3.現実
二週間ぶりに戻った町は、いつもと同じ顔をしていた。
横断歩道で止まる車はないし、コンビニの前で中学生がたむろってる。通りをけたたましく叫びながら救急車が駆け抜けて、角にある病院に入って行った。
『雨宮記念病院』と書かれた看板を過ぎてから、病院の裏手に入る。『雨宮』の表札を通り過ぎて玄関扉を開け、雨宮湊は小さく言った。
「ただいま……」
広い廊下の奥から足音がした。スリッパの音がパタパタと近付いて、見慣れた顔が彼を迎えた。
「おかえりなさい、湊さん」
母という立場にあるその人は、二週間ぶりの再会を喜ぶでもなく、事務的に彼に伝えた。
「お父様が、書斎でお待ちです」
小さく扉を叩いて書斎に入る。
奥のデスクには、白衣を着た父が座っていた。
彼はメガネ越しの視線を息子に投げて、すぐさま手元の書類に目を戻した。
「異世界に行っていたようだな」
「…………」
「返事は?」
「……はい」
父は書類をめくっていく。
「呼ばれたのか?」
「はい」
「望んだのではないか?」
冷たいものが、湊の肚に沸き起こる。
返事をできないでいると、父は続けた。
「ライトノベルなどというくだらないものを読んでいるから、異世界などに呼ばれるのだ」
「…………」
「部屋の本は全部捨てた。自分の立場を理解しろ、湊」
――理解しているさ。
名門医者一族に生まれた、落ちこぼれだと。
「親戚じゅうで、現役合格できなかった者など誰もいない。うちには余裕があるから、一年も遊ばせて、予備校に通わせてやるんだ。ありがたいと思え。だが……」
父はメガネの隙間から、上目遣いに湊を見た。
「次に不合格なら、異世界でもどこでも、好きなところへ行け」
そう言うと、父はスマホを操作する。
「予備校の時間だろう。二週間分の遅れを取り戻すんだ。今からでは、自転車では間に合わない。タクシーを呼ぶから、すぐに準備しろ」
これ以上、雨宮の家門に傷を付けるな――父はそう言い、書類に目を戻した。
湊は小さく頷いてから、深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」
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二階の自室へ向かう。
すると、兄がちょうど隣の部屋から出てきたところだった。
救急医の兄はいつも眠そうな顔をしている。今日も寝癖だらけの頭で、スマホを手に、早足に廊下をやって来た。
兄は、道を開ける湊の前を通り抜けざま、彼に言った。
「いいよな、好きなだけ眠れて」
自室に入る。
空っぽの本棚が目に入ったけど、何も感じなかった。
疲れ果てた体をベッドに横たえることもなく、予備校のカバンを手に取ると、湊はすぐさま玄関に向かった。
駅前の予備校の前でタクシーを降りる。友人たちと笑い合いながら予備校に吸い込まれていく集団に混じって教室に向かうが、喉の奥が焼けるように酸っぱくなって、湊はトイレに駆け込んだ。
腹の中身を全部出して、彼は呟いた。
「無理だよ……」
連れ戻されたって、この世界で生きていくのは、俺には無理なんだ。
分かってる。否定され続けて育った貧弱な自尊心を、少し持ち上げられて調子に乗った。
勘違いだとしても、勘違いしている間は、勇者であり、二人の恋人だった。
それの何がいけないのか。
現実で得られない夢を、異世界で見たっていいじゃないか。
フラフラとトイレを出る。教室からは講師の声が聞こえていて、とても入れる状態じゃない。
おぼつかない足取りで予備校を出る。けれど、家に帰ることもできない。どこかで時間を潰そう。
湊は辺りを見渡し、目の前にあるファミレスに入った。
夜九時を過ぎているというのに、店内は満席だった。
けれど、他の店を探す元気もない。仕方なく、名前を書いて待とうとした時、客席にある顔と目が合った。
「あ――」
弓弦葉琴海だ。
手招きされて、迷いつつも向かいの席に座った。
「どしたの、雨宮クン」
彼女はカップに水を注いで彼の前に置いた。
「顔色悪くない?」
「え、えぇ、まぁ……」
放っておいてくれ――と思いながら、でも口の不味さを洗い流したくて、湊は水を口に流し込んだ。
彼女の前には、皿がいくつも並んでいた。セットメニューに大皿サラダと唐揚げの山とピッチャーのビール……とても一人で食べる量じゃない。
「あの、誰か来るんじゃ」
湊が聞くと、弓弦葉は目を細めた。
「女が一人で飯食っちゃ悪いか?」
「別に、そうは言ってないですけど……」
弓弦葉は豪快に、ピッチャーに口を付ける。
「体使う仕事だから、食わなきゃやってられねえの」
「はぁ……」
ピッチャーを半分ほど空にしてから、弓弦葉は注文用タブレットを湊の前に置いた。
「ここで会ったのも何かの縁だ。奢ってやる。好きなモンを注文しろ」
吐いたばかりで食欲などなかったけど、断れる雰囲気でもないから、湊は和風パスタを頼んだ。それを見て、弓弦葉はタブレットを奪い取った。
「男がパスタはねえだろ。肉を食え、肉を」
と、彼女はローストビーフ丼を追加する。
食えないのに……と、勝手に進めていく彼女に苛立って、湊はボソッと言った。
「そういうの、コンプライアンス的にまずいんじゃないですか?」
「あ?」
既にアルコールが効いているようで、彼女は上気した顔をしかめた。
「二言目にはコンプラコンプラって、うっせえんだよ」
「公務員でしょ? 口を慎んだ方が……」
「そうだよ。市民の皆様から納めていただいた税金で食ってるよ」
彼女はそう言って再びピッチャーを呷った。
「税金で飲む酒は美味いぞぉ?」
――変わった人だ。
半ば呆れて湊は彼女の飲みっぷりを眺めた。
でも、羨ましかった――何の枠にも納まっていない自由さが。
「まあね、うちの部署、はぐれ者の掃き溜めだから」
弓弦葉は唐揚げを口に放り込む。
「私も左遷された身」
「え……何やったんですか?」
「モンスタークレーマーを泣くまで詰めた」
弓弦葉なら納得できる……湊は思った。
「じゃ、他の人も?」
「そう。小鳥遊のおっさんは、市街地で熊を撃って逮捕された」
「…………」
「野辺は、資格もないのに動物園に応募して流されてきた」
「あの、鬼窪さんも?」
「鬼窪ちゃんは特別。超優秀な事務パート」
「事務パート……」
配膳ロボットが和風パスタとローストビーフ丼を運んできた。
フォークを手に取りパスタを巻く。小さく口に入れ、そこで湊は手を止めた。
――ファミレスのパスタって、こんなに美味しいのか。
考えてみれば、ファミレスで食事をしたのは初めてかもしれない。
いつもは、母の自然派無添加の手料理で、味が薄い。外食をする時は父の誕生日と法事くらい。高級フレンチや懐石料理で、マナーにうるさい父の目を気にしながら食べる料理を、一度も美味しいと思ったことはなかった。
弓弦葉はサラダを頬張りながら、チラリと窓の外に目を向ける。授業中の予備校の窓が並ぶ景色から目を戻し、彼女は湊をじっと見つめた。
「一応、失踪人の身元は、住民票に至るまで調べるんだ。だから、君の家庭環境も知ってる……これは一般論で、君がそれに当てはまるかは知らない。けど、これまでに救出した異世界失踪人の多くが、同じような感じでね。間違ってたら悪いけど……」
彼女は言った。
「――もしかして、辛い?」
湊は、涙があふれ出すのを止められなかった。




