4:私を見ていてくれた人
私は婚約が決まる前に、一度だけユリウス様と会話を交わしたことがあった。
私の悪い噂を信じた生徒に絡まれることが少なからずあったのだが、その日も図書館から出たところを狙われてしまった。
女生徒数名に囲まれ、足を引っ掛けられて、その場で転倒してしまったのだ。
咄嗟に手を突いて支えたので、怪我はせずにすんだ。けれど晒し者のようにクスクスと笑われ、なかなか顔を上げられずにいた。
恐怖と羞恥で立ち上がれない。
しかし、突然、ぴたりと笑い声が止んた。
「君たち、何をしているのかな」
柔らかな、それでいて凛とした声が響く。
現れたのはユリウス様だった。
ユリウス様の登場に、クスクス笑っていた生徒たちは悪いことをしていた自覚があったのだろう。蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「立てる? 怪我はない?」
ユリウス様はそう言って私に手を差し伸べた。
白く綺麗な手だ。けれど女性的ではなく、指が長く節がしっかりしている。
「だ、大丈夫です」
ユリウス様の綺麗な手に掴まるのは気が引けて、私は自力で立ち上がった。
そんな私に気を悪くした様子もなく、ユリウス様は微笑みを湛えている。間近で見ても目が釘付けになってしまいそうな美形だ。
「はい、これ」
「あ……!」
転んだ拍子に図書館で借りた本を落とし、ユリウス様が拾ってくれたのだ。
外国の原文で書かれた希少な本だ。表紙に傷がついていないか心配したが、大丈夫のようだ。
「……よかった」
そして私はユリウス様にお礼を言っていなかったと思い出し、慌てて頭を下げた。
「ユリウス様、ありがとうございました。あの……お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
「僕は何もしていないよ」
ユリウス様はニコッと優しく微笑む。
「その本、面白いよね」
それだけ言い残して、ユリウス様は去っていった。
胸が高鳴り、私は手にした本をぎゅうっと掻き抱く。
あれから私はずっとユリウス様に恋をしている。
婚約が決まった時も、本当は嬉しかった。たとえユリウス様に恋人がいたとしても、そばにいられるだけで幸せだとも感じていた。いつか婚約破棄されたとしても、それまではユリウス様の婚約者でいられるのなら。
しかし喜んでしまえばエリアンナが妨害すると思い、敢えて喜ばずにいたのだった。
そんなこんなで婚約の挨拶の日から数日が経過した。
残念ながら悪役令嬢口調は治らないままだ。
もうこのままで過ごすしかないと開き直ることにした。
シナリオの強制力であれば、私にはどうにもならない。
ちなみにこの口調はユリウス様の前だけではない。家でも学校でもずっとこの調子だけれど、会話する機会が少ないため、まだ気づかれていない。
婚約者となったため、数日に一度、ユリウス様と会う時間が設けられた。
「ユリウス様、ご機嫌麗しゅうございますわ!」
「やあ、エリーシャ。元気そうでなにより」
「ユリウス様にお会いできて嬉しゅうございましてよ」
最初こそ、婚約破棄の連絡が来るのではないかと内心でビクビクしていたのだが、ユリウス様は私のおかしな口調にも動じず、ニコニコしている。
度量が広過ぎる。
すぐに婚約破棄にはならなかったため、噂の恋人に関しても、まだ触れないことにした。
まずは私のことを信用してもらってからだ。
ただ、この口調なので、一抹どころではないほどに不安なのだけれど。
「そうそう、今日はエリーシャに渡したいものがあるんだ」
「なんですの?」
ユリウス様は私に本を差し出す。
「まあ、この本……!」
その本は、ユリウス様が拾ってくれたあの本の続編だった。読みたいと思ってはいたが、学園の図書館には入っておらず、買おうにも外国の本なので簡単には手に入らなかったのだ。
「取り寄せたんだ。僕もこのシリーズが好きでね。前に読んでいたから、君も読みたいんじゃないかと思って」
「お、覚えていてくださいましたの?」
私は目を見開く。
本を拾ってくれた時と同じ、優しい笑みをユリウス様は浮かべている。
「もちろん。あの時から、君がエリーシャ・アーレント公爵令嬢だとわかっていたよ。図書館で本を読んでいるのもよく見かけたからね」
「わたくし、を……」
胸の中にじわじわと温かなものが広がる。
思わず本をぎゅっと抱きしめていた。
「喜んでくれたかな」
「ええ! 嬉しくてたまりませんわ!」
本のことも、私のことを見ていてくれたことも。
「よかった。この本は原文で学生には難易度が高いと思うけれど、エリーシャは読めるんだね」
「恥ずかしながら、完璧にわかるわけではございませんの。恋愛としての『胸が苦しい』という意味ををしばらく『心臓が悪い』という意味だと勘違いしていたくらいですのよ」
「ああ、同じ単語なんだよね。文脈で理解するしかなくて」
「そうですの。それから光魔法を点滅させ、暗号として使う技術があることも、このシリーズで知ったくらいですの。それから──」
ユリウス様との共通の話題に、悪役令嬢口調が気にならないくらい次から次へと言葉が出てくる。
本の話で大いに盛り上がり、楽しい時間を過ごしたのだった。




