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ざわざわ  作者: 千里/快晴310
11/27

11・蒔いた種、執着の檻。

「ちょっ、止まれって!…止まれよ!」

 佐藤と別れた直後から何度も魔王に訴えかけているのだが一向に止まる気配を見せない魔王に痺れを切らし、千里は強く彼の背中を叩く


と腕に噛み付いた。

「いててて!」

 小さな体で出来る精一杯の抵抗に驚き、魔王の腕から力が抜けたのを見のがさずに体を捻り、着地する。

 駆け出そうと最初の一歩を踏み出したところを魔王に掴まれた。

 襟首を掴まれて呼吸が詰まる。

「離せ!」

「ちょっと待ってくれよ坊、お前を行かせたら俺が佐藤に説教くらうんだ!それにお前が行ったところでどうにもならねぇ」

「坊って呼ぶな、佐藤だけ残して行けるかよ!」

 尚も暴れて手を振り払おうとするが、魔術だけでなく腕力も千里をはるかに上回る魔王の力、振り払うことは到底叶わない。

「ちょっと待てって千里!お前も佐藤馬鹿力は知ってるはずだ。それに…お前が助けに戻っても何の助けにもならねぇよ」

「それはっ!」

 そうなのかもしれない。

 ただでさえ戦闘能力の低い千里だ。幼児化してしまった今では敵がたとえ女であろうとも太刀打ちできないだろう。

 腰に巻いたガンベルト、そこに固定された銃に手を滑らせる。

 銃も上手く使いこなせない。

 自分の無力さに歯噛みした。

「おら、とっととそのちっせぇ体を元に戻そうや。佐藤のことはそれからだ…いいな?」

 胸元から煙草を取り出して火をともしながら魔王が確認すると、千里は渋々頷いた。

 返事に満足した魔王は微笑んだ。


「ほおほお、これは珍しい…パンドラの呪ですか」

 怪しげな店に立ち入ると眼鏡をかけた老いた店主がおり、幼い千里の姿と魔王を見るや否や近付いて凝視した。

 体のあちらこちらを探られた末、店主は耳に覚えのない言葉を口にする。

「おー、名前が分かるってことは、この店は当たりみたいだな」

「パンドラ?」

「太古より女性とは災いを招くとされているものです。男は女がある故に惑わされ、女は嫉妬深い生き物でございましょう?」

 ひひひっと下卑た笑い声を上げると、店主は店にところ狭しと並べられた幾つかの薬を吟味するように見つめる。

「…俺にはこの爺さんの言ってる意味が分からないんだが」

「伝説だよ、パンドラの箱ってお前の世界では聞かなかったか?」

「あー…聞いたことぐらいは」

 記憶の端に僅かに引っかかったワード。

 曖昧に言葉を濁すと魔王はそれだ…と笑った。

「ま、箱の中身が何なのかは議論が分かれるところだから置いとくとして、神が初めて作り出した女がパンドラだといわれている。つまり女自体を災いだと表現しているわけだ」

「災いをもたらす薬ってことかよ」

「そういうわけだ、魔王の呪いらしいだろ?」

 何故か得意げに煙を吐き出す魔王を軽く殴っておく。

 丁度店主がお目当ての薬を見つけたらしく、声をあげると小さな小瓶に入った数枚の葉を取り出して魔王に手渡した。

「へぇ、珍しいもん持ってんな、爺さん」

「ひひひ、とあるルートで入手した絶滅した樹木の葉でございます。お高くつきますよ?」

「解呪の樹…未だにこんなもんが残ってる世界があるとはね。で、幾ら望むんだ?それなりには出せるぞ?」

「老いぼれに金など不要でございますよ。望むのは…そうですね、長いこと生きてきましたが貴方のようなお方は初めて見ます。ぜひとも調べさせて欲しいのですが」

 魔王を魔王だと見抜くことが出来たのか店主は怪しい笑みを浮かべる。

 図星をつかれているというのに魔王は少しも慌てることをしない。

「ホント、油断ならない爺さんだ。俺の体を差し出すわけにはいかねぇが、これで満足してくれや」

 勧善懲悪の世界で最後に彼が見せたように、魔王はあの時と同じように片手の上に黒い球体を出現させる。

 サイズはいくらか小さく、掌の上に乗る程度だ。

「運び主の卵…何故このような危険なものを!」

「そのサイズしか出せねぇんだ、勘弁な。だがまぁ、その程度の大きさなら孵化したとしても世界崩壊ってことにはならねぇはずだ……多分」

 多分という最後の言葉に、千里は一抹の不安を抱かずにはいられない。

 店主は予想外に価値のあるものをもらえて感激したようで、相変わらずの気味の悪い声で笑っている。

「運び主って何なんだ?」

 ずっと気になっていたことを千里は魔王に尋ねた。

「ん?あー、簡単に言えば終焉の運び主。終世魔術の一つ、魔王専用の世界滅亡呪文って言えば分かりやすいか」

「へぇ…って、そんなもの軽々しく渡していいのかよ」

「よくねぇな」

 ちっとも困っていない表情で軽く魔王は答えた。

 その答えに千里は唖然としてしまう。

「良くないって」

「正直、この世界がどうなろうと俺の知ったところじゃねぇしな、それにお前を治すためだ」

「だけど!」

「大丈夫だって、よっぽどのことがない限りは巨大化したりなんてしねぇ。それこそ膨大な魔力が注ぎ込まれるなんてことねぇとな」

 心配そうに黒い卵を見る千里の頭をぽんぽん叩き、魔王は受け取った葉を握り締める。

 拳を開いたとき、そこには燃え上がって黒い粉末と成り果てた姿があった。

「ほら、元に戻ったとき大衆の前で全裸ってのは嫌だろ?一回宿に戻るぞ…薬も手に入ったことだしな」

 促すように魔王の背中を押され、千里は幾度か黒い卵を心配そうに振り返りながら、薄暗い店を後にした。


 荒い息が薄暗い室内で蔓延する。

 鋏は床に座り込み、殴られた側頭部を労わるように撫でた。

 触れるだけで鈍痛が走って呻く。

 宿の中に残っているのは鋏だけだ。

 もう一人は先程抜け出した。鋏が油断している隙をついて突然背後から強襲。

 元々仲良し…と呼べる関係ではなかったが、それでも喧嘩するほど仲の良い関係ではあった。

 だからこそ背後から本気で殴られたとき、まったく反応ができずに意識を短い間だが飛ばしてしまった。

「参っちゃうな…僕が佐藤に叱られるだろ、紙袋」

 壁に手をついて立ち上がる。

 風に髪を揺らされて気づいた。部屋の窓が開け放たれている。

 そこから脱出したのだろう。

「追跡…すべきかな」

「帰ったぞ」

 扉が乱暴に開け放たれる。

 危うくドアにぶつかりそうになり鋏は身を引いた。

 戻ってきたのは望みの人物ではない。逃げ出した人間がわざわざ戻ってくるはずもないのだが。

「魔王…千里は?」

「ロビーで服薬中。俺は千里の為に一人にしてやったわけだが…って、どうしたんだ?」

 ようやく鋏の様子が尋常ではない事に気づく。

 頭に血が滲んでいた。そこを手で押さえている。

 鋏が答えを返す前にある程度察しがついたらしい魔王は眉を顰めて開け放たれた窓を見た。

「紙袋か」

「話が早くて助かるよ。まさか本気で僕を昏倒させるだなんて思っても見なかったから…油断してた」

「あの莫迦、どこに」

「多分…お兄さんのところだよ」

「兄?」

 きょとんとした様子の魔王を見て、この人は新参だったのだと思い当たる。

「僕と佐藤は一度この世界を訪れたことがあるんだ。そのときに紙袋と合流した…彼を佐藤が助けたんだ」

「へぇ…あの佐藤がね、随分仲が悪いから想像つかねぇな」

「仲が悪いのは佐藤が距離をとろうとするからだよ。紙袋の口の悪さは元々だしね。さて…と」

 フラフラとした足取りで窓枠に手をかける鋏を慌てて魔王が引きとめた。

「何してんだ!」

「佐藤から言われてるんだ…紙袋を軽々しく教皇に会わせれば大変なことになるよ」

「教皇?…あいつの兄はこの世界の王だってことか。面倒だな」

「どういうことだ?」

 凛とした声がした。

 二人が声のしたほうを見ると姿の戻った千里がいる。険しい目をして二人の会話を聞いていたらしく、誤魔化しようがない。

「あまり気持ちのいい話じゃないよ」

 千里が引かないと悟ったのか鋏はそう前置きすると、追いかけようとしていた足を室内に向け、ベッドに腰を下ろした。

「お、昔話か?」

「昔ていっても…そうだね、四年ぐらい前かな。僕達はこの世界を訪れた。目的のものは見つからなくて、すぐにこの世界を離れるつもりだったんだ。最初は」

「最初は…?」

「佐藤が妙に入れ込んだ人がいてね、僕をこの宿にお留守番させてほとんど毎日通いつめてたんだ」


「…なんだ、てめぇか。また来たのかよ」

 誰かが来たことを察した男が気だるそうに顔を上げるが、そこに立っていた黒髪の男を見て再びうなだれた。

 両手首を頭上で括られている。所謂拘束状態にある男だ。

 上には何も来ていない。曝された素肌には幾つか傷痕があった。

 拘束された男は黒髪を見上げた。

 瞳孔が十字に割れた瞳、それを見て黒髪、佐藤は眉を顰めた。

 面白そうに、そして辛そうに男は呟く。

「大概、てめぇも奇人だな。俺に飽きもせず会いに来て、俺の目を見ても無事だ。本当に…うぜぇぐらい大嫌いだ」

「…俺もお前に好かれようなどとは思っていない」

「だろーな。ふ…ひひっ、もう一人はどうしたよ?お仲間がいるんだろ?」

「お前と直接あわせるわけにはいかないだろう…何かに拍子にお前と目を合わせてしまえばそれまでだ」

「…辛いぜ、死神に好かれるってのもよ」

「何が死神だ…お前のことを好いている相手は神などという大層なものではない。聞くが、何故兄の言いなりになっている?」

「……」

 何も答えない男に代わって佐藤は彼の閉じ込められた部屋、そして佐藤が入ってきたことによって密室ではなくなった岩壁の部屋を見回した。

「薄暗い場所に半ば監禁され、兄の狂った寵愛を受けて尚お前は兄に従う。俺には理解できない」

「…だとしても、兄だ」

 搾り出すように口にした言葉は苦しさの垣間見えるもので、しかし男は心からそう思っているらしかった。

 衰弱した体、長い拘束で狂い出した精神。

 最早最初から持っていた彼の個性は失われ、狂った人格すら形成されはじめているというのに、それでも家族を主張した。

「何故そこまで執着する?」

「兄貴には俺しかいないだろ」

「お前だけ?」

「…そうか、お前この国の住人じゃねぇな。俺の兄を知ってるか?…俺を拘束している兄だが、世間一般じゃ教皇って呼ばれてる」

「…また随分と大層な名前だな。それで、何故教皇と?」

「俺達は双子の兄弟だ、兄は膨大な魔力を持って生まれ、まるで兄一人に全てを奪われたように俺には凡才すら残らなかった」

 なるほど、と佐藤は一人納得する。

 これで彼の兄から感じた魔力も、それに対して弟からまったく感じられない魔力も説明がつく。

「この世界は魔術を素として発展した世界のはずだ。魔術も使えないお前は、まさにイレギュラーであり失敗作だったというわけか」

「結構辛辣なこと言ってくれるね。事実だけどよ…兄貴は教皇って呼ばれるほどに強くて、地位も権力も手に入れた。だけどな…本当の兄貴を知らない奴は多い。兄貴を見ている大勢の連中も所詮眼中にあるのは兄貴の地位と力、それだけなんだ」

「…お前は違うと?」

「俺だけが兄貴を理解できる。俺にしか出来ない。俺しかいない。だから俺は逃げることなんて出来ないんだよ…俺が逃げることは許されないんだ。俺がいなくなることは罪だ、兄貴の心を殺すことになる」

「大儀なことだ、お前はそうやって何時まで縛られ続ける?兄の為?…俺はそんな善事を聞きにきたんじゃない。お前がどうしたいのか聞きたい…永遠に兄の物として過ごして、お前はそれを望んでいるのか?」

 一気に言葉を吐き出すと佐藤は一度息を吐き出し、声を荒げることなく尋ねた。一番聞きたかったことだ。

「お前に希望はないのか?」

「…希望、…希望ね。ふっ…ひひひ!はははは!てめぇ本当に似てるよ、千里にそっくりだ」

「千里…だと?」

 まさかこんなところで彼に名前を聞くとは思っていなかった佐藤は思わぬ収穫に目を細めた。

「まったく正反対なんだが…あいつが俺にしてくれたことと同じことを違う手段でやってやがる。俺に何かを説いて、俺を救おうとしてくれて…な。俺はあいつが大好きだったがてめぇは嫌いだ。だけどな、俺はもうその救いに乗っかる権利はねぇんだよ」

「お前…千里の何を知っている?」

「んだ?てめぇ、千里の知り合いか?」

「質問に答えろ、お前は千里の何を知っている!」

 初めて声を荒げて問い詰めるように佐藤が叫んだ。暗い部屋の中に声は予想外に響き、空気を震わせる声にもまったく動じずに男は俯いた。

 細められた異形の目は佐藤を見ようともしない。

「話は終わりだ…これ以上てめぇに話すことも話すつもりもねぇ。さっさとここから立ち去れよ」

「隠すようなことなのか」

「お前には関係ねぇな、俺はお前の誘いを受けるつもりもねぇ、これ以上てめぇのわけの分からない話に付き合う気もねぇ。早く消えろ」

「……」

 心を閉ざしてそれ以上話そうとしない男を見ると、佐藤は諦めたのかふっと姿を暗闇に眩ませた。

 瞬間移動のような光景を目にした男は苦笑する。

「とんだ化物だ…俺は変な奴に好かれるのが得意なのかね」

 変な奴。

 変だけど嫌いじゃなかった奴。

 千里。

 角の生えた人間の子、檻の端にある小さな窓から身を乗り出し、鉄格子越しに会話をしたこともあった。

 なつかしく、綺麗な思い出。回想していると足音が聞こえた。

 近付いてくる音は千里のものではなく、あるはずもない。

 檻が開かれた。佐藤のように移動能力を使わず檻の中に入れる人物は一人しかいない。

 男は憂鬱そうに顔を上げた。

「ウェドネ、利口にしてたみたいだな」

「…兄貴」

 男はウェドネ、そう呼ばれた。

 ウェドネの兄は名をシンと言った。世界の中に知らぬ者はおらず、彼の上に立てる魔術師もいない。

 実質的に彼が国の頂点に君臨していた。

 フードを頭から被っているため顔が見えない。

「立て」

 立てといわれても両腕を頭上で固定されているため動きづらい。やっとの思いでバランスをとりつつ体を起こすと、両腕を拘束していた鎖が弾けとんだ。シンの能力だろう。

「……」

 抵抗することは出来ないししようとも思わない。シンの歩く後を従順にウェドネはついて歩き、彼の生活をしている部屋へと向かった。

 部屋といっても広く、数部屋が彼の生活空間となっているようだった。

 流石にここまでは使用人も入ってこないらしい。

 私室の中でも鍵が厳重にかかっている奥の部屋へと連れて行かれる。

 その部屋に入ると冷たい空気と過去の記憶が蘇り、震えが走った。

 黒い壁、黒い天井、黒い床。全てが重く体に乗りかかってくるようだ。

 シンはこの部屋に来て初めてフードを下ろした。隠れていた素顔はウェドネとそっくりで、しかし双眸には凄惨さを見慣れたような冷たい目がある。

 十字に割れた瞳孔はウェドネだけのもので、シンは綺麗な円だ。

 ウェドネより少し短い銀髪、しかし身長は彼のほうが高い。

 シンは自分より小柄なウェドネを突き飛ばすと地面に伏せさせた。

「!」

 突然の事態に受身が取れず、部屋の真ん中にウェドネは転がる。

 痛みに顔を顰めてシンを見上げると、彼は暑苦しいのかフードを脱ぎ去っているところだった。

 首元の開いたインナーを着ている。

 シンの首筋には二つの赤黒い痕があり、そこから広がるようにして右胸の辺りまで赤黒い模様が広がっていた。

 魔術式に近いものなのだろうが、少しおぞましさを感じさせる。

「隣国を滅ぼした、アルビス王国だ。平和ボケした雑魚だったが、秘術の一つや二つは隠し持っていた」

「っ!…また」

「不満か?」

 優しい声音でシンは尋ねた。責めるような響きは一切ない。

「どうして、もう何国目だよ…これ以上領土を広げる意味も、戦争を続ける意味もあるのか?」

「どうして?…何を惚けたことを、お前のために決まっているだろう?」

「俺…?」

「優しいお前を神にする、それが私の望みだ。そのために何度も殺戮と奪取を繰り返した。全てはお前のためだ…ウェドネ、お前も分かってくれているだろう?」

「…!」

 微笑む。

 会話の凄惨な内容が嘘のように、彼は本当に柔らかく優しく微笑む。まるで心からウェドネを慈しんでいるような、そしてそれはきっと本心だ。

 だから今まではそこで言葉を呑んでしまっていた。

 しかし、佐藤の言葉が脳裏を過ぎる。

(希望…このままの状態が悪いってことぐらい、本当は俺にも分かってるんだ)

「もう」

「ん?」

 栄養失調で震える足、それを無理矢理立たせて祈るように、ぐしゃぐしゃな微笑みを浮かべてウェドネは兄を覗き込んだ。

「もう…止めよう、兄貴」

「……」

 初めて兄に意見をした瞬間だった。

 今までにない事態に緊張し、シンは驚いたように黙り込んでしまう。

「何故」

「え?」

「何故そんなことを言う?」

「…こんなことをしても無意味だって」

「私はいままでお前のためだけに生きてきた!お前のためだと割り切って望まぬ戦争にも出された!お前のためだと思って国の頂点に立たされ、権力に振り回されることにも耐えてきた!」

「あ、兄…」

 突然の激昂、まるで張り詰めていた水が決壊してしまったかのようで、崩れたものは元には決して戻らない。

 向けられる狂愛を感じてこそいたが、まさかここまでのものだとは知らなかった。ウェドネは驚いて何も反論できない。

 シンはウェドネを再び床に叩きつけると右手を振り上げて爪先から彼の心臓に突き立てた。

 手で突く…などという生温いものではなく、爪で貫くというほうが正しい。

「ぐっぁあああああああ!」

 心臓を貫かれるが命の心配など要らない。

 唯一の肉親は自分を殺すつもりなど毛頭ないのだから。

「全部、全部お前のためだ。私はお前に尽くした…お前もそうだろ?」

 返り血を浴びながら貫いた血肉に直接魔術式を組み込む。

 兄の行為を見たウェドネは痛みに耐えつつもこれ以上妙なものを体に組み込まれてはたまるか…と反抗しようとする。

 シンの手首を掴んで引き離そうとするが、彼の力は思っていたよりずっと強くて引き剥がすことができない。

「兄…っき!…シン!」

「お前が別の者を見ないようにその目を与えた。お前が私の前から消えないようにその心臓を与えた。ウェドネが狂ってしまえばいい」

「…ひっ…痛い、痛い!シン!」

「お前が…悪い。お前が悪いお前が悪いお前が悪いお前が…お前がお前がお前が、お前がお前がっお前がぁ!」


「浮かない顔してるね、君がそんな顔するなんて…千里の件ぐらいだ」

 民宿の一室、ベランダに出て魔術によって発展した町を見下ろしながら佐藤は風に吹かれていた。

 その隣に鋏が並ぶ。

「この世界に確かに千里はいた…だが気配を感じることはできない。つまり千里はすでにこの世界には存在していない」

「…ああ、それで気分が沈んでたの?」

「それは一部だ、確かに残念ではあるが今までがその積み重ねだった。別に今更とやかく言うような事柄ではない」

「じゃ、どしたの?なんでもないっていうのは嘘だって分かるからね。君が用もないのに一つの世界に留まるのは珍しいから」

「…少し気になることがあった」

 思い浮かぶのは失望に満ちた銀髪の青年。

 拘束されつつも兄を慕っている、しかしそれが心の底では間違いだと気づいている様子だった。

 違う世界の関係のない人物。

 だから放っておいても問題ないだろうし、放っておくべきなのかもしれない。異世界の自分達が異世界の事柄に手を出すというのも、なんとも無粋な話なのかもしれない。

 しかし…。

「僕も手伝おうか?そろそろ観光も飽きてきたところだし」

「それは…いや、頼む。鋏とあいつはほんの少し境遇が似ている気がする。あいつを支えてやることが出来るかもしれない」

「ふーん、君が他人の心配とは、珍しいこともあるんだね」

 居心地悪そうに佐藤は顔を背け、辛そうに眉を顰めた。

「そもそも…俺が撒いた種だ」

「え?」

「なんでもない、急ごう」


 いつも通りの裏道を抜け、ウェドネの閉じ込められている建物の裏にたどり着く。壁に背中を張り付かせるようにしてその場に駆け寄り、佐藤は中の様子を窺うために左掌を壁につけた。

 目を閉じて意識を内部へと集中させる。

「こんな場所に…」

 コンクリートで固められた小さな窓があるだけの建物。入口は厳重に鍵がされており、渡り廊下の続く場所はこの世界の頂点に立つ人物の住む場所、教皇の住む城ともいえる場所だ。

「箱入りってレベルじゃないみたいだね、これじゃ鳥篭だ」

「行き過ぎた愛情は狂気になりかねんということだ。中に移動する…だが、鋏、絶対に目を閉じておけ。俺の術でお前をあいつの目から護るが、こちらから見ていない場合のみその加護は働く。定めを破れば俺でも助けることはできない」

「肝に銘じとく」

 答えに満足した佐藤は鋏の肩を軽く押した。

 それだけで鋏の体は消え去って室内へと移動される。続けて自らも瞬時に牢の中へと移動すると、言いつけを守って鋏は手で目を覆っていた。

 前方を見据えると鎖に繋がれることなくうなだれている男の姿があった。

「おい」

 声をかける。だがいつもなら反論するように口を開くウェドネが何も言ってこない。

 状態がおかしいのは一目瞭然だった。

 顔が下がっているせいで表情が見えない。

 彼の体に目を走らせた佐藤は、新しく傷ができていることに気づいた。

 左胸から左肩にかけて、大きな傷痕ができている。まだ新しい。

「佐藤、様子がおかしい」

 視界を閉ざされている鋏にもそれが分かったらしい。佐藤は頷くと歩み寄って膝をつく。

 そっと彼の体にできた傷に触れるが抵抗してこない。

(…これは、術式を体内に組み込まれた?莫迦な、こいつの兄は改造でもしたいのか?)

「おい、何があった?…何をされた?」

「……」

 反応のないウェドネの両肩を掴んで揺さぶると、その衝撃で彼の顔が上がった。佐藤の方を虚ろな目で見てくる。

 十字の瞳が見ることを許されたのは自分と彼の兄だけなのだと、彼の瞳を見るたびに思って心が締め付けられるようだった。

「これは誰がやった?」

「…千里はさ、きっと天国にいけたよな」

「?」

 突然何の話を始めるのかと疑問に感じたが何も言わずに先を促す。

「俺は千里だけが支えで、死んだらあいつに会えると思って…それだけを希望に生きてきたんだ」

(やはり、この世界でも千里は)

 死んでいるということなのだろう。

 そしてなんらかの形でウェドネは千里に関わっていた。

「それも…消えた。俺はずっと、解放されることもない。永遠に兄貴の玩具で、もう…どうしたらいいのか分かんねぇよ」

「!…まさかお前」

 ウェドネの言葉から最悪の事態を予測した佐藤は彼の傷にもう一度指を這わせて確認し、自分の予測が当たっていたことに唇を噛んだ。

「不死…よくこんなものを人間に埋め込もうなどと…」

「俺の声は兄貴には届いてないんだよ!…兄貴は俺のこと思ってくれてるんじゃない、俺のためって言い訳して自分から逃げてるだけなんだよ!」

 胸の奥がどす黒い、絶望と後悔に塗りつぶされたのを自覚した。佐藤は眉を顰めてボロボロになった青年を見た。

 これが自分のやったことの結果だ。

(俺のせい…か?)

 自問自答するまでもなく、佐藤自身の責任だ。

 唇を切れるほど噛み締めて自分を責める。

 自己嫌悪に陥りすぎて、自分のことが憎くてしかなかった。

「…依存されてるのか」

 目を隠したまま鋏は慎重に数歩前に出て、そこで膝をつく。

 視界は制限されているため言葉でしか状況を把握することは出来ない。

 手を伸ばして鋏はウェドネの頭に触れる。

「成る程ね、佐藤。君が僕とその子に共通点を見出したことに納得がいったよ。立場が逆って…そう言いたかったんだ」

「すまない」

「謝るようなことじゃない、事実なんだから」

 手探りで鋏は手を突き出し、ウェドネの頭に手を乗せた。

 髪の感触を確かめるように、そこに人が存在することを確かめるように数回軽く叩くと、微笑む。

「佐藤、彼…僕達の旅に同行させたらどうかな?」

「旅に?」

 考えていない選択肢だったらしく、佐藤はきょとんとして目を見開く。

 何よりそれをすることによる佐藤の意図がつかめなかった。

「君、この子のこと気にかかるんでしょ?」

「…別に…」

 素直には認めたくないのか照れたように佐藤はそっぽを向く。

「人は簡単には変わらないよ。ましてや長い年月をかけて培われた価値観が君の介入なんかで変わるわけがない。彼のお兄さんを変えることがどれだけ難しいのか…僕には分かっているつもりだ。でも彼をこれ以上お兄さんと一緒にいさせることは得策じゃない。そして彼のお兄さんはこの世界を統べる者といっても過言じゃないだろうし…この世界に逃げ場はない」

「つまり、異世界に連れ出せと?」

「うん、勿論彼の意見を尊重すべきだから一概にもいえないけどね。それに…千里にも会えるかもしれない」

「千里?」

 興味薄そうに鋏の提案を聞いていたウェドネが、そのワードが出た瞬間に顔を跳ね上げて期待の目で二人を見る。

「千里に…会えんのか?だってあいつは…死んで」

「異世界の存在は知っていても鬼のことは知らない…というわけか。異世界のほうはどうせ兄にでも聞いたのだろう?あの化物が世界移動の手段を知らないとは思えない。完全に逃げ切れるわけではないぞ?」

 それでもいいのか?と佐藤は視線をウェドネに投げかけた。

「俺は、俺は!千里に会えるならどうなってもいい!」

「…それが兄を裏切ることになったとしてもか?」

「それは」

 佐藤の誘いを断るほどにウェドネにとってシンの存在は大きかった。

 どれだけの苦痛を受けようとも、どれだけ手ひどく扱われようとも彼にとって兄は唯一の肉親であり、家族だ。

 頼られていることが苦痛ではなかった…といえば嘘になるが、長い間誰との接触も許されなかったウェドネにとっては兄との繋がりだけが全てだ。

「兄貴のことは忘れることなんてできない。けど今のままじゃいけないってことぐれぇ俺にも分かってる」

「だから俺達についてくると?」

「俺は千里に会いてぇんだよ!」

「…それから?」

「は?」

「お前はそれから何をする?千里と会って、それで満足か?俺はそんな勝手な理屈のためにお荷物を背負うつもりは…むっ」

 次々ときつい言葉をかける佐藤の口を鋏が背後から抑える。

「君も似たようなもんでしょ、人のこと言えないよ。僕は良いと思うよ…そんな単純で些細な願い事でも叶わない人がいるから」

「…」

 険しい表情のまま佐藤は静かに鋏の手をとって外すと、ふぅっと溜息をついてから髪をガシガシとかき乱した。

「不死身のお荷物なら盾に使えるかもな」

「素直じゃないなぁ…ま、要約するとついてきていいってこと。よろしくね…えーと」

「ウェドネだ…よろしくな」


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