった。
「51回目だぞ。」と言い園田先生が薄くなっている頭をかきながら怒っている。
その光景が霧がかってきて体が深い底に落ちていく感覚を覚えた。
そして、そのまま桃子は深い眠りに落ちたのであった。
ハクシュン。
派手なくしゃみをして、ハンカチを口に当てる。
もう片方の手は電車の手すりを掴んでいる。
昼間はまだ暖かいが、朝方はさすがにもう肌寒くなってきている。
ぐすぐす、と鼻をならした。
今日はいつもより2本も早い電車に乗ったので比較的乗客が少ない。
それでも座席に座れるという程ではないので、桃子は入口のドア付近の手摺りに立っていた。
昨日あのまま眠ってしまったので、今朝は朝早く目が覚めてしまった。
そのままシャワーを浴びて、する事もないので早めにでたのである。
目覚めた時には父親の姿はなかった。まだ仕事から帰ってきてないようだった。
電車が次の駅に停車し、乗客が乗り込んでくる。
窓の外をぼんやりと見ていたが、ホームから慌てて走ってくる人影を見つけて「あ。」と思わず声が出る。
入口のドアが閉まろうと音をたてた。
彼が電車に駆け込んだのと閉まるのが一緒だった。
ぜいぜいと息をきらしている。
「おはようございます。武田先生。」
桃子から彼に挨拶した。
それで桃子に気付いたようだった。
「あ。相川さん。おはようございます。」
胸に手を当てて呼吸を整える。
右の頭部の髪が ぴょん と跳ねている。
桃子はそれを見つけて目を細める。
「一緒の電車だったんですね。」
「そうですね。」
桃子の隣の手摺りに掴まり汗を拭っている。
「いつもこの電車なんですか?」
「はい。もう1本遅いのはものすごく混んでるんですよ。」
汗を拭きながら困ったような笑顔で答えた。
(だからそんなに慌てて乗ったんだ。)
「・・・・そういえば昨日校庭の花壇で何してたんですか?」
問われて武田先生は顔を赤くしている。
「見てたんですか?」
聞いて悪かったかな?と、言っしまって桃子はちょっと思った。
「きごさんが脱走してしまって、ちょっと探してたんです。」
「・・・・・見つかりました?」
園田先生に絞られていた事にはあえて触れなかった。
「はい。園田先生が見つけてきてくださって。」
「そうなんですか。」
(だからあの時怒っていたのね。)
普段なら花壇を踏んだくらいであんなにしつこく説教するような先生ではないのだ。
おそらく自分の持ち物か何かにきごさんが入り込んでいたのだろう。
「ほら、元気に・・」
武田先生はポケットから何か取り出そうとしたので、桃子はその手を慌てて掴んだ。
ちょうどタイミングよく電車が大きく揺れたので、桃子はバランスを崩し武田先生の胸に顔を埋めるような格好になってしまった。
-----------男の人の匂いがする。
満員電車に乗りなれているので、男性に接触することなんて何度もあるのだが。
香水の香りでも男臭い煙草の匂いでもない、先生の匂い。
スーツの上からごつごつした先生の胸の感触を確かめて。
桃子は体の奥が熱くなるのを感じた。
「わっ!すみません。」
武田先生が驚いた様子で桃子から飛び退いた。
顔が赤くなったりあおくなったりしている。
「私はバイ菌ですか。」
勢いつけて離れられたので、桃子は傷ついたという風に言ってやった。
それを見て、彼は引きつった顔をして否定している。
桃子はふん、と窓の外に視線をやった。
本当は、熱くなった顔や早まる鼓動を悟られないようにそんな態度をとったのだ。
もちろん先生はそんな彼女の心情など気づく様子もなく、ただ困ったような顔をしていたのであった。
窓の外はいつの間にかどんよりとした曇り空で、今にも雨が降りそうだ。
「降りそうですね。」
桃子は何事もなかったようにぽつりと呟く。
「そうですね。今日は予報でも雨マークついてましたからね。」
ほっとしたように、武田先生が答える。
電車は桃子たちの降りる駅に到着した。
学生や会社員がわらわらと電車を降りる。
「あれ?桃子もこの電車だったんだ。」
背後から声を掛けられ振り返る。
小沢和樹が驚いた表情で歩いてきた。
別の車両に乗り合わせていたのだろう。
「あ。先生もおはようございまーっす。」
隣の武田先生に気が付くと、さらに驚いた表情で挨拶をする。
「おはようございます。」先生が答える。
「珍しく早いな桃子」
「珍しくは余計よ。それより、いつもこんなに早いの?」
「ああ。サッカー部の朝練だよ。それより、2人こんなに朝早く・・・・・まさか。」
小沢が桃子と武田先生を交互に眺める。
桃子はピン、とし小沢の脚を思いっきり踏んだ。
「いてっ。なにすんだよ。」
「なに馬鹿なこと勘ぐってんのよ。」
桃子は氷のような視線を小沢に向けた。
「先生見ました?この暴力」
幸い見られていなかったようで キョトン としている。
駅の外ではもう雨が降り出していた。
3人は足をとめた。
「桃子、傘持ってる?」
「持ってる訳ない。」
武田先生は鞄から折り畳み傘を取り出し小沢に渡した。
「君たちはこれに入って行きなさい。」
「え?でも先生は?」
「僕はそこのコンビニで雨宿りしてから出ますので。」
「先生の傘なのに。」
桃子は恨めしそうに小沢を見た。
俺が悪いのかよ、という風に小沢は頬を膨らました。
「気にしないで下さい。ちょっと買いたいものもあったので。」
先生は軽く笑顔をみせてコンビニの方へパシャパシャと走って行った。
「ありがとうございます。」
2人はお礼を言って、「じゃ行こうか。」
と、不本意ながら小沢と相々傘をして学校へ向かったのである。




