プロローグ【後編】:孤高の騎士
法廷は、風がステンドグラスを叩く音さえ聞こえるほど静まり返っていた。
アリリーンの言葉が、まだ耳の奥でこだましている。
「……もう、何を信じていいのか分からないの」
胸の奥で、何かがゆっくりと崩れ落ちていく音がした。
かつて燃えていた怒りは消え、代わりに空虚で重たい沈黙だけがそこにある。
――決して自分を疑わないと信じていた唯一の人間が、視線を落とし、目を合わせようとしない。
「アイリーン……」
必死に声を落ち着けようとするが、震えが滲む。
「こっちを見てくれ」
彼女は動かない。
「見てくれ!」
今度は声を荒げて叫ぶ。必死だ。
「君は知っているだろう? 俺がどんな人間か、何のために剣を振るってきたのか。――王冠を裏切るような真似、するわけがないって!」
唇が震えたが、言葉は出ない。
やがてゆっくりと顔を上げた彼女の瞳には、憎しみでも嫌悪でもない、もっと残酷なものが宿っていた。
――疑念。
「信じたいのよ……信じてる。でも……これは偽造じゃないの、カーディム」
彼女の声は、涙を堪えるようにかすれていた。
「印章はあなたのもの。筆遣いも、いつもの報告書と同じ。日付だって、あなたが東方境界に駐留していた時期と一致しているの」
ざわり、と法廷が揺れた。
貴族たち、将軍たち、廷臣たち――誰もが醜い鳥の群れのように、スキャンダルという死肉に群がっている。
王が玉座から立ち上がる。黄金の外套が階段を流れ落ち、まるで光の川のようだった。
その眼差しは怒りではなく、冷たく、決意に満ちている。
「カーディム・バログン」
ヴァルドレリア王国の国王の声が高い天井に反響する。
「そなたは王国に対する大逆罪で告発されている。――無実を証明できる証拠はあるか?」
歯を食いしばる。
「物証は……ありません。しかし理屈があります。名誉を、命を、こんなことで汚すはずがない。陛下もご存じでしょう。私はこの王国のために血を流しました。王女殿下の命を守ると誓い――実際、刺客が襲った時、私は命懸けで殿下をお救いしたではありませんか!」
王の瞳が細くなる。
「その功績には感謝している」
「ならば、なぜです!?」
声が割れる。
「なぜ、そんなにも簡単に私の裏切りを信じるのですか!? 文書を調べてください! 封蝋を鑑定して! 記録官や書記官に――」
「もうよい」
王の声が、鉄槌のように俺の叫びを叩き潰す。
「証拠はすべてここにある。名も、印章も、言葉も。――我らは、空虚な嘆願に惑わされる愚か者ではない」
「偽造だ! 違うんだ!」
声が掠れるほど叫ぶ。
「誰かが俺を陥れようとしている! 見えないのか!? 罠なんだ!」
「……黙れ」
その一言が、胸の奥深くまで突き刺さる。
――この時、どんな言葉を重ねても無駄だと悟った。
王はゆっくりと貴族たちへ向き直る。
「判決は明白だ。王国裁判所は、カーディム・バログン卿を反逆罪で有罪とする」
雷に打たれたように足元が崩れる。
「……有罪、だと?」
場内がどよめく。歓喜する者、面白がる者、そして、誰一人として驚く者はいなかった。
王の声は重く響く。
「法に従えば、その罪は死に値する」
空気が凍りつく。
本当に終わりだと――今度こそ首が刎ねられると、頭のどこかで理解する。
だが次の言葉は、慈悲ではなく、侮蔑に満ちていた。
「――しかし」
王が一歩近づく。
「かつてそなたが王女エレノーラの命を救った事実は消えぬ。その功績は、今の罪を免罪するものではないが……命だけは、奪わぬとしよう」
「うぅ...」
膝が崩れそうになる。
..................
沈黙の後、王はさらに言葉を重ねる。まるで、屈辱そのものを味わわせるかのように。
「覚えておろう、カーディム。あの時、そなたに与えようとした褒美を。名誉職だけでなく、領地と地位――この国の貴族としての地位まで用意していた」
その記憶が胸を刺す。
あの日、王の笑顔。王印の押された羊皮紙。そして、それを前に膝をつき、俺はこう言った。
『異国の血を引く者が土着の民を治めれば、憎しみを生む。私は剣でこそ役に立てる』
あの選択が、正義だと信じていた。
今となっては――最も愚かな選択だった。
「だが、そなたは断った」
王の声には、軽蔑が滲む。
「民の憎しみを恐れたのだな? その通りだ。見よ。民は、いかに容易くそなたに牙を剥くか」
貴族席から嘲笑が起こる。鋭く、冷たく、残酷な笑い。
「紙の男爵だ」「異国の騎士が領主の真似事を」と誰かが嗤う。
拳を握り締め、骨が軋んだ。
「ゆえに――」
王の声は、裁きの鐘のようだった。
「そなたの騎士号を剥奪し、王国騎士団から追放する。二度と王国の名の下に剣を振るうことは許されぬ。これより先、この王宮の敷居を跨ぐことも禁ずる。……破れば、その場で斬首だ」
法廷がざわめく。もう声は届かない。
――騎士号剥奪。
その言葉だけが、何度も何度も頭の中で反響する。
名誉も、誇りも、生きる理由も――一瞬で消え去った。
「陛下……お願いです」
声はもはや囁きのようだった。
「せめて調査を。真犯人を突き止めます。無実を証明してみせます」
王は背を向けた。
「これ以上聞くことはない」
「お願いだ!」
前に踏み出し、叫ぶ。
「こんな仕打ちは――!」
兵士たちが腕を掴み、後ろへと押し戻す。
「放せ! 話を聞いてくれ!」
「大人しくしろー!」
「陛下がわざわざお前の命をお救いになったのだぞ!感謝だけして退出しなければ今度こそ死罪だぞ!」
「もういい!力づくでこいつを連れ出せ」
「はなせ――――――!!」
叫びは虚空に吸い込まれるだけだった。
評議会の面々は立ち上がり、貴族たちは席を立ちながら、誰が俺の地位を奪うかを話し合っている。
「アイリーン!」
喉が裂けそうな声で叫ぶ。
「何か言ってくれ! 俺は――!」
だが、アイリーンはもう俺を見ていなかった。
その瞳は遠くを彷徨い、忠義と信念の狭間で揺れている。
「ごめんなさい……」
一歩、後ずさりしながら彼女は囁いた。
「もう、分からないの」
世界が崩れ落ちる音がした。
巨大な扉へと、兵士たちが俺を引きずっていく。
靴が大理石を擦るたびに、葬送の鐘のような音が響いた。
「証明させてくれ!」
叫ぶ。
「頼む!この王国のためにすべてを捧げたんだ!すべてを!」
返事はない。
振り返れば、玉座の王が冷ややかな表情で座り、金の冠はステンドグラスの光を反射して輝いている。
そして――!アイリーンはもう背を向けた!
王宮の廊下が滲む。頭は回り、心臓は檻の中の獣のように暴れる。
裏切り者、有罪、剥奪――その言葉が延々と繰り返され、夢か現実かも分からなくなる。
「歩け」
兵士の声が冷たく響く。
壮麗な大階段を降り、かつて誓いを立てた中庭を通り、初代王の理想を刻んだ像の前を過ぎ、共に血を流した仲間たちが視線を逸らす訓練場を抜ける。
一歩ごとに、記憶が胸を抉る。
「動け」
兵士が脚を蹴る。
前につんのめり、倒れそうになる。
そして、あの巨大な鉄の門――かつて誇り高く行進して通ったその門が、今は沈黙の中で開かれる。
「ここまでだ」
兵士が突き飛ばす。地面に倒れ込み、手のひらに砂利が食い込む。
「二度と姿を見せるな、反逆者」
もう一人が吐き捨てる。
「次は命はないと思え」
門が音を立てて閉ざされる。
長い時間、俺はそこに伏せたままだった。
背中に太陽が焼きつくが、動けない。声も出ない。ただ、奪われた人生との境界線を見つめ続ける。
――叫びたい。
――空を引き裂きたい。
――天が聞き入れるまで、正義を訴えたい。
だが、唇から漏れたのはただ一言。
「……俺じゃない」
風が、その言葉を攫っていった。
数時間後、街は噂でざわめいていた。
「聞いたか? 黒騎士が国王様を裏切ったんだって!」
「最初から自惚れ屋だと思ってたんだよ」
「だから言ったろ?異国の血を持ってる者は信用できん!」
俺は幽霊のようにその中を歩いた。
鎧も紋章もない。名誉を剥ぎ取られたただの男として。
噴水の前で足を止める。
かつて初陣を終えた仲間たちと笑い合った場所だ。
水は今も澄み、輝いている。だが、水面に映る顔は、もはや見知らぬ他人だった。
――騎士になると誓った少年は、今日、玉座の間で死んだ。
残されたのは、俺だけだ。
沈みゆく太陽が都を赤く染める...
丘の上の宮殿を最後に一度だけ見上げる......
黄金の尖塔は、薄明の空の下で夢のように輝いていた――決して手の届かぬ夢として............
「...証明してみせる」
風に向かって呟く。
「...地獄の底から這い上がってでも、俺が裏切っていないと、いつか、絶対に証明してみせるんだ!」
――だが、胸の奥で冷たい声が囁いた。
誰も信じはしない。
王も。
廷臣も。
アイリーンでさえも......
俺は宮殿に背を向け、夜の街へと消えていった。
――ただ一振りの剣と、失われぬ名と、そして燃え尽きぬ炎だけを胸に抱えて......




