第79話 番人の重し
崩壊まで、残り三日。
会議が割れてから、二日が経った。
局は、沈黙した。差し戻しも、召喚も、何も来なかった。カルロスの登庁が止められたという噂だけが、市場経由で届いた。罪名はまだ付いていない。付けようとすれば下書きの束が卓に載る。向こうも置き所を決めかねているのだと、ユリウスは読んだ。カーレルは短く「家は、動いております」とだけ言った。北の取り戻す側が、選んだ縁者を見捨てるつもりはないらしい。布の人の姿は、あの朝から通りに見えない。レンたちはその二日を、名簿の清書と、下書きの番号から引ける正本の一覧作りに使った。動けない日は、次に動く日の荷を拵える日だ。ヤールの筆と、ユリウスの検算が、夜まで鳴った。
三日目の朝、宿に一通の紙が届いた。
様式が、なかった。宛名と、一行と、名前だけ。
お一人で、お越しいただきたい。マゼル。
様式の男が、様式の外で書いた最初の紙だった。ユリウスが眉を寄せ、ニスが同行を申し出た。レンは、首を振った。
「一人で、来いと書いてあります。……この人の紙に、余計な意味はありません。一人で行きます」
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書記課の机は、今日も紙の角が揃っていた。
ただ、筆が二本しかなかった。一本は、使いかけのまま置かれていた。この男の机で、使いかけのものを初めて見た。
「お呼び立てしました」
マゼルは、立たなかった。座ったまま、机の上の文鎮を、少しだけ脇へ動かした。
「あなたが、綴りを一冊、作っていると聞きました。消えた人の、名簿だと。……見せていただくことは、できますか」
レンは、懐から綴りを出した。渡す時、何も言い添えなかった。責める言葉を足せば、この綴りは告発の紙になる。足さなければ、ただの名簿でいられる。名簿のままで、読ませたかった。
マゼルは、読んだ。
頁を繰る前に、指先で紙の角を揃えた。癖なのだろう。揃えてから、読み始めた。読みながら、その指が二度、欄外の空白で止まった。名前を書く欄が空のままの行で、止まった。
遅かった。一頁に、長くかかった。トビの、父。名は不明。北東街道で失踪。読み終えて、次を繰るまでに、また間があった。厩を出された者たち。出された後の日付で押され続けた、覚えなき印の名前。トムル・ヴァストロ。書記課上席。王都南西で死去。葬られた場所、なし。関所から移送された少年、ハル。移送先の記録、追跡不能。
一文一義の男の、読む速度が、頁ごとに落ちていった。
読み終えて、マゼルは綴りを閉じ、両手でレンの方へ戻した。
「この名簿の人たちは」
レンは、受け取りながら、事実だけを置いた。
「あなたの帳簿の、どこにもいません。どの様式にも、載っていません。……そして、明日も数えれば、名前は増えます。俺は、次の名前を足したくありません」
説得はしなかった。数字も、正義も、持ち出さなかった。この男に効くのは声の大きさではないと、三度の机で分かっていた。
マゼルは、長いこと黙っていた。それから、口を開いた。いつもの、一文一義だった。ただ、文の継ぎ目が、いつもより遅かった。
「私は、正しく守ってまいりました。規則を守れば、帳簿が守られます。帳簿が守られれば、配りが守られます。配りが守られれば、人は飢えません。……そう、積んでまいりました」
一拍。
「飢えた年、配りの列で、人が死にました。帳簿が乱れたせいだと、私は教わりました。乱れを防げば、人は死なない。……そう信じるほうが、楽でした。乱れていない帳簿の下で人が消えていることを、数えずに済みますから」
マゼルは、閉じられた名簿を見た。
「私は、守ってきた帳簿の数を言えます。九千と、いくつか。……守れなかった人の数を、言えません。数えたことが、ありませんでした。正しく守って、正しく数えて、その数え落としだけが、正しくなかった」
この男を言い当てる言葉は、いくつもあった。この男は、どれも使わなかった。使わないまま、その言葉たちの立つ場所に、自分の足で立った。
マゼルは、立ち上がった。机の抽斗から、古い鍵をひとつ取り出した。輪に、札が付いていない。
「引き継ぎの目録に、載っていない鍵です。書記課長の職位に、代々黙って付いてくる。……帳簿の外の鍵が、帳簿を守る職位に付いている。その意味を、考えないことにして、私も長かった」
♦
補給局の倉庫群は、局舎の裏に、五棟並んでいた。
マゼルは、一番奥の棟へ歩いた。途中の棟の前で、荷役たちが手を止めて頭を下げた。書記課長が倉庫群を自分の足で歩くところを、初めて見る顔だった。マゼルは会釈を返し、歩幅を変えなかった。
一番奥。検分の様式が三通り撥ねられた、あの書記課預かりの倉だ。入れないことが答えだった場所に、番人は自分の鍵で入った。ここへ入れる者が誰なのか、答えが今、隣を歩いていた。
倉の奥に、さらに扉があった。未整理区画、と札にあった。
鍵が、回った。
埃が、燈の光の中で舞った。棚と、俵と、木箱。種籾の俵には、十年前の年号の札が付いたままだった。飼葉は縄が朽ちて崩れ、反物は畳み目のまま色が抜けていた。ドランの倉の空きが、ロズの家の紙の山が、北の谷の保管庫が、この王都の心臓部にも、小さく写し取られていた。帳簿の外に置かれたものたちの、いちばん古い置き場。
「この区画の品目を、私は諳んじています」
マゼルが、棚の間を歩きながら言った。
「種籾が四十二俵。飼葉が百十束。反物が六十反。薬瓶が、箱で九つ。……毎年の引き継ぎで、目録だけは読みます。読んで、写して、次の年へ回す。触れたことは、一度もありませんでした。目録の中の品は、目録の中で完結していましたので」
諳んじられるほど正確に数えられて、一度も触れられない荷。ここにあるのは、数えることの、いちばん暗い使い方だった。数えるとは届かせるための手順だと、レンは倉庫番の頃から信じてきた。同じ手順が、閉じ込めるためにも使える。番人と補給官は、同じ道具を逆向きに持って、この十日余りを向き合ってきたのだ。
その最奥に、台があった。
布に包まれた、両の手のひらに載るほどのものが、台の上に置かれていた。マゼルは布を解かなかった。解かないまま、一歩下がった。
「銀の鈴です。百年、ここに」
鳴らなかった。布の下で、鈴は音を持たないまま、埃の中に在った。百年の「調査継続中」の、現物だった。関所の夜に聞いた、神殿の当主の声を思い出した。鈴の音は、対話で取り戻したときにだけ、戻るのです。
「重しを下ろす役目も、この職位の一部だったのかもしれません」
マゼルは、鍵を掛け直しながら言った。誰への言い訳でもない、職務の定義を読み上げる声だった。
「ただ、都市補給官代理殿。鍵は、回せます。ですが荷は、帳簿の外を歩けません。この鈴を北へ返すには、返すという手続きが要る。手続きの起点は、あなたの証文です。証文が局長印を得て通らない限り、鈴は一歩も、ここから動けません」
「分かっています。……宛先は、最初から一つです」
倉を出ると、冬の陽が傾いていた。マゼルは、局舎を見上げて、それから言った。
「この倉の鍵が回れば、報せる者がいます。十年、そうやって回ってきた倉です。……局長は、今日の音に気づきます。お急ぎください」
崩壊まで、残り三日。
鍵は回った。だが、荷はまだ一つも動いていない。




