からくり競艇人物外伝第7話:平野菜奈編
『魂なき王への献身』
――平野菜奈と一貴、その邂逅と誓い
「……おかしな人がおる。マブイが微塵も感じられんのに、なんであの人のからくりはあんなに滑らかに回るん?」
香川から山口にやってきたばかりの若きレーサー・平野(旧姓:大谷)菜奈は、練習場の水面を見て戦慄していた。
そこにいたのは、平野一貴。
彼の機体からは、レーサーなら誰でも放っているはずの「マブイの残光」が一切出ていない。それなのに、彼は風を読み、水の抵抗を最小限に抑える「究極の静止」のような旋回を見せていた。
「平野さん、あんたの機体、壊れとるよ。マブイが空っぽやんか。なんで動くん?」
整備ピットに戻ってきた一貴に、菜奈は思わず讃岐弁で詰め寄った。
一貴は無愛想にハンドルを置き、一言だけ返した。
「……マブイなんかに頼るから、本当の『音』が聞こえなくなるんだ。俺は、機械と対話してるだけだ」
その日から、菜奈の挑戦が始まった。
「マブイ0」の男が、G1の化け物たちと渡り合うための「究極の器」を作ること。
彼女は自分の外付けマブイ30,000を、機体の駆動系ではなく「一貴の感覚を補助する神経網」として組み込むという、前代未聞の整備を思いつく。
「一貴さん、うちが、あんたのマブイになってあげる。あんたはただ、前だけ見とって」
やがて二人の絆は、ピットの中だけでなく、人生の伴侶としての誓いへと変わっていった。
一貴が瓜生(後の天才)の師匠となるほどの名レーサーになった裏には、常に「彼のマブイそのもの」として機体を磨き続ける菜奈の存在があったのだ。
山口支部の若手として頭角を現していた菜奈が、初めて一貴をデートに誘ったのは、下関の海響館だった。
しかし、そのデートはあまりにも異質だった。
「一貴さん、お魚ぶち綺麗やね! 見て、あのペンギン!」
「……菜奈、あそこのポンプの循環音、少しズレてるな。ベアリングが摩耗してる」
「な、何言いよん。デート中に機械の心配せんといて!」
一貴は「マブイ0」という性質上、他人の感情の機微をマブイで察することができない。その代わり、彼は世界の「音」と「振動」に異常なまでに敏感だった。
菜奈は最初は呆れていたが、ふと気づく。彼は、魚の美しさではなく、その魚たちが泳ぐ「環境」を維持する機械の鼓動を、誰よりも真剣に見守っているのだ。
「……あんた、ほんまに不器用やな。でも、そういう『嘘のない耳』を持っとるところ、嫌いじゃないきん」
菜奈は一貴の袖を掴み、山口の風に吹かれながら、少しだけ距離を縮めた。
数年後、一貴はG1常連となり、菜奈は自身もレースに出ながら彼専用のメカニックとして不動の地位を築いていた。
ある日の夜、練習を終えた誰もいないピット。菜奈は一貴の愛機の最終調整をしていた。
「できた。これで明日の優勝戦、絶対勝てるきん」
菜奈が満足げに工具を置いた時、一貴が背後から声をかけた。
「菜奈。俺の機体は、マブイがない。……だが、お前が組んでくれる時だけ、この鉄の塊が『生きてる』音がするんだ」
一貴は菜奈の前に立ち、無骨な手を差し出した。
「俺は一生、マブイを持てないだろう。……だから、俺の魂の代わりになってくれないか。死ぬまで、俺の隣で音を聴いていてほしい」
それは、マブイ0の男が絞り出した、最大級の愛の告白だった。
菜奈の瞳に涙が溜まる。彼女は一貴の胸に飛び込み、彼の心臓の音を確かめるように強く抱きしめた。
「……当たり前やん。あんたが最高のレーサーになれるのは、うちが世界一の器を準備しとるからやきんね! 責任取ってよ!」
山口支部の神社で行われた結婚式には、競艇界の猛者たちが集結した。
式が終わると、披露宴の代わりに下関競艇場の水面で「祝賀パレード」が行われることになった。
「ひゃっはー! 祝砲だ、ドカンと行くぜぇ!」
西野貴志が「爆炎」を空高く打ち上げ、花火代わりにする。
「おめでとう、一貴。……でも、レースでは容赦しないよ」
大峰幸太郎が黄金の「日」の光を放ち、水面を輝かせる。
主役の二人は、菜奈が紅白のデコレーションを施した「特製タンデムからくり艇」に乗っていた。
「見て、一貴さん! みんなぶち暴れとるよ!」
「……あぁ、騒がしいな。だが、悪くない音だ」
一貴は菜奈の腰をしっかりと抱き、騒音と歓声に包まれた水面を、一滴の無駄もない航跡で駆け抜けた




