Crazy for You
私の心を動かすのは、いつだって彼の声。
「お邪魔しまーす」
玄関の方から聞こえてきた声に、自分の部屋で明日の授業の予習をしていた私は辞書をめくっていた手をとめた。
机の上に置いてある時計は五時過ぎを指している。
ドアの方へと顔を向け、耳をすませると喋りながら階段を登ってくる声が二つ。
「圭、先に俺の部屋に行っててくれ。何か飲み物でも持ってくる」
野太くて大きな声は私の兄の声。高校三年生で、弓道部の部長を務めている。
「ん、分かった」
その後に続く、落ち着いていて少し低い声。
何気ない一言でも、私の心は彼の声に囚われてしまう。
兄の足音が階段を下りていく。彼の足音は階段を登り続け、私の部屋の向かいの、兄の部屋の前で止まる。
私は息を潜めて、じっとしていた。
彼がお兄ちゃんの部屋に入ったら、下に行こう。
そう考えていたその時、私の部屋のドアをノックする音がした。
「杏璃ちゃん、いる?」
心臓が止まるかと思った。
唾を飲み込んで深呼吸をして、声を振り絞る。
「は、はい。います、けど…」
尻すぼみになっていく私の言葉に、ドアの向こうの彼が微かに笑った気配がした。
「入るよ」
ノブを回して開いたドアから、彼が現れる。
「お、偉いじゃん。ちゃんと予習してんだ」
感心したように私の近くまで来て、開いてある英語の教科書とノートを見る。
学校から直接家まで来たのだろう。彼は制服姿のままだ。
「高校の時の姉ちゃんを見てるみたいだな。英語の予習してると眠くならない?」
「え、えっと…」
間近で笑いかけられると、どうすればいいのか分からなくなる。
「わ、私、集中してると、眠くならないので…」
「羨ましいな。俺は集中力が全く無いからさ」
そう言って苦笑する彼に、私は首を横に振った。
「そんなことありません!神城先輩は凄いです。空手部の部長で全国大会で優勝しましたし、弓道だってお兄ちゃんよりずっと上手…」
勢いのままそう言うと、彼が驚いた表情をしていることに気づいて私は顔が熱くなった。
「ご、ごめんなさい」
「何で謝るの?杏璃ちゃんに褒められて、嬉しいよ」
ありがと、と彼に頭を撫でられる。
「……おい。俺の妹に何をしている」
どす黒いオーラが開け放したままのドアの間から流れ込んできた。
「剛。別に何もしてないって」
パッと私の頭から手を離し、彼は気まずそうに頬を掻く。
「お兄ちゃん、いつからそこに…」
「お前が『弓道だってお兄ちゃんよりずっと上手』ってとこから。杏璃、ひどいぞ!」
憤慨する兄は心なしか涙目だ。
「剛、落ち着けって。コーラが零れるだろ。ほら、杏璃ちゃんの勉強の邪魔になるから」
軽くいなすように彼は兄の背中を軽く叩いて向かいの部屋に向かう。
「杏璃ちゃんも気にしないで予習続けて」
「は、はい」
閉められたドアの向こうから兄の嘆く声が漏れてくる。
「杏璃は、俺より圭を…」
「もういいから。さっさと明日のテスト勉強するよ」
冷たく放す口調の彼。
漏れ聞こえてくる兄と彼の声をBGMにして、私は予習を進めた。
喘息で体が弱かった私は幼い頃から入退院を繰り返して、学校に毎日顔を出すことはほとんど無かった。
私が中学生だった時、兄が県外の大学の付属高校に合格したのを機に、両親は自然の豊かなこの町に引っ越すことを決めた。
もともと親しい友人もいなかったので、私は転校に反対などしなかった。
二年生になって喘息の症状が治っても私は以前と同じように欠席を繰り返し、自宅学習する日々を送っていた。
引っ越してきて数ヶ月が経った、ある日のことだった。
『お邪魔しまーす』
初めて聞く声に、自分の部屋で勉強していた私は手を止め、ドアに歩み寄った。
『あら、いらっしゃい』
出迎えたのだろう母が嬉しそうな声を出している。
しばらくして階段を上がる音と、兄の話し声が近づいてくる。
相槌を打つ相手の声も聞こえる。
どんな人なんだろう。
好奇心に駆られた私はそっとドアを開けた。
『じいちゃんの影響で弓道は小さい頃からやってたんだよ』
『だからあんなに上手いのか』
そんなことないって、と笑う彼は兄より華奢な体つきをしていた。
柔らかそうな黒髪を注視していた私は、急に鼻がむずむずしてきたのに焦ってドアを閉め、口を手で押さえる。
けれども
『くしゅんっ』
『…今、誰かくしゃみしなかった?』
『杏璃、風邪引いたのか?大丈夫か?』
心配性の兄がノックもせずにノブを思いっきり引いた。
『きゃっ…』
ドアに寄りかかっていた私の身体は支えをなくして廊下に倒れそうになる。
『おっと』
ぎゅっと目を閉じていた私には、何が起きたのか分からなかった。
家で使っているのとは違う柔軟剤の匂いと、確かな温もりを感じて目を開く。
『大丈夫?』
そう言って私を覗きこむ彼の顔の近さに心臓が止まりそうになった。
私は動揺していて、兄が固まっていたことに気づかなかった。
『君が杏璃ちゃん?剛にこんな可愛い妹がいたとはな』
彼の少し低い声が、私の鼓膜に染みいる。
『俺は神城圭。剛と同じクラスなんだ。よろしく』
『は、初め、まして…』
たどたどしく言葉を紡ぐ私を、彼は温かく見守ってくれていた。
はっきりとした目鼻立ちをしているが、彼の持つ穏やかな雰囲気がきつそうな印象を感じさせなかった。
『おい!杏璃から今すぐ離れろ!』
『わ、声でか過ぎ。ご近所に迷惑だから』
兄に顔をしかめてみせた彼はもう一度私の方を見て、ね?と笑った。
それが、彼と私の初めての出会いだった。
それから彼はよく家に遊びに来るようになった。
学校に行きたがらなかった私を、彼は一度も怒ったり、責めたりしなかった。
『無理に行こうとしなくてもいいよ。杏璃ちゃんが自分から行きたいと思ったら、俺は応援する』
優しい声でそう励ましてくれた彼に少しでも近づきたくて、私は学校に通い始めるようになった。
1年の間だけでも、彼と同じ高校に通いたい。
そんな願いが、私を奮い立たせた。
兄と彼が通う高校に合格した私は、相変わらず人見知りが激しいが何とか学校生活を送っている。
移動教室のとき、彼が廊下ですれ違う私に気づいて声を掛けてくれた。
放課後、武道場で空手の稽古に励む彼を見ることができた。
そんな何でもないことが、私にとってはとても貴重なことに思えた。
「今度来た時は夕飯も食べていけよ」
「あぁ、じゃあな。お邪魔しましたー」
午後7時過ぎ。彼の声が私の家の中から消えた。
帰っちゃった。
寂しい気持ちを抱えながら、私は窓を開けて顔を少し出してみた。
5月初旬の夜の風は、まだ少し冷たい。
ふと下を見下ろした私は思わず息を呑んだ。
彼がいた。
彼の瞳が、私を捉えていた。
街灯の明かりに照らされている彼は、2階の私に手を振って声を出さずに口だけを動かす。
〈おやすみ〉
無意識に手を振り返していた私に彼は微笑み、背中を向けて歩き出した。
角を曲がって彼の姿が見えなくなる、のと同時に私は座り込んでしまった。
私の耳に、夕飯ができたと知らせる母の声は届かなかった。
私の心を動かすのは、彼の声?
そうじゃないのかもしれない。声だけじゃ、ないのかもしれない。
その翌日の放課後。
夕日を背負って、私は歩いていた。
今日は通学鞄に英和辞典と古語辞典も入れているので、私の肩に鞄の紐が食い込んでいる。
重いし、痛い。
だが、まだ学校を出たばかりだ。
歩くのが遅い私は、家まで着くのに時間がかかる。
ため息をついて鞄を抱えなおそうとした私は、重さにまごついて後ろから近づく足音に気づかなかった。
「杏璃ちゃん、今帰り?」
不意に掛けられた声に驚いて振り向くと彼がいた。
「は、はい。神城先輩も、部活終わったんですか?」
隣に並ぶ彼に緊張しながらも、私は尋ねた。
「うん。剛の所に寄ったんだけどまだやってたから先に帰るって、…」
歩幅の狭い私に合わせて歩く彼の、何気ない優しさに感動していた私は、彼が言葉を切って深刻な表情になったことを知らなかった。
「杏璃ちゃん、鞄貸して」
「鞄?私の、ですか?」
「そう。早く」
有無を言わせない口調の彼に私は戸惑った。
おずおずと鞄を肩から外すと、さっと彼は取り上げてしまう。
「え、あっ…」
彼は空いたほうの手で、私の手を取る。
「やっぱり。ほら、赤くなってる」
確かに、手のひらに鞄の紐の跡がくっきりとついていた。
少しでも肩に負担をかけないようにと手で持つようにしていたからだろう。
労わるように撫でられた手が痺れるのは、鞄の重さのせいだけではない気がした。
「さ、帰ろ」
私の重い鞄を持ったまま歩き出してしまう彼。
「か、神城先輩。自分で持ちますから…」
心底すまなそうな私を一瞥し、彼は少し考える。
そして
「じゃあ、これ持って」
差し出しされたのは、彼の鞄。
ますます混乱する私に
「杏璃ちゃんには俺の鞄を任せるから。よろしく頼むよ」
押し付けるようにして渡された彼の鞄は私のよりもはるかに軽い。
「え…」
気持ちが顔に出ていたのだろうか、彼は私を見て苦笑う。
「杏璃ちゃんにそんな顔されると、勉強してないって言われてるみたいで俺ちょっと悲しいんだけど」
「ち、違います。そうじゃなくて…」
「俺が持ちたいんだから、そうさせてくれると嬉しいな」
晴れやかな笑顔でそう言われてしまうと返してくださいとはもう言えない。
結局、彼は私の家まで鞄を持ってくれることになった。
申し訳なくてせめて早く歩こうとすると
『…杏璃ちゃん、俺と一緒にいるのそんなに嫌?』
寂しそうな顔をする彼に負けて、つい速度を緩めてしまう。
相手に気を配り、かつ相手に気を遣わせない、ということを自然にこなす彼。
そんな彼と一緒にいると時計の針が悪戯をして、速度を速めてしまったかのように感じる。
「はい」
あっという間に私の家の玄関前に着き、彼は重い私の鞄を軽々と差し出す。
「あ、ありがとうございました。あの、これ…」
私は持っていた彼の鞄を返し、自分の鞄の中から調理実習で作ったマカロンを取り出した。
「俺に?もらってもいいの?」
「お礼と言えるほど大層なものではないですけど」
「ううん、俺甘いもの好き。ありがと」
包みを受け取った彼はいつになく嬉しそうだ。
手を振って歩き出した背中を見送っていると、不意に彼が振り返った。
「今度からはあんまり無理するなよ?一生懸命頑張ってる杏璃ちゃん、俺は好きだけどさ」
からかうように彼は言い、夕焼け色の道を歩く。
私の頬も、夕焼けと同じくらい赤くなっているに違いないと思った。
声だけじゃない。
私の心を動かして捉えてやまないのは、あなたのすべて。
でもいつかは、私があなたの心を動かして捉えてみせるから
それまでもう少し、待っていて。
fin.
どうも、miaでした。