6・佐藤と魔王
「出るぞ」
バスが大きく揺れて停車した。
それとほぼ同時に佐藤が目を覚ましてバスを降りる。何時になく能動的に動く佐藤に鋏も不自然さを感じているようだ。
千里に代わって尋ねる。
「どしたの、佐藤?何時になく乗り気だね」
「旧友のいる世界だ…どうしているのかが気になる」
「お前に友達いたのかよ」
相変わらず憎まれ口を叩く紙袋にいつもなら睨みを飛ばすというのに佐藤は何もせずにバスを降りる。
珍しいこともある…と思いつつ佐藤も飛び降りた。
最初に見えたのは巨大な黒い塔。高く、天を目指して聳え立っている。その塔から少しはなれた場所に市街地が見えた。
塔は近いが町は遠い位置にある。
風が吹いて千里の髪を揺らした。冷たい風に体を震わせる。
「寒っ」
「…ここには季節がない。常に寒冷期のようなものだ」
「困ったね、このままじゃ仲良く凍死ってのもあるかもよ?町遠いみたいだし、どうするの?」
「大丈夫だ」
マントを脱ぎながら佐藤が答える。
彼の視線は天を指す塔を捉えていた。
「塔に向かう」
「へっくしっ!大丈夫なのかよ、化物。いかにもモンスター出そうなダンジョンじゃねぇか」
「モンスター?魔物のことか。確かにあいつは使役していたが、そんな場所をわざわざ通るつもりはない」
黒いマントをひょいと千里の肩にかける。
浴衣でない分皮膚に直接当たる風は少ない。それでも寒いことには変わらないはずなのに佐藤はまったく顔色を変えない。
温度など感じていないかのようだ。
バスを手早く隠すと続けて佐藤は千里の肩を抱いて目を閉じた。
マントが形を変えて黒い翼になる。
「うわっ」
「俺の翼だ…暫くそのまま動くな」
「何してんだ?」
「相手に俺が来たことを伝えている、迎えが来るはずだ」
黒双翼から幾つか羽が抜けおちて宙を一定の速度で浮遊しはじめた。
ふわふわと動いたかと思えば、一瞬にして地面にそれが落ちる。
「通じたな…少し酔うかもしれないが、我慢しろ」
「あー嫌な予感、まさか佐藤」
「そのまさかだ。鋏と俺は体験済みだが…千里、俺から離れるな」
佐藤が千里を抱き締めた瞬間、四人の姿が消え去った。
「できた!」
魔王の留守にしている部屋、イグレアはごそごそと何かをやっていたが、出来上がったそれを満足気に掲げた。
彼女の膝上には縫い物道具の入った木箱、彼女が両手で誇らしげに持っているのは暖かい茶色をしたマフラーだ。
初めて作っただけあり不恰好ではあったが精一杯の一品だ。
「あいつも喜ぶだろうな、そうだろうな!」
マフラーを両腕で抱えて部屋を飛び出す。廊下をフラフラと数分歩いてみるが探している人物の姿は見えない。
「おーい」
声をかけながら歩くが返事はない。
(おかしいな…私が呼んだらいつもは普通に来るはずなんだが)
たとえ声の届かない場所にいたとしても本名を呼ばれればわかるらしい。
イグレアは控えめに魔王の名を呼んだ。
しかし変化はない。
「一体どこに…まさか、町に下りたんじゃ!」
そういえばそうだ。
今日は少し様子がおかしかった…何かを隠しているような、いつもと違うぎこちない態度に気づけていた。
「っ!」
マフラーを投げ出して走り出す。塔を降りることは簡単だ、魔王から移動魔術式の在りかを聞いていた。
「早まるな…!」
間に合ってくれ…願いながらイグレアは力の限り走った。
引力の方向が変化して頭をぐるぐるとかき回される感覚。吐き気すら覚える感覚に耐えると視界が開けた。
心配そうに覗き込む佐藤の顔がある。
「…大丈夫か?」
「何が…起こって」
「転移魔術だ…初めては少し辛いか」
周囲の状況を確認すると、慣れた様子で涼しい顔をしている鋏と、床に両手をついて蒼白な顔をした紙袋が見える。
赤い絨毯の敷かれた部屋だった。
「塔の最上階だ」
千里が場所を問う前に佐藤が教えてくれる。
価値のありそうな骨董品の並ぶ室内はどことなく上品な雰囲気を漂わせている。
マントを佐藤に返すと翼は布へと姿を戻した。
「行くぞ…相手方にお前達のことも紹介しないといけない。人嫌いの変わった奴なんだ」
「人嫌い?」
「…俺に似ている、だから気があったのかもしれない」
「あー佐藤、ゴメン先に行ってて。紙袋の回復がまだみたいだから」
マントの加護も得られなかった紙袋の酔いは相当なものらしく、いつものふざけた色は微塵もなく辛そうにしていた。
立てた膝の上に額をつけたまま動かない。
佐藤の補助を受けたおかげで自分はあれだけで済んだのだと気付いて千里は隣の無感情な顔を見上げた。
「追って来い…ここを出てすぐ右にある王室で待っている」
「うん」
「おいで、千里」
転移部屋を後にして長い石造りの廊下を歩く。
こつこつという足音だけが響き、大きな扉の前で佐藤が立ち止まった。片手でそっと押すだけで重い扉が音を立てて開く。
軋む音をたてて全てが開ききると、部屋の内部が見える。
最初に見た部屋と似た装飾が多いが、一番の相違点といえば部屋の中央に置かれた黒いソファ、そこにゆったりと腰を下ろす男の姿だろう。
遠慮なしに佐藤は室内に踏み入り、千里もその後に続いた。
「久しぶりだな、魔王」
「魔王?」
魔王とはあの魔王だろうか…と千里は耳を疑う。
千里と同じぐらい長い、しかし癖のある黒髪。右目を覆う長い前髪。そして眠たそうな目に無精髭。
見た目の年齢は四十歳辺りだろう。
首に茶色いマフラーを巻いているが、荒いつくりで先端がボロボロにほつれてしまっていた。
「…また随分懐かしい顔だな、そして珍しい御仁もいるじゃねぇか」
銜え煙草を机の上に置かれた灰皿に落とす。
立ち上る灰色の煙の先に見える魔王は立ち上がるとニヤッと知的な笑みを浮かべた。
「そっちの人間は誰だ?黒…」
「今の名前は佐藤だ」
何かを言いかけた魔王を遮って佐藤が自分の名前を告げる。
「おっとすまねぇ…佐藤、紹介してくれ」
「あ、えと、俺は」
「話したはずだぞ魔王、俺の目的だ」
「ああ、あの話に出てきた子か。初めまして…千里…だったか?」
初対面の男に突然名前を言い当てられて少なからず驚く。
目的とか何とか言っていた…佐藤が話したのだろうが、そのときはまだ千里と佐藤は会っていないはずだ。
「俺のこと…知って」
「ああ、嫌になるぐれぇ聞かされたからな。まあそこの過保護な奴が呼んでるから察しはつくと思うが、俺は魔王…名前はイグレアだ」
「イグレア?」
似合わない名前だと率直に思う。
佐藤も腑に落ちない表情をしていた。
挨拶のついでに差し出された手を握り返すと冷たい何かが脳天から爪先まで通り過ぎる。
(え?)
似ていた…月花を殺した佐藤を見たときの感覚に。
「千里から離れろ…怪しい真似をすれば旧友といえども吹き飛ばすぞ」
佐藤の警告を受けてパッと魔王は手を離した。
「別に何もしてねぇよ…そんなに信用ないかね、おっちゃんは」
素直に千里と距離を置く魔王を見て軽く佐藤は目を見開いた。以前会ったときとのギャップに驚いたからだ。
「随分大人しくなったものだ…すぐに手をあげると思った」
「まー…お前に会うのも久しいからなぁ。何年ぶりだ?お前が以前ここを訪ねてから」
「百三十六年ぶりだ、まさかこの世界に未だ人間の都市があるとは…俺はそのことに驚いたよ」
「お前は変わんねぇな、俺はすっかり老いぼれたよ」
(百三十六年?)
どうやら知り合いらしい二人はすっかり思い出話に花が咲いてしまっている。入り込めない千里は所在無く部屋の端に立ち、二人の会話をぼんやりと聞いていた。
だが佐藤の口から出た言葉に驚く。
それが本当だというなら佐藤は百三十六年前にこの世界を一度訪れているということになる。
(佐藤って…何歳なんだ?そもそも人間ってそんなに生きられるものなのか?)
仮に長生きをしている通常の人間だったとしても、佐藤の見た目はどんなに多く見積もっても二十代後半だ。
最初に出会ったときの佐藤の言葉が思い返される。
「化物か、お互い様だ」
彼はそう言った。
千里が自らを鬼だと蔑んだ際に呟いた言葉ですぐにはぐらかされて詳しく意味を問い詰めることはできなかったが、今までの人間離れした動きの数々、術の数々を思えば本当に人外の者なのかもしれない。
「老いた?何の冗談だ。俺より上の力を持つものがこの程度の歳月で退化するはずもない。何のつもりだお前…何の狙いがあってそんな見た目を使っている?」
「長げぇぞ百年は、お前がずっと探し続けてる間、俺にも色々あったってことだ」
苦笑して魔王は目を伏せる。
やはり腑に落ちない表情を佐藤は崩さなかった。
「それにしても随分と大所帯なこった。二人…お前が人間を近くに置くとはねぇ…お前も随分変わったよ」
「別に…利用しているだけだ」
「入って来いよ…とって食いやしねぇよ」
パチンと魔王が指を鳴らすと閉じたはずの扉が勢いよく開かれる。扉の向こうには鋏と紙袋がいる。
突然開いた扉に驚くこともせず鋏は微笑みを浮かべたまま、紙袋は警戒するように魔王を見ている。
「流石、佐藤の友人かなーお邪魔してます塔の主さん」
「イグレアでいい。千里以外の名前は知らねぇんだ…名前は?」
「鋏、こっちの犬みたいに警戒してるのが紙袋。僕と彼は佐藤の協力者だよ」
「誰が犬だ!…こんな薄気味わりぃ塔に住んでて尚且つ佐藤の知り合いだぁ?んな奴信じられっかよ…うさんくせぇ」
露骨に非友好的な紙袋の発言を受けても魔王は気分を害すこともせず、若いなぁ…と笑うだけだ。
「嫌われてんなー、まあこのことに関しては紙袋?の対応が正しいと俺は思うね。魔王イグレアってんだ…警戒するのが当然だ」
「魔王!…佐藤の友達らしいね」
「そちらさんこそ、随分器が大きいようで何よりだ」
自己紹介を終えると魔王はソファを軋ませて腰を下ろす。懐から煙草を取り出すと道具を使わずに指先で火をつけた。
立ち上る細い煙を見てふっと目を細める。
「ま、歓迎する。できる限りのもてなしはするつもりだ、好きなだけゆっくりしてってくれ。部屋はどこ使っても構わんぞ」
「助かる…千里、それに鋏、暫くここで世話になる」
「うん、それじゃあお世話になりますイグレア」
「おうよ」
「…なんで俺はいねぇ前提になってんだよ」
来客達は指示通り好きなように部屋に帰っていった。
一人になった魔王は石造りの床を歩くと窓辺より外を見下ろす。遠いが眼下に広がる繁華街、都市、人間の暮らす町。
魔王というものを作り上げておきながら自分達はのうのうと暮らしている。誰かの犠牲によって成り立っている平和だと知らない。
「…どうしてこんな時期にお前は帰ってきたんだ」
今ここにはいない佐藤に問いかける。
できれば帰ってきて欲しくはなく、そして帰ってきてくれて都合が良いともいえた。逃げ道が確保できるからだ。
(あいつがいれば確かに俺は生き残ることができるが)
こんな奇跡とも言えるタイミングで佐藤がこの世界を訪れたことが少しだけ気にかかる。
いや、かなり気にかかっていた。
「一体…神様とやらは何を考えているんだか」
女神、彼女はそれを信じていた。
助けてくれることはなかったが。
何故こんなことになってしまったのだろう?
目の前に迫る息の荒い紙袋を見ながら千里は困りきっていた。
雪が降っているからといってはしゃぎ、塔の屋上を歩き回ったのがそもそもの原因だった。
雨と違い当たってもすぐには濡れない雪、油断して室内に戻れば溶け出した雪が冷たい水となって体を濡らしてしまった。
それを偶然通りがかった紙袋に発見されたのがいけなかった。
「風邪ひくぜぇ?」
「だからってどうして一緒に入る必要があるんだよ!」
「俺の個人的な事情だよ!」
「どんな事情だ」
逃がすつもりはないようで紙袋はじりじりと距離を詰めてくる。彼が一歩進むたびに千里も一歩進むのだが、とうとう壁に背中をぶつけてしまった。
これ以上は下がれない。
「千里ぉ一緒に風呂入ろうぜー!」
「…仰る意味が分かりかねます」
「欲望が隠しきれてなくてダダ漏れだよ」
「ぐっ…だがしかし、俺は耐えてやるぜ!」
鋏の蹴りを片手で受け止めて紙袋は吹き飛ばない。
糸のように細められていた鋏の目が驚きに開かれた。
「ふっ…いつまでもお前に邪魔をされる俺だと思ったら大間違っぐへ!」
佐藤は汚いものでも触るような手つきで紙袋の襟を掴むと、ひょいっとまるで人ではなくもっと軽いボールを投げるような仕草で彼を投げ飛ばした。
綺麗な放物線を描いて数メートル離れた場所にべシャリと紙袋が落ちる。
「大丈夫か、千里?」
「あ、ああ」
まさか本当に死んでないだろうな…と心配になって千里は佐藤の肩の向こう側に転がる紙袋だったものを見る。
「流石、打たれ強いっていうのか懲りないっていうのか、最近紙袋が粘るようになったんだよね…何か新しい撃退方法が必要かな」
まるで害虫でも追い払うような鋏の発言に紙袋とはいえ不憫な気持ちが沸いてきた。
…ほんの僅かにだが。
佐藤の白い手が伸びて千里の髪を触る。
「濡れたな…」
「大丈夫だ…これぐらい、慣れてる」
傘をなんらかの形で奪われて雨に降られて帰ったり、傘を差す余裕のない状況で走ったことも幾度もある。
全ては鬼という肩書きのせいであり、慣れているという言葉は本心からだ。
しかしその発言が気に食わなかったのか佐藤は眉を顰めた。
「風邪をひく」
「ここに風呂場なんてあるのか?」
「だーからぁー、俺が手取り足取り案内してやるぜ!」
「話がややこしくなるから君は黙っててよ」
辛辣な鋏の言葉も紙袋にとっては軽いものらしい。へいへい…と適当な返事をして口を噤む。
「佐藤は知ってる?この塔にお風呂なんてあるのかな?」
「…風呂?何だそれは」
「え?」
「いやいやいやいや、嘘だよな、冗談だよな化物。お前ってそんな天然キャラじゃねぇだろ」
二人に莫迦にされたと感じたのか佐藤は眉を顰めて不機嫌そうに首を横に振る。
「知らない」
「佐藤…なんて説明すればいいんだ?…沐浴は分かるのか?」
そもそも浴衣を着ていた佐藤が風呂を知らないということが驚きだったが、千里は必死に言葉を探した後に発言する。
「莫迦にするな」
どうやら沐浴は分かるらしい。
「それ、それのことだ。具体的には…沐浴の温水バージョンか?」
「成る程、体を温めるということか。珍しく莫迦の提案が正しいと思える…それで、千里は風呂とやらはしないのか?沐浴場ならこの塔にも確かあったはずだ」
「え、いや…」
てっきり佐藤は紙袋と一緒に千里が風呂に入るのを止めてくれると思っていたが、その辺のことに関しては感覚がずれているらしく何故千里が行きたがらないのか分かっていないらしい。
意外な一面に驚くが、今は不都合だ。
「ほらな、ほらな!佐藤からも推薦されたところで行こうぜ千里!」
「鋏さん!」
最後に残った砦は常識人の鋏だけだ。
しかし困った風な笑顔を浮かべるだけで、彼も佐藤の決定には逆らえないようだった。
(おわった…俺の色々なもの)
「行こうぜ!」
「どうしてお前がついていく?」
「へ?」
これまでにないほど上機嫌で千里の手首を掴んでいた紙袋が予想外の佐藤の発言に固まった。
「お前などと千里を一緒に行かせられるものか、来い、千里」
「あ、ああ」
少なくとも最悪の事態だけは免れるようだ。安堵の息をついて千里は佐藤の背後に隠れるように移動する。
「くそ化物がぁ!俺の夢をぶっ壊しやがって」
半泣きの紙袋を一瞥し、何も言葉をかけることなく佐藤は千里の手を引いて歩き出した。