2話 貴族令嬢の一日
貴族の邸宅が立ち並ぶ区画、城壁から覗く朝日が辺り一面を照らし、雲一つない晴天を告げている。
ある豪華な邸宅の一室では、窓から十分にその恩恵を受けられる一室があり、部屋の中に煌めく様な陽光が入り込んでいる。
その部屋には豪華な意匠を凝らした家具が並び、天蓋付きのベットの傍に、人の背丈はあろうかという大きな鏡が据え付けられた鏡台が置かれている。
その鏡に映るのは椅子に腰かけた少女と、その後ろに立つ女性だ。
「レイラリア、ほらじっとしていなさい」
「はーい、お母様」
濃紺のドレスを着た赤褐色の長い髪の母が、目の前に座るレイラの同じく背中まである長い髪を櫛で梳いている。
レイラはそれをむず痒く感じながら、床に付かず宙に浮いた足をばたつかせながらじっとその動きに身を任せていた。
「やっぱり、あなたの髪は癖っ毛ね。ほら、また曲がった」
女性がレイラの背中の髪を解きながら、薄茶色の瞳を細めて笑いかけた。
「今日は一段とひどい気がするわ」
レイラはむくれながら唸るように、形の良い小さな唇を左側に曲げた。
レイラの髪は毛先に近づくほどうねる様に外にはねる癖毛となっており、それがもっぱらレイラの最近の悩みだった。
今時の流行としては長いまっすぐな髪の方が美人とされているきらいがあるのだ。
それに、
「――私の髪の色、変じゃないかなぁ……」
ぽつりと呟き、右手を伸ばして首元の自分の髪にさらりと触れる。
――レイラの髪は特異だった。
まず目につくのはその色だ。遠目から見ると老人の様な白髪に見えるのだが、しかし近づくと白というよりは銀色だとはっきりとわかる。
それも光にかざすと透き通るほど透明に見え、その髪は今も外からの陽光を受けて、自ら発光しているかの様に煌めいている。
「私みたいな髪の人、一度も見た事がないし、それに目の色だってこんなに真っ赤」
レイラは人差し指を右目の下に当てて、思いっきり下に引っ張る。
長い睫毛に縁どられた大きな瞳がさらに強調された。
――その瞳は、宝石のように煌めく透き通った緋色の瞳だ。
「……それは、レイラ、貴方だけのものなのよ。貴方だけが持っている――きっと特別なものよ」
母は穏やかな声で安心させるようにレイラに返事を返した。
「うん、ならいいけど……」
この問いはレイラが幼少のころから、何度も繰り返してきたものだ。
いつも聞く質問は同じ。そして帰ってくる答えも同じだ。
幼い頃はあまり気にならなかったのだが、大きくなるにつれレイラはある事に感づいたのだ。
――自分を見てくる目線が冷たい。
レイラを――恐らくはレイラの髪と目をちらとでも目にすると人々の視線が変わるのだ。
この事に気づいたのは何歳の頃だっただろうか。
家の中で使用人とすれ違う度、楽しそうに会話をしていた彼らが黙りこくり、目線を合わせず定規酌量な挨拶しか返してこなくなる。
また庭に遊びに出た時は、レイラから逃げる様に庭仕事をしていた使用人はあっという間に姿を消すのだった。
自分は避けられている――そうとしか考えられなかったのだ。
なによりレイラが気になったのが、家族で三歳下である弟が彼らと同じ様に、いやそれ以上のわかりやすい嫌悪感を滲ませた視線を向けてくるのだ。
どうして弟にまで、あれほど嫌われなければならないのだろうか……。
――腹が立つ、とぎゅっとレイラが拳を握った時、
「ごほっ……っ」
急に後ろで母が苦しそうに胸を押さえて咳づいた。
「大丈夫、お母様!?」
「……外の埃がが入ってきたかしら。また、使用人の誰かが庭を掃除しているのだわ。この時間はやめてと前に言ったはずなのにね」
心配したレイラが振り返ると、慌てたように母は窓を閉めに行っている。
また咳……。最近、母の調子が悪い事にレイラは気が付いていた。
ひどい時には心臓が痛むのか強く抑え、床に倒れ込んでしまう。
それをレイラはいつも傍で母が苦しむのを見ている事しか出来ないのだ。
「お母様。やっぱりお医者様に見てもらったほうが……」
「大丈夫よ。ちょっとした風邪みたいなものだから。あの人にも心配掛けたくはないから、ね。いつもの様に内緒よ」
「はい……」
レイラは俯いて、そわそわと指を絡ませた。
――母はいつも父に自分の体調の事を隠そうとするのだ。
仕事で忙しい父の手を煩わせたくはないからというのだが、レイラは母が心配なのと、父に隠し事をする後ろめたさの板挟みをずっと感じている。
「ほら、いつも言ってるでしょ。そんな顔をしていないで、いつもあなたは笑ってなきゃ」
母がレイラの頬に両手を当てて、顔を覗き込んできた。
それから母はぎゅっとレイラを抱き締めて、そのまま髪の毛に口づけをする。
「あなたはこんなに綺麗なんだもの。ずーっと笑顔でいれば、きっとレイラリアがすごく良い子だって皆わかってくれるわ」
「はい、お母様」
レイラは嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべ、そっと母を抱き締め返した。
母がそういうのなら、本当にそうなのだろう。
とはいってもすでに実行はしているのだが、現状がすぐに変わるわけではなく、効果を確かめようがないのだけれど。
それにレイラにそう言った言葉を掛けてくれるのは母だけであって、判断基準が母しかレイラにはないのだ。
レイラは学校に行っておらず友達もいない――これは父が勉強をしたくないのなら行かなくていいという言葉にレイラが二つ返事で返答したためだ。
だから、相談を出来る相手といったら家族だけで、それも父には心配を掛けたくないため言えないし、弟なんてものは論外だ。
あと、こう言った事を話せる相手というのは――そういえば最近知り合った少年くらいなものだ。
(……ファル)
ファルはレイラを見ても、他の人の様に避ける事はしなかった。
といっても彼は、どうやら怪我でそもそも目が見えてないためであるようだけれど。
――そうだ。今度、歌を教えてもらう日にこの事を訊いてみよう。
もしかしたらレイラの様な目と髪の色は、市場では珍しくないのかもしれない。
もしくは何か理由があって、レイラの様な人は避けられているのかもしれないかな、と。
そう思い立った所で、レイラはふと、ファルの布の中に隠された髪色が気になった。
(ファルの髪って何色なんだろう……)
そんな事を考えたからだろうか、レイラは母の抱擁から離れ、鏡に映る自分にさらりと流れる髪に視線を遣り、ふと思った事を言葉に漏らした。
「私、綺麗な黒髪が良かったなぁ……」
「っ……どうして?」
母が少し息を飲んだかのように呟いた。
レイラは思っても見なかった反応に少し視線を上げると、母の瞳がかすかに揺れていた。
「……どうしてだろう」
レイラは首を捻って少し考えた。
母は赤褐色、父は濃い茶髪の髪でこの地方に多い髪色だ、それから弟は祖父に似た薄い金髪だ。
そう考えると自分は一体、誰の血を引いてこうなったのか不思議でならない。
(あの長い黒髪の女性誰だっけ……)
脳裏に少しばかり浮かぶのは、まるで幻想の様な朧気な黒髪の女性の後ろ姿だ。
もしかしたら小さい頃に会った事がある親族に黒髪の女性がいたかもしれないと思い、母に聞こうとした時、部屋の扉が軽く叩かれた。
「奥様、お嬢様。旦那様のお帰りです」
使用人の声に、すぐに母は立ち上がり返答をした。
レイラはその知らせに顔を綻ばせ、慌てて鏡に向き直り、せっせとおかしな所がないか確認する。
といっても相変わらずおかしな所といえば癖っ毛な髪だけだ。
――だから、聞こうとした質問なんてものは頭の中から消え去っていた。
「やあ、レイラ。今日も元気かい?」
しばらくして父が扉を通って、顔を見せてきた。
現れたのは優美な髪飾りで揺れる長い茶色の髪を後ろで纏め、貴族の仕立ての良い服を着た男性だ。
濃褐色の瞳は弧を描き、まだまだ働き盛りの人の良さそうな笑顔を浮かべている
それを見て、レイラは満面の笑みを浮かべて、父に駆け寄る。
レイラ達が住む王都と父が治める領地は離れているし、また仕事で忙しくレイラは父と顔を合わせる事は滅多にないのだ。
いつも父はそのお詫びとばかりに様々な贈り物を持ってくる。
「イザベラも、大事ないか?」
扉の傍で控える母にも父は声を掛ける。
母はいつもの様にまるで使用人の様に、礼儀正しく父に軽く笑みを浮かべ貞淑な仕草で頭を下げた。
レイラとしてはもっと母も、自分や父の様に笑顔で家族を迎えればいいのにと思っている。
それこそ両親がもっと仲睦まじくして欲しいし、二人の時間を過ごして欲しいとも思っているのだ。
それと対照的なのが父の笑顔だ
父はいつも笑顔で私に笑いかけてくる。お母様に向ける笑顔、使用人に向ける笑顔、商人に向ける笑顔。どれも同じで、相手を朗らかにさせる笑顔だ。私の父は本当に誰にでも優しいのだ。
駆け寄ったレイラは上目遣いで、にっこりと満面の笑みで見上げる。
「お父様、十六日ぶりのお久しぶりです。お父様もお元気でしょうか?」
「もちろんさ。それにしても最後に会ってから……おや、そんなにも経ってたか。それで我が家の天使はちょっとおかんむりなのかな」
父はからかう様に声を上げ、レイラはぶんぶんと首を振る。
「怒ってなんかないわ」
「そうかい、じゃあ、お詫びといってはなんだけどね、これを受け取って欲しいな」
父が合図をすると、召使いの一人が大きな箱を持ってきる。
恭しく差し出された箱にレイラは、父の頷きを待ってから手を掛けた。
「わあ、綺麗。ありがとう、お父様!」
中に入っていたのは薄淡い青色のドレスだった。
レイラの丈に合わされて作られているのだろう、持ち上げて鏡の前で体に合わせるとレイラの銀髪が映えレイアは顔を綻ばせ、父に礼を言った。
「気に入ってもらえて何よりだ。……前にもっと質素な服がいいと聞いた時には驚いたけどね。そういえばまだあの服を着て出かけているのかい?」
あの服というのは、レイラがファルの所に出かけている時に来ている服だ。
いつだったかファルがそんなひらひらした服を着てたら教えない、と言い出したのでレイラは母に頼んで地味な色の動きやすい服を一着ねだったのだ。
「う、うん。ちょっと散歩に行ってるだけ」
「ただの散歩に? それにしては、ここしばらく楽しそうに出掛けていると聞いているよ」
レイラは家族に自分がどこに行っているかは教えていない。
それもファルとの約束の一つだ。
「もしかして、植物園のほうに行っているのかい?それとも……」
父は笑顔のまま、考える様に顎に手を当てるが、レイラが言葉を遮った。
「ひみつ!お父様だけには絶対言ーわない!」
父は肩をすくめ、それから母のほうに体を向ける。
すると母は、父の視線から逃げるように顔を脇に逸らした。
「あ、お母様に聞くのも反則よ。お母様も言っちゃ駄目だからね」
母は三日毎に出ていく自分を見送っているのだ、もしかしたら何かしら気づいているのかもしれない。
レイラの慌てて口の前で人差し指を構える仕草に、表情を硬くしていた母も少し笑みを浮かべた。
「わかったよ、レイラ。どこで何をしてもいいっていったのは私だからね。迷惑を掛けなければ、王宮の庭園を散歩してもいいし、他の貴族の子と遊んでもいい……それこそ前にレイラにお願いされた様に市場にだって行っても良いよ」
父は最後の言葉言った後、少し大げさに息を吐いた。
母が何やら言いかけそうに口を開いたが、父が視線を向けると母は口を噤んだ。
「さて、この話はお終いだ。それで、レイラのその贈り物なんだけどね。それを着て今度開かれる王宮の舞踏会に出て欲しい」
「えと、私が舞踏会に?」
「そう、その日は建国三百年目。ガルニシア王国がマルクトフ・ガルニシア陛下の御手によって大国となった事を祝う日だよ。まあ、バルムラボス戦役の祝賀会とも言うけどね」
レイラは聞いたことがない言葉に首を捻り、それから気になった事を父に尋ねた。
「え~と、建国三百年って、国王陛下は今年で何歳になるのかしら?」
「御年四百三十七歳であらせられるよ」
「わー、すごーい」
思わずレイラはぱちぱちと手を叩いて驚いた。
「でも、おじい様のお父様もものすごく長生きだって前に聞いたわ」
レイラが生まれる前になくなった曾祖父の事だ。
「そうだね、我が一族は長生きの血を引くようでね。私の父は百十六歳だし。私も今年で七十三歳だ」
レイラは父の言葉に愕然とした。
――父も祖父もそんなに長生きだったのかと。
前に、傍で仕える年老いた召使いに年齢を聞いた事があるけど、確か父とそう変わらない年齢だったはずだ。
それこそ領地にいる祖父だって百歳を超えているのに、たまに父と兄弟だと間違えられると、食事の際によく冗談で言ったりしていたのだ。
(え~と、という事は私が生まれたのは……)
悩んでいるのが表情に浮かんでいたのだろうか、それとも計算をするのに指を使っているのに気づかれたからだろうか、父が含み笑いをしながら手を抑えてきた。
「レイラは今年で十二歳だから私が、六十歳の時の子供だよ。言っておくけど、長生きする人にとってはこれ位が普通だよ。最近は晩婚化が進んでいるからね」
ばん、こん、か……?
また顔に出ていたのか、すぐに父はレイラの頭に手をやり、くすっと笑った。
「舞踏会で良い子にしてたら、レイラも千年だって生きられるぞ!」
「本当に、やった!!だったら良い子にするわ。あ、もちろん、今も良い子だけどね」
なんだかよくわからないが、長生きする事はいいことらしい。
レイラは父に頭を優しく撫でられながら、両親が揃っている幸せを噛み締めていた。
それからレイラは、舞踏会に自分が呼ばれた理由が気になった。
悲しいかな、学校に通ってなかったせいでレイラは貴族の令嬢なら嗜んで当然の踊りも踊れないし、舞踏会などにも一度も行った事がないのだ。
「もしかしてアレクも来るの?」
弟の名前を告げ、子供達を全員招待する舞踏会なのかと考える。
アレク―アレックスは、幼い頃は一緒に住んでいたが、レイラと違い貴族の学校に通い始めてからは年に数度顔を合わせる程度だ。
嫡男として学校に通っている以外は、祖父の所で領地の経営などを学んでいるらしい。
「あの子はまだ幼いからね。招待された理由は、これから一人前になる貴族の子息、子女が一人一人、陛下の前に出てきちんと挨拶をするためなんだ」
「挨拶……」
レイラは少し青ざめた。習い事はちょっと気に入らなければ、すぐにやめていいと両親に言われているため、どれも長続きしていないのだ。
もちろん、礼儀作法も。それこそ踊りだってだ。
悲しいかなファルとの歌の練習が、習い事の最長記録を更新したばかりなのだ。
「どうしよう、私陛下の前でなんて……出来ないわ」
おろおろしたレイラを見て、父はレイラの手を掴んで、ゆっくり話しかけてきた。
「別にレイラはやりたくないなら。私に任せてくれればいいんだ。挨拶だって出来なくても大丈夫だよ」
「でも、お父様に迷惑がかかるでしょう……?」
ちら、と視線を合わせたレイラの目に、珍しく笑みは潜み、苦しんでいる様な表情を浮かべた父が映った。
だから、私がちゃんとしないと父が困ることになるのだと、すぐに察した。
「私、礼儀作法も踊りもちゃんと勉強するわ、舞踏会までにきちんと出来るようになる」
「……嫌なら、少しでも気に入らないならやらなくてもいいんだよ」
「ううん、私、やってみたいの。前みたいに投げ出したりしないから」
実際、本当に自分は我慢が出来ず、投げ出すのが早すぎたのだと今は実感している。
ファルとの練習で――以外とスパルタな彼のおかげでレイラは我慢のなんたるかを少しばかりは学んだのだ。
「でも我慢はしなくていいからね。それだけは、絶対にいいね」
父の念押しする声に、レイラはしっかりと頷いた。
視線を父の肩越しに母にやると、母は心配そうな表情でぎゅっと胸の前で両手を握っていた。
それから、食卓に向かい久しぶりに両親揃っての食事をとることになった。
レイラは先ほど、礼儀作法も勉強すると言い切ったばかりなので、無駄に緊張して椅子の上で固まっている。
一応母の見様見真似で食事の作法は出来るのだが、父の前で無様な姿を見せたくないと思わず身構えているのだ。
そして食事が運ばれる際、給仕をするメイドの手が微かに震えているのをレイラは気づいていたが、自分の動作に手一杯で特に気にする余裕はなかった。
まだ雇われたばかりの若い女性だし、今日は父がいるから緊張しているのだろうと考えた。
レイラはちょっとひきつった笑みで背筋を伸ばして、最初に運ばれたスープに身構えた。
――それを二人の男女が、じっと見つめていた。