5話 舞踏会
舞踏会が開かれる日。宮廷の魔術士が王宮の夜空を術式で創造した豪華絢爛な明かりを照らしている。
そして王宮の傍にはいくつもの馬車が行き来している。その中の一つにレイラはいた。
今日の日のために父に買ってもらったドレスに皺が寄らないようにレイラはちょこんと座っている。
いつもは遠巻きにしか見る事が出来なかった王宮の城門を超え、王宮内に入っているのだ。
「うわー。すごーい!!」
思わず身を乗り出して馬車の窓から夜空を明るく照らす花火に目を凝らそうとする。
「レイラ、駄目だ。じっとしていなさい」
父が嗜めてきて、レイラはちょっと反省して、深く座りなおした。
今日は初めて、父と二人だけでの外出なのだ。
母はついては来なかった。こういう式典では普通、夫婦揃って参加するのだと教わったのだが、今回は違うらしい。
馬車が王宮の前の広い庭園を一列に円周に並んで、それぞれが王宮に入る順番を待っている。
ちらと目に入るだけで、綺麗な服装をした年の近い少年少女が優美な仕草で王宮内に入っていく。
思わずまた身を乗り出して馬車の外を覗きたくなるが、じっと我慢する。
「レイラ。もうすぐ着くけれども練習通りにね」
レイラの正面では父が柔和な、それでいていつもより固そうな笑顔を浮かべている。
「お父様、ちゃんとわかっているわ」
レイラも自分の顔が緊張で強張っているのを自覚しながら、笑顔を父に向けた。
付け焼刃で学んだの礼儀作法や踊りは、なんとかというお粗末なものだったが、特に父は何も言わなかった。すべて教えてくれた母もなんとも困った表情を浮かべていたのを思い出す。
とにかく愛想よく上品に笑顔を浮かべ、きっちりと礼を尽くす。
それだけやっていればいいらしい。
「なぜ今日まで……」
そこで、父が呟いた言葉が耳に入った。
父の顔を見ると、今まで見た事がない深刻な表情をしている。
その意味をレイラは聞いてはいけない気がして、じっと視線を伏せた。
ようやくレイラが降りる順番が来た。
だが、どうやら馬車の扉が開けられる時間が他の馬車よりもかなり掛かっている。
ようやく外の執事に扉を開けられ、父の手に引かれて馬車から降りた。
「あの、お父様?」
レイラは降り立った後、すぐに父を振り返った。
目の前には甲冑を着込み、大剣を帯刀した大柄の騎士が四人いたのだ。
その様相と、騎士の精悍な男性が見つめてくる厳しい視線にレイラは身を竦める。
父の腕を掴み、隠れようとする。
「大丈夫だよ、レイラ、彼らは護衛だ。……舞踏会に慣れないレイラのために私が手配したんだ」
父はレイラの肩にそっと手を置いてきた。
護衛……でも他の誰も騎士が付くなんて事はしていない。
レイラは気付いていたが、父が言うのならと押し黙った。何しろ初めての舞踏会なのだ、自分が知らない格式や形式など様々なものがあるのだろう。
レイラはあまり気にしない事にした。
四方を騎士に囲まれた形でレイラは父の少し後ろを歩いていく。
大広前に向かうらしいが、巨大な開かれた扉の向こうではすでに音楽が奏でられている。
すでに多くの貴族が到着し、宴を始めているのだろう。
私は顔の表情が強張るの感じていたため、父がどんな表情をしているかなんて気に留める余裕もなかった。
大広前の扉の前にいる品の良い執事服を着た男性に父が名前を告げる。
指示を受け扉の両脇に立つ兵士達がゆっくりと大広前に繋がる扉を開けた。
「タイラー・ミリグランツ伯爵とそのご令嬢レイラリア様ご入来!!」
その時、音がやんだ。
音といっても音楽を奏でる楽団はそのままで、人々の会話が、グラスを打ち鳴らす音が、踊りの足音が全て止んだのだ。
異様なほどの静かさをもたらした原因は何か、すぐに自分の事だとわかる。
大広前に集まる多くの人々の視線がレイラに集まっているのだ。
怖い。足が竦んで動かなくなった。
だが、震える手を感じ取っているはずの父は足を止めようとはせず、そのまま進む。
四方の騎士もレイラを押しやる様に父の動きに従った。
そこでレイラは初めて父の顔が鬼気迫る表情で、いつもの笑顔などではない事に気が付いた。
(やっぱり……私のせいで……?)
人々が向けてくる視線には覚えがある。
あの敵意を、恐怖を。
だがこうも大勢の同じ貴族から向けられるとは思ってもみなかった。
そこで静寂を破る音が聞こえた。
一人の拍手だ。
ぱちぱちと小さく、それで静けさの中に響くのは歓迎の証だ。
大勢がレイラから視線を外し、振り返り拍手の主に目を遣る。
そしてすぐにその動きに追従していく流れが出来た。
それを行っていたのがこの大広間の一番上、それも金の王冠戴く御方であるとレイラもようやく気が付く事が出来た。
レイラと父は敷かれた赤い絨毯に沿って歩き、その人の傍に近づく。
「あれが国王陛下……」
そっとレイラは呟いた。
とても長生きと聞いていたけど、遠目から見ると確かに金色の髪に白髪が目立ち、深い皺の目立つ姿だ。
だが、落ち込んだ眼孔には深い思慮を覗かせる緑色の目が欄欄と輝き、確かな存在感は畏怖すら感じる。
とても領地にる祖父の様に気安く接する事が出来そうな相手ではない。
陛下がいる場所に近づくと、そっと父が深く貴族の礼を始める気配を感じ、それに倣った。
何やら父がご機嫌麗しく、と長たらしくこの国の安寧の陛下の威信という言葉がつらつらと続いているが、レイラは緊張で言葉が耳に入ってこない。
心臓が脈打ち、鼓動の音のみが頭の中で響いていた。
「良い、顔を上げよ」
背中の芯を貫く様な声が告げられ、ようやくレイラは伺う様に顔を上げた。
陛下の顔がじっと自分を見つめている気がして、ひどく落ち着かない。
永遠に続くかと思ったが、陛下が視線を逸らし、挨拶はそれだけで終わった。
特にレイラが話すことも、しなくてはいけない事はない。
確かに父の言う通り、ただ礼だけしておけばよかったようだ。
その事に少しだけ物足りなさを感じていると父が言った。
「私はしばらく、他の方と交流を深めてくるよ。レイラは食事をしてきなさい」
「……え、……はい」
私を置いて言ってしまうのと、父に言い掛けた。
「……安心しなさい。彼らが守ってくれる。さ、良い子だ」
父はいつもの笑顔に戻っており、レイラの頭を軽く撫でた。
レイラとしては、この騎士はレイラを守るというよりは捕えている感じだと思うが、反論しなかった。
テーブルの上には美味しそうな匂いする豪華な食事が並んでいる。
それを少し見て、ふとファルと交わした約束を思い出し、ふっと小さく笑顔を浮かべた。
だが、すぐに表情は暗く沈みがちになる。
レイラは段々と、大広間の隅の方に向かっていた。
というのも騎士に囲まれているレイラが先ほどの場所にいたら、すごく邪魔な気がしたからだ。
それに周りが向けてくる視線もやはり冷たい。
せっかく練習をした踊りも、誰かが誘ってくれない限りは披露する機会はない。
なんのためにここに来たのだろう……。
「あの……」
暇つぶしに騎士が話し相手になってくれないだろうかとその中の一人に声を掛けてみる。
だが、身動ぎ一つしない騎士は前を向いたまま、レイラに一瞥すらくれない。
(他にこんな事をされている娘なんていないのに……)
レイラが見つめる先では同い年位の子供がレイラよりも何倍も優雅に、互いの手を取り合って踊っている。
それが余りにも眩しくて、自分の境遇が悲しくなってきた。
自然と目元がぼやけ始めてきた時、足音がレイラに近づいてきた。
「お初にお目にかかります、レイラリア嬢」
初めて声を掛けられた。
慌てて視線を上げて、そっと目元を袖で気づかれない様にぬぐう。
目の前に立っているのは二人組の男女だった。
「えと、初めまして」
あまり見かけない服装をしている。
黒い布地にいくつかの煌びやかな勲章が据え付けらている。
その服を着こなすのは、両者とも短く刈られた髪を持つ規律正しい青年と女性だ。
女性でこれほど髪を短くしているのはレイラは初めて見た。
「私はハインケル・デュロイ少尉、連邦東域軍所属駐在大使をしております」
「同じくアーネット・クリスト少尉です」
しょうい……そんな貴族の位があったかしらとレイラは不思議に思う。
ハインケルと名乗った凛々しい容姿を持つ顔がレイラに近づき少しどぎまぎした。
もしかして、踊りの誘いなのだろうか、誘ってもらえるのかな。
「あ、えと。レイラリア・ミリグランツと申します」
レイラは忘れていた挨拶の返しを慌ててする。
だが、ハインケルとアーネットはどちらもレイラは予想している事とは違う事を言ってきた。
「お会いできて光栄です。……まさかこの様な地で」
深い青い目を持つ青年は少し感極まった表情をしているようだ。
「えっと、ありがとうございます……」
自分はそんなに言われるほど大層な人物ではないのだけど……。
「レイラリア嬢、きっと貴方は自分が何者かわかっていないのでしょう」
きょとんとしていると、アーネットがすっと近づいて手を差し伸べてくる。
「ですが、一緒に来ていただければ……」
レイラは何も考えず手を取ろうとすると、横合いから声が届いた。
「おや、お二人はこのような場所におられたか。困りますなぁ、舞踏会に慣れない淑女を誑かされては」
横を見ると、父とその隣に白い豪華なローブを羽織り、長い杖を持った男がいた。
知らない壮年の男性だ。
「ケイラス様……これはどういう事か」
ハインケルは険しい視線を男に返した。
レイラはびっくりしてアーネットから手を引く。
「どうもこうもないですねぇ。私も今日初めてミリグランツ伯から知らされたばかりでしてねぇ」
ケイラスはウェーブが掛かった濃紺の長い髪を指でいじり、独特の伸びがある話し方をした。
「白々しい嘘を。宮廷魔術士長ともあろう方が知らないはずはない」
なんの話かレイラは分からず、父とそれぞれの人に視線を向ける。
父はひどくおびえた様子で、二人が言い争うのを片身が狭そうにしていた。
「国王陛下も驚かれておられたが、陛下は何も騒ぐ事はないと、平穏を望んでおられてねぇ」
ケイラスは片手で杖に嵌められた宝石をなぞり、二人の相手をする気がないとばかりの様子だ。
「今、北域が騒がしい時、中央に知られたくはないでしょう。その点は閣下とも共通の認識だったつもりですが……ね」
「しかしこの件は報告させていただく、我々にはその義務がありますので」
鋭い視線を向けられても、ケイラスはどこふく風だ。
それどころか陰影の深い顔で嘲笑うような笑みを浮かべる。
「どうぞ、それが叶えばの話ですがねぇ」
ケイラスが小さく呟いたが二人はそれに返答しなかった。
レイラに向けて、先ほどケイラスに向けていた表情とは打って変わって、親愛の笑みを浮かべる。
「レリラリア嬢、いずれまた」
二人は、すっと胸に拳を当て一礼をして去っていった。
レイラは話に置いて行かれ、目を白黒させるしかなかった。
知らない言葉が多すぎて、到底理解出来なかった。
自分が関わってもいい話なのかもわからない。
どうせならハインケルさん、踊りに誘ってくれてもよかったのに……。
「レイラ、知らない人に付いていっては駄目だよ」
父が少し動揺を残す声で言った。
「お嬢様はお暇なようですからねぇ。私の息子が来ていれば貴方と踊っていただけたのですがねぇ」
ケイラスがレリラリアをじっと見つめてくる。
どうもこの人はレイラは苦手だと思った。
人を見た目で判断してはいけないというのは自分の身でよくわかっているはずなのだけど。
それでもケイラスの淀んだ様な黒い瞳を見るとそう思ってしまった。
「おおと、ミリグランツ伯とはまだ話の途中でしたねぇ。ランティスの大農園の件でしたかな」
「……その話は娘のいない所で」
父は歯切れが悪そうな顔で、レイラから視線を逸らす。
「しかし、お嬢様も逼迫する経営状況について知っておいた方がよいのでは? 今後の身の振り方とかねぇ……」
にやと笑うケイラスに思わずレイラは鳥肌が立った。
それに気づいたらしくさすがに父がいつもの笑顔ではなく、険しい眉を顰める顔をした。
「……まあ、他の領主との兼ね合いもありますのでなぁ、行きましょうか」
ケイラスはふっと息を吐くとローブを翻し、レイラの前から去っていった。
それを父は沈鬱な表情でゆっくりと後を追っていく。
(お父様……何があったんだろう……あんな顔をしている所初めて見たわ)
お母様なら事情を知っているのだろうか。
ランティスといえば祖父のいる地方の葡萄の産地で有名な場所だ。
経営と言っていたけれど、何か悪いことでも起きてるのかな。
レイラが思考に飲まれていると、一人の貴族の少年が近づいた。
顔を上げて、目を合わせる。
整った容姿を持つ青年だ。金の髪に深緑の瞳。
来ている服装はレイラが目にする限り、今まで見た中で一番上等なものに見える
でも誰なのか見当もつかない。
普通は傍にいる誰かが紹介をしてくれるものなのだろうが、今は父もいない。
でももしかしたら位の高い貴族からもしれないし、今度こそ踊りに誘ってもらえるかも、という期待感をもちながらレイラは礼をして、それからそっと目線を上げた。
そして、
「なんでお前みたいな化け物がここにいるんだ」
と、言われた。
え、とレイラは何を言われたのか理解する数瞬の間に少年が近づく。
「……アニムスデリアが」
そうレイラにだけ聞こえるように呟いた少年はすぐに去っていった。
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夜、レイラは寝室で眠れないまま閉じていた目を開けた。
あの後、王宮での舞踏会が終焉を迎える前に父がはレイラを連れてその場を去ったのだった。
まるで逃げ帰るようだったとレイラが思うほどに。
帰りを待っていた母にも何も告げる事が出来なかった。
あれほど綺麗な場所は初めてだった。
あれほどたくさんの人に会ったのも。
あれほどたくさんの色々な意味を持つ視線を向けられたのも……。
それに練習した踊りを披露する事もなかったのも残念だった。
何よりレイラの心を占めたのは 一人の貴族の子弟の言葉。
貫くような侮蔑を込めた意味合いの言葉を。
"アニムスデリア”
どこかで聞いたような響きだ。
でもそれが何の事だが心当たりがない、あの子は何故私の事をそう呼んだのだろうか。
考えるのも疲れ、喉が渇きを訴えてきた。
厨房に行けば、水でももらえるかしら、と考えたレイラは部屋を出た。
いつもなら召使が厨房で明日の支度やら片付けをしていて起きている時間なのだが、今日は誰もおらず火も灯っていなかった。
代わりに聞こえたのは大きくガラスをぶつける様な音。
どうやら厨房の近くの一室で聞こえてきたようだ。
そっと開けたままになっているその部屋をレイラは覗く。
月明りのみに照らされるその部屋にはレイラの父親が机の前の椅子に座っていた。
そして机の上には、酒便とその中身が入ったグラス。
そのグラスに伸ばす父の手が酔っているのか震え、そして定まらぬその動きは、目標を大きく外れ、酒瓶を机の上から叩き落とした。
「きゃっ……」
思わず悲鳴を上げ、レイラは逃げようか迷った。
もしかしたら見てはいけなかったのかもしれない。
父がこんな風にお酒を飲んでいるのは初めて見たのだ。
「誰だ……」
振り返った父の焦点はあっていなかった。
服は大きく胸元が開けられ、頬に陰影が濃く表れている。
逃げられないなとレイラは考え、怯えながら一歩部屋の中に踏み込んだ。
「あの、お父様……」
「なんだエレナ……か。……すまないな、私がふがいないばかりに……」
父はぼんやりした声で知らない人の名前を告げ、語り掛けてきた。
誰の名前だろうか、聞いたことがない。
「私がもっとしっかりとしていれば……あんな事には」
グラスを持ったまま父がよろけながら近づいてくる。
吐く息は酒臭く、やはりレイラではなくレイラを見ながらもどこか遠くを見ている。
その事に耐えられずさらに一歩レイラは前に出た。
月明かりにレイラの銀髪が妖艶に淡い光を反射するかのように輝く。
それを見て父の動きが止まった。
力を失った手からはグラスが落ち、さらに甲高い音を立て割れる。
だがレイラは今度は悲鳴をあげる事はなく、それ以上のものを目にしていた。
父の恐怖に歪んだ表情だ。
底冷えする低い声と震える手でレイラを指さしてくる。
「レイラ……お前さえ生まれなければ……」
ごくりと唾を飲み込んだ。
様子のおかしな父から目を逸らす事が出来ない。
「エレナはエレオノールは……今も、生きて……何故……」
お父様はどうしてしまったのだろう。
舞踏会から、常に笑顔で優しかった父がまるで別人に豹変したかのようだ。
レイラは呂律が回っておらず最後には何を言っているかわからない父をただ見る事しか出来ない。
本当は舞踏会で陛下の前で挨拶が出来た事を褒めて欲しかった。
誰にも踊りに誘われなかった事を慰めて欲しかった。
あの子に言われたあの言葉の意味を知りたかった。
でもレイラはよろめきながら去っていく父親の姿を呆然と見つめる事しか出来なかった。
もう息切れしてきた!