4話 秘密の特訓
音程の外れた歌声が都市の一角で響いている。
その場所は、立ち並ぶ居住区の建物に周囲を囲まれた狭い広場だ。
誰かが打ち捨てた幾つかの空の木箱が乱雑に積み上げられ、壁際には上の階の住人が窓から捨てたガラクタが山となっている。
そこにファルとレイラはいた。
ファルは二つ積み上げられた木箱の上に座り、レイラは隣の木箱のすぐ横に立ち、胸の前で手を当てて歌っている。
「……うん?」
そこで歌の途中で、レイラは眉をひそめて首を傾げ、後ろの木箱を振り返った。
ファルの一個下の木箱には本が広げてあり、それはレイラが家から持ってきた辞書だ。
主に教育用の単語が並び順に書かれている本らしく、ファルが上から覗くとレイラがぱらぱらと本を捲る音が聞こえてきた。
「えっと~れんびん。れんびん……」
すぐにレイラは単語を探すのに疲れ、着ている服が汚れるのにも関わらず木箱の上に肘をつき唸り始めた。
ファルはというと、先程から何度も同じ事を繰り返しているレイラの行動に少し呆れながら声を掛ける。
「そんなの調べて何になるんだ? 言葉の意味なんてどうでもいいじゃないか」
「よくない。だって意味もわかってないのに歌ってたなんて、お父様に笑われる!」
レイラは少し意固地になった声でファルに言い返してきた。
これじゃ、ちっとも前に進まないな、とファルは思いながら溜息をつく。
ファルが知っている歌は全部耳で聞いて覚えたため、意味どころか綴りさえも知らない。
なんとなく歌の内容はわかるのだが、難しい言い回しの意味など孤児のファルに知りようもない。
(まあ、それはそれでこっちとしてはありがたいけどな……)
ファルは視線を戻して建物で四角に切り取られた空を見上げ、胸に確かな重量を感じさせる硬貨が入った袋を指で弾いた。
ファルがレイラに歌を教え始めてから二ヶ月近くが過ぎていた。
その間に驚くべき事にこのお嬢様は、約束の日を一日も欠かすことなくファルの前に現れたのだ。
どうせすぐに飽きて来なくなるだろ、と思っていたファルの安易な考えは裏切られた。
勿論レイラは最初に交わした約束を今も守っており、ファルが城壁まで迎えに行く際も誰かが付いてきている気配はない。ちゃんと家の人間にここに来ている事を秘密にしているのだろう。
まあ、そのせいでファルは余計な心労を背負わされているのだが。
それに日増しに貯まっていくファルの授業料は、下手すると貧民街のあばら屋くらいなら買えるんじゃないかと思えるほどになった。
一体お父様とやらは、娘がこんなに銅貨なんてみみっちいものをたくさん欲しがってて何も思わないのだろうかね。
――相当甘やかしているに違いない。
「もう見つからないっ!!」
その時、レイラが癇癪を起こし、辞書を閉じるついでに勢いよく木箱に叩きつけた。
ファルはいきなり腰掛けていた木箱から勢いよくはじき落された。
地面に叩きつけられた衝撃で、肺の空気が全て抜ける。
――ああ、いつものやつだ。
「あれ、ファル。何やってるの?」
レイラが木箱を周って来て、きょとんとした顔で上からファルを見下ろした。
ファルは頭の布の巻き方を執拗に確かめながら、むすっとした声で言い返す。
「……なんでもない。落ちただけだ」
ファルは唇をひん曲げた表情のまま、足を体の上に上げ、そのまま勢いよく飛び起きた。
びっくりさせてやろうと思ったファルの挙動は、すでに興味を失くしたレイラには無視される。
「というかそれやめろよな……」
ファルはぶつぶつとレイラに文句を言うも、
「何が?」
と、何事もなかったかのようにレイラはまた本を捲り意味を調べる作業に戻った。
だがしばらく経つと目頭を手で押さえ頭を振ると、向きを変えて木箱に腰掛け、ファルの正面を向いた。
「ファルはよくこんなに長い歌覚えられるよね。私、もう頭痛くなちゃった」
レイラは服の裾についた汚れを手で払いながら、ファルに言ってくる。
汚れてもいい服装にしろとファルが何時だったかレイラに言ったのだが、その言いつけを守っているのだろう。少なくとも最初に会った頃より、聞こえてくる余計な服の飾りの擦れ合う音が少ない。
「俺、昔から覚えたいと思った事は忘れた事ねえんだよ」
「え~、いいな。いいな」
レイラは羨ましそうな声を出し、頬を膨らませた。
そう言うが、きっとレイラの記憶力もそんなに悪くはないのだろう。
――ただ、壊滅的に持続力がないだけで。
まあ、十五分以上続く吟遊詩人の物語を一度聞いただけで覚えるファルと比べても仕方がないかもしれないが。
「一度聞いただけで覚えられるなら、勉強なんてしなくていいじゃない。うちの家庭教師なんて初めて見る言葉は覚えるまで書きなさいって言ってきたのよ。絶対耐えられないわ」
「そこは頑張れよ……まあ、それに良いことばかりじゃねえよ」
どうやら、最後にぽつりと言ったファルの言葉はレイラには届かなかったらしい。
レイラは今度は視線を下げ、雇って首にした家庭教師の数なのか順に数字を口に出し始めた。
(忘れたくても忘れられない事もある……)
つん、とファルの鼻の奥に酒の匂いがした気がした。
「ねえ、ファルは歌とか物語とかは、どこで覚えたの? 誰かに教えてもらったの?」
レイラは朧げな家庭教師の記憶の発掘などすぐに捨て去り、次の興味に移った。
「家族に連れて行ってもらって酒場とか劇場とかに忍び込んで、タダで盗み聞いたんだよ」
きっとその時の歌い主がファルの歌を聞けば、自分の物語を盗み取ったと訴えられるに違いない。
幸運にも、子供であるファルにそんな事を言ってきた奴は一人もいない。
「家族……いつも一人だけど、ファルにも家族がいるの?」
「ああ、といってもお前が考えるような両親とか、祖父母がいるわけじゃない」
レイラは少し困ったようにええと、と少し口ごもった。
「じゃあ、兄弟がいるとか?」
「ま、そんな所だ。血は繋がってないけどな」
両親がいないファルにとって家族と呼べるようなものはあいつらだけだ。
「ふ~ん」
あまり理解出来ないのか、レイラは上の空で答えた。
レイラにとってファルの言う家族というものは、考えられない事だからだ。
家族は血も繋がっていない兄弟だけ、そして何より両親はいない。
という事は 朝起こしに来てくれる優しい母も、夜眠る前に物語を聞かせてくれる頼れる父もいない。
それはとても寂しいく、悲しいものではないのだろうか、と。
でも、それを指摘してはいけない事だと考えられる程度の思慮をレイラは持ち合わせていた。
「そういえばファルって誕生日はいつ? というより何歳なのかしら?」
ファルは次々されるレイラの質問に、ちょっと気疲れし始めた。
どうしてこの年頃の少女というものは、あれこれころころと、話題が変わり、次々と質問を繰り広げるものなのだろうか。
(まあ、この場合は、もう歌うのに疲れたんだろ)
すでに時刻は昼を回っている。どうやらもうしばらく付き合う程度でよさそうだ。
「さあ、知らない、……年も覚えてないな」
「へえ、そうなの。じゃあ、私と同じくらいかなぁ。あ、でも私の方が背が高いからファルは十一歳だと思うわ」
「っ……ほんの少しだけな」
以前背中を引っ付けて比較した限り、ファルとレイラの差はせいぜい指一関節分くらいだ。
決して、レイラの方がかなり背が高いわけではない。それは認めない。
それにこちとら絶賛、年中栄養失調、超不良不健康児だ、なめんな。
「私、今度十二歳になるのよ。それでね、王宮の舞踏会に招待されているのよ」
膝の上の裾をぱたぱたと遊ばせながらレイラはファルに言った。
さすがに舞踏会の言葉の意味ぐらい知っていたファルだが、実際に見たこともなければどういったもの か具体的に想像する事すら出来ない。
「へえ、舞踏会ね。そこで何するの?」
ファルはあまり興味なさそうに聞いた。
「私も初めて行くからよくわからないけど、挨拶したり、踊ったり、あと国王陛下にも会えるわ」
そう楽しそうにレイラは言うと、木箱から降り、ファルの前で何やら頭を下げた様だ。
「どう?」
「どうって? 何が」
ファルの返答にレイラは憤慨した様に拗ねた声で、貴族の淑女の礼よ、と言う。
どうやらレイラは、ファルに向けて練習を重ねてきた成果を見せたらしい。
「いや俺、見えないんだからわかるわけないだろ」
ファルはぼそっと言い、ゆっくりと首を振った。
「お前な。いい加減俺が目が見えてないってわかれよ」
「え~、だって、ファルすごく運動神経いいし、いつも私の前をすいすい歩いてて、見えているみたいなんだもん」
レイラの知っているファルは普通の少年の動きと変わりがない。
確かに杖を一歩毎に突いてはいるが、通行人にも落ちている物にもぶつかる事などなく、先ほども木箱の上に一足で飛び乗っていたりしているのだ。
「この辺りは俺の庭みたいなもんだからだ。どこに何があるかってのは覚えてんの。記憶力の悪いお前と違って」
「あー、ひっどい!」
ぽすんとレイラはファルの肩を拳で叩くが、あまり勢いはなくファルも避ける事は出来ない。
それからレイラの拳はそのままゆっくりと力を失くし、下がっていく。
「……ねえ、私、変じゃないかな?」
そしてレイラのいつもと様子が違う、どこか不安気な言い方にファルは戸惑いを覚えた。
「変って何がだよ?」
レイラは顔を伏せたのか、急に声を小さくして言った。
「ファルにはずっと言ってなかったけど……だって私の髪と目の色ね……その」
「なんだそんなに可笑しいのか?」
ファルは元気にさせる目的で、揶揄うように笑い掛ける。
実際、どんなに面白可笑しかろうとファルには見る事は出来ないのだが。
「む、別に変じゃないもん! ちょっと珍しいだけで……ただ、私を見ると視線を逸らす人がいて」
「それじゃ、よっぽどお前が笑える顔をしてるから逸らしてんだろよ。ははっ、笑ってるのをばれたくないからな」
正直な所、顔の上半分を布で隠してるファルの方こそ笑えると自身で思うが、レイラを元気付けるためにそう言ってやった。
それに少なくとも自分よりはましだろう。ファルに投げかけられるのは無視どころか、石や嘲笑だ。
「そ、そんな事ないし! お母様もお父様も私の事、綺麗って言ってくれるもん!!」
「そりゃ、自分の娘は可愛いもんだろ。例え小鬼みたいな顔でもな」
は、はあ!?と、レイラが強く息を吐き、ファルは自分の顔の前に手が翳されたのを感じた。
やばい、怒らせすぎたか。
「じゃあ、私の顔触っていいよ。そうしたらファルにもどんな顔をしているかわかるでしょ」
ところがレイラはファルをひっ叩くためかと思われたその手をファルの腕に伸ばし、引っ張ってきたのだ。
レイラのあまりに無邪気な言い方にファルは戸惑う。
「……言っとくけど。俺の手汚いぞ」
ファルは自分の両手をこすり合わせながら、レイラに言った。
さっき何度も木箱を触っていたから汚れているだろう。
「そんなの後で洗えばいいわ」
レイラはファルの腕から移動して手を掴むと、自分の頬に触れさせてきた。
柔らかいと、ファルは思った。
自分の手が小さなレイラの手と、暖かみを感じる頬の間に挟まれている。
「どう、私の顔わかる?」
それからレイラは手を放し、ファルの自由に触っていいよとばかり顔をファルの手に押し当ててきた。
「いや、そう言われてもな」
と戸惑うファルはぎくしゃくと手を離そうと考えたが、レイラが引っ付けてきて離れない。
そこで仕方なく遠慮がちに、それでいて少しづつレイラの顔を触っていく。
まず鼻、目元、それから伏せられた瞳、眉、そしてゆっくりと耳の端、最後は顎に沿って触っていく。
途中レイラがこそばゆいのか鼻から小さく息を漏らし、ファルは何故か悪いことをした気分になった。
「ああ。……なんとなくわかるよ」
ファルは頭の中に触った感触からレイラの顔をイメージして浮かべた。といっても曖昧なものだが。
そして自分の経験から、目の前の少女がまるで精巧に作られた人形の様にとても整った容姿を持つのだと悟った。
レイラが気にしていた色はわからないが、少なくともファルが知る限り、道ですれ違うと多くの人が振り返るなとは思う。
「どう、私何か変かな?」
「いや、変どころか……」
いや変どころか、綺麗な方だ、と言おうとした言葉が喉の辺りで止まった。
今まで揶揄ってきたのに今更褒めるのも何か癪に障るというか、気恥ずかしいというか。
(……というか何だこの状況は)
ファルは苦々しくなんとか声を絞り出した。
「別に悪くない……と思う」
「ほんと!?」
レイラの嬉しそうな声に、今更ちゃんと言ってやればよかったかな、などと考えてしまう。
まあ、さすがは腐っても貴族のお嬢様、庶民とは根本から違うのだろう。
家族のシフォンもなかなか可愛らしい顔立ちをしているが、やっぱりレイラには負ける。
きっと良いもの食ってるからだなと、ファルは結論付けた。
そしてなんとなくだが、すべすべした肌の感触が離れ難く、ファルの手はそのままレイラの首元から髪の方に手が伸びていった。
滑る絹の様な長い髪をゆっくりと、手の平の上で滑らせていくと、最後の方で髪の毛の違和感に気が付いた。
「あ、やっぱりはねてる」
思わず口走ってしまった言葉にレイラが、びくっと身じろぎした。
そう言えばファルは癖っ毛を身近であまり見た事はない。
市場を出歩く女性ほとんどは髪を結ってるが、下ろしている時は大抵真っ直ぐだ。
家族の髪を川で洗ってあげた経験もあるが、デイジ―は短髪でわからないとしても、シフォンやノエルなんかは最後までさらさらだ。
「ど、どこまで触ってるの!」
さっとレイラはファルから距離をとって、手の上の髪をさっと自分に手繰り寄せた。
少し名残惜しい気がしたが、なるほどこれが気になっていたのかと納得する。
「へ、変かな。その、私の先の方の毛ね、いくら治そうとしても治らなくて。えと、子供の頃からなのよ」
ファルの考えた通り、レイラは言い訳するように慌てて言葉を紡ぐ。
「いや、全然。レイラだってすぐにわかるからいいと思う」
「そ、そう? そうなのかな?」
ファルの落ち着いた言い方に、納得するようにレイラは呟き、照れた様に何度も髪を撫で梳かしている。
なんだ、レイラが気にしている事は大方レイラが自分の姿を卑下して、周りの視線を必要以上に気にし過ぎているだけなのだろう。
この年頃にはよくある事だと聞いたことがある。
「じゃあ、今度はファルの番ね。ねえ、その布とってもいい」
どう言ってやろうかと考えていると、いきなり衝撃的な事をレイラが抜かしたのでファルは飛び上がった。
内心楽しんでいた気持ちなどどこかに行ってしまった。
「駄目だ!」
慌ててファルがレイラから下がって距離をとると、手を前に出して牽制した。
「夜寝られなくなるぞ。見て気持ちがいいもんじゃない」
何故か事あるごとにレイラはファルの火傷の跡を見ようとしてくるのだ。
家族にでさえ、ほとんど見せる事はないのにだ。
それがどんな衝撃を与えるのかを分かっている。
そして、自分がどれだけそれを見られたくないかを嫌というほど身に染みている。
「えー、ファルのけち」
レイラは拗ねるが、ファルにとっては悪い冗談が過ぎる。
カイル曰く、見たら三日は喉に飯が通らなくなる様相なんだぞ。
「もう終わりだ。今日は授業はお終いだ」
「え~、もう!」
「お前が馬鹿な事言い出すからだ。それに舞踏会よやらに行くんだろ。踊りとか練習しなくていのか?王様の前でずっこける気か」
「そ、そんな事しないもん、ちゃんとお稽古頑張ってるんだからね」
レイラは激しく主張するが、その声の震え具合から言って、こんな所で油を売ってる場合じゃない事だけは確かだ。
「舞踏会で美味しい食事が出たら持って帰ってあげるね」
「あのな、その頃には腐ってるよ」
軽口を言い合う二人は帰る準備を始める。
広げたままの本は空箱に隠し、レイラは服に汚れが付いていないかよく確かめている。
それから先ほど教えた歌を鼻歌で楽しそうに再現し始めていた。
全く、本当にこいつはここに来ていいのだろうか。
それこそ同年代の友達はいないのだろうか、それとも作らせてもらえなかったのだろうか。
でも、それは自分も同じか……。
(案外、俺も楽しいのかもしれない……)
ファルはそっと静かに笑った。
常に周囲に気を配る必要も、誰かを守らなければいけないと気を張り詰める必要がないのが。
自分のそして相手の境遇すら忘れて、対等に関わりあう事が。
そして何よりきちんと歌を教える代価として真っ当な手段で稼いでいるという事実が。
「何やってるのファル。送ってくれるのでしょ?」
レイラが出口の路地の前でファルを呼んでいる。
ああ、今行くとファルは答え、二人は広場から姿を消した。
周囲の建物から騒がしい声が響き、人々の生活音が聞こえてくる。
先ほど響いていた少女の歌声など最初からなかったかの様に元々の雰囲気を取り戻していった。
続きが気になると思ってくれたら嬉しいです!!