9:私を愛してくれる人
ユリウス様は入ってくるなり、ドレス姿の私を見て満面の笑みを浮かべた。
「エリーシャ、よく似合っているよ! 君に似合うようにデザイナーに色々と頼んだんだけど、想定以上かもしれないね」
「ユリウス様、ありがとうございますわ!」
「よければもっとドレスをプレゼントしたいな。他にも、君が喜ぶものを」
「あ、あの……ユリウス様はそんなにもわたくしに優しくしてくださるのかしら? 婚約者とはいえ、親が決めた相手でございましょう。しかも、わたくしの噂はご存知でしょう? 口調だってこんな風ですのに」
あまりにも大切にされるけれど、その理由がわからない。
「そうだな……まず、君の噂については知っている。でも僕がこの目で見て、君を悪女と思えなかった。その言葉遣いも、最初は少し驚いたけれど、もう慣れてしまった。今じゃチャーミングに感じるくらいさ。外見や言葉遣いは関係なく、僕は君を素敵な女性だと思っている」
私は顔が髪と同じくらい真っ赤になるのを感じていた。
ユリウス様の長い指が私の頬を撫でる。
「エリーシャの白い頬が、こうやってすぐに染まるのも可愛らしいと思っている。緑色の瞳も、キラキラしていて、五月の新緑みたいだ。それから、君の本を読む時の表情も好きだし、本の話をして笑う君を見るのはとても楽しい」
ユリウス様は私を見つめ、目を逸らさずにそう言う。
私は恥ずかしさのあまり何も言えずに口をぱくぱくさせるしかなかった。
「それからね、政略結婚というのも少し違う。確かにアーレント公爵家の出身であれば王子妃に相応しい。でも僕が 、"君がいい"と思ったんだ。他の家柄のいい令嬢でも、エリアンナ嬢でもなく、エリーシャを僕の妃にしたいと思って、父に承諾を得た」
「え……? わたくし、を?」
「うん。面と向かって言うのは照れてしまうね」
ユリウス様は微笑んだ。
少し照れたように眉が下がり、白皙の顔もほんのり染まる。
「でも、僕はエリーシャのことが好きだから。君が辛い思いをしているのを知って、助けたいと思ったんだ。君を知れば知るほど、愛しいと思う。エリーシャを、愛しているよ」
愛している……?
ユリウス様が、私を?
心臓はさっきからバクバクして、顔どころか全身が茹だったように熱い。けれど、聞き間違いようもなく、はっきりと聞こえたのだった。
私は口を開き、しかし何も言えないまま、はくはくと開いたり閉じたりを繰り返す。
そんな私のことを、ユリウス様は優しく見つめて、返事を待っていてくれていた。
「ユリウス様、わ、わたくし……っ!」
「うん」
「わたくしもっ、ユリウス様をお慕い申しておりますのっ。こ、婚約の前から、ずっとですわ! 図書館の前であなたに助けられてから、ずっと……ユリウス様を、愛しておりますっ!」
その途端、言葉とともに涙が溢れた。
ずっと、何年も我慢していた涙。一度溢れてしまったらもう止まらない。
「ま、まあ……ドレスが汚れてしまいますわ」
せっかくのユリウス様からのプレゼントなのに。
持参していたハンカチも着替えた今は手元にない。
汚してしまいたくない私は、顔を手で押さえようとした。
しかしその前に、私はユリウス様に抱きしめられていた。
すっぽりと、ユリウス様の腕の中で抱き込まれて、涙がユリウス様の服についてしまいそうだ。
「い、いけません、ユリウス様のお召し物が汚れてしまいましてよ!」
「構わない。君の涙は全部僕が拭い取ってあげたいのだから」
ユリウス様は私を抱きしめ、そっと背中を撫でた。
「そ、そう言われてしまっては、もう泣けませんわね。わたくし、ユリウス様のお召し物を汚したくありませんもの」
「そう? 君の涙を受け止めた跡なんて、僕にとっては勲章のようなものだけれど」
「まあ、ユリウス様ったら !」
私が顔を上げると、ユリウス様の青い瞳が至近距離にあった。
なんて綺麗な瞳。
見つめ合うだけでしばしの時間が流れた。
「エリーシャ、君の名前も好きだけれど、もしよければ愛称で呼ぶことを許してくれないかな?」
「か、構いませんけれど……わたくし、エリーという愛称は好きではありませんの」
もう断罪の恐れは感じないけれど、悪役令嬢エリーという印象がまだ強くこびりついている。
「では、リーシャ、というのはどうだい?」
打診されたリーシャという響きは、たった一文字ないだけなのに、特別なものに感じる。
「ええ、ではリーシャとお呼びになってくださいまし!」
「リーシャ」
口の中で転がすように呼ばれ、なんだかくすぐったい気持ちになった。
「リーシャ、目を閉じて」
甘い声でそう囁かれ、私は目を閉じた。
私の頬をユリウス様の指が滑るように撫でていくのを感じた。
それから、唇に柔らかなものが触れる。
ユリウス様の唇の感触だ。
ユリウス様と、キスをしている。
胸の中にヒタヒタと温かく甘い液体が満たされていくかのよう。
きっとこれが、幸せというのだろう。
ユリウス様の唇は、一度だけでなく何度も触れては離れていく。
一瞬にも永遠にも感じる。
ユリウス様に抱きしめられ、口付けを交わしたこの瞬間が、エリーシャとしてのこれまでの人生で最も幸せな瞬間だった──。
ユリウス様はこれから公務があるとのことだった。
馬車に乗り込む私を見送ってくれる。
「エリーシャ、家まで送れなくてすまない。気をつけて帰って」
「大丈夫ですわ。ユリウス様ったら心配性ですのね。馬車で屋敷まで送っていただけますもの。問題ございませんわ」
「君は意外とうっかりしているところがあるからね。そういうところも可愛いけれど、心配なんだ。それに、天気も悪くなってきただろう」
「まあ、本当ですわ」
ついさっきまで晴天だったはずなのに、今はどんよりした雲が覆っている。
「ご忠告の通り、気をつけて帰宅いたしますわ。それではご機嫌よう」
走り出した馬車の窓に、ポツリポツリと水滴が当たる。とうとう雨が降り出したのだった。