5・勧善懲悪、魔王と勇者。
「残留思念…ね、僕にはさっぱり見えないんだけど」
「今目の前にいる。だが見えなくても構わない…契約の見届けをしてくれ」
「うん」
館の一階、応接間。
バスの部屋の一つ前の大きな部屋に佐藤と鋏、それに視覚では捉えきれない何かがいる。
「やっぱり幽霊的なものなのかな、僕そういうのは苦手なんだけど」
佐藤がマントを床に落としてシャツを脱ぎながら答える。
「幽霊とは違う、死者の魂などあってたまるか。残留思念と言っただろう、死に際に強く願った思いが漂っているんだ。意思も考えもない…ただその意思を誰かに伝えるためだけに存在する」
「誰かに伝えるため」
「それを請け負って…果てさせるのも俺の役目だ」
シャツを脱ぎさると佐藤の背中に刻まれた黒い紋様が露になる。複雑に入り組んだ翼のような紋様を鋏が興味深げに見た。
「…珍しいか?」
「これって佐藤の力の一部だよね。それに何かが絡まってる」
「俺の力を軸にして契約式が組んである。不愉快なものではあるが、仕方のないことだ」
黒い翼を模した紋章に蔦のように絡み付いているのは赤い紋様。もとある黒い紋様に寄生するように存在していた。
「君だけに負担がかかり過ぎてる」
「俺が望んでやっていることだ。依頼を受けてそれをどんな形であれ解決させる…そんな大義がなければ世界の移動手段など与えてくれない」
「うん、だから僕は君に協力してる」
「…感謝している」
「うん、知ってるよ」
にこっと笑った鋏を見て小さく驚いた佐藤が顔を背ける。
「始めるぞ」
暗く大きな面積を持つ塔。高さは地上千メートルに及ぶ。しかしそこに住む主は塔の頂点に近い部屋だけに住み、他の場所は掃除することもしない。
黒い長髪は手入れされていないようでぼさぼさ。精悍な顔立ちの中に埋もれた黒色の目は眠たそうに半開きだ。
伸ばしっぱなしの前髪が右目を覆っている。
年齢は二十代ぐらいだろう。未だ老いの見られない姿だ。
「目ざわりだ…人間、滅ぼすか?」
退屈そうに欠伸をする男は口に煙草を銜えていた。先端から上へと上る煙をぼんやり見つめる。
「…来訪者なんて珍しいな」
振り向かずに声をかける。
大きな扉が開かれて少女が一人、薄暗い部屋へと踏み入った。
眉根を寄せて警戒したように立ち入る彼女はとても友好的とはいえない。しかし男は対照的に緊張すらしなかった。
女は男とは正反対の真っ白な長髪で、露出度の高い騎士の鎧をモデルにしたような服を身に纏っていた。
「魔王!」
「叫ばなくとも聞こえている。人間がこんな場所に何用だと尋ねている。愚かな人間と会話をする気はないぞ…早く答えろ」
「ふざけるな!貴様の悪行…これ以上許しておくわけにはいかない!」
「珍しいな、大衆の中に俺に正面から歯向かう人間がいるとは。…ああ、さては女、お前が今年の勇者とやらか?」
「今年の?…まるで毎年勇者が来ていたような言い方だな。何を訳のわからないことを!」
「その通りだ、何だ…貴様は知らんのか。実におめでたいことだ」
初めて勇者と呼ばれた女が身じろぐ。
聞かされていない事態に戸惑っているようだった。
迷いの過ぎった表情を見て魔王である男は考えを変えた。
(すぐに始末するより…少しは楽しめそうだな)
「俺の友人が言っていた…この世界は勧善懲悪の世界だと」
「勧善懲悪?」
「言葉どおりだ…善を勧め、悪を懲らしめる。世界に悪があるとして、その一点を憎み続ける単純な世界だよ」
「それこそが私達の望んでいる世界の形だ。魔王、悪の権化であるお前が消え去れば世界は平和に」
「なるわけがないだろう…そもそも、お前等の言う悪って何だよ?」
「お前のことだ!」
迷いを断ち切るように勇者は剣を取り出すと魔王へ向けた。切っ先が僅かな光を浴びて輝く。
「世界に仇をなす存在か?…俺も随分祭り上げられたものだ」
「…何が言いたい」
「はっきり言おう…俺からすればお前達のほうがよっぽど悪者だ。俺がどうしてお前達を嫌っているか分かるか?」
「魔族だからだろう」
教えられたことを疑いなく信じる純真な心。だからこそそれを利用されて魔王の供物などに仕立て上げられたのだろう。
哀れだな…と魔王は勇者をじっと見つめた。
「魔族?なんだそれは。人間の思い描いた妄想の一つか?俺は人間だよ…お前達と何も変わらない、ただ世界を滅ぼせる程度に力が強かっただけの人間だ」
「嘘をっ」
「嘘だと思うなら思えばいい。貴様が飛び掛ってくれば例年のように俺が貴様を殺して終わりだ。人間が嫌いな俺は人間なんかに殺されるつもりはない。貴様らが俺を憎み魔王と罵るのなら、俺はお前達の望みどおりに動いてやる」
「望み…だと?」
分からないのか?と魔王は嘲笑した。
冷え切った笑みは決して楽しいから漏れる笑みではなく、何かをいたぶっているのをみているような、嗜虐的な笑みだ。
「魔王は人間を殺戮するものなんだろ?」
狂ってしまったかのような笑みを浮かべる。
「狂ったか!」
「誰が狂わせた?…一方的な中傷に嫌気がさした。俺はもう負ける側にはならない、力があるのならこの圧倒的力で人を滅ぼす」
魔王は勇者との間を埋めると彼女の掲げる剣を素手で掴む。しかし刃に触れているというのに血は出ない。
冷え切った刃の感覚に狂気するように笑みを深くすると、魔王は挑発するように屈んで身長の低い勇者と視線の高さを合わせる。
「勇者に…何故女が選ばれるか知っているか?」
「それは、女神が女をお選びになられるからだと」
「また女神…女神女神女神、貴様達人間は狂信的なまでにそれを信じる。言い訳に過ぎんな…人間達はな、勇者という名目で女を俺に貢いでいるんだ。分かるか?…供物のつもりなんだよ」
「貴様!私を愚弄するつもりか!」
激昂した勇者が剣を振りぬこうと両手に力を込めるが、魔王の手から引き抜くことはおろか、傷一つつけることができない。
ここまで歴然とした力の差を見せ付けられ、勇者は悔しそうに歯噛みした。
「頼んでもいないのにな…処理が面倒だ。毎回斬り捨てて塔から落として捨てている。それが供物を供えた人間達の望むところだ。俺を悪者に仕立て上げるのが目的だ」
初めて笑みを消して悲しそうに目を伏せる。
そんな魔王に気づいた勇者は剣に込めた力を抜いた。狂気が顔から消えた魔王が普通の人間に見えてしまったからだ。
剣のもち手から手を離すと、魔王は驚いたように顔を上げる。
「魔王、お前は一体何を知っているんだ?」
「…この世界の真実を」
「お前、何歳だ?」
「は?」
突然の質問に呆けた声をあげる。
「いいから答えろ、お前何歳だ?」
「数えるのも飽いたが…今年で千歳になる」
とても千の齢を重ねているようには見えない容姿、しかし勇者は驚くことはしない。
「そうか、年長者の考えは敬わなくてはいけないと私の故郷ではいわれているんだ。だから私はお前の話を聞いてやる」
「奇特な勇者もいたものだ」
「私はもう勇者じゃない。一人の人間としてお前の話が聞きたいんだ、私の名前はイグレア。魔王、お前の本名は何だ?私はお前と一対一で…人間として話したいんだ」
「…フン、いいだろう。俺の名前は」
「で、ここが新しい厨房。俺はまったく興味ねぇけど鋏がしょっちゅう出入りしてんな。飯はあいつが作ってくれる」
「厨房があるのか…大きな館だな」
館の厨房前の廊下、扉の前を二人は歩きながら会話していた。
紙袋が先を歩き、その数歩後を千里が追うという形だ。
千里が館の内部を知りたいと言い出したのがきっかけで、館内の探索のようになってしまっている。
「広くて迷子になりそうだ」
ぼそっと独り言のつもりで呟いたのだが紙袋には聞こえていたようだ。
「大丈夫だろ、俺も最初のうちは迷いまくったけど、千里が眠ってる間に完璧に地図を覚えたぜ」
「…随分長い間寝てたんだな、俺」
「寝顔が拝めて俺的にはご馳走様だったけどな」
ヒヒヒっと奇怪な笑い声を上げて紙袋は肩を震わせた。
「二階には何もないのか?さっきから一階ばっかり案内されてる」
「二階はなー俺達の部屋以外にもいくつか空き部屋があるぐれぇだな。他に入居予定者でもいんのかね…無駄にでけぇ家買うから面倒なことになるんだよな、あの化物」
やはり仲が悪いらしく紙袋は佐藤の愚痴を零す。
苦笑しながら紙袋の話を聞いていると、小さく音が聞こえた気がして千里は耳を澄ました。
「…ぁっ、ぐ」
「…声?」
苦しむような声が聞こえた気がして千里は立ち止まる。気のせいかと思ったが、紙袋も訝しげに周囲を気にしているのでどうやら幻聴ではないらしい。
「応接間のほうからだぜ」
「行こう」
場所はよく分からなかったが、紙袋が自信を持って走り出す。廊下に並ぶ扉とは違い、大きめの両開きの扉があった。
見覚えのある扉、おそらく異世界へ向かった際に通ったことのあるあの大きな部屋に通じているだろう。
扉を押し開けると同時に部屋を出ようとしていた鋏に当たってしまう。正面から突っ込み、千里より頭ひとつ分背の高い鋏は胸に突然飛び込んできた千里を受け止める。
「おっと」
「鋏さん?」
「千里…に紙袋、困ったな…来ちゃったのか」
「…っ、誰だ!」
「佐藤?」
部屋の奥から聞こえる苦しげな声は確かに聞き覚えのあるあの声だ。入口を塞ぐようにして立っている鋏の腕の下をくぐりぬけ、千里は声のするほうへと急いだ。
地に伏せている佐藤を見つけて慌てて駆け寄る。
「どうしたんだ!」
「何故、こいつらがここにいる!鋏…ぐっ、誰も入れるなと言ったはずだ!」
「無茶言わないで欲しいな、僕だってまさか千里達が自分から向かってくるなんて思わなかったんだ」
未だに入口付近で鋏に行く手を阻まれている紙袋は、ひょいっと鋏を押しのけて室内の様子を窺う。
だが千里とは違い、大した反応は見せない。
「あー、またか」
「そういうこと」
どうやら何度か経験しているらしく、佐藤の異常も見慣れているようだ。紙袋は平然として鋏にもたれかかる。
体重をかけられて鋏は紙袋を放そうとしたが、離れようとしない紙袋を見て諦めた。
「これ…!」
背中の紋様を見て驚く。
「触るな、お前に心配されるようなことじゃない」
突き放すように睨み付けると千里の伸ばした手を振り払った。
拒絶するような動きに千里は何もできなくなる。
「化物の半裸見ても何にも感じねぇぜ…ったく、おいしくねぇ」
「君の評価基準ってそこだよね」
「ひひ、うるせぇ」
千里の助けを断った佐藤はおぼつかない足取りながらも立ち上がり、手の甲で口元を拭った。
荒い息を整えながらシャツを羽織る。
しかしいつもより顔色が悪い。白かった肌は青いと表現できるほどだ。
一度振り払われた手…しかし佐藤をそのままにしておくこともできず、千里は了解をえずに手を伸ばして佐藤の背をさすった。
触れられた瞬間だけ体をびくつかせた佐藤だったが、それ以降はされるがままになり文句を言わない。
「心配するな…ただの契約だ」
「契約って何だ?佐藤が苦しむようなことなのか?」
「俺が望んでやっている…バスの運賃のようなものか。契約を受けその内容を果たすのが俺の仕事だ」
ボタンを留め終わった佐藤はそっと千里の手を引き離すとマントを肩からかける。
あれだけ血を浴びておきながら黒いマントには染み一つない。
「また異世界かよ?最近忙しいっつか人使い荒いぜ、お前」
「嫌ならお前は残れ」
「やなこった、自宅警備はお前のほうがお似合いだろ」
「俺も行っていいか?」
千里の控えめな提案に佐藤と紙袋は争いをやめた。
二人とも困ったように黙りこむ。
「千里…お前が一緒に来てくれることは嬉しいが」
「何か面倒なことでもあるのか?」
「次の世界が安全だとは言い切れない。以前行ったことのある場所だが…前回のように甘い世界ではないぞ?」
「危険ってことか?」
「そういうことだ」
佐藤はどうやら千里を連れて行くことに乗り気ではない様子だった。しかし仲間はずれは少し悲しい。
どうせ鋏も紙袋も佐藤についていくのなら、一人だけ残されるというのはどこか疎外感があって嫌だった。
だが、だからといって我が侭を押し通そうとは思わなかった。
「大丈夫だよ佐藤、君が護ればいい。それにもしもの事があれば僕が千里を責任もって護るからさ」
「お前が?」
「僕じゃ役不足かな?」
「いや、だがお前が戦うとなれば」
「大丈夫だよ、来るべき時が来たら僕が僕を殺すから。それに千里は世界を見て回りたいんじゃないかな?」
そうなのか?と佐藤の視線を受け、千里は首を縦に振った。
もちろん三人についていきたいという思いもあったが、それ以上に異世界に行ってみたかった。
「俺はこの世界しか知らなかったんだ」
「だろうな」
「だからもっと世界が見てみたい。俺のいた世界は俺にとって最悪な世界で、あんた達がいなかったらきっと俺は一人孤独に死ぬ日を待つだけの毎日だったと思う。俺のいた世界が当たり前じゃないって知ったから…だからもっと見たいって思った」
言葉にすることは難しい。
拙い言葉を重ねながら千里は懸命に訴えかける。どうか自分を連れて行ってくれと。
(それに…)
佐藤の背中を見送るのがなんとなく嫌だった。
記憶でもなく精神でもなく、ずっと奥のところがそう訴えている。
千里の言葉に強い意志を感じ取ったのか、佐藤は仕方ない…と諦めてくれたようだった。
「明日発つ。向こうで現在何が起こっているのかは俺にも分からない。しっかりと準備をしておけ」
「了解」
「お前に言われるまでもねぇよ」
「む、見かけによらず器用なのね」
「俺が器用なんじゃなくてイグレア、お前が不器用なだけだ。何だ…勇者に選ばれた女は裁縫もろくにできないのか」
塔の最上階、勇者と魔王は共に生活をするようになっていた。
横長のソファに並んで座っている二人、イグレアは魔王の手元を覗き込み、その手の動きをみて時折感嘆の声をあげた。
魔王はそんなイグレアの視線を鬱陶しそうにしながらも突き放すことはせず、手元を黙々と動かす。
魔王が手に持っているのは編み棒だった。
「マフラーぐらい私だって本気を出せば!」
「できるか?…毛糸を取り出すだけで絡めていたお前が?」
「む、まさか私を侮辱するつもりか!なめるなよ!」
「虚勢を張るのはいいから…ほら」
出来上がったマフラーに仕上げを施して魔王はイグレアの首に掛けた。少し長かったか…と苦笑する。
薄い桃色のマフラーに溺れながらイグレアは驚く。
「これ…私にか?」
「この国は年中寒い…雪解けの時季の今でも肌寒いだろう?だから…な」
「あ、ありがとう」
「風邪でもひかれると面倒だからな」
まあ…と何かを思いついたのか魔王がくつくつ笑い出す。
「莫迦は風邪をひかないと言うが」
「ばっ…本当、台無しだ!この皮肉屋が!」
「うるせぇ、本当のことを言っただけだろ」
「あ」
口喧嘩が始まりそうだったが何かに気づいたイグレアが声をあげた。
「どうした?」
「最近な…たまに素が出るようになったな、お前。堅苦しい魔王の仮面が剥げて私も嬉しいぞ」
「…誰がだ、お前の勝手な思い込みだろうぜ」
「ほら、まただ」
「うぜぇ」
焦って弁解しようとすればするだけ素が出てしまい、イグレアにからかわれるの繰り返し。
魔王は困りきって頭をガシガシとかき乱した。
何とか話題を変えようと違うことを持ち出してみる。
「そういえば、一体お前は何時までここにいるつもりなんだ?」
「ん、私がいるのは迷惑か?」
「別に…ただ、お前も人間共の町に帰りたいだろうと思ってな」
「迷惑じゃないなら居座るぞ、お前からあんなことを聞かされた後だ…何も知らない顔をして帰れるか」
「迷惑だ」
「少しはオブラートに包め!」
はっきり言われて思わず突っ込んでしまう。すると魔王はクスクスと笑い立ち上がって怒鳴るイグレアを見上げた。
「嘘だ」
「なっ、お前は本当に私をからかうのが好きなのだな」
「何てったって俺は性悪魔族らしいからな」
すました顔でそんな風に自嘲しながら使っていた編み棒と毛糸をまとめると、魔王は片付けを終えた。
木箱の中に納めて大切そうに机の下にそれを置く。
「きっと皆もびっくりだな、魔王ともあろう者が編み物が趣味だなんて、知ったら天地がひっくり返るほど驚くぞ」
「別に趣味ってわけじゃねぇよ…それに、俺は別に人間と仲良くしようなんて願ってねぇ」
「お前は人間が嫌いなのか?」
「ああ、嫌いだ。生まれてこの方ずっと憎まれ続けてるんだ…これでまだ好きなんて言えるやつがいたらそいつは聖者か何かだ。いるのかね…生まれてからずっと疎まれて、それでも人が好きな奴なんて」
「いないなんて言えないけど、少なくとも私がお前の立場だったら無理だな。だから人を好きになれ…なんて言えないよ」
「…そういうことだ」
不快な話だったらしく魔王はそれっきりで話は終わりだ…と立ち上がると部屋を出て行こうとする。
イグレアもそれに気づいて腰を浮かした。
「どこに」
「少し出るだけだ…そんなに心配そうな顔すんな、人里にはおりねぇよ」
「そうか」
そんなに心配そうな顔をしていたのか?と顔を両手で押さえながらイグレアは再び椅子に腰を下ろした。
イグレアの行動を見て微笑んだ魔王は扉を触れることなく開かせると部屋を出て行った。
一人残されたイグレアは魔王の足音が消えたのを確認すると、椅子の下を覗き込んだ。
ここから新章だと思っていただけると分かりやすいと思います。