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池袋 1998

作者: パタゴニア・ロウ

処女作です。

勢いだけで一気に書いたので、いろいろと滅茶苦茶なところが多いですが、今の私の力ではどうにも纏まりません。

1998年12月31日の午後の事。

池袋あたりでは冬に氷が張る事も無いが、この頃になると時々、東北の田舎町のような匂いのする空気が青く澄んだ空から降りてくる事がある。そう、ちょうどこの日もそうだった。街は、午前中から泣きたくなるような懐かしい冬の匂いに満たされていて、青一色の空が東京にはまるで異質な清らかさで広がっていた。

私はこの日、夜明け前からそんな晴天の気配を高架橋の一つ向こうに感じながら、朝の七時過ぎに部屋に戻って布団に入った。そして、午後二時過ぎに目覚めた時には街全体がまるで透き通った金色の水にとっぷりと浸かっているかのような、豊かで穏やかな陽の差す午後になっていた。

たとえ、どんなに澄んだ一日だったとしても、午後の目覚めはいつも不快なものである。私はとりあえず煙草に火を点け、部屋の窓から長屋の前の公園を眺めてみた。同じ長屋に住む宮本がサッカーボールを小脇に抱えて公園の広場に降りて行くのが見えた。それは何の合図でもなかったが、私は咥え煙草のまま急いでフリースを羽織って公園に走った。私だけではなかった。同じ長屋に住んでいた他の学生達も程なくして全員が公園に集まり、ニヤニヤと、その『始まり』を待望した。皆、待っていたのだ。この何の意味も無いサッカーを。

私たちは、まるで子どものように大ハシャギでサッカーの真似事を始めたのだった。

そうするしか、誰も、この現実に対する仮借ない怒りや悲しみを己の胸の内に収めては、とてもこの大晦日という一日を築40年の長屋の一室で一人で過ごす事など出来そうになかったのだ。盆も、正月さえも、世間の旗日など当時の私たちには敵でしかなかった。馬鹿野郎、馬鹿野郎と、こんなレールを敷いた大人たちを恨み、おもしろ半分でこんな腐った列車に飛び乗ってしまった自分に対して馬鹿野郎、馬鹿野郎と呟き続けるしか、それでも生き続けようとする活力が湧いてこない日々。人間、涙なんて、すぐに出なくなるもので、出るのは尿と糞ばかりになり、やがて入る音は鼓膜で止まり、一切の声は脳まで到達しなくなる。こうなると人は意図も簡単に死ねるようになる。世間一般に暮らしている人の中で、『希望』という意識を完全に失った人間というものを見たことがあるという人はいるだろうか。希望を失った人間というのは、実際に目の当たりにすると怖いものである。真冬に道を歩いていて、疲れればその場で横になり、その場で眠り、凍死しても「まぁいいか」と思える、そんな人間である。

夏は暑いから服を着ないで買い物に行っても良いか思い、公園で不良に絡まれてリンチを受けても「まぁ死んでもいいや」と思い、ウイスキーをラッパ飲みして「このまま死んでもいいや」と思える。そんな風に精神を病んで次々に仲間達が死んでゆくのを見るのが怖かった。


この日は皆、無理に笑っていたのか、或いはそれが本当だったのか、ただ、悲しみの先に作る人の笑顔は気高く鮮やかで、最早、何もかもどうでもよく思わせる蠱惑を持って、そこにあった。

私の場合、全力でやるしか今ここにいる意味が無いような、然もすれば泣き出してしまいそうな気分を美化したくて、できるだけ疲れるように息を切らして全力で走っていただけであったが。

その公園は四方をぐるりと干乾びたボロアパートに囲まれた中庭のような小さな公園であった。

ちゃんとした名前なんてあったのかどうか、ただ、真っ平らに固く白い砂が敷かれ、端の方にトイレとブランコを置いただけの無機質な公園であった。

今は如何だか知らないが、当時、その辺りは東京のほぼ中心にありながら安い下宿屋ばかりが建ち並ぶドヤ街として名の知れた地区だった。一帯は人もすれ違えぬ程細くて暗い路地が方々に張り巡らされ、南向きも西向きも無く木造二階建ての長屋がそれぞれに区画一杯、軒先どおしの隙間に梯子の先も通らないほどの密度で乱立していた。かつて、上空からこの一帯を見た一人の政治家が「東京の景色に大きな穴が開いている」と失言して釈明会見を行った事もあるそうだが、世間の一般からは、さらに酷く『東京のゴミ穴』等と揶揄され蔑まれていた地区である。

当時、私もそのゴミ穴の中でゴソゴソと我が物顔で這いまわる不格好なゴミ虫のような暮らしをしていた。しかし、この大晦日のサッカーは私の人生において最も美しい、忘れ難い思い出となって今でも鮮明に思い出せる。

当時、正月までこんなドヤ街で迎えようとする物好きはそうそうあるものでは無かったらしく、大晦日の昼過ぎには何処の細い路地を歩いてみても全く人の気配というか、街の底辺にいつも流れているような人の雑音がすっかり無くなっていた。どれほど自堕落な生活を送っているように見えた住民達でも年越しの金くらいは貯めて、年末に、この『ゴミ穴』から脱出したのには驚いた。増して、それでもここに留まるしかない自分たちにはサッカーでもやるしかないではないか。皆のあんなに屈託のない笑顔で走り周っているのを見たのはこの日が最初で最後だったような気がする。

皆、とある借金によって学費を払ってしまった学生ばかりだった。そんな私たちは酷く古い長屋に住まわされていた。そこに集められた全ての若者は、新聞の配達やら勧誘やらで、とにかく借金をすべて完済するまでは逃げ出すことも許されず、朝の三時から夜の十時まで月休一日、休刊日は昼まで休みという、月に一日半しか休みの無い超法労働でひたすら働かなければならない義務を負い、非情というにも余りあるどん底の生活送っていたのだった。人権だとか労働基準法などという言葉すら知らなかった十代の私たちの無知が悪かったんじゃないかとさえ今は思う。

金も休みもない若者たちは田舎から上京してひと月足らずで、ある意味で真の都会的な容姿になってゆく。

白無地のTシャツに黒いジャージズボン、健康サンダル姿になり、髪は互いに切りあうので、みんな坊主が伸びたような美川憲一のような髪型になる。こうなってしまえば、ティッシュ配りもビラ配りも手を差し出して来ないし、客引きに声をかけられる事も無い、完全な『地元民』である。私もそんな格好で山手線に乗って新宿でも渋谷でも行ったし、青山のライブハウスにも入ったが、他人にどう見られているかなど、気にする事も無くなっていた。

気が付けば、いつしかそんなものになっていた私も、その街に来るまでは生まれ育った田舎で高校を卒業するまでは、Gパンだのバッグだのにこだわった恰好付けな普通の田舎者であった。

家は代々の土地持ち農家で、親は会社経営。学生身分で食いたいものばかり食い、高い酒も一通り飲み、タバコをふかし、毎晩夜中まで女を抱いて昼間は暖かな教室で居眠りという怠惰な日々。典型的な田舎の中流家庭に育ち、おかげで体は中年のように肥え太り、ただ漠然と何か新しい楽しみは無いものかと考え、何も思い付かないまま毎日が過ぎてゆく。好奇心や欲求を満たすだけのものが、その田舎には最早無くなっていたのは確かで、そんなくだらない好奇心の一端から時折、東京で一人暮らしをしてみたい等と思ってみる事はあったが、具体体に何かやりたい事があった訳でもなく、それほど真剣に上京を考えてはいなかった。今更ヒョロヒョロで理屈臭い都会の学生達とつるむ気も、薄情で自尊心の塊のような都会の女と遊ぶ気にもなれず、もし都会に住むのであればもっと都会の奥底、濃密な世界の中心に入ってゆけるのであれば都会に出ても良いかと、夢見事のように考えるだけ。上京なんてものは世間一般の『もし、宝くじに当たったら』程度の妄想でしかなかった。そんな妄想よりも、近所の工場なんぞに勤めてこのまま田舎太りの小金持ちな中年になって、休日に悠々とセルシオでジャスコにでも買い物に行く人生でも良しと、そんな人生計画の方が、よほど現実的であったし、そんな事を思ってただボーッと一日が終わるのを待っているだけの生活の方が怠惰で心地良いものだった。

そんな高校生活も最後の年、偶然、校内のどこかで目にした『新聞奨学生募集』という文字がなんとなく目に留まったのである。それまでの自分にまるっきり縁の無かった言葉。『奨』という文字など、なんとなく金の糸で刺繍したらいかにも格好良さそうな形だなと、その程度。今のようにネットでも普及していれば、すぐに検索してそれが何かが分かるのだろうが、そんなものが無かった時代は面白かった。検索した言葉は自分の中に蓄積されているデータだけで意味を返して、詳細は体験してみるしか分かりようがない。全てはプールや、お化け屋敷といったものと同じで、飛び込んでみなければ水温も中に何があるのかも分からないのである。

私の中のデータが初めに返した『新聞奨学生募集』の意味、それは『クレバーな人間に東京の新聞社が金を出して指導者を育成するスポンサー的なニュアンス。要はタイアップのオーディション』。ネットの無かった時代にはこんな面白い答えが出たのである。

幸か不幸か当時私の通っていた高校に奨学生というものがいなかったために教員達も詳しく分からなかったのだろう。又は私が真剣に訪ねていると思っていなかったのか、教師たちはまるで冗談半分に「学費払えないやつは、頼めば代わりに新聞社が金出してくれるんだわ」と言い、そんな説明を踏まえた上で図書室で広辞苑を見ても、要すれば『貧しい学生達の共同生活』と理解せざる得ない訳で、私には充分過ぎるほど、そう理解した。

この歪んだイメージに、私は腹の奥を擽られる様な興奮を覚え、そんな世界を想像しただけで全身むず痒いようなテンションで毎晩なかなか寝付けなかったほど想像力が膨らんだ。

これは面白い。

お金が無くて缶コーヒーが買えない。牛丼が食えない。週刊誌が買えない。Tシャツが買えない。

お金が無い事で泣いた事がある。何かを諦めた事がある。誰かに何かを頼んだ事がある。

今まで、そんな人が身近にいなかったから。

ドラマや漫画の中でしか見た事がなかった。ドラマや漫画の世界でも、そういった人は主人公なり脇役なり一人か二人くらいなものだろう。

それが集団で生活するとはどんな世界であり、それぞれの人がどんな価値観で万物を見て、互いに共感して共同生活しているのか、私でなくても潜入ルポしてみたいと思ってしまわないだろうか。少なくとも私は、自分の意思で極貧の世界を経験できるならばタイアップよりもっと面白いと思ってしまってた。

私は一週間も悩まずに応募の書類を書き揃えて投函した。

案の定というか、応募してからの私の生活は実に急速な流れで乱走し、しかし、それは大いに楽しめるものでもあった。学校では教師達からは訳も分からず、しきりに「偉い」と声をかけられ、親からは「金ならあるのに恥ずかしい真似しやがって」と罵られ、自分でも少しは自分のした事が『偉い』のか、『恥』なのか考える事もあったが、そのあまりの両極な反応振りに、もうどちらの相手もする気が失せて、ただ、そんな田舎の環境から一刻も早く抜け出したくて、この生活の『終わり』を待ち望んでいた。

それは高校の卒業式があった次の日のこと。朝に電話が鳴り、今からすぐに新宿のビルに来るよう告げられ、それっきり借金完済まで家には帰れなくなった。この時点で相当面白い。後戻りできないお化け屋敷宛ら、一寸先に何が待っているのか全く想像すら出来ない。私が部屋を出るときにやっと目を覚ましたベッドの上の女に「ちょっと東京行ってくるよ」と言ったきり、読みかけのマンガもベッドの横に投げたまま、財布とマルボロ一箱、百円ライター一個だけしか荷物の無い上京だった。

初めて乗った山手線に、初めて歩いた新宿の街、駅前の看板地図を頑張って暗記した記憶を頼りに奇跡的に行き着いたビルでは受付で簡単な履歴書を書かされ、番号だけ書かれた名札を渡され、それを胸に付けて四階で待つように言われた。受付で私の後ろにはすでに数人の学生らしい若者が並んでいた。

この日、このビルに集まっていた若者達もそうだったのだろうか、私がこのビルに辿り着いたのは本当に奇跡としか言いようの無い事である。後に東京での暮らしも十年を超えてから、再度このビルを見てみたくなって探して歩いた事があったが、見つける事が出来なかった。その後、最近になってストリートビューで探した事もあるが、やはり見つける事が出来ない。あまりに雑多な中のありきたり過ぎるビルだったので、今ではどうやっても辿りつけないのだ。

初めて行った東京で、初めて辿り着いた目的地だったので、そのビルの中の景色は今でも鮮明に覚えている。

そのビルにはエレベーターが無かった。入り口から正面の何の飾りも無いただの広い階段は毎日掃除してあるのは分かったが、消せない深いくすみが慣れていて、すごい数の人間が行き来したことを物語っていた。あのときの私にはそんな汚れさえ都会的に見えたものだ。

誰の案内も無く、これで良いのか?と少し不安になりながら上がった四階は静まり返ており、廊下は異常に狭く、手前には狭い部屋へ入るのであろう扉が。そして正面奥の『奨学生待合室』と書かれた紙の貼ってあった扉を開けると、そこはまるで温泉宿の宴会場のような部屋が広がっていた。

畳で、ただ広いだけの部屋。奥の壁際には沢山の布団が積み上げられていた。元々オフィスだったところに畳を敷いたのか、部屋は横一面が窓にはなっていたが、景色は隣のビルの配管とその後隣のビルとの隙間が見えるだけだった。そして何より先ず目に入ったのは部屋の壁際や中央など、一定の距離を保って四十人ほどの『本当に貧しい若者達』が寝転んでマンガを読んだり、宙を見て座っていたりしており、部屋は早春だというのに脂臭いような、嫌な臭気にうっすらと満たされていた。

その景色を見回した瞬間、私はこんな世界に、今まさに自分が入ってしまったのだという実感にゾクゾクと身震いがした。何だろう、嬉しさというより期待だったのだのだろうか、極上の女とホテルのドアを開けたときのような感じに近い。未知ではあるが、その先にこれから楽しい刺激があるのは間違いないと本能的に感じ摂れる非日常な光景が眼前にある。

今まで、『自分の人生』というゲームを、すでにエンディングを見た後に細かいアイテムを拾い集めるように繰り返し繰り返し行っていたような、それが今、『貧乏版』或は『都会版』とでも云うような新たなストーリーのゲームのスイッチを入れた感覚とでも表現したらよいのだろうか。今朝までの生活からパッと変わったリセット感はまさにTVゲームのようだった。

ただ、私がそんな調子だったので、このとき私が感じたその場に漂うもの、ここに居た若者達が一様に持っていた独特な表情というかトーンというか、それらが何だったのか知る由も無く、後にそれこそが『悲壮感』というものだったのだと分かったときには私もそんな表情になっていたのだろう。

とにかく、この時は、その部屋で待っていれば自分の番号が呼ばれると言われていたので、私もそこに居た皆と同じように適当に人との距離をとって座った。そして、これは本当に偶然だったが、そのとき私の隣に座っていた男が極度の寂しがり屋だったのか何なのか、異常に親しげに私に話しかけてくる男だったのだ。

「こんちわ。オレは鹿児島から来たんだけど、君は何処から来たの?」「オレはもう三日目だよ。夜はあそこの布団を敷いて適当に寝るんだよ。」「番号呼ばれたときにトイレとかで部屋に居なかったらそれでもう、その面接は終わりだから気を付けな。」「東京暮らし始まるんだな。いやぁ、楽しみだよな。」

皮ジャンディテールのビニールジャンパーを着た坊主頭のその男は男前でわりにしっかりした目つきをしていたが、正直私はその男が煩わしくて仕方が無かった。その広い部屋でしゃべっているのはその男だけであり、「夢」「希望」「友情」など、体中に溜まりすぎて黙っていられないような、言葉がまるで失禁のように口からこぼれているようなその男の言動は本当に煩わしかった。

その後、数時間のうちに幾人かが番号で呼ばれて出て行き、幾人かが新しく部屋に入ってきた。まだ春も遠いこの時期、田舎育ちの私は傾き始めた太陽に橙色を帯びてきたビルの壁を見て何だか怖いような感覚を覚えた。

夕方の都会に居たのはこの日が初めてだった。今から家に帰っても昨日までと同じ夜には間に合わない、そう思ったら何だか急に怖くなった。天井のスピーカーから淡々と一つの番号だけが告げられるので、スピーカーのスイッチが入る「ボツッ」という音がする度、皆、緊張して一点を見つめる繰り返しを何度見てきただろう。もうすでにそれがわざとらしくさえ見え始めて、飽きて、やっぱり今までの生活に戻りたくなっていたとき、ふと呼ばれた番号が私の番号だと気が付いた。

私の隣でしゃべり続けていた煩わしい男は「君は早い方だ。まあ、一回目は様子見だと思って気楽にな。」などと言っていたが、私は部屋のすぐ外で待っていた男に隣の小さな部屋に案内され、そこに立っていた背の低い人相の悪い男に名前を呼ばれ、「お前は返事がいい」という、どうでもいい理由で住む場所と仕事先が決定した。

その後、『面接』をしたすぐ横、衝立の向こう側で何枚かの書類に名前を書かされていたとき、何となく、さっきの大部屋でずっと喋っていたあの男が哀れに思えた。顔も格好良いし性格も悪い奴ではないだろう、ただ、貧しさというものはどうして嗚呼も人を足らず者に見せるか。せめて並みの家庭に生まれていたら、それだけでも彼はよほどモテただろうに。

不安で喋るからはじかれる、はじかれるから寂しくてもっと喋る。負の連鎖。私の後にも二人ほどその狭い部屋に入って来たが、あの『喋る男』ではなかった。あいつは今夜もあそこで布団を敷いて寝るのだろうかと、そんな事を思いながら名前を書き終わった書類を持って私は部屋を出た。

その後の手続きはすべて後日に後回しで、とにかく私はあの面接の人相の悪い小男から「付いて来い」とだけ言われ、『東京のゴミ穴』にある『店』まで連れられた。

途中、電車の乗り方も知らなかった私は東上線への乗換えが分からず、後ろを振り返らない小男と池袋駅ではぐれて途方に暮れたり、小男が『歓迎』と称した食事は駅裏の小さな中華料理屋での八宝菜だったり、とにかく目まぐるしくチカチカするような一日から私の極貧生活が突然に始まったのだった。


私が始めて店に来た年、店には私を含め九人の学生と六人の専業がいたが、特に専業は『終わっている』人間しか居なかった。店の店主は元序ノ口力士で、人相は悪かったが唯一まともな人間だった。

私を『返事面接』で選んだ人相の悪い小男は主任であり、元ヤクザで、笑い話の最中でも何かきっかけがあれば一秒後には狂ったように最高潮まで怒って暴れることの出来る『芸当』の持ち主。それが原因で組を破門された男であった。

その他、レース中の事故でノドをやられて声が出なくなった元競輪選手。酒とギャンブルで店にまで毎日取立てが来ていた元会社員。どもりがひどく、日常会話が出来ない酒乱の男。容姿がひどく貧相で、給料を全て毛皮のコートとブランドの靴に変えてしまう六十男。生涯ロック歌手だと言い続けていた四十半ばの太った色白男も居た。

皆、元はばらばらだったが、唯一の共通点は全員が破産と離婚を経験していた事だった。

学生達も朝三時から夜十時までこのような大人たちと仕事をしていれば受ける影響も少なくない。中でも、酒とギャンブルで破産した元会社員の男の生き方は貧しい田舎出の学生達の目には『都会的』に映るようで、私より幾年か前から店に居た学生達の中の数人は、日の出前からこの男を囲むように板間に座り込んでスポーツ新聞の競馬、競輪、競艇、パチンコ攻略と、徹底的に読みふけり、日中はこの男と共にパチンコ屋に入り浸る学生生活を送るようになっていた。

そのうちの一人の学生は二十歳で破産し、破産した数日後の夜に忽然と店から姿を消した。朝三時を過ぎても彼が店に来ないので、どもりの専業が叩き起こしに行ったが既に居なかったということだ。池袋の警察も、彼の地元の警察も結構真剣に探したらしいが、結局見つからず終いだった。私はその後一度だけ、彼がボロアパートの玄関先に出来た底無し沼に沈んでいく夢を見たが、あまり話をしたことも無かったので、それ以来あまり気にかけることも無くなっていった。

私と同期で店に来たのは四人。後に彼らと再び会うことは無かったが、私の中で彼らの存在は最も深い部分での絆、それは当に戦友とでも云うような存在として今後も忘れることは無いだろう。

あの店では、本当に僅かな選択ミスで誰もが死んでいた。私だってそうだった。生きるか死ぬかなどその日その日で五分と五分。何故こんなにも?と思うほどあっさりと人は消える。皆が多くの仲間を突然失い、残った者は目の前で起こる現実に正常な思考と判断力を失い、喪失感、怯え、悩み、怒り、そんなものがグチャグチャに入り乱れる中で自分達もギリギリで戦っていた。あそこは本当に戦場だった。今、こうして二十年ほどの月日が流れ、やっと客観的に振り返る事もできるようになったが、あの場から離れても、後の数年間、寝ていれば魘されて飛び起き、目覚めていればいつか必ず復讐すると心に刻み込む毎日は当に戦争の後遺症そのもの。当時の記憶に苦しみ、歯を喰いしばりすぎて奥歯が沈み、その痛みに耐え切れず奥歯を四本抜いたのは店を出てから一年後の事だった。死んでいった者はそれ以上に苦しんだから死んだのだろうが、やっぱりズルいと私は今でも思うし、そんな世界を構築した連中を生涯許す事はないだろう。


同期の中では私が一番乗りで店に入った。始めは一軒家の二階の一室をダンボールで半分に区切った三畳の部屋に住まわされた。もう半分の方には『どもり』の専業が住んでおり、彼が毎晩酒を飲んで深夜まで一々テレビにドタバタと地団駄を踏んで『ツッコミ』を入れていたので環境としては最低の低である。何より、私の『側』に出入り口が無く、トイレに行くのにその『どもり』の男の部屋を通らなければいけなかったので夜などはトイレに行けず、仕方無しに夜は空いたペットボトルに小便をして昼のうちにそれをトイレに流しにいくという有様だった。後に聞けば、最初のうちに脱走する者が後を絶たなかったために夜は部屋から出さないよう、誰もが始めはその部屋に住まされるとのことだった。

その後、一週間ほどで六畳の和室と一畳の台所の付いた近所のアパートの二階に引っ越すように言われ、やっと部屋と呼べるような部屋に引っ越したのだった。細い路地の突き当たりにあったそのアパートは築四十年近い建物だったが、まるで古い旅館の一室のようで今思い返しても結構良い場所だったと言える。その部屋で、後から来る同期の男と共同生活をするようにとの事だった。

その同居人は戸田という男で、初めて戸田がこの部屋に来たとき、彼はあの時代では珍しかった完全ホワイトに髪を脱色し、赤黒チェックのパンクスーツで、眉毛の無い非常にキレのある顔立ちをした身長160弱の男だった。私は別に容姿どうこうでは何とも思わない性格だったので、そのときはただ「よろしく」と無愛想な挨拶をしただけだったが、何日か一緒に生活をして話をしていくうちに彼の考えていることが非常に面白いものだと気が付いた。戸田はバンドのボーカルとして成功を夢見て東京に出てきていた。音楽の専門学校の入学試験で歌を歌い、特進コースへの入学を果たしていた。更に木炭で絵を描いて見せたり、古いカメラでモノクロの写真を撮って回ったりと、とにかく芸術肌の男だった。彼は長崎のとある離島の生まれで、実家は島民が四十人に満たない島で喫茶店を経営。両親共に、やはりかなりの芸術肌らしく、月の売上げが二万円に満たないその店に大変なこだわりを持っていたそうである。戸田は学費の他、東京までの上京費や衣装など全て借金をしてこの場所で私と巡り会ったのだった。

同じ部屋で過ごすうちに私も暇に任せて彼には自分の身の上など、ここへ来た経緯を率直に話したが、彼も大いに楽しんでくれた。結局、戸田も『なるべくしてこうなった』と悲観的になるより、『より中心に近い』東京の生活に期待していたのだった。

それから一週間ほど過ぎてもう一人の同居人が来ると言われた。『神戸』から『クリス』という男が来ると聞かされ、私も戸田も即座に期待した。ハーフでもガイジンでもそんな事はどうでも良かった。『神戸から来るクリスと同居』、それだけで私たちにとっては十分過ぎるくらい楽しい出来事ではないか。特に戸田は「さすが東京。そいつに音楽仕込んで三人でバンド組もうぜ」とはしゃぎ、昼前に仕事から部屋に戻っても夕刊配達までの『命を繋ぐ仮眠』も摂らずに窓の手摺りに肘をかけて通りを眺め、ずっと『クリス』を待っていた。私は横になったが、戸田がカーテンを閉めようとしないので眠れず、結局、彼と共に通りを眺めた。

早春の本当にぼんやりと天気の良い日で、私はそのとき眺めた細い裏通りに、初めて自分が今、東京に暮らしているんだなと実感した。

そんな時、戸田が急に笑い出した。

「おいスゲーぞ、見てみい。西郷隆盛が歩いとる。」

戸田が指差した先には西郷隆盛というか、裸の大将というか、とにかく本当にそんな感じの若い男がやけにキョロキョロしながら歩いていた。

「カメラどこにやった?あんなん滅多におらんし写真撮っとこーぜ。」

戸田が敷き放しの布団の隅をまくったりしてカメラを探し始めると、西郷隆盛はこのアパートに向かって路地を歩いて来た。そして階段を上がる音がして私たちの居る部屋の戸がコンコンと鳴った。

「あっはっは、何じゃ、あの西郷さん勧誘かいな?とりあえず写真だけ撮らせてもらおか?」

戸田はまだそんな事を言って笑い転げていたので、私が玄関まで行って戸を開けた。

「こんにちは。僕、栗須って言います。ここに住めって言われて来ました。よろしくお願いします。」

そのときの戸田の驚いた顔は今でも忘れられない。

その日から三人での生活が始まった訳だが、栗栖はまるで修行僧のような男だった。無口、粗食、何にでも耐える。戸田は栗栖の最初の印象がよほどショックだったのか、彼の性格が受け付けなかったのか、栗栖をひどく嫌い、無視し続けていたので私もなんだか栗栖とは話しづらく、結局彼の生い立ちなどは何も分からないまま『終わった』。

栗栖はその年の夏の初め、集金に行ったマンションの十二階の非常階段から飛び降りて砕け散った。

それに理由なんて無かったんじゃないかと思う。誰でもそうだったのだから。

綱渡りしている下で死神が足首を摑んでいる。

私は真冬の夜にとあるマンションの十六階、非常階段の手摺りに立ち、目を瞑って歩いた。大した感情も無い、一つの賭け。踊り場の方に落ちれば私は生きている。外に落ちれば自分なんてそんなものだったのだと。二歩目でよろけた私がその瞬間に発した最後の言葉は「おおっと」。

人間なんてそんなものだ。少なくともあの場所では、そんなものだった。

私は踊り場側に落ちた。栗栖は外に落ちた。

それだけの事。子どもが夏休みにやるちょっとした遊びと同じ程度の好奇心があれば自らの命など簡単に運に任せる事ができるものである。

私と戸田、そして栗栖との共同生活は一ヶ月ほど続いた。六畳の和室は私と戸田の布団や服で完全に占拠され、栗栖は流しのある一畳の板間にぴったりとはめ込む様に布団を敷いて、それでも何も文句は言わずに生活していた。賄いの無い日は一日分の食費として店から現金で千五百円支給されたのだが、私と戸田がその金でピザを取ったり、コンビニの弁当を食ったりしていても、栗栖は実家から持ってきた米と茶で茶粥を炊いて食っていた。茶粥以外に作り方を知らないのではないかと思うほど、彼はいつも茶粥を食っていた。

そんな三人での生活も一ヶ月ほど経つと、それぞれに一部屋ずつ割り当てられ、それぞれ百メートル弱の引越しをした。何年かかけて借金の返済が終わった者達が開放され、彼らの居た部屋に順々に移っていく仕組みだった。

戸田の部屋は六畳と二畳の二間で学生の中では最も広い部屋だったが、そのアパートは戸田の部屋と廊下を挟んだ向こう側の戸を開けると瓦礫と青空。数年前に崩壊していた。

栗栖の部屋は六畳で、私が最初に入った例の一軒家の応接間にあたる部屋だった。

私の部屋は四畳半で三人の中では最も狭かったが、このアパートが後に『ロックの聖地』として都内で話題になったほどで、住民が全て凄腕ミュージシャンばかりという非常に楽しめた場所だった。


私の入ったアパートは言ってみれば長屋の二階で、部屋は横並びに五部屋、一階はすべてパブやら針灸やらいつも閉まっている店ばかりだった。二階の部屋は全て借金返済の為に新聞屋で働かされていた学生が暮らしていた。

私の部屋は五つ並んだちょうど真ん中で、天井の壁紙が剥がれて梁が剥き出しではあったが、右も左もとにかく面白い男たちばかりの最高の環境だった。

一番奥の部屋に住んでいたのは平井という男で、彼は私よりも一年ほど前からここで働いていた。平井は高校二年、三年の時にプロも含めた全国エレキギターコンテストで二年連続準優勝を獲った天才肌のギター弾きで、東京に出てギター演奏の某有名専門学校に入ってからもずっと校内トップの成績を持っていた男だった。平井は北海道の出身でアイヌの血を引いており、家族は皆、伝統文化の保存に熱心だったそうで、テントのような家に住んだり、民族衣装のような服を着たり、鹿狩りをしたり、とにかく普通の仕事をしていなかったので生活は苦しかったそうだ。だか、私が見た限りでは、彼はアメリカインディアンのような顔立ちだったし、情に厚く何に対しても深く悩まないポジティブな性格の非常に好感の持てる人物だった。

平井の部屋は長屋の一番奥の角部屋であり、建物自体が長方形ではなく、通りの十字路に沿って角が斜めに面取りしてあったために彼の部屋も三角形になっていた。広さは三畳くらい、斜めになった長い辺の壁は全て窓という最悪の部屋だった。南西方向に全て窓だったために年間を通して日差しからの逃げ場が無く、夏の昼間は室温五十度以上が常であった。

そんな部屋でも平井はとある『女の子』と三ヶ月以上同棲をしていた時期がある。相手は家出して池袋を徘徊していた中学生だった。ある日、平井がサンシャインシティをブラブラしていると、水族館の何階か下、ひと気の無い非常階段で膝を抱えたまま蹲っている少女を見かけ、彼が帰り際にもそこを通ったとき、まだ彼女が居たので気になって声をかけたのだそうだ。彼の性格からして、下心は全く無かったんじゃないかと思う。そのとき、偶然というか運命というか、その少女は北海道の平井の生まれた町の隣町から家出してきた少女だった。片道分の金で東京に来てしまって家にも帰れなければ泊まるところも無い少女だった。本当だかどうだか、彼女は平井の顔を見て即座にアイヌの人だと分かって泣き出しそうなほど安心したそうだ。

平井はその少女をとりあえず自分の部屋に連れて帰り様子を見ていたが、さすがに二三日は私たち他の住人に言えずに隠していた。

だが、その『特殊な』アパートでは日中に部屋の戸を閉めているときは仮眠中か自慰という暗黙の了解以外で戸を閉めるものはおらず、一日中戸が閉まった平井の部屋は噂になり、気になった一人にあっという間にいつもどおりノック無しで戸を開けられ、そこに寝転がっていた少女も見つかった。そして、あっという間に皆が集まり、平井は皆に事情を全て話した。

皆も始めは「それはマズイ。」「捕まる。」などと言っていたが、それならばここの全員で金を出し合って少女を北海道に帰そうという方向に話がいったとき、誰も「金が無い」とは言いづらく、結局、最後は「この子をボーカルにしてバンドを組もう。」「東京で売れればこの子の親も喜ぶだろう。」「今日からみんなで曲を作ろう。」という話にまとまり、彼女は平井の部屋で暮らすこととなった。それから一ヶ月ほどが経って、若い男女二人が三畳の部屋で四六時中一緒に居たら当然なのだろう、平井は彼女を抱くようになっていた。彼女もこんな東京の奥底に居たら『社会』に見つかるはずも無く、平井が借金返済を終えて店を出る日までずっとその部屋に居続けた。

ただ、この同棲によって平井が何を得たのか知らないが、彼女が来てから彼の才能は目覚しく開花し、二月後にはインディーズレーベルからCDデビューを成し遂げ、彼のギターの前評判もあってCDは結構な売れ行きを評して、その金であっという間に借金を返済し終えてしまった。そして、平井は部屋を出るときに、元来の真面目な性格もあって、彼女を北海道の実家に帰すと決めたのだったが、こんな場所での生活が長かったせいか、その考えがややずれていた。

平井は部屋を出る前の日に、潰れているのか何か分からないような近所の酒屋の軒下で値札を付けて置かれていた錆だらけのサニートラックを三万八千円で買ってきて、その荷台に足りないほどの全家財道具と、助手席に少女を乗せ、北海道へと走り去っていった。私も皆とそのサニトラを見送ったが、停車しているだけでエンストして、荷物を積んでいる間にも何かの油が道に滴り続けていたそんな車での旅立ちも、その日の雲ひとつ無い晩秋の青空と相まって希望に満ちた幸せな開放に見えて素直に羨ましかった。

その旅立ちから二日後の深夜、平井と少女は岩手県の海岸道路から車ごと海に落ちて二人とも死んだ。ブレーキが壊れていたのか、心中だったのか、海から引き上げられた車の車内から遺品として出てきた二人の財布には二人合わせても1038円しか入っておらず、道にブレーキ痕も無かったため、警察は心中という結果を私たちの居た新聞屋に伝えにきた。

私たちは店の板間に集まって警官から話を聞いたが、涙を流す者は一人もいなかった。私も悲しいという感情を思い出せないかのように、ただ、ボーッとしていたのを覚えている。


平井の部屋と私の部屋のとの間の部屋には役者志望の安田という男が住んでいた。彼は中学時代からひたすらに石原裕次郎に憧れ、話し方や着る服も裕次郎と同じになるよう常に努力していた。この話は21世紀へのカウントダウンがもう始まっていた時代の話である。安田はいつも、小太りな体に派手な開襟シャツを着て、大きなレイバンのサングラスをかけていた。性格は冷淡というか、裕次郎以外の社会には興味が無い様子で、ただ、誰がくだくだ永延と仕事の愚痴など吐いても、飽きたりせずにじっと黙って聞いてくれたので、悪い人間ではなかった。そして彼は、例によって裕次郎の真似でドラムを持っていて少しは叩けたので弦ばかりのアパートの住人には重宝な存在でもあった。

そんな安田は沖縄の小さな村の出身で、実家は決して貧乏ではなかったが、彼のそんな嗜好が小さな村では噂になり、家は村ハジキのような状態になり、彼は家族の世間体のために自分から絶縁のような状態になって東京に出てきた。根はイイ奴だった。

私の部屋から安田とは反対の隣には宮本という浪人生が住んでいた。宮本は私が来た時点で浪人三年目だったが、本当に男の理想を全て持っているような完璧に近い男だった。この時期から七、八年ほど後にペ・ヨンジュンという韓国人がテレビに出始めたが、宮本とドッペルゲンガーのように似ていたので始めて見たときは驚いたものだ。性格は「弱きを助け、強きを挫く」を地でいくような強さと優しさを持って、いつも美しいほど清潔でシャンとした格好をしていた。彼は料理の腕も一流であったし、趣味で始めたギターも非常に良いセンスを持っていた。そして何より、長身で細く鍛え上げられた体は『ケルベロス』とあだ名されたほど見事なものだった。

そんな彼は生まれてから二十年間一度も彼女が出来たことが無かったため、ゲイなんじゃないかと誰でも一度は疑ったものだが、そうではない。彼は祖父母の代からとある新興宗教の熱心な信者であり、真面目で芯の強い彼は何があっても信仰活動を毎日欠かさずにこなしながら生活していたのだ。しかし、彼は状況や空気を読むムードメーカーとしての才能も一流だったため、ここで私たちや店の人間を勧誘したことは一度も無かった。

彼の部屋に女が来たことは一度や二度ではなかったが、彼のお祈りの時間が始まるまで部屋に居たものは一人もなかった。彼も悲しんでいたのだろうか。ただ、いつも優しく、笑顔の素敵な本当にカッコイイ人だった。

そして、階段のすぐ横に戸がある部屋に住んでいたのは松本という男だった。彼は私よりひと月ほど遅く店に入った同期の男だったが、最終的に私と一番語り合える友となったのはこの松本であった。彼も北海道出身で高校時代に全国大会のバンドコンテストで最優秀ベーシストを獲った実績があり、音楽の専門学校に通っていた。その点では平井と同じような経歴であったが、違っていたのは、松本はごく一般的な中流家庭で育ち、趣味半分の勉強で親に学費を出させるのが嫌だったために自ら借金をしてここに来たということだった。

そんな訳で松本は本当にしっかりしていた。無駄な浪費もせず、一年で借金は返済、二年目には特待生、学費免除であっさりと店を去っていった。彼は最後まで新聞屋の色には染まらず、いつも、夜のJ-WAVEのような語り口で、話をしていて心地良かった。

他にも戸田や栗栖のように他の場所に住まされていた学生が数人いたが、大体こんなメンバーである。

この場所では大なり小なり一年に三百六十五個以上の「何かしら」が起こった。そんな中でも大きな事では、私が店に来て十日ほど経った日の「吉田事件」が最初だっただろう。


私と戸田は、その出来事を吉田事件と呼んだ。

戸田が店に来て三、四日経つと、彼はその容姿からとにかく学生達からもてはやされていた。そして、戸田がとにかく私を旧知の親友のように慕ってくれたので、私と戸田は皆から『話題のルーキー二人組』として何かと待遇は良かった。

こういう店では毎日専業と学生との間で喧嘩があっても学生同士のイガミ合いや喧嘩というものは無い。学生達というか、人間誰しもこういった極限環境において同じ境遇の者同士は何ヶ月かすると、「みんな生きてここから出よう」という強烈な仲間意識が深い影となって胸の奥底の方に溜まってくる。女への愛とは全く違うものだが、私の場合何と云うか、今動いている人間がもう二度と動かない肉人形になるのが怖いという単純な感情でもあった。助け合わねば自らも生き延びられない状況が『絆』などという、一聴すると陳腐な言葉や感情を否応なしに覚えさせるのだろう。

そんな環境の中、私が店に来た当初はその年で六年目の「吉田さん」という一人の大学生が学生達の中心となってこの世界は纏まっていた。吉田さんは織田裕二に顔立ちの似た大学生で、性格は明るく快活でいつも周りに人の集まるような楽しい男であった。ただ、この店に長居したことで少なからず専業の影響を受けており、競馬、競輪、オートレース、パチンコ、マージャン、あらゆるギャンブルで腕を磨き、二年ほど大学を留年していたのだが、その『技術』を後輩達に惜しみなく伝授していたため、『弟子』の学生達からの人気は絶大であった。

そんな吉田さんがその日、どういう賭け方をしたのか知らないが、競馬で六百万円を当てて店にその現金を持って現れた。さすがにそれだけあれば今すぐにでも店を出られる額である。しかし、吉田さんはその金を今はまだ借金の返済には充てないと言い、その日の夜十時に仕事が終わってから皆に酒を奢るから飲みに行こうと言った。このとき吉田さんは私と戸田のことも勿論大歓迎で誘ってくれたのだが、私たちは始まったばかりの激務と環境の変化に全く体が慣れておらず、二人とも毎晩十時頃にはピリピリと顔の半分が痺れる顔面神経痛に悩まされたり血尿が出たりして、互いに遺言を託していたほどだったので、その誘いを断ったのだった。すると吉田さんはそんな私たちの様子を察して、気を悪くすることも無く、ひとつの札束を手に持ち、その端を指でパラパラっとやって、適当に止まったところで一万円札を引き抜いて私の前に差し出した。

「今はまだゆっくり部屋で飲んだほうが良さそうだな。これでいい酒でも買って二人で飲め。」

札は厚みで二つ折りに出来ないほどで、店からの帰り道で私が戸田に「二つに折れない」と言うと、戸田は喜ぶよりもリアルに緊張した顔をして、その後、私たちは部屋に着くまで一言も会話が無かった。部屋でポケットから出した一万円札はピン札で十四枚あり、私と戸田はとりあえず七万円ずつ手に持ったが、さあ、酒を買いに行こうという気にはなれず、ただ、布団の上で胡坐をかいて向かい合ったら急に可笑しくなって、二人で静かにクスクスと静かに笑い合ったのを覚えている。二人ともこの世界は楽しいのかもしれないとでも思ったのだろう。

だが、この吉田さんが本当に凄かったのはここからであった。その日の夜、吉田さんは私と戸田以外の店の人間すべてを連れ、六本木まで行って翌朝の三時にその全員でクラブからタクシーで店に出勤、総額213万円を一晩で使った挙句、翌日には真っ黒な日産プレジデントをレンタカーで借りてきて、その日の夜は池袋のデリヘル嬢三人を貸しきって横浜まで一泊ドライブに行くと言うのだ。

吉田さんはこの日の夜十時に池袋の西口で三人の女達と待ち合わせをしていたのだったが、私と戸田に自分と一緒に八時に仕事を切り上げて待ち合わせの十時まで池袋をドライブしようと誘ってきた。吉田さんが昨夜私たちを置いて行ってしまった事を何となく気に掛けてくれているのが分かったし、十時までと分かっているならば行っても良いと私は思った。そして、戸田も「楽しそうやね」と言って、何となく状況を察している様だったので私たちは黒塗りの高級車で夜の池袋ドライブをすることになったのだ。

ドライブは確かに面白いものだった。ほんの十日ちょっと前まで田舎でタバコをふかしながら畦道を歩いていた自分が今、夜の池袋でVIP車の窓からバージンレコードの看板を横目に見流している。旅行ではない。十日後の自分がこういう生活をしているなんて、田舎の小僧がどうやったら想像できただろうか。

東京暮らしって何だ?田舎の方が良かったか?これが成功なのか?

私はまるで夢ではない夢を見ているようだった。ただ、都会の夜の明かりはとても綺麗で自分達を中心に夜の池袋の景色が広がっているように見えた。

私たちの店は池袋駅北ガードから自転車で七、八分のところにあったので、車でも十分弱。池袋駅を南側周りで西口、東口と行ったり来たりしてもまだ九時にもなっていなかった。

最初に着いてから三往復目の西口公園、吉田さんが退屈しのぎにメトロポリタン口の前から南へ抜けようとしたとき、そこが一通で進入禁止だと気が付いたようだったが、別に焦る様子も無く、とりあえずハザードを点けてロータリーの隅に車を寄せて停車した。そこで止まるもまた良し。私たちは窓を開け、それぞれタバコに火を点けると車内にはゆったりした空気が満ちた。そんな時、向かいの歩道を歩いていた一人の大柄な若い男が急に通りを渡って私たちの乗る車の方に走り寄ってきた。

「どうも、こんばんは。スゲー車乗ってんスね。」

その若い男は太いジーパンに青いダウンジャケット、指には四角い金の指輪か幾つも嵌められ、首にも金の長いネックレスを三本、頭には青いバンダナの上に青いキャップを被っていた。

そういう人間を池袋では『カラーギャング』のうちの『青ギャン』と分類することを知ったのはそれから少し後のことであった。

この頃、ほんの半年くらいの間であったが、池袋のガキ供は東口のサンシャイン通りあたりでは赤い服ばかり、西口公園の方は青い服ばかり着て互いに出会えば喧嘩しかないという抗争意識を持っていた時期があった。世代的にはチーマーと関○連合の中間くらいの連中だったが、とにかくそういった連中は近代版の不良には違いなく、偶然青いパーカーを着てハンズにお買い物に来てしまった一般人なんぞがビルの谷間で半裸半死状態で発見される事があったりと、当時は結構な社会問題になっていた。当時のマスコミはそんな若者達を、赤い服を『赤ギャング』、青い服を『青ギャング』と呼んでいたそうだが、そのときの私と戸田はそんな存在など全く知らなかった。

しかし、全く知らなくてもそいつがまともじゃないのは見てすぐ分かる。これも今でこそ普通になったが、当時、完全なヒップホップ系ファッションなど、よほど自分の反社会性を主張したい奴しかしていなかったものだ。

だが、吉田さんは凄い人だった。彼はそんな青い男に突然話しかけられても全く普通で、まるで古くからの友人といつも話しているように話をしていたので、そのとき私も戸田もその「青い男」は吉田さんの知り合いなのだと思って急に安心しきってお互いの顔を見て少し笑ったのだった。

少しすると、青い男は金の指輪を一つ外し、それを吉田さんに差し出して、「コレあげるから俺を東上線の大山駅まで乗せていってくれよ」と窓越しに頼んできた。電車賃が無いわけではなく、要はこういう車に乗って池袋の駅前なんかを通り抜けてみたいのだと言っていた。吉田さんはその男の願いを楽しげに承諾し、一行はこれからその男を大山まで乗せてゆき、池袋に戻りながら私と戸田をアパートで降ろし、吉田さんが駅前に戻ってくるという手筈で行動することに決まった。そのとき私と戸田が後ろに乗っていたが、青い男が「VIP車はやっぱ後ろでしょ」と言ったので私が助手席に移って、四人を乗せた車は動き出した。

青い男は車に乗るなり隣に居た戸田の白髪に声を上げて大げさに驚き、しきりに「スゲー」「カッコイイな」と連呼したので戸田も言われる度に小さく頭を下げて照れていた。和気藹々、楽しい感じで池袋の西口を通り過ぎていった。

西口のロータリーを出た辺りで、吉田さんが後ろの青い男に「お前、大山に住んでんの?」と聞いた。吉田さんはこの男と出会ったのはさっきが始めてだったという事をはっきりさせる一言だった。なんとなく思っていてもそれをかき消していた嫌な感じの事実、それがはっきりした瞬間、私、そしておそらく戸田も感じたであろう、この状況への違和感。戸田が小柄なので余計にデカく見えているのか、この青と金の異様にデカイ男は何?この車内って今どんな感じなの?と吉田さんに聞きたくなるような不安が込み上げてきた。

その後、吉田さんと青い男との落ち着いた会話が幾つか交わされる中、私たちを乗せた車は川越街道から熊野町交差点を曲がって山手通りを板橋方面に向かい、遊座商店街の入り口を目指して進んでいた。いや、進み始めたのだが、ちょっと走った坂の上にあるローソンの手前で、青い男が急に「ああ、そこの信号左に行って」と言い、車を住宅街の道へ入れさせた。その道でも間違ってはいなかったので吉田さんはそのまま何事も無かったように車を進めたが、青い男は更に「あ、この辺でいったん止まって貰える?」と言って、とある古いマンションの専用駐車場入口まであと少しという中途半端な位置で車を停車させた。何故ここなのか男に聞こうと思ったのだろう、吉田さんの頭が後ろに振り返ろうとして動いた瞬間、青い男の短く低い怒鳴り声が車内に響いた。

「オウ、動くなオラ。」

だが、吉田さんの頭は急には止まれず、モロに後ろに振り返り、やけにわざとらしい様な驚いた声を出した。

「はあ?何だそれ。」

私もそんな吉田さんの台詞に思わず後ろを振り返った。

「動くなつってんだろーがよ。コイツの頭半分ふっ飛ばされてーのかよ。」

青い男は隣に座る戸田のこめかみの辺りに拳銃を突きつけていた。銃は45口径デザートイーグル。サバイバルゲームでよく遊んだ俄かガンマニアだった私は暗がりでもそれが何の銃か見て名前がパッと浮かんでしまった。そして、それを見た瞬間、この銃で撃たれたら確かに頭の上半分くらいふっ飛ぶだろうと驚いたものだが、今になって思えばそんな銃が日本で手に入るはずも無く、玩具だとすぐに気が付いても良かったのだろう。だが、そこが東京であり、夜であり、所詮私はまだこの場所に来たばかりの田舎者だった。状況が瞬時に把握できるはずが無い。

しかし、そんな状況ですべてを見抜いていたのか、単にそういう性格だったのか今では分からないが、吉田さんはとにかく冷静、というか普通だった。

状況、そのとき青い男が何をしたかったかと言えば、要は始めからこの車を奪うつもりで私たちに声を掛けたのであった。こんな男でも手当たり次第に高級車に声を掛けるほどバカではなく、レンタカーの9ナンバーで、あの時私たちは停車してそれぞれ窓を全開にしてタバコを吸っていたので中の人間がその筋の人ではないのを見て分かった上で寄って来たのだろう。

「おい、前二人、降りろ。」

青い男が幾分冷静になったのか、ドスを効かせているつもりだったのか、急に静かな口調でそう言った。すると、吉田さんは全くいつもと同じ口調で返す。

「なあ、レンタカーなんかパクったってつまんなくねーか?今のレンタカーってレーダー付いてるからあっという間に捕まっちまうし。」

この言葉の何が気に触ったのか分からないが、青い男はキレたらしく、私の後ろの席から戸田に向けていた銃口を吉田さんの後頭部に向けた。

そして、次の瞬間、事件は起きた。

戸田が思いっきり振り抜いた裏拳が青い男のノドに入ってしまった。

戸田は必死だったのだろう。拳銃が本物だと信じ、もしそのパンチが効かなかったら自分も、私や吉田さんも撃ち殺されて死ぬものと思い、渾身の力で拳を振り抜いたのだ。彼はそれまで殴り合いの喧嘩などしたことが無かったそうで、力加減など知らなかった。そして殴った相手がどうなるのか知らなかった。

『ベチン!』

鈍い変な音が短く響くと青い男は「ゴオフッ」と唸り声のような変な音を立て前のめりに屈んだ。

「おい、戸田!何してんだよ!」

このとき初めて吉田さんが慌てて怒鳴り、急いで車から降りると外から戸田に「降りろ」と言って、降りた戸田と入れ替えに自分が後ろの席に乗り込んだ。そして、青い男の服を背中から掴んでその体を後ろに反らした。

青い男は死んでいた。

いや、パッと見えた感じでは死んでいるようにしか見えなかった。ノドが丸くなく、前がへこんでぺっ平らに横薄になっていて、開いた口の中から手首程に太くエレクトした舌がまるでマグロブロックの一気飲みでもしているかのように真っ赤になって口から突き出し、眼球も三分の一くらいは外に飛び出していた。私は振り返ったままだったので、その顔をモロに見てしまったが、次の瞬間耳を塞いで目を瞑って下を向いたまま何も出来なくなってしまった。

「これ、もうダメだ。ここに置いてく。外からそっち側のドア開けてくれ。」

吉田さんの言葉に、呆然と脱力して車の外に立っていた戸田が弾かれたように急いで車の反対側に周り、ドアを開けた。

「よし、引っ張れ。」

吉田さんが片足で青い男の尻の辺りを蹴り押し、戸田が外から引っぱって、その男を車の外へ落とした。男が道路に横向きに落ちると「ポチン」という軽い音が響いた。指の骨でも折れたのだろうか。男を降ろし終えると吉田さんは私に声を掛けてきた。

「おい、ちょっとお前のマルボロこっちにちょうだい。それとそこの肘掛の中にオレのライターあるから取ってくんない?」

私はさっきの体勢のまま耳を塞いでいたが、声は聞こえたのでその言葉に何の疑問も持たずに急いで指示に従った。ライターとタバコを受け取った吉田さんはタバコの箱からフィルムを剥し、ライターを磨くようにズボンで何回か擦ってそれらを外に横たわる青い男に投げつけ、更に車内の床に落ちていた拳銃を拾って、それもまた青い男に投げつけた。タバコとライターは餞別なのだろうか?吉田さんはこんなときでもそんな義理を忘れないのか?など私は田舎者の考えそのままに妙に感心した。そして、吉田さんは後部座席を降りて戸田に声をかけた。

「行くぞ。早く乗れ。」

吉田さんは運転席に戻り、戸田は青い男を落とした側のドアを閉めるとわざわざ反対側の吉田さんが降りた側のドアまで走って、そこから車に乗った。

走り出した車が池袋駅に戻るまで吉田さんの運転は極めて普通だった。そして、普通に色々教えてくれた。

「誰にも見られてないから絶対にバレない。」ということ。

「普通にしてる奴は疑われない。」ということ。

「明日、店に出たら三日前と同じ会話を繰り返してろ。」ということ。

「今夜は昨日の夜と同じ事を考えて眠れ。」ということ。


あの事故の起きた場所から私と戸田のアパートまでは5分もかからずに着いた。車を降りた私と戸田はやはりまだ心のしこりが大きかったのだろう、吉田さんに礼も言うのも忘れて立ち去ろうと歩き出したとき、吉田さんが窓を開けて私たちに声を掛けた。

「おい、今の記憶は消せ。俺達は今、池袋をグルグル流して真っ直ぐここに帰って来たんだ。途中には何も無かった。そうだろ?」

「あ、はい。どうも。」

私と戸田の返事が完全にユニゾンして、私は思わず「スゲー」と言いそうになったが、そんな気持ちも一瞬で吸い込むブラックホールが胸の奥にぼんやりあるような変なテンションだった。そして、吉田さんは窓から手を振り、池袋駅の方へ走り去っていった。

私と戸田は部屋に戻り、いつものように干しておいたタオルを風呂桶に入れて銭湯に向かった。いつものように嫌がらせかと思うほどに熱い湯に浸かり、部屋に戻って、いつものように帰り道の自販機で買ったアクエリアスを一気に飲み干し、いつものように布団に入って、いつものように十時半に消灯。いつもどおり「普通」だった。唯一つ、昨日までと違ったのは二人の間に会話が無かったことだった。

部屋の電気を消してすぐ、戸田が独り言のようにつぶやいた。

「東京・・・スゲーな・・・」


この事件が新聞で報じられたのは次の日の夕刊であった。

翌日、出勤の午前三時時点では私も戸田も完全に就寝前の『鉛のようなテンション』のまま気持ちが切り替わっておらず、朝刊に昨夜の事件の記事が出ていないかそればかりが気になって、すべてが『おかしく』なっていた。大体、新人は四百件以上ある客の家と新聞の投入口をすべて覚えるまで専業が一人、監視で付いて回るので自分で新聞を配っていてもその中身を読むことは出来ない。この日ほどストレスを感じたこともそう無いだろう。私は配達すべき家を散々見失い、その度に専業に肩や背中を小突かれた。この時、私は始めて人間に対する本気の殺意を覚えた。こいつを暗がりで殺して一刻も早く記事を確かめたいと本気で思った。

私が配達を終えて店に戻る頃にはすでに『ベテラン』の学生達は食事すらも終えて板間で新聞を読んでいたりする。昨夜の事件はこの店の配達区域内だったので、事件が新聞に載れば絶対に誰かしらは騒ぐはずである。しかし、その朝の板間の学生達は至って平穏であった。私はいつものように食事を掻き込み、板間に胡座をかいて新聞を広げていた平井さんの傍らに行って、昨夜吉田さんに言われた通りに三日前と同じ言葉で彼に話しかけた。

「地方版が無いと地元の情報が全然載ってないですよね。」

「東京に詳しくなれば東京版の方が色々あっておもしれーぞ。」

「今日は何かありましたか?」

「うーん、特にはねーな。」

三日前も平井さんは全く同じ事を言っていた。

戸田はまだ帰ってきていなかった。そして、いつもならこの広い板間で一番明るい窓の下で、スポーツ新聞を広げながら何人かの学生とその日に行くパチンコ屋を決める打ち合わせをしている吉田さんが居なかった。私はそれが気になって鼓動が高鳴り、壁に掛かる大きなカレンダーに目をやったところ、今日の日付の下に細いペンで『吉田休み』と記されていた。吉田さんの休暇の計画が完璧だったなら、三人の女と朝まで目一杯遊んで幸せな朝日を拝むつもりだったのだろう。果たして彼は今どうしているのか。吉田さんが休みだったことで、昨夜の『事件』がどうなっているのか、世の中がどう進んでいるのか全く分からず、私の心に頓挫した『ブラックホール』は益々大きくなるばかりであった。そして、これ以上この板間に居ても、間もなく戻ってくる戸田と楽しい会話など出来そうにないと思い、先に一人で部屋に戻った。

部屋に戻った私は、倒れ込むように掛け布団の上からうつ伏せて、そのまま浅い眠りに就いた。

私は十五分ほど寝たらしい。戸田が部屋の戸を開けた音で目が覚めた。

「調子、悪いんか?」

戸田は部屋の入り口のところに立ってボソっとそう言った。

「体が調子悪くなってくれりゃ休めんのにな。悲しいほど健康だよ。」

私は少しの冗談で返したつもりだったが、戸田の表情はペルーのミイラのように白く、固かった。

「新聞に出とらんかったな。あいつ、あの後、普通に治って普通に帰ったんかな?」

「事件になってないってことはそうなんだろうな。」

あれっ?と思うくらい、会話がこんな風に流れるとは思っていなかった。『あいつは普通に帰った』『事件になってない』『ただの喧嘩だった』。そうだ、何故今までそう考えなかったのだろう。この東京ではあのくらいの喧嘩は数秒に一回くらいの日常茶飯事、いちいち事件なんかにならない。何考え込んでたんだ、俺は。こんなのは田舎者の考えだったんだ。

この、ほんの数秒の間に世界が一変して見える程に頭の中が入れ替わったのは私だけではなく、戸田もまた同じだった様だ。胸の真ん中に鎮座していた重苦しく黒い何かも完全に蒸発こそしなかったが、かなり軽くなったのをはっきり実感できた。

「俺ら今頃きっと池袋の賞金首とかになってんじゃん?池袋にはもう行けねーな。」

「ええわ、ほんなら俺、次は原宿征覇狙うわ。」

笑った。二人で布団の上を泳ぐようにしてはしゃいで笑った。そして、九時から昼までの仕事に備えて二人とも仮眠を摂った。短時間ではあったが、この時ほど完全な、鉛のような重い眠りを実感したのは初めてだった。

昼に一旦仕事が終わった後、私と戸田は先日に吉田さんから貰った金を持って、近所の商店街で一番高そうな店で特上のうな重を二箱ずつ食べてきた。この頃には私たちはすでに楽しくなってきていた。『東京』、それは田舎者の想像を遥かに超えた楽しいもの。何と刺激の強い遊園地であろうかと。

胃がチクチク痛むほど満腹になった帰り道、戸田は細い通りで両手を上げて「ワー」と叫んで笑った。田舎であれば『気狂い』の罪で連行されるかもしれない。だが、ここは東京。これが普通なのだ。

部屋に戻って午後三時の出勤まで仮眠を摂った。

テンションがほぼ普通に戻って私と戸田はいつもどおり二人で店に出勤したのだが、店の板間に上がった瞬間、針の穴ほど小さくなっていた『胸の奥のブラックホール』が一気に爆発し、私のすべてを隈なく飲み込んだ。

板間と擦りガラスの戸を挟んだ奥の小さな部屋は、いつも所長が常駐している『所長室』になっていたのだが、そのガラス戸が半分開いており、所長のテーブルの前に吉田さんが立っていた。仕事が休みの日、それは学生たちにとって収容所からの一時開放であり、出来るだけ店の事など頭に入れないよう逃避する。わざわざ店に顔を出すなど絶対に在り得ないことだと聞いていたし、すでに実感もしていた。それが、何故今日、吉田さんが店に居るのか?あの『事件』がバレたのか?いや、自首か?

とにかく吉田さんは神妙な面持ちで黙って所長と面と向かい、立っていた。

その後、私はどのような気持ちで夕刊を配ったのか殆ど記憶にない。ただ、所々、その日、私に付いていた『どもり』の専業が、配達先の集合ポストで足が止まったときなど、吉田さんの事を私に話して聞かせていた、その光景だけはやけに鮮明に覚えている。

「よよ、よ、吉田の奴、あ、あの金で、みみ、店、やや、や、辞めるんだってよ。あ、あ、ああ、あい、あいつ、しゃ、借金も、ももも、もうひゃ、百万も、のの、残ってなかった、んだって。」

「ああ、あんな、お、面白い奴、奴はももももう、もう、こ、来ねーだろうな。」

配達を終えて店に戻った私はとりあえず事件のことはばれてないんだと考えていて、吉田さんは自分だけ逃げたのか?と何度も自分に問いかけていた。

店では板間で、すでに夕飯を終えた何人かが吉田さんを囲んで立ち話をしていた。何も知らないフリで明るく挨拶をするべきか、さっき『どもり』から聞いた事を知ったフリで寂しそうにした方が良いのか迷ったが、咄嗟には結論が出なかった。

私が板間に上がり、奥の食堂に向かおうと、その薄い人の輪をとりあえず避けて通ろうとしたとき、吉田さんの方から私に声を掛けてきた。

「おつかれ。配るの早くなったな。もう結構慣れたんじゃん?」

「え、ああ、はい。」

愛想笑い。結局それが私の答えだった。

「俺、今週一杯でここ出る事になったからさ。お前と戸田とは短い間だったけど出会えてよかったよ。」

吉田さんの笑顔には全く曇りが無かった。全く、三日前と同じ顔だった。

出る?あの事件の事で逃げなきゃならないような事態になったのか?とにかく『何か』があったのだろうと、ものすごく沢山のパターンを想像した。

とにかく私は夕飯を掻き込み、それほど募る話も無かったので、いつも通り夜6時半の出勤まで部屋に戻って仮眠を摂るように、店を後にした。この時点でもまだ戸田は配達からも帰っておらず、一人で部屋の電気を点けると蛍光灯の明かりが白すぎて急に泣きたくなった。私はまた掛け布団の上にうつ伏せに倒れ込んで眠るとも起きているとも違うような状態で、戸田が戻ってくるのを待った。


「吉田さん、何で辞めるんか聞いたか?」

「いや、あんなにみんな集まってるとこじゃ聞けないだろ。まだみんないたのか?」

「おる。そやから俺も聞けんかった。」

戸田も戻って来るなり布団の上にうつ伏せに倒れ込んで、私たちはそのまま並んで少し話をしていた。

眠るとも起きているともなく、一時間ほどでこの日4回目の出勤。手書きで領収書に客の名前を書いたり、ハンコを押したりして、集金と勧誘に出かけ、9時30分に戻ってきて、その日の精算。翌朝分の折込を自分の場所に持って行って、数えて、整えて、また明日。

疲れ過ぎる。いろいろ忘れる。話す気も無くなる。

みんな黙々と帰って行く。私も戸田と一緒にアパートに帰ったが、特に話すこともなく、二人で銭湯に行き、部屋に戻ってアクエリアスを飲み、10時半になったので寝ようとしたとき、不意に誰かが部屋の戸を叩いた。

警察か?昨日の青い男か?こんなに怯えたのはこれが最初で最後だと思う。まるで病気のように手が震えていた。

戸を開けると吉田さんが笑顔で「よっ」と右手を挙げて立っていた。

そして、すうっと中に入ってきた。

左手には夕刊を持っていた。

「慣れた」人達は配達で余った新聞をいつも自分用に一つ持って帰って読んでいる。見慣れたと言うか、定番の格好である。

「懐かしいな。何年か前に二ヶ月くらい俺もここに住んだんだよな。」

「え、そうなんですか。」

吉田さんはそのまま上がり込んで、台所を過ぎ、私と戸田の布団が敷き放された和室に入り、入り口に近い方の私の布団の上に胡坐をかいて座った。

「まあ、店を出る挨拶回りって事でみんなの所回ってるから、大丈夫。ここに『特別な用』があるとは思われないよ。」

そう言うと左手に持っていたその日の夕刊をポンと自分の前に放った。

「出てたな。ちょっとした特集みたいになってるし。」

「え?」

私も戸田も全く意味が分かっていなかった。吉田さんは「えーと」と言いながら新聞をめくり、声を出して記事を読み始めた。


池袋『カラーギャング』リーダー襲われ重体。

十五日、午後九時すぎ、板橋区内の住宅街で男性が倒れているのを近所の住民が発見。倒れていたのは豊島区に住む男性、かっこ21。現場付近で昨夜何者かに襲われたと見られ、喉を負傷していた。豊島区内の病院に搬送され一時意識不明の重体となった。今朝までに意識は回復するも喉を強打されたことで呼吸器官と声帯を損傷、また、それに伴う窒息による脳障害の症状が見られる。

なお、この事件の被害者である男性は、現在、豊島区池袋駅周辺において赤や青の服装に身を包み、喧嘩などの暴力行為を繰り返す集団、通称カラーギャングと呼ばれる若者達のリーダー的存在で、昨夜路上で倒れていた際も全身青色の服装であった。

今回の現場にはモデルガンなども落ちていたことから何らかの争いがあったものと思われる。先月二十日には対抗する赤色の服を着た集団のリーダー格の男が池袋の路上で青色の服を着た集団に襲われ肋骨や顎の骨を折る重傷を負う事件が発生しているが、今回発生した「青服」リーダー格の男性傷害事件は先月の事件の報復の可能性もあり、今後更なる抗争に発展する可能性もあるとして池袋警察署は警戒を強めている。


「だって。」

私と戸田は、この時に初めて『カラーギャング』という存在を知った。

「マスコミも警察も今回の犯人は『赤ギャン』だって思ってる。さあ、なーんでかっ。」

私たちがどうしようもない不安な気持ちになっているときに吉田さんは笑えないモノマネで聞いてきた。

「いや・・・なんでかって・・・・」

「それはねっ、オレが使ってた百円ライターが真っ赤だったのと、お前の赤マルを置いてきたから。警察も世間も奴をヤッたのは赤の連中だと思ってる。だから、心配すんな。ってゆうか、何にも知らない振りしてろ。店の連中は俺が辞める方に意識がいってるから、この事件に関してはそれほど話題にならないだろうから。」

店の人間達の視線を私たちから逸らすために吉田さんが辞める事を考えたのかどうかは分からず終いだった。ただ、都会というのは恐ろしい。あれだけの人間が居ながら、その後も目撃者は一人も出なかったそうだ。

そして、この事件の幕曳きはあっさりしていた。

あの事件が夕刊に載った翌朝、宮本さんが「俺の順路の道で青ギャンが襲われたって昨日の夕刊に出てたんだよ。」と誰かに言っているのが聞こえたが、それ以上は誰もその会話に付き合っていなかった。皆には『小さすぎる』事だったようだ。そして、その朝、私は始めて、とある『デビュー』を果たした。その日の配達は元競輪選手の専業が私の後に付いていたのだが、私は何件目かのマンションで、ふと配達すべき部屋番号を忘れ、非常階段を駆け昇っている途中で足を止めた。すると、私の後にぴったり付いていた専業は、まさか私がそこで止まるとは思っていなかったようで私の背中にぶつかり、その反動で四、五段下の踊場まで転げ落ちてしまったのだ。私は慌ててその専業を助けようと階段を駆け下りたのだが、その専業の男は無言で(元来この男は声が出ないのだが)、いきなり私の顔面を殴り、尚も私に向かってきた。突然の事でそのとき私の思考もきちんと繋がっていなかったため、私は咄嗟に『この男は階段から落ちたせいでプッツンして野生化したのだ』と思い、とにかく仕留めねばならないと全力で『狩り』に出た。お互い、数秒の間に十数発、ドン・フライと高山の試合のような猛ラッシュで殴り合い、ふと我に返った。その後の配達は、さっきのアレは何だったのだろうと不思議に思うくらいスムーズで落ち着いた仕事であった。そして、店に戻ると私と元競輪選手の腫れ上がった顔を見た皆が転げまわって心底面白そうに大笑いした。

その世界では専業と学生の殴り合いなど毎日誰かがやっている日常の事であり、その日、私もデビューしただけの事だった。元ヤクザの主任など、「最初来たときは逃げ出すんじゃねーかって思ってたけど、これならやってけるよ、オメーは。」と却って安心したような事を言って大笑いしていたくらいだった。

栗栖が私たちの部屋にやって来たのは、それから三日後の事だった。


栗栖が来て、三人での生活が始まってからしばらくは私にとっての大事件と言うほどのものは無かった。

店では、借金で日頃から酎ハイも買えない元会社員の専業が五十八の誕生日を迎え、彼を崇拝する学生達が気を利かせて彼に養命酒を買ってプレゼントしたらしいのだが、彼は朝刊配達後にサプライズで貰ったそれを、部屋に戻るなり一気に飲み干したらしく、日の出と共に救急車で病院に搬送され二日ほど入院した。別に私はそれになんの感情も動かなかったが。

栗栖が来た日から毎日やけに天気が良く、太ったブッダみたいな容姿の栗栖が天気の良い日に流しの前で正座して茶粥を食っている姿は神々しい程に見えたものだ。

この頃はまだ戸田にも男気と言えるような真面目さがあったもので、先の事件前に吉田さんから貰った金も一気に使わずに少しずつ『生活費』に当てるチマチマとした堅実な生活を送っていた。

忙しい等と云うようなレベルではない『ギリギリ生かされている』日々の中、やがて、交わす会話は相手が聞いているかどうかなんて関係なくなる。布団の上にバタリと倒れて、何か言葉が出そうなら出し、何か耳に入ってくれば聴くだけである。最早それは生理現象に近い。戸田にも少しは男気があって、日々繰り返される短い休息を無言のまま空虚なものにしないよう、仮眠の前に少しずつ私に何かしらの話をして眠りに就いていた。話はいつも自分の生まれ育った『島』の話だった。戸田は自分が生まれ育った離島を地元として本当に愛していたようで、晴れた日の昼下がりに聴く戸田の話は私を淡い眠りに誘なう心地の良いものになっていた。

互いに自分が今、眠っているのか起きているのか分からないような中での話し手と聞き手だったので、私も戸田の話はなんとなくしか覚えていないが、戸田が「島には俺と同い年は一人しかおらんかったんや」と、無意識のうちに何度も繰り返して口にしていた事だけは覚えている。

その同い年は女だったそうで、彼女は今でも島に残って漁師である実家の手伝いをしているそうだった。島で戸田とその女の関係がどれくらいのものだったか私から詳しく聞く事でもなく、戸田にとっても軽々しく説明出来るものでもなかったようなので、本当のところは分からないままだったが、とにかく他に遊び友達になるほど近い年頃の子どももいなかったそうで、何処ぞのドキュメンタリー番組のように幼い頃からずっと二人だけで遊んでいたという話をよくしていた。

戸田はその女をただ『サキ』と名前でだけ呼んでおり、『彼女』だとは言わなかった。

東京に出てからも戸田は島に残っているサキの事が気になって仕方がなかったようで、毎晩十時前頃になると「ちょっと行って来るわ」と言って、公園の前にあった電話ボックスに入り、地元のサキに電話をかけるのが日課のようになっていた。

都会の景色を言葉にしてサキに見せたかったのか、島の音が聴きたくて仕方がなかったのか、ただサキの声が聴きたかっただけなんのか、いずれにしても長電話ではなかったが、公衆電話で東京から長崎の離島まで電話をかければテレホンカードの減り方は毎秒に近い。公衆電話に赤く表示される残り度数の表示は自らの浪費を明確に見せつけられているようで切なく怖いものである。

テレホンカードという物の精神的価値が今の若者達に分かるだろうか?

せいぜい1000円程の薄いカードだが、そこにプリントされた写真や絵は私たちの青春そのものなのである。

名前も分からないようなキャラクターや富士山の写真が、やがて大切な人の声そのもののイメージとなり、そのカードが無ければ大切な人と繋がりさえ断たれてしまうような気持ちにさえなってしまうような、不思議な依存性を持ったカードだった。

そんな価値のあるカードの寿命である度数が刻一刻と減ってゆくのを毎日繰り返し見せられ、一つひとつに作り手の苦労がある図柄の描かれたカードを毎日使い捨てていた戸田は少しづつ罪悪感と自己嫌悪を感じるようになっていたようだった。そんな状況のせいもあったのか、必然とでもいうべく、戸田はあるカードの存在を知る事となる。それは『東京名物』偽造テレカである。

二十年程前のカード読み取り技術は結構アナログな機械式で、電子機器というより電気機器に近いものであった。

私も詳しくは知らないが、ホームセンターでなどで売っているアルミテープを紙に貼って公衆電話のテレホンカード差し口に突っ込んだだけでも光の反射具合で残金MAXの表示が出たりしたらしい。

当時、上野のガード下、アメ横の入り口辺りには、いつでも五、六人の南米系のガタイの良い外国人が立っていて、彼らはゴムで束ねた大量のテレホンカードを手に持ち、それを指で弾いてバラバラと音を立てていた。陽気な笑顔の彼らが持っていた、このカードこそ『偽造テレカ』である。

残金0で捨てられたカードを拾い集めて、裏の一部にアルミテープを貼って残金を千円にした物。勝手に残金額を操作する技術をすでに彼らはもっていたのだ。

彼らが売る、残額千円のカードの値段は百円だった。レートとか、そういった概念が彼等には無いのだろうか?

戸田は島に残ったサキの声を聞くため、池袋から自転車で上野まで行って偽造テレカを10枚づつ買って来るようになった。違法云々というよりより、こうした『都会の恩恵』は、夢を追って都会に出てきた田舎出の若者達にとって、金銭的にも精神的にもどれほどの救いの手になったか。本当の意味でノーベル平和賞をあげたいくらい人の役に立つ大発明だったのではないだろうか。

この大発明によって戸田とサキを繋ぐ言葉の代償は1/10となり、戸田の生活や心持ちがたいぶ楽になったものと思われたが、逆に戸田はそれがきっかけで堕ちていく事になる。物理的被害が無くても国が違法だとするものは往々にして国民を堕落させるものである。一見誰もが理を得るような物にこそ、深い落とし穴があるという事に学識のある者たちは昔から気がついていて規制しているのでしょうが、そんな人達の声を無視して勝手に堕ちてゆく私達が馬鹿なだけなのでしょう。ただ、あまりにも筋書き通りに堕ちてゆく馬鹿な弱者が哀れで悔しいではありませんか。

戸田は偽造テレカを使い始めた事で、それまでとのあまりの通話料の差に、最早それがダタ同然のように思えてしまったようで、サキとの『距離』を錯覚し始めた。それはまるで島にいた時のように、「なあ、」と話しかければ、いつでもすぐ隣で「なに?」と答えてくれる、そこに通話料など存在しないような距離感の錯覚に陥ってしまっていたのです。戸田の毎晩の電話は日を追うごとにあからさまに時間が長くなり、電話ボックスの中で座ってジュースを飲みながら何でもない世間話をいつまでもするようになっていた。単純計算で、それまで1分しか声を聴けなかったものが、10分も『サキが側にいてくれる』快楽に溺れていったのだ。

季節は初夏を迎え、電話ボックスの中という蒸し暑い環境、そして最早、最短でもその場所まで行かなければサキに話しかけられないという『距離』にさえ耐えられなくなったのか、戸田はある日突然、携帯電話を買ったのだ。

今ならそれは普通の選択なのだろうが、当時の主流はまだポケットベルの時代。携帯電話など都心でしか繋がらなかったし、田舎では親がよほどの金持ちかヤンキーが無理して本体だけ買って、電話帳代わりにMAX五十件程の登録データを『携帯』して見せびらかし『友達多いぞ』アピールをするためだけの電子メモのようなオモチャでしかなかった。当然、店でもそんなものを持つステータスがある人などいるはずもなく、ポケベルでさえ主任が持っているだけだった。かけてきた相手の名前がカタカナで一行だけ表示される緑色の液晶表示が付いた、歪な石鹸のような形をした携帯電話で7、8万はしたし、何より通話料が1分100円と高額だったので、一般的ではなかったのだ。

「お前、どうしたのソレ?」

「買ったんよ。店のみんなには黙っといてな。」

「そりゃ黙っとくけど、大丈夫かよ?こんなの買って。」

「大丈夫やって。携帯電話ならな、部屋で、布団の中だってサキと話ができるんよ。あいつが俺の部屋におるようなもんやないか。凄いのが出来たもんやな。」

戸田は依存してしまっていた。今の携帯依存とは違う、サキへの依存、またはサキの声への依存だったのか。ただ、最早そこには『都会の恩恵』は受けられず、しかし、依存してしまった欲求は理性でコントロールできるものではなかった。初めて戸田の元に届いた携帯電話使用料金の請求額は15万円を超えていた。時代が悪かったせいもある。今のように携帯電話が普及していて定額制などできていれば、戸田とサキはずっと平穏な交際を続けていられたのかもしれない。ほんの少しだけ、二人の生きた時代が悪かった事が悔しい。

戸田が全財産を出して買った携帯電話は一ヶ月で通話機能を停止されてただのオモチャとなり、15万円の借金だけが残った。それでも依存の意識はすぐに消える訳ではないから怖い。戸田は再度偽造テレカを買うために学校には行かずに毎日必死になって勧誘をして日銭を稼ぎ、銭湯にも行かずに部屋の流し台で体を洗って金を貯め始めた。そして、貯めた金を全て残さず偽造テレカに変え、借金の返済などこれっぽっちも考えられなくなっていた。

学校にも通わず、若さに任せて朝から晩まで勧誘をしていたため、店での戸田の成績はずば抜け、店主や主任は戸田を大げさに褒めちぎっていたが、本人はそんな周囲の声など最早構っている余裕は全く無くなっていたのは誰の目にも明らかだった。この頃の戸田は目つきが完全におかしくなっていた。

そんなある日曜日の夕方の事。養命酒を一気飲みした元会社員の専業が酎ハイの缶を片手に皆のいる店に入ってきた。

「学生諸君!ご苦労さん。俺が今からみんなに高級なソバを奢っちゃうから着いて来ーい! ほら、行くぞー!」

いくらか酔っているようだったが、競馬かパチンコで当てた時は大体いつもこんな感じであった。

日曜日は朝しか賄いが出ない。夕刊も無いので学生達は朝刊の配達が終わると朝九時に出勤して一日中集金を行う。一日中金を集めていれば肩掛けカバンの中には結構な額の金が溜まるので、皆、夕方五時に一旦店に金を預けに来て、一時間ほど各々夕飯を食いに出る。大抵の者は自炊はせず、その時間に店に集まった者達で連れ立って近所のラーメン屋などに食べに行くのだが、この時間、皆で板間で胡座をかいて、どこに食べに行くかなどグダグダと話している時間、夕日の差す店の中の景色が、唯一私がこの店で美しいと思えた景色でもあった。

この日、元会社員の専業はよほどの大当りがあったとみえて、十数人、店にいたほぼ全ての学生を引き連れ、近所の小さい蕎麦屋を貸し切るようにして、酒でも天ぷらでも皆に好きなだけ頼ませる大盤振る舞いで皆に奢った。

店に戻る途中、専業は学生達に担がれるように礼を言われて上機嫌だったが、さすがにその金の出どころが気になったのか、宮本が専業に聞いていた。

「トミさん、今日は何で勝ったんですか? 競馬っすか?」

「ブッブー、ハズレー。よーく聞け、この金はなぁ、今まで俺様を苦しめてきた金貸し連中から取り上げてきた金だー。」

皆、ビデオの一時停止を押したように一瞬ピタっと動きが止まった。

「あの、それって、」

「大丈夫だよー、今日一日、いーっぱい回って借りられるだけ借りてきてやったのよ。あとはあしたの朝一で破産しちゃえばオッケー。破産はいいぞー、返さなくてもいいんだから。俺の頭脳プレーの勝利だぜ。ざまーみろってんだ。アッハッハッハ。」

この人が破産の常連で、もう何度破産しているか分からないという話は店に来てすぐに聞かされて知ってはいたが、破産とはこんな感じでするものなのかと、何か別の世界の住人を初めて目の当たりにした感じがした。

皆、なんとなく「ハハハ」と、苦笑いでその場をやり過ごして店に戻り、また黙々とカバンを下げて集金に出て行ったが、戸田だけ、店の前でその破産屋専業と立ち話をしていた。私はなんとなく戸田に声をかけづらくて、二人を横目で見ただけで黙って集金に出て行った。

戸田が破産したのはその週の木曜日の事だった。


これは私が店に入って半年くらい経った、ある初秋の出来事である。

あの時代というか、今でもそうなのかもしれないが、都会で新聞配達をしている若い男は女にモテた。いや、正確にはモテたわけではないのかもしれないが、女に苦労はしなかった。私の居た池袋などでは配達先の半数近くが一人暮らしのアパートで、全体の一割くらいは女子大生か水商売の女の一人暮らしであった。そして、さらにその一割くらい、要約すると池袋にある住居の1%は異常に欲求不満な女の一人暮らしであり、新聞屋は集金のときなど、そんな女達に部屋に引き上げられて抱かされていた。こんな比率の話を誰から聴いたか忘れたが、この欲求不満女の割合換算は結構正確なようで、私も四百件ちょっと配っていたので、そういった女は確かにちょうど四人存在していた。

ここで一つ。世に新聞屋と呼ばれる人達には三通りあって、ひとつは奨学生の学生、あとの二つは店に居る『ミセツキ』と、店に勤めていない『ダン』という二種類がある。そして、私が今話している『モテる』というのは学生と『ミセツキ』の事である。一人暮らしの人たちは無闇矢鱈に新聞屋を部屋に上げてるのは非常に危険だと知っておいた方が良い。それがもし『ダン』であった場合、とんでもないことになる可能性がある。まあ、極度な偏見は良くないが、『ダン』の人達は大抵元ミセツキで、店で『何か』を起こしてしまった人や、あまりにも同僚と調和が取れなかった人など、つまりは店に住まわせるには適さずに追い出された人間がほとんどであると言っていい。あれほど『終わっている』ミセツキの面子でもダンの人たちと比べれば遥かに人間が出来ている。

夏の盛り頃、破産屋の専業が作った借金のせいで店が借金取りによって散々蹴り壊された事があって、それが期で、その『面白い』専業は解雇となった。その専業は『ダン』になる事が決まり、店を去るときに泣きながら「必ずまたミセツキになれるよう心入れ替えます」と言って店主に土下座していた。『ミセツキ』はあんなのでもステータスなのだ。

元々、『ダン』という呼び名は『拡張団』という言葉から来ていて、勧誘専門の人達。どこかの店に居て配達をするということは無く、従って固定給ではない。金が欲しくなったらその辺の民家のインターホンを押し、獲った購読契約一ヶ月に付き千円の報酬を適当な店から即金で得るという賞金稼ぎのような生活をしている。慣れと多少のコツを掴めばミセツキより稼げる商売だが、住み込みではないので、家賃や光熱費の支払日、借金の返済日など、その日のうちにどうしても金が必要なときなど犯罪的にしつこく勧誘する人もいるので注意が必要と云わざる得ない。

逆にミセツキの専業達は固定給のため基本的に勧誘はしない。学生の場合は少し特殊で、勧誘すればダンと同じ報酬が貰える優遇な仕組みになっていたので、遊ぶ日銭欲しさにやたら頑張るものもいるが、ミセツキの専業はがんばっても報酬は出ないし給料も変わらないので無駄な体力は使わない。日中はさっさと翌日の折込チラシを組んで、さっさと領収書を発行して、さっさとパチンコ屋に行く。基本無口で黙々と生きているので、世間一般の『新聞屋=しつこい勧誘』イメージをもって見ると、新聞屋なのになんと物静かで穏やかな人だろうと見られることが多々ある。

更にいえば、都心の新聞屋は配達区域に住宅が密集しすぎているためにカブなど使えず、開始三十キロ以上の新聞を肩紐で背負ってひたすら走る。マンションはたとえ二十階を越えていても基本的にエレベーターは使わない。エレベーターは他の新聞屋と鉢合わせた時に止まる階がそれぞれ違うとタイムロスが生じて喧嘩になるので初めから使わず、最上階まで非常階段を駆け上がって降りながら配達するのが一番『日々の時間差無く』配達出来るのである。新聞屋が気にするのはその時の体力より、『いつも同じ時間に戻って、毎日同じ休憩時間を得る』ための効率である。配達をしているミセツミ、学生達は毎日配達で朝夕二時間半ずつ重りを背負って階段を駆け上り、集金で四時間歩き、普通の人の三倍も飯を食っていたので、皆がまるでウェルター級くらいのボクサーのような体付きをしていた。実際はいろいろな事を諦めたり悲観したりして寡黙になって、無欲になって、生き抜くために必要な筋肉が付いただけの学生であっても、都会で一人暮らす若い女には見た目良く映るものなのかもしれない。

説明が長くなったが、そんな訳で、私たちはモテた。

私が体の関係を持っていた四人の女のうち三人は変態中年女だったり死神みたいなサゲマンだったりしたが、一人だけ、私からも愛情を向けるようになっていた普通の美しい女がいた。その女は私と同じく、この春に初めて東京の地を踏んだ女子大生で、和歌山の山奥から出てきたそうだ。女は私を初めて部屋に引き込んだときこそ、理性を失った小動物の交尾ように自ら小刻みに高速で腰を動かして自分だけ何度も果てるような行為をしたものの、その後は『落ち着いた』らしく、普段は行為もわりにおとなしい真面目な女だった。

その後、私たちは何度か池袋をふらついたり体を重ねたりするうちに、少しづつ女の方から私に悩みの相談など自分の身の回りの事を話すようになっていた。そしてある日の夜、私は女から真剣な悩みを打ち明けられた。

女は大学に入ってすぐに、とあるサークルに入ったそうだ。そのサークルは色々なスポーツやイベントへの参加やボランティア活動など、ジャンルに囚われずに広く浅く何でも体験してみよう的なマルチなサークルだったらしく、女は『ここで多くの経験を積んで社交性が身に付くなら』という、至って真面目な動機でそのサークルに入ったそうだ。しかし、そのサークルに入るとすぐに『メンバーの証』というステッカーやストラップを一万円で買わされ、その値段と太陽みたいなデザインのグッズで薄々そこが宗教だと気が付いたらしい。しかし、時すでに遅し。入会したその週から金曜日と土曜日の夜は『セミナー』と云う名の集会に絶対参加になったそうだ。集会はいつも路地裏に建つ小綺麗な公民館のような所に二十人ほどの信者が集い、その週に新メンバーを入れた人が前に出て皆から拍手され、どうしたら新メンバーを入れられるか熱く説教され、より結束を強めるには次に何のイベントをするべきか話し合い、ダサいサークル歌をみんなで歌い、最後に手を合わせて訳の分からない呪文を唱えながら祈って解散。

女は本気で嫌がっていた。何度かその『サークル』を辞めたいと言った事があったそうだが、その度に直接アパートの部屋に数人の信者が説得に来る、毎日十回を超える脅し電話が掛かってくる、集会場に呼び出され十人ほどの信者に囲まれて説教。その度にいかに自分が意思の弱い人間か、都会の楽しみに付いていけない田舎者かと思うようになって、悲しくなって「改心」してしまい辞められないでいるのだという。

そんな相談を受けて、私は意味が理解出来なくて返す言葉が見つからなかった。それは信じるとか信じないとか以前の問題であり、イメージをしてみようとしても、宗教というものとこの美しい女とを同時に自分の思考の中に入れる事さえ出来なかったのだ。目の前に居る女は小柄ではあったが、本当に万に一つの上玉と言っても過言ではない程に良く整った美しい顔立ちであったし、小さく控えめではあってもちゃんと貫通しているピアス、美しくちょうどいいダークブラウンの髪色、たまに付けているアンクレット、何よりそういったものすべてが上品に見えるトータルバランスは一般以上のものを持っている、そんな『私の自慢の女』であった。だからこそ訳が分からなかったのかもしれない。以前、私が初めて女の体を知った相手は後になって「私、中学の時に風呂場で親にレイプされた事があるの」と言ったが、田舎で中途半端に影と色気を持つ女がそういった告白をしても何となく状況がイメージできて、複雑ながらも何かしらの感情がすぐに湧いてきて頭の中が感情で一杯になったものだが、『宗教』という言葉は掴み所がなく只々、重く、視界も思考も黒い霧に包まれてゆくように聾啞と化してゆく。

そして、女は泣き始めた。今度の集会までに二人、友達がいないなら家族でもいいから絶対に二人勧誘して連れて来いと言われたそうで、悲しくて泣いていた。

それを目の当たりにしたとき私はある思いが浮かんだ。

『つまり、そのバカどもを壊滅させてこの女を解放できたら、俺はこの女にとってのヒーローになれるんじゃないか。』

今にして思えば若い考えだが、それは今の自分では思いつく事ができなかった『唯一の正解』だったのかもしれない。

私はちょうど次の金曜日が月に一度の休みだったので、その日の昼に一緒にそのサークルの親玉のところに行ってキッパリ辞めると言いに行こうと女に提案した。

女は始め「絶対危ない」と頑なに拒否していたが、しばらく考えて何となくイケそうな気になったのか、「わかった、やってみる」といって覚悟を決めたようだった。

こんな提案を押し切ったのには、当時の私には絶対の自信があったからだ。店では毎日のように元ヤクザや元相撲取りと怒鳴り合い、掴み合いの喧嘩、毎週のように学生目当てで店に来るプロレスや自衛隊のスカウト、実際にこれだけ毎日走り込んで実践の喧嘩をしていれば並みの人間が束でかかって来ても先ず負けない。況して思想オタクの宗教小僧なんぞ何十人居たところでゴジラの如くまとめて踏み潰してしまえると本気で思っていた。だから、私はその後の女との甘い生活を想像して心が満たされ、決戦の金曜日には全くこれっぽっちも不安や恐れなど感じてはなかった。

そして、そんな気持ちは当日になっても変わらず、ただ、休日に昼間からその女と顔を合わせて一緒に歩いている事に嬉しさばかりを感じていて、駅に向かう途中にミスドに寄ってデート気分でお互いのドーナツを半分こして食べてみるなどの幸せな時間を満喫していた。

女の話によると、自分がいつも集会で行く公民館のようなところは支部であり、退会は本部にある名簿から名前を消して貰わないと完全に辞めたと認められないとの事だった。要はその名簿ごと本部を粉微塵に破壊してしまえばよいのだと理解した私は、女と共に本部のある郊外の町まで穏やかで幸せな光が射す電車に揺られて行った。やがて、とある郊外の街まで来て電車からバスに乗り換え、だいぶ緑豊かな場所でバスを降りた。最早、ちょっとした旅行である。バス停周りは美術館やらオープンカフェやら欅並木やら、何だか少し清里を模したような街並みが広がっており、近くにそんな陰鬱な宗教施設などあるとは思えず、女もその上品な街並みに本当に自然に溶け込んで見えて私はそれを微笑ましく思って眺めていた。しかし、女の表情は暗く、バスを降りてからは「こっち」とだけ言ったきり黙って歩いていた。

私は女の後に付いて欅並木のキレイな広い通りを歩いた。

「キレイなとこだね。こんなとこに宗教の施設なんてあんの?」

「しっ、その話はしないで。もうここもそうなんだから。」

女は下を向いたまま小声で、しかし強くそう言った。

「はあ?ここもって、道とかでもやってんの?」

「違うよ、もう。この街がもう全部そうなの。あっちの丘の下に見える大通りからあっちの山のてっぺんにある神殿まで全部施設なの。だからもうここにいる人達みんなサークルの人だよ。」

『はあ?』それしか言葉が出ない。平日の昼間だというのに表参道並みに若い人間が行き交う並木道、オープンカフェは満席、山奥なのに席に座れないほど混んだバス。わりにみんなオシャレだし。こいつら全員信者なのか?宗教って何なんだ?この時初めて、自分の想像力の貧しさというものを痛感した。

女は以前にも何度かここに連れて来させられた事があったため足取りに迷いが全く無く、植え込みの中央分離帯があるケヤキ並木の大きな通りを無言のままさっさと歩いていた。言われて気が付けば、洒落た並木道なのにさっきからフルスモークの黒い高級車が疎らに行き交うだけの不自然な通りである。この先に一体何があるのか、緩やかにカーブした先は見えない。

私は既になんだか少し気後れして、ちゃんと女の後に着いて歩いているつもりでもその距離が徐々に離れていってしまっていた。すると、すでにやや遠くに見えていた女がまるで並木の間にスッと入って行ったかのように消えて見えたので、私は少し焦って小走りで女の消えた場所まで行った。

すると女は立ち止まって私を待っていた。

「アレが本部棟。総合受付はあそこでやるの。」

驚いた。通りの並木はそこだけ切れていて、その入り口を曲がれば、そこには物凄く広い石畳みの円形広場が広がり、その奥の中央にはパルテノン神殿を完璧にパクった真っ白な神殿が建っていた。スケール感で云えば奈良の法隆寺と同じ光景である。これ程の『観光名所』が都内にあって、なぜ誰も話題にしないのか?

その答えはひとつ、それが宗教施設だからである。

その、あまりのスケールに私は単純に圧倒されて身動ぎもできず、言葉も出ずに、感動なのか何なのかさえ分からずに立ち止まったままだったが、覚悟を決めた時の女の度胸とは凄いもので、女はまるでそれが日常であると見せつけるかのように平然と広場の真ん中を横切って神殿に向かって歩き出した。私はただ、見えない腰紐で女に繋がれているかのように女の後に着いて行った。

都会の高層ビルなどは乱立しているし、玄関前でその高さを見上げる現代人も少ないので、その実際の大きさに感心したりする事もそうそうないだろうが、この神殿は周りに何も無い平らな場所に建っているため、真下に立った時に受ける威圧感は尋常では無い。幼少の頃に蟻の視点を想像して、人の足に踏み潰される光景を思い浮かべて、そのあまりに絶望的な圧迫感に恐れて夜に眠れなくなった事はあるだろうか?私は幼い頃から圧迫による恐怖と快楽は同一であると感じる癖があり、自分が蟻になる空想をしては巨大な物に圧迫される光景を想像して、その恐怖感に喜びを感じていた。

この神殿の真下に立った時も、もし、この巨大な神殿が何かの足で、フワッと持ち上がって私を踏み潰そうとしたならば、潰される直前に私の目にはどれほど絶望的な光景が映るのだろうかと想像し、思わず胸の奥をガサガサっと引っ掻かれるような快感に襲われた。

そんな私の思いなどこれほども察するはずもなく、女は神殿の石段を毅然と上がり、石作りの看守小屋に立つ男に「脱会の手続きをお願いしたいのですが。」と言って退けた。

想像していた程でもないような、なんとなく、このまま私の出る幕が無いまま事が済みそうなあっさりした流れを目にして、私の緊張は水がザッと下へ流れ落ちるように一気に抜け落ちた。そして、自分の馬鹿馬鹿しい想像に恥じたのか、急に顔が火照って額から汗が滲み出ていたのを感じた。

看守の男は自分のすぐに後ろにあった扉から奥に入ったきり出てこなかった。

強がって見せたかった事、意味もなく赤い顔をしても汗を流しているところを見られたくなかった事、もう来ないであろう観光名所をじっくりと見ておきたかった事、色々な理由付けができるおかしな勢いで私は女に話しかけた。

「ねえ、ここって中は見ていいの?」

「え? まあ、資料館みたいになってるから入ってもいいんだけど、入るの?」

「まあ、せっかく来たんだし、ちょっと見てみたいかなって。一緒に見に行こうよ。面白そうじゃん。」

今度は私が先に立って神殿の中へ入っていった。

神殿は入り口を抜けると大きなホールとなっており、真正面の突き当たりに金の胸像が置かれていた。

教祖の胸像だった。背広にネクタイ姿のどこにでもいそうなオッサンの胸像だったが、その胸像は金色だった。

これだけの神殿を無駄に建てられる程の財力ならば純金製かもしれない。溶かせば金としてどれ程の等価だろうか。こんな目立つところにあればブルで引っ張っていくらでも盗み出せるだろうに。それとも夜になると入り口が石の扉ででも閉ざされて重機でも突破できないようにでもなっているのだろうか?私は胸像を盗み出す手段を何通りもシュミレーションする事に思考が全て持っていかれて他には何も考えられなくなっていた。

金の胸像の後ろには、そのオッサンが書いたという本が長いガラスケースに入ってズラリと並べて置いてあるだけで、他には全く見所も無い、無駄に広いだけの『博物館』だった。

そんな本を二人で見流していると、スーツ姿で長い黒髪の、わりに美しい女が歩いてきた。

「退会に関しましては女子部のミズホ寮で行います。私が担当しますので今から一緒に行きましょう。」

拉致監禁もあり得ると思っていたが、黒髪の女は柔和な笑顔に優しい口調でそう言った。

私と女は担当の女のとともにケヤキ並木まで戻り、そこからさらに並木の通りを奥へと進んで歩いた。

通りがカーブになって、その先で並木が途切れた先にはちょっとした団地のような寮がドミノ状に幾つも建ち並んでいた。

言われるがままに手前から2棟目の建物に入り、入ってすぐの管理人室のような部屋に誘導された。

玄関の扉を開けると思わずクラっとくるような、いかにも所帯地味た昭和の匂いがして、その匂いに見合った、数珠を連ねたような暖簾やぼかしガラスの入った木枠の引き戸が目に入った。

その引き戸をガラガラと音を立てて引き開けた瞬間、私の脳は一瞬にしてハックされてしまった。

安い柄の絨毯、鉄足の小さな卓袱台、電話棚とその上に置かれた白いレース編み、テレビの上に置かれたガラスの一輪挿しと造花、花柄のポット、白い合板の箪笥。家電のひとつひとつこそ新しい物ではあったが、全体の雰囲気は私の生きた昭和50年代そのものだった。最初に感じた匂いはそれらの家具が放っていた匂いだった。

小学生の頃、友達の家にファミコンをやりに行った時にドアの隙間から見えてしまった人ん家の茶の間。当にそれである。どんなに泣いて望んでも、もう二度と見る事の出来なかった世界が今、目の前にあるではないか。跪いて、号泣して、「ありがとう」と言いたくなった。

しかし、その六畳程の部屋に足を踏み入れたとき、私の視界の右端にある物が目に入った事で、一瞬にしてそれが私の思い出のソレとは全く違うものになった。

部屋の入り口のすぐの真横に金に輝く巨大な仏壇が立っていたのだ。六畳一間にはあまりにもデカ過ぎる。

そして部屋には二人の女がいた。部屋で私たちを待っていた二人の女は近年稀に見る不美人だった。これが現実なのだろう、私たちを連れて来た女のように案内や表舞台に出す女は美しいが、こういった場所では一歩中に入れば皆不美人、美人は表皮に過ぎず、蜂の巣の中は蜂と蜂の子しかいないなのが現実である。

二人の不美人は私達を優しい笑顔で迎えてくれ、出されたお茶や『ルマンド』を食いながらその『落ち着く』部屋にいると、また次第に『ここは居心地のいい場所』なのかもしれない等と思い始めてしまったが、図らずも一人の不美人が『この世界の良さ』を説明し出したおかげで私はその世界を大嫌いになる事が出来た。

「辞めたいって思うあなたの気持ち、よく分かるわ。あなたにはまだツキが廻って来てないみたいだから、今が一番辛い時だと思う。でも、ツキって自分でちょっとした努力をしないと廻り始めないものでもあるの。私も友だちいなかったしさ、最初は全然誰も誘えなくて、なんでこんな事しなきゃなんないの?って思ってすぐ辞めようって思ってたの。でも、そんなときに一人だけ『いいよ』って言って入会してくれた人がいて、彼女とは今でも親友なの。最初のたった一人、私が誘った子が入会してくれただけで、当時の支部の人達はみんなで私に拍手してくれて、『偉いね、よく頑張ったね』って褒めてくれてさ。私はこの会のおかげで親友って呼べるような人と出逢えただけなのに、みんなが褒めてくれるから凄い嬉しかったし、友だちが出来ただけで『紹介報奨金』って言って1万円も貰えるの知ってる?

友だちを一人作れば1万円が貰えるなんて、そんなハッピーな制度を考えた示教様ってホントに天才だと思わない? 私ね、それからもっともっとこの会の事みんなに知ってもらいたくて、みんなが友だち増やして、みんなの生活が豊かになればいいと思って、二年間で270人の友だちを『紹介』したの。その年の紹介者数日本一になれた。私、高校の頃、何かのきっかけで『KY』って思われるようになって、卒業する頃には友だちが一人もいなくなってたの。そんな私が、そんな私がね、友だちの数日本一にまでなれたのって、この会があってくれたからこそなの。友だちができる度に1万円貰えるのも凄く感謝してたけど、私は友だちができるだけで充分だったから会から貰ったお金は使わずにずっと貯めてて、29歳の時に会で買える一番高価な480万円のこの最上位全面金箔仕上げの仏壇を買ったのよ。私からの会への感謝の気持ちで。そうしたら示教様が私を名誉会員に選出して下さって、ミズホ寮の管理人としてここに採用してくださったのよ。ここで暮らして、毎日たくさんの『お友達』とお話しするっていう穏やかな毎日こそ私に合った仕事だって見出してくれた示教様は本当の神様だと思ってる。私、この会を辞めなくて本当に良かったって思ってる。ほんの少しの勇気と努力で幸せを掴む事が、この会にいればあなたにも出来るの。」

腐ってやがる。いや、本人は至って純粋で真面目なだけで、その『示教様』というのが相当なキレ者なのだと思う。とにかく、最早それが怒りなのか何なのかも分からない嫌な気分に耐え切れず、私は女の腕を掴んで立ち上がろうとしたが、私の横で静かに座っていた女は涙を流して泣いていた。

「私、なんにも分かってなくて。ごめんなさい。ありがとうございます。私、精一杯頑張ってみます。」

「おい」といって私がその女の腕を引っ張ると、女は私を睨んで「触んないで」と言った。

私がここに居る意味がなくなった。

「あなたが彼女の彼氏さんだから特別に一緒に来てもらったけど、ホントは女子部の寮内って男子禁制なんです。男子は男子の会員がきちんと敬意を持って案内するのが礼儀でした。ここまでの無礼をお許し下さい。今から男子部員が対応しますので、どうぞ行って下さい。」

なんともやり切れない、悲しいともムカつくとも着かない、胸焼けするような嫌な精神状態でミズホ寮から出た私が見上げた空の色を私は今でも忘れない。まるでLOMOのカメラで写したような、ザラつく程に濃くて気持ち悪い程に青い空が広がっていた。自分がこの先どうなってしまうのか全く分からない時、私の場合、とにかく闇雲に前に進んでみる性格なのだと冷静に自己分析している自分がいた。私はただ前に進んでいた。

ケヤキ並木の通りまで戻ると二人、とんでもないガタイの男が立っていた。一目で普通じゃないと分かる、プロレスラーかラグビーの強化選手以外何者でもないような体の男達。本部棟からの連絡で派遣されて来たのだろう、私が新聞配達でそこそこの体付きをしていたので、それを確実に圧倒出来る人材を用意してきたのは明らかだった。だが、二人の男はそのガタイのとは逆に顔は店の専業達のような『本物』の迫が全く無く、どこか育ちの良いボンボンのような木目の細かい清潔な顔をしていた。若いせいもあったが。

二人のゴツい男達は言葉使いが完璧なほど丁寧で、道すがら一つひとつ説明する。

「こちらに見える男子寮は会員限定で住めるんですが、風呂トイレ別の1LDKで家賃が3万円なんですよ。普通だったら7.8万円は当たり前の部屋をこんなに安く住めるように示教様が私達のために作って下さったんです。」

麓に見えた最寄りらしき幹線道路までは遥かに遠い。パラグライダーでもなければ逃げ切る事は不可能だろう。

なんの得策も思いつかないまま、殺風景に見えるほど綺麗に整った道を進んで行くと、道路脇にモチノキの生垣が続き、その向こうには巨大な瓦屋根の武道館のような建物が建っていた。

「ここは会員が誰でも24時間自由に好きな事を行える会館なんです。ぜひ一度中を見ていって下さい。」

受付にはスーツ姿の若い男が常駐していた。そこで荷物の一切と靴を預かると言われ、出された衣装ケースに財布とタバコ、それに靴を入れると、ケースは受付の男に丁重に持ち上げられ、受付事務所の中に入れられてしまった。その会館から出るには入会して靴を返してもらわなければならないのかと思ったが、ここまで来たらもう成り行きに任せるしかない状況である。

靴を預かった連中の表情はいくらか強気になり、ホール正面の扉を開ける表情は自信に満ちていた。

柔道場のようなビニール表の畳が敷き詰められた体育館のようなその場所には五、六十人の男達が点々と胡座をかいて座り、首を振ったり体を揺らしたりしながら何やら呪文のようなものを唱えていた。

オウムのドキュメンタリー番組で見たような、そのまんまの宗教施設である。

「みんなここでは好きなように好きなだけ感謝の祈りを捧げる事が出来るんです。私達の会では誰に感謝の祈りを捧げなければならないかなんて強制は一切していません。両親や大切な人、お世話になった人へなど、あなたも一度、心ゆくまでここで感謝の祈りを捧げてみてはどうですか? 感動して泣けてきますよ。もちろん泣いたってそれをバカにするような人はここにはいません。」

クソくだらねえ強要しやがってとしか思えず、しばらく辺りを見回すと、正面に体育館のように舞台があって、その真ん中にインドの何かっぽいマークが描かれた大きな旗が吊るされていたが、その下にグランドピアノが一台置かれているのが目に付いた。とりあえず、この状況をなんとか打開しようとピアノに興味を持ったフリをして前へ歩いてみると、ピアノの横に金の文字が印刷されているのが見えた。

その時点で疑うべくもなく、スタンウェイのグランドピアノだった。

「毎日朝7時と夜8時にみんなでここに集まって会の歌を歌っているんです。伴奏は会員でプロのピアニストの人がいるんで、その人がこのピアノで弾いてくれているんですよ。毎日プロの伴奏で歌を歌えるって凄い贅沢をさせてもらって幸せです。」

馬鹿野郎が、このピアノはそんな演奏のために作られたものではないのだ。私は幼い頃からピアノを習っていて、地元でそれなりに名を売ったが、それでも始めてスタンウェイのピアノに触る事が出来たのは18になってからだった。このピアノはピアノ弾きにとっての頂上なのである。

「ちょっと弾いてみてもいいっスか?」

「いや、それはちょっと困ります。これはあくまで会の歌の伴奏用なので、今はちょっと。」

「そうっスか。やっぱりなんでも自由って訳じゃないんですね。」

一人の男の表情が変わった。

「いや、弾いても大丈夫ですよ。なんでも思いのまま、自由にできるのがこの会の最大の特徴なので。私達も是非あなたの演奏を聴かせて戴きたいです。」

私もこの時点で自分が乗せられているのかどうか分からなくなったが、祈るよりはスタンウェイを弾く方がマシかという思いで壇上に上がった。

「はい!注目!今ここを見学に来て下さった方が、みなさんにピアノの演奏を披露して下さるそうなのでみんなで聴きましょう。」

ゴツい一人も意地になっていたのかもしれない。やたら大きな声でそう言って皆の動きを止めた。こうなったら意地の張り合いである。私も雑魚共に手を振りながら颯爽と壇上に上がり、わざと格好付けて大層らしくピアノの前に座って見せた。

祈りを上げていた連中はよほど趣味の外出などしない人達なのだろうか、こんなに陳腐な演奏会にでも大喜びで大きな拍手をしていた。

私はとりあえず驚かせようと、ショパンの『革命』を弾いたが、演奏が終わると、皆、神の降臨でも目にしたかのように呆気にとられ、少し間を置いてから狂ったように歓声を上げ、飛び跳ねる者までいた。

感化されやすいのか、今まで娯楽に縁がなかったのか分からないが、盛り上がり方がロックフェスなどとは違う。良く言えば本能的、一般的に言えばヲタ芸にしか見えないような気持ちの悪い狂気的な動きをしていた。見慣れないその様子に面白くなった私は「よーし!もっとこっち来いよ!」と舞台のすぐ下まで皆を呼び集め、当時流行っていたベンフォールズファイブの曲を弾き語ってみせた。オーディエンスの盛り上がり方はビジュアルバンドのコアなファン並みである。単純に面白くなってきた。

そんな奇怪な盛り上がりに、どうでも良くなった私がテンションMAXでもう一曲弾き始めた時、物凄い怒鳴り声が館内に響き渡った。

「おい!貴様ら!何やってんだ!」

ピアノの音も歌声も歓声も全ての音の中心に丸太を突き通すような怒鳴り声。

静まり返った館内を五十歳くらいのガタイの良い男が歩いて来た。

皆は一斉に走って、元いた場所に座って俯く。

「感謝の祈りを怠けて何やってんだ!馬鹿共が!」

ガニ股で周囲に睨みを利かせながら、その男はステージの下まで歩いてきた。

「おい貴様!なに勝手にピアノに触ってんだ!」

あまりにも無学で権力至上的な、その物言いに私は咄嗟に怒りが込み上げてきた。

「勝手にじゃねーよ。そこの連中が聴かせてくれっつったから弾いてやったんだろーが。」

私に名指しされたゴツい男達の顔は恐怖からか、目だけが大きく開いていた。

「外部の人間が勝手に会の備品に触るな!」

「だから、勝手にじゃねーつってんだろうが。日本語分かんねーのかよ、馬鹿野郎。」

ゴツい男達の手が、小さく前へ習えのような変な位置に上がる。

「貴様!早く出て行け!貴様は我々の害でしかない。二度と来るな!」

静まり返った会場で私は椅子から立ち上がり、一人悠々とステージを降りた。怒鳴った男とすれ違いざまにこれでもかというほど睨み合ったが、さすがにお互いその場で殴り合うほどの危ない選択は堪え、私はその道場の扉を出た。

玄関では明らかに衣装ケースをひっくり返したようで、私の荷物と靴は放り投げてあった。

しかし、私はこれで入会せずに脱出できたのだ。

演奏技術日本一を誇っていた新聞長屋バンド『松栄ズ』のメンバーをナメてもらっては困る。あんな性根の腐った示教よりは私達一人一人の方がよっぽど影響力がある事を確信して怒りを抑え、帰りの電車に揺られていた時、そういえば『あの女』はどうなったのだろうかと、やっと思い出した。

もう、そんな事はどうでも良かった。

なんだかグッタリ疲れて下板橋の駅まで戻ってきた時、駅前のセブンイレブンの前で安田さんがタバコをふかして立っていた。

「お疲れ様です。」

「おう。あれ?今日休みだったけ?」

「ええ。ちょっと遊んできました。安田さん、集金ですか?」

「まあな、今ちょっと休憩中。それよりさっき戸田がお前の事探して長屋に来てたぞ。」

「え、そうっすか。それじゃ今からちょっと戸田んとこ行ってみます。アザっす。お疲れ様です。」

下板橋あたりは印刷工場がやたらと多く、街は独特な紙の匂いに満ちている。その匂いを感じた途端に楽しい事も悲しい事も八割くらいはリセットされて、元の貧しい生活に戻される。銭湯だの公園だの、そんな何もない生活がそこにはあるだけ、ただそれだけの気持ちに戻される。

店の学生達は集金の時間であったし、どうせいないだろうと思ってはいたがとりあえず帰りがけに戸田の部屋のある半分崩れたアパートに寄ってみると、戸田は集金をサボって部屋にいた。

「なんや、どっか行っとんたんか。」

「ああ、ちょっとな。」

「まあ、ええわ。また今朝ゴミ捨て場で裏ビデオ拾ったんよ。お前んとこのテレビデオで再生して一緒に見ようや。」

戸田はビデオもテレビも持っていない。

この時代、朝のゴミ収取場所にはどこでも毎回のように大量のビデオテープが捨てられていた。ほんの二十年ほど前だが、今思えばこの時代にはまだネット動画はおろか、DVDすら存在していなかった事に改めて気がつく。

この頃は好きな時に好きな動画を見るためには金持ちも貧乏人も一様にビデオテープを所有する必要があった。

このビデオテープというものは厄介な代物であった。刊行本程の大きさがあり、そのひとつに最長でも120分の映像しか貯めておけない。今の圧縮データ量でいえばせいぜい100MBくらいの容量にこのデカさが必要だった訳で、要は、がさばってしょうがないものだった。

裏ビデオなど、所有する連中のステータスを考えれば大量にテープを保管し続けるスペースもあるはずもなく、中古屋に売れるような代物でもないため、今でいうデータ整理の際にはこうして物理的にテープを『捨てる』しか方法が無かったのである。そういった物は大抵、人目に付かない深夜などにこっそりと置き去られるため、新聞配達の時間帯には『そのまま』置かれている状態にあった。新聞屋にしてみれば『お宝』を拾い放題なのである。

戸田の持ってきた黒い紙袋の中には、テープがケースから出ないようにケースの上から一本の帯のようにガムテープが巻かれたビデオテープが何本か入っているのが見えた。こうした特殊な『仕様』が施されているテープは間違いなく裏ビデオだろう。

「まだ中身出しとらんから分からんけど、下にもなんか入っとるんよ。ちょっと持ってみ、スゲー重いから。」

持ってみると異様に重い。

「ペンチかスパナとかの工具かな? なんでもかんでもごちゃ混ぜで捨てやがんな。」

「こんなん捨てる奴やぞ、ギターのエフェクターとかとちゃうん?」

「おーい、ギタリストバカにすんな。でも、それだったら超みっけもんじゃんよ。それよりお前、集金大丈夫なのかよ?」

「余裕。今日はもう14件も採っとるし。あとは十時に降ろしに行くだけじゃ。」

「頑張るねぇ。」

いつも通りの軽い話だった。

昨日までの予定だったら、今頃私はカルト教団を蹴散らし、勝利の美酒で喉を潤して、美しい女の喘ぎ声を堪能しているはずだった。それが今、道で拾った紙袋を手に下げた戸田と二人で饐えた路地を歩いているとは。この時になって、やっと自分の不運に虚しくなって泣きたくなった。

その時間、長屋の他のメンバーは全員集金に出ており、私と戸田しか人はいなかった。

部屋に入って袋の中身を出して行くと、タイトルシールが貼られておらずケースごとガムテープが巻かれていたビデオテープが三本。その下に『ト3 タ15』とマジックで書かれた名刺程の大きさの紙切れが一枚。袋の底にはシワの少ない綺麗な新聞紙で、ぽってりと幾重にも包まれた『重い何か』が入っていた。

お互い「まあいいか」としか思っておらず、それぞれ気になった物をおもむろに開封してゆく。戸田はビデオテープを持ってガムテープを剥がし、私は新聞紙の包みを剥がしていった。

こういった物の開封は正月の福袋などよりよっぽど期待と緊張で胸が高鳴る。ビデオにしても再生するまでが一番楽しい興奮が味わえるものである。

『うわっ!』

二人の声が完全に揃った。

ビデオテープはケースの中にテープの形をした一回り小さい逆口のケースを嵌め込むようなギミックの箱になっていて、戸田がそれを引き抜くと中から一万円の札束がボタっと布団の上に落ちた。

新聞紙の包みの中身はリボルバー式の拳銃だった。

一瞬で私たち二人は頭の中も視界も真っ白になって動きが止まってしまった。

ハッと我に返った私は咄嗟に立ち上がり、戸を閉めた。誰かが戻って来る前になんとかしなければならない。

「おい、なんじゃこりゃ?ヤバイんとちゃうんか?」

「そこの紙、なんの意味だか分かるか?」

「トタって、俺が狙われとるんか?」

「いや、多分、違う。多分、なんかヤバイ取引の暗号じゃねーの? 物も金もヤバ過ぎんだろコレ。」

「どないしよ?」

「どこで拾った?」

「中板橋。」

「今、お前が生きてるって事は、誰にも見らてないって事だと思う。店から一番遠いとこだから向こうも分かんないんだよ。」

「どないしよ?急いで今から返して来よか?」

「ダメだ。絶対見張られてる。お前が来るの待ってるかもしれない。」

「あ、分かったわ。『トカレフ3丁、弾15発』や。そやろ?この金で買うって事やろ?」

おそらく正解である。

「戸田んとこ、流しの下の扉ん中、底抜けて地面見えてたよな? とりあえずそっから床下の方に押し込んで隠しとけ。」

「嫌やわ。どっかにぶん投げちまおうや。」

「ダメだ。投げたとこ誰かに見られる可能性がある。それに毎朝に中板のゴミ捨て場を通る奴の中で、ぶん投げた場所に行ってた奴っていう二つの接点作っちまったら、もうお前だって特定されちまう。逆に危ねぇよ。」

「どないしよ?」

「だから縁の下にぶん投げとけよ。」

この数ヶ月前に戸田は破産しており、月に2・3度しか銭湯にすら行けないような生活をしたいたが、この日から戸田は三百万円の真上で小銭を数えて生活をするという少し『変わった』生活を送るようになった。

その後、この金と拳銃がどうなったかは分からないが、そんなものが発見されたというニュースは今のところ私の耳には入って来ておらず、当時、戸田の住んでいたアパートがあまりに複雑な路地の突き当たりにあったため、今になってグーグルアースで見ても、どこがそのアパートだったのか、その建物が当時のままの残っているのかどうかさえ全く分からなくなってしまった。


私と戸田がそんなくだらない出来事に足を突っ込んでいたこの頃、『ラッセン売りの少女』というのが池袋界隈で話題になっていたのをご存知だろうか。

ラッセンという画家が描くイルカの絵なんかが、この頃流行っていた。そして、そんなラッセンの絵は当時、池袋のサンシャイン通りでピンクのベンチコートを着た若い女達が売り歩いていた。

詐欺である。

ラッセンは一発屋っぽかったが、当時のブームは日本だけのものではない。世界中、誰でも知っているような絵の原画が何でこんなポン引きネェチャンから買えるのか。どんなにバカにでも分かりそうなものである。

しかし、私の居た店の学生でそれを買ってしまった人間がいた。私の隣の部屋に住んでいた裕次郎マニアの安田さんである。安田さんが買ってしまったその絵は異様にデカイ月に向かってイルカが跳ねているものだった。二年ローンで百三十万円だったそうだ。皆、呆れ返ってしばらくは噂する気にもなれなかった。

当時、こういったポン引きでラッセンを売りつける女は通称『ラッセン売りの少女』と呼ばれ、池袋では結構話題になっていた。実のところ私も上京してすぐに声を掛けられ、訳も分からないまま女に腕を引かれて展示場に入ってしまった事がある。しかし、その会場でピタリと私に付き纏って絵の説明をしていた案内の男が何気ない会話の中で私の仕事の事や住んでいる場所など聞いてきて、『コイツには払えない』とその男に判断された瞬間、それっきり男も他の店員も皆離れていった。その後はいくら絵を見ていようが会場を出ようが無視されたものである。とにかく、行くだけムカつく場所であるには違いなかった。

では、なぜ安田さんは私と同じパターンにならなかったのか。店の板間でみんなで安田さんを囲んでその訳を聞いて呆れた。安田さんにはスーツ姿の『高そうな』女がぴったり付いて来て、その女から絵の説明を受たそうだが、安田さんはその女の容姿に合わせて嘘を付いたというのだ。「大手新聞社に勤務」「目白に一戸建て」「愛車はベンツ」。安田さんの普段着も普段着なので女は安田さんを『支払い能力有り』と判断したようだ。嗚呼、なんと悲しいバカなのか。双方見事に騙された訳である。大体、ラッセンの原画が百三十万で買える訳がない。とっても標準的な詐欺価格。安田さんはそのときのスーツの女に携帯番号を貰ったらしいのだが、後日その番号に掛けたところ、電話に出た女は開口一番「今度掛けてきたら逆探で住所調べて殺し屋廻すから」と、それだけ告げられ切られたそうだ。哀れとしか言いようがない。

その日から、彼の四畳半には『お持ち帰り』で持って来た名画がピンで吊るされることになった。

ただ、この話はここで終わらない。

安田さんが絵を買ったというこの話はある男の耳にも入った。その男とは『団長』。こういった種の事件などに関する話を絶対に聞かれてはならない人物である。この『団長とは?』について先ず何から話すべきか、とりあえず、店主の兄であり、『人間』というにはあまりにも我々とはかけ離れている、実在した怪物である。そもそも、『団長』という呼び名は、その名の通り『ダン』の長。東京中に散らばる、チンピラ家業も勤まらないようなギリギリ一般人な連中のトップ。漫画ワンピースで言うところの『白ひげ』である。

団長は過去にあった何らかの理由で、店である実家とは絶縁の関係にあったが、自らも一応は拡張団であり、商売の打ち合わせなどで、たまに弟である店主に会いに来ていた。団長の姿は誰しも一度見たら忘れられないものになるであろう。基本的にはいつも薄黄色いダブルのストライプスーツに赤い開襟シャツ、それで当時学生達からは「シュワちゃんの体にブッチャーの顔を持つ男」と言われていたが、私は初めて団長を見たとき東大寺の『阿形』にあまりにそっくりで驚いたものだ。日本人の遺伝子で何処と何処に支障をきたすとこんな容姿の人間が出来るのだろうかと思うほど日本人離れした容姿だった。そして、そんな容姿は子供のからだったそうで、十五で家を出て両国暮らしが長かった弟の店主と違い、団長は生まれも育ちも池袋。小さい頃から暴れに暴れて『豊島の鬼』としてその名を轟かせ、一時期は大所帯の『組』を立ち上げて他を制圧したり、領土を拡大したりそんな人生を送っていたそうだ。

団長は親を天寿で亡くしたときに表向きは家業を継いで新聞屋になったが、実際は都内のダンを取り仕切り、その中から見込みのある人間を極道に斡旋してその礼金で豊かな暮らしをしていた。そんな人間だったが、手当たり次第にすべてを破壊し尽くすような絶望的な悪ではなく、『仲間に優しく、敵は殺す』という、とっても『仁義』な性格だったので、私たちにはいつも「何かあったら俺に言え」と『優しい言葉』を掛けてくれる「何かあっても絶対に言ってはならない」人物であった。

店では、『どもり』の専業が相当団長に惚れ込んでいて、団長が店に来ると彼が脱いだ靴は揃えるわ、お茶は運ぶは、猿回しの猿のごとく背を丸めて団長の後を付いて回った。そして、団長を笑わせようと『拙い』日本語で一生懸命面白い出来事を話すのだった。安田が部屋に絵を飾って三、四日後の夜、団長が店に来たとき、馬鹿などもりは何にも考えないで団長に『その話』をしてしまった。

そのときすでに団長も『ラッセン売り』の存在は知っていた。あれだけ派手に引き込みをやっていたのだから誰でも知っていてあたり前だろう。しかし、その『社長』が誰なのかは団長も知らなかった。それが問題だった。新聞屋のダンは一般でも店舗でもとにかく自分の縄張りにある建物、部屋、空間は百パーセント勧誘に行き、聞かれればどんな人間が住んでいるかパッと思い出してすぐに言えるのが当たり前である。況してや団長ともあれば、手下の情報も入るので地元の池袋で「誰が住んでいるか知らない」場所などあってはならないと言っても過言ではなかったのだろう。

団長はそのことが何か勘に触ったのか、スッと立ち上がり、「明日中には安田の百三十万取り返してきとくよ」とだけ言って店を出て行ったのだった。

翌日、夕刊の配達を終えて店に戻ると、店の前に団長の金色ジャガーが横付けされていた。

奥の部屋では団長と店主が椅子に座り、その下にはスーツ姿の小太りな男が正座させられていた。私はそれまでに何があったかパッと想像してしまい、緊張した。そして、板間に上がった私に気づいた正座の男がチラリと私の方を見たのだが、その顔を見て私は思わず「あっ」と声を上げてしまった。そこに座らされていたのは「リー・ウォンレン」だった。

忘れもしないこの男。何故ここにいるのか。

事件は約二年前に遡る。九十年代も半ばを過ぎた頃、私の生まれ育った田舎街は都会の文化から完全に孤立し、独自の進化を続けるガラパゴスと化していた。それは私が高校生だった頃の話で、当時、辛うじてWindows95なんていうパソコンはあったものの、ネットなんてものは何処にも無かった。携帯も電波が入るのは東京の方角にある隣街に面したほんの一部の地区だけで、生活に全く必要のないものだった。日本全国そんなのが当たり前の時代だったら、私の住んでいた街も他の地方都市とそんなに差が無かったのかもしれないが、この頃すでに東京ではFだのNだののカメラ付き携帯が発売され始めた頃で、都会と田舎とで最も文化の格差が大きくなっていた時期でもあった。

私の居た田舎もこの時期はガラパゴス化がだいぶ進んでおり、男も女もサルっぽいショートカットに目深なニット帽を被ってジャミロクワイやクレモンティーヌを聴きながらプジョーの赤い自転車で登校するオシャレ系の連中、コーンローに髪を編み込んでゲスの黒パンに短ラン、チョッパーのスティードに乗って通学するイマドキ系の連中、そして、襟足十五センチの黒髪リーゼントで、タキシードクロスのスリータックボンタンを履き、左腕か左胸に焼いたランボーナイフで片思いの女の名前をカタカナで「○○○命」と刻み込んでロケットカールにアップハン、三段シートで竹槍マフラーのゼファーで通学する硬派系の連中、そのいずれかしか高校生がいないような最悪なガラパゴスと化していた。

硬派系、クール系の高校生達にはまるで部活動のように実に多種の暴走族が用意されていた。毘沙門天、黒栄会、鬼兵隊、ホワイトエンジェルス、ロードキングス、マッドホーンズ。基本、硬派系は漢字、イマドキ系はカタカナのチームなのだが、不思議なもので抗争となるのは漢字同士、カタカナ同士であり、漢字とカタカナは喧嘩をしない独自のセオリーまで確立された独自の進化。。

そんな田舎街で私はイマドキ系だったのだろうか、自分でも分からないし、別にそうなろうと思ってなった訳ではなく、この分離は通っていた高校によっても分かれていたため、周りがそうだから、なんとなく自分も周りからそんな風に見られるようになっていただけだが。大酒飲みのヘビースモーカーで、毎日女をイかせては追い返し、ゴダールの映画でアンナカリーナが乗っていた自転車と同じやつをフランスから取り寄せて、ビルエヴァンスとマイルスデイビスをMDで聴きながら自転車で乗って通学。少し違えど、ほぼオシャレ系だったのではないだろうか。

だが、私の友人の殆どはドレッドやコーンローの「イマドキ系」の高校に通っていた。

当時、そんな友人の一人が通っていたイマドキ系の高校に、ある日一人の転校生がやって来た事があった。その転校生は女であったが、身長が180近くあり、日本語が下手な中国人だった。その女は私の友人が居たクラスに入って来たのだったが、担任の紹介によると教科書などで御馴染み、「孔子曰く」の、あの「孔子」の子孫だというのだ。

正直『馬鹿ばっかり』だったそのクラスはそのとき大いに盛り上がったそうだが、一週間もしないうちに皆のテンションは一気に下がりきる。それは、その孔子の子孫があまりにも天然の女王思想で、クラスの皆を完全に下僕としか思っていない事が分かってきたからだ。元々、そういう環境に育った『本物』なのかもしれないが、基本、すべての事は『下僕がやる』『命ずる』『ひっぱたく』だったので、誰も近寄らなくなり、やがて、一部の女子等があからさまに嫌がらせなどするようになり、男子はそれらすべてを無視するといった状態になっていった。

そんなある日、その孔子の子孫が廊下を歩いているときに廊下の真ん中でおしゃべりをしていた隣のクラスの女子二人が居たそうで、孔子の子孫はその光景が気に入らなかったのか何なのか、その二人のうち一人を肩で突き飛ばしてしりもちを突かせた。

それに怒った二人の女子はすぐさま孔子の子孫に掴み掛かったそうなのだが、孔子の子孫は猪木並みのビンタで二人を秒殺、二人は倒れ込み、そのうちの一人は鼓膜が切れるという事件が起きた。別にこの二人は孔子の子孫に嫌がらせをしていたメンバーでもなく、殆どこの時初めて顔を合わせたくらいの関係であった。しかし、その鼓膜が切れた方の女子は私の友人と同じクラス、つまり孔子の子孫と同じクラスにカレシが居たそうで、そのカレシは大いにキレた。

鼓膜が切れた子もそれほど大した怪我でもなかったようで次の日には耳に大きなガーゼを当てて学校に出てきたのだったが、その日の朝にカレシは登校してきた孔子の子孫を教室の入り口でいきなり髪を掴んで隣のクラスまで引っ張り、カノジョの下で土下座するように命じたのだった。

孔子の子孫は最初は強烈に抵抗したそうだが、カレシが睨んで二、三発腹を小突くとさすがに怖くなったようでその場は土下座して、拙い日本語で「ゴメンナサイ」と謝ったそうだ。そして、調子に乗ったカレシが脱いだ上履きで孔子の子孫の頭を一発パコンと叩いて、カノジョが「もういいよ、やめて。」と同情。カレシはカノジョの優しさに惚れ直し、野次馬達はまるで結婚式でもあるかのように拍手喝采で二人を祝福。

今までの田舎ルールではここで完結だった。

だが、これが後にある事件へと発展した。

土下座の後に孔子の子孫は教室を出たままその日は早退してしまったのだが、誰も特に話題にすることも無く、却って皆、その「平穏」を久しぶりに謳歌して穏やかに一日が終わったらしかった。そして、例のカレシが電車通学のカノジョを誘って何処かでセックスでもしようと駅にバイクを停めて部活終わりのカノジョが来るのを待っているときだった。

田舎の無人駅には全く似つかわしくない真っ黒な三菱プラウディアが三台、そして、その後ろに一台の黒いベンツのS6がカレシの前に一列に並んで停車、その四台の車から合計十二人のあからさまにゴツイ男たちが一斉に降りてきた。

カレシはその男たちの一人にいきなり腕を掴まれ、放り投げられるように緑フェンスに叩きつけられ、訳も分からず顔を上げるとフェンスを背にした自分を中心に男達にやや広く半円形に取り囲まれていたそうである。

その後、カレシは人の壁で作られた半円形のリングの中で、謎の男達の中でも最もゴツイ、絶対カタギじゃない風貌の男と戦わされ、まるで幼稚園児とプロレスラーのような戦いを演じ、見た目が誰だか分からなくなるほどの打撲を負って即入院となった。当然、これだけ派手にやったらギャラリーもいたらしいが、あまりにもカタギじゃない現場に誰も近寄れなかったし、止められなかったそうだ。そして、後にギャラリーの証言で、最後にベンツの助手席から『あの』孔子の子孫が降りてきて、すでに血に染みた毛布の塊みたいになっていたカレシに唾を吐いて終了、皆が引き上げて行ったという事が判明した。

この事件はあっという間に街中の知るところとなり、当然、孔子の子孫もそれ以来学校には来なくなった。そして、この事件をきっかけに街中の高校生が一致団結することとなった。あの中国一派を日本から追い出すためにである。元々、硬派系、イマドキ系、オシャレ系と見た目は違っても、それぞれ相手をリスペクトし合っていたようなところがあり、仲は良かったので一気に一纏まりになって、「KK部隊」という、ちょっとダサイがギリで皆が許せる名前の連合部隊を組織し、あの謎の連中をブッ潰そうと決起したのだ。

実際、この部隊の結成には当初、あの連中が地元の極道絡みじゃないかという噂から逃げ腰になったチームもあったが、そこは硬派系の出番で、先輩やらOBやら、『そっち系』の情報で「中国人のチンピラ一家が孔子の子孫を使って宗教のような詐欺をやっているだけ」という情報を仕入れ、さらに地元を仕切っている人たちもその中国連中の態度に相当腹を立てているという情報も持ってきた。

この頃、私は色々なところに呼ばれて酒を飲まされていた。別にグレていた訳でもなんでもなかったが、田舎町で唯一のロックバンドを組んでいて知名度だけはあったので、不良連中が私の知名度を利用して自らも名をあげたかっただったのだろう。色々な『チーム』の親玉が私に酒を飲ませ、勝手に『親友』などと言っていた。

そんな事情もあって、私は『孔子一家撲滅作戦』の会議の席にも何故か呼ばれて、その筋から入手したという敵の親玉の顔写真を見せられたのだ。

その写真の男こそ『リー・ウォンレン』だった。

一見、どこにでもいる農家のオヤジのような四角い顔をした中年男だったが、よく見ると確かに怖いと思えてくるような、硬く冷たい感じの眼つきの顔だった。

その二日後、掃討作戦の夜、市内にある梨の選果場の広大な駐車場には気持ち悪いほど沢山のバイクが集まり、皆、『静かに』出発の時を待っていた。硬派系の連中など騒音を立てたくて仕方なかったのだろうが、ここで白バイにでも見つかって散りじりになってしまっては元も子もない。皆、本気で、自慢の直管マフラーにわざわざ芯を入れ、敵の本陣まで余計な邪魔に見つからないよう指示まで出されていた。

「よし!みんな、よく集まってくれた!ありがとう!今夜はマジで死ぬかもしんねぇ。みんなで最後の一服してから出発する!よし、タバコに火つけろ!」

基本的にみんな馬鹿なんだと思う。真っ暗闇の中、これだけ一斉にタバコの火が光ったら、警察よりも消防が来そうだと思ったが、大丈夫だった。

私はそんな『KK部隊』の本陣、真っ黒なシーマの後部座席に『友人』である大将マサルと共に乗り込んだ。

「お前には迷惑かけたくねえからよ。ここなら絶対安全だから。」と言われた。

移動中に車内から見る光景は当に異様の一言に尽きる。有に百台を超えるバイクのテールランプがずっと車の前にある夜のドライブは「明かりが綺麗」などと思えるものではなく、確かに闘争心のような興奮を呼び醒ます赤い光の群れだった。

静かな大集団は隣の市に入り、やがてとある住宅街の細い道を塞ぐようにもの凄い数のバイクが一斉に停車した。少し先に見えた三階建てのビルがリーの家だという。一台の特攻バイクが様子を見にゆっくりと走りだしたが、次の瞬間、ビルの一階ガレージから一台のベンツが凄い勢い飛び出してきて、タイヤから白い煙を出して猛スピードで私たちとは逆方向に走って行った。

襲撃の情報が漏れたのか?

私たちはバイク集団の前半分、三十台ほどが急発進でベンツを追いかけ、後ろの集団はリーの家を取り囲んで、鉄パイプを持った連中がガレージの中へと雪崩れ込む。私の乗ったシーマはベンツを追った集団のテールランプを追いかけた。

後の連絡で分かった事だが、すでにリーの家にはリーも孔子の子孫もおらず、手下と共にベンツに乗っていたのだ。

ベンツは住宅地を抜け、真っ暗な田んぼ道を逃げていたが土地勘が無かったのか、又は族の連中の気合いが凄かったのか分からないが、あっという間にバイク集団に追いつかれ、二ケツの後ろで鉄パイプを振り回していた連中に追い立てられるかのようにトランクやテールライトをボコボコに叩かれていた。

しかし、敵は本職である。容赦がない。

追い越しもできないような細い田んぼ道で猛スピードから突然急ブレーキをかけたり蛇行運転をするなどして、追ってくるバイクを次々に用水路や田んぼに突き落とし、追撃するバイクをあっという間に二台にまで減らしてしまった。

私たちのシーマが追いつき、助手席の男が窓を開けてバイクに向かって叫んだ

「お前らー!事故った奴ら見てこい!後は俺らが追っかける!」

乗る前は「ここが一番安全だ」とかなんとか言っていたのではなかったのか?最前線ではないか。

バイクは道を開け、その真ん中をシーマが突き抜けて走って行く。

真っ直ぐな田んぼ道をしばらく走ると、少し先を外灯のある一本の道がまっすぐに横切っているのが見えた。そこを渡る信号を抜ければ市街地に入る。それを知ってか知らずか、ベンツは猛スピードで赤信号の交差点を突き抜けた。

私たちもその後を追った。後部座席からスピードメーターを見ると130キロを超えていた。

「馬鹿め、ここは俺の『私道』だぜ。」

運転していた男が言う。

田舎町の商店街は夜の10時前だというのに薬屋だの靴屋だの、錆だらけの白いシャッターが全て閉まっていた。その商店街は運転していた男のの地元であり、縄張りだった。

一見広く見える通りだが、電柱がかなり車道にはみ出しており、さらにカーブやY字路が多くて非常に走りづらい道であった。私たちのシーマはぴったりとベンツの後に着いていた。

「はっはっはー、どこへ行こうと言うのだね。」運転していた男はすでにムスカの真似をするほど余裕になっている。しかし、この時私は、このまま追いついてベンツを止めるのは良いとして、向こうの手下がプロレスラーのような男だったら私たちだけではどうしようもないのではないだろうかと気が付いた。当初の計画ならば、こちらの兵は二百人以上、いくら向こうにゴツい手下が三、四人いたとしても勝てる戦だったが、今はよく考えれば圧倒的にこっちが不利な状況なのだ。車を降りたら絶対負ける。

私のそんな発見も知らず、シーマの車内は大盛り上がりだった。

「ホレホレ、どーした、ベンツの走りはそんなもんか、えぇ?コラ。」

しかし、そこは百戦錬磨の族の連中も戦い方は心得ていたようで、やはり途中で車を止めようとスピードを緩めたベンツのケツに惜しみなく、上手にボコッとオカマを掘った。上手い。下手に当てるとエアバックが出るだろうに、どの車ならどれくらいの衝撃までそれが出ないかを知っているのか、単に衝撃センサーを外しているのか分からないが、大した衝撃も無く、エアバックも出なかった。

「バンパーの修理代は三倍でぶん取ってやっからな。」

さすがに本当に当てられると止まれないようで、その度に急加速をしていたベンツは左のバックミラーを電柱にぶつけて失い、見るからに満身創痍といった感じで細い路地へと曲がってゆくのが見えた。

「ヤベえ、あの先って稲荷神社で行き止まりだ。」

そう言って急いで後を追った次の瞬間、ベンツはバックで戻って来てターンし、私たちのシーマと向かい合った。

そして次の瞬間、バンバンという今まで聞いた事の無いような乾いた音と共にベンツの横に黄色い光がフラッシュした。カメラのフラッシュなんかとは色が違う。明らかに危ない、火薬の爆発した火花の光と音である。

突然の出来事だったが、シーマは急ブレーキで停車し、私たちは全員、反射的に頭を下げて屈み込んだ。咄嗟に『銃だ』と誰もが直感できたからである。

ベンツは猛スピードで私たちの車の横を通り過ぎ、すれ違いざまに真横からも一発、バンという大きな音を立てて去って行った。

「誰も当たってねーよな?」

伏せたままそう言ったマサルの声が震えていた。どこのガラスも割れていないので、みんな無事なのは確かなようである。

「うっそだろ、チャカ持ってんのかよ。」

「マジで撃って来るってありえねーべ。」

追撃のテンションなど一瞬でこれっぽっち無くなった。それどころか、道の真ん中で止まったままの車を端に避けるまでにさえ、数分かかった。

結局、弾は私たちの車には当たっておらず、威嚇で発砲しただけのようだったが、商店街のシャッターには三発の弾丸が撃ち込まれ、翌朝のNHKニュースでトップニュースとなっていた。

しかし、凄いものである。二百五十人近くいた暴走族の連中からたった一台の車で逃げ切ったのだから。やはり本職は違うと感心すらしたものだ。


そんな『思い出の男』と、二年あまりの時を経て、こんな東京の奥底で再会するとは思ってもみなかった。

リーはその日、団長に素手で四肢を引きちぎられる事もなく、そそくさと帰って行ったが、後日、団長は約束の百三十万円をスーツのポケットに入れて店に現れた。安田さんは初回分で払った三万円を受け取って全て一件落着となったが、残りの百二十七万円は団長が持ち帰ったのは言うまでも無い。田舎の荒くれ者二百五十人をもってしても手に負えなかった男を、こうもあっさりと絞め上げた団長は恐ろしい。

あの『孔子の子孫』も、この時、池袋にいたのだろうか?

その日から、あれほど我が物顔でサンシャイン通りをうろついていた『ラッセン売りの少女』が一斉にいなくなったが、私がこの二年後、八王子に引越した際、放射線通りでピンクのベンチコートを着た大量の『ラッセン売りの少女』が客引きをしていたのを見かけて、少し運命を感じたのだった。


池袋からラッセン売りが消えた数日後、私が夕刊の配達を終えて店に入ると、板間で手をついて四つん這いになっていた松本がどもりに顔を蹴り上げられて倒れた。咄嗟の光景に私は反射的に土足のまま板間に駆け上がってどもりにタックルをして、どもりを奥の壁に叩きつけたが、すぐ横で竹刀を持って立っていた主任が私の全身を竹刀で滅多打ちにして私の動きは封じられたのだった。

松本はただ、「すまんね、俺は大丈夫だから。」と言って、少し笑った。

私たちが初めてこの店に来た時から毎月一度『本社の担当さん』と呼ばれる一人の女性が店に来ていた。

その女性は本社の奨学金制度を行う担当部署の女性で、私達のいた地区の担当をしている人だった。月に一度店に来て、学生達一人ひとりに「体は大丈夫?」「寒いけど頑張ってね」等、優しい言葉をかけ、奥の部屋で所長と少し話をして帰って行く人だった。要はコンプライアンスである。その人自身も大学から修士過程修了まで6年間も新聞奨学生として働いていたそうで、そのまま本社に入社して奨学金の部署に配属になった人だった。

その女性は当時26歳だったが、新聞屋で鍛えた効果なのか、長身で稀に見るスタイルの良さとキリッとした顔立ちの、誰が見ても美しいと言えるような女性だった。

当然、6年も現場を経験してきたその人は私達の『言いたくても言えない』状況も察してくれていて、その全てを包んでくれるような月に一度の優しい一言が私達学生にとってどれほどの支えや気力になっていたか。専業達もそんな『イイ女』を至近距離で見られるだけでも、月に一度の彼女の慰問を楽しみに待っていたのだった。

それがあまりに突然だったので松本はリンチを受けたのだ。

松本はその日、突然その『本社の担当さん』と結婚したのだ。

同じ長屋に住んでいた私達でさえ、誰も二人の関係には気が付かなかったし、松本も照れ隠しだったのか「いやー、俺たち今日結婚しちゃいましたよ」と、半笑いで言ったものだから。松本があまりに女気のないこの環境のせいで、ついに妄想と現実の区別が付かなくなってしまったのだと誰もが震えて、何の表情も作れなくなってしまっていた。

その夜、松本の部屋に集まって、異様なほど静かにジッとしてしまった私達は、「痛って」と言って蹴られた顎を触った松本の声がまるでスピーカーから聴こえてくるような遠い距離感を感じていた。

「いつ頃から付き合ってたの?」

沈黙の中、フッと自然に宮本が尋ねた。私にはまだ全てが遠い声に聞こえた。

「7月頃からですよ。」

「全然気が付かなかった。」

「実は俺、その頃からあんまり学校行ってなくて。昼間、学校行くフリして『ミキ』と逢ってたんです。」

「『ミキさん』ね。ってゆーか、学校はちゃんと行けよ。」

「いやー、ハッキリ言って学校の先生より俺のがベース弾けるんですよ。授業でも最初っから俺の方が先生に弾き方教えてる状態で。教え方を教えるから来年から先生やれって言われたんですけど、おかしいでしょ、ここで借金して授業料払ったのになんで俺が教えなきゃなんないのかって。レベル低いんですよ。」

「まあ、それでミキさんと逢ってた訳か。」

断言できる。松本のベースの腕は日本一である。マーカスミラーやポンタBOXの水野さんより聴覚上は上手い。デビューのタイミングさえきちんと見計らえるプロデューサーさえいれば、歴史に名を残す資質がある。

しかし、それが全てであると誰もが思って疑わなかった。松本にはベースしかない。松本にはSEXはおろか、射精すらしないような真のベーシストのイメージしかなかったのだから。

私は最初にこの結婚話を聞いたときこそ全く現実味を感じなかったが、この、本社の担当『ミキさん』の先見の目は本物だと、時間が経つほどジワリジワリと、その『イイ女』振りを実感し始めた。凄い人ではないか。早稲田の大学院卒で大手新聞社勤務のキャリア女性が、首元の伸びたTシャツを着た四畳半長屋暮らしの学生ミュージシャンと結婚するなんて凄い事ではないか。

皆も本当の馬鹿ではない。私と同じように気が付いた。私達が静まり返ってから一斉に盛り上がるまで、ほんの数分だったのだと思う。これほど長い数分をかつて感じた事があっただろうか。

『イッイェーイ‼』

「スゲーぜ、まっちゃん!」

さすがにそこで楽器を弾く奴はいなかったが、皆、モッシュくらいは出来そうな、跳ね回って、叫んで喜んだ。

原始的で本能の音楽とはこういうものなのだろう。

その月の慰問から『担当のミキさん』の苗字が『松本』に変わったが、さすがに松本もミキさんも賢く、松本が借金を完済して長屋を出るまで住まいは別、二人とも仕事は全く今までと変わらず、とにかく松本が店から解放されるまでは定義だけ夫婦で他は何も変わらないようにしていたのだ。実際に松本は学生達から時折、『アレ?そういや、まっちゃんってこの前ミキさんと結婚したんだよね?』と夢見事のように聞かれる事が何度かあったほど変わり映えの無い生活を送っていた。

それから一ヶ月と少しが経ち、ちょうど公園の銀杏の葉が全て落ちきった頃の事。

「いやー、ミキと離婚しちゃいましたよ。」

松本はあの日と同じ半笑いでそう言ってのけた。

その月から『本社の担当さん』はミキさんではなくなった。

「スゲーぜ、まっちゃん!」

戸田が思いっきりの笑顔でそう叫んで見上げた都会の空が、本当に雲ひとつない見事な青空だった。


松本が離婚してすぐの頃だったと思う。その日、私が夕刊の配達から戻ると先に戻っていた学生たちが板間に集まって笑顔で立ち話をしていた。普段なら学生たちは夕刊を配り終えれば掻き込むように夕飯を食って、集金出発の夕方6時まで少しでも長く自分の部屋で自由な時間を作りたいため、店に留まったりはしないものである。

それがこの日、何人もの学生が店にいたので、先ずその異常に緊張したが、その学生たちの人の輪の向こうに『あの人物』が見えたので更に驚いた。

それはお笑い芸人のSであった。この後の話に続くので、あえて名前は伏せておこう。

Sは本当の有名人である。わざと失敗するマジックをネタにしていたピン芸人で、私が学生の頃には『笑点』で大喜利の前座として度々テレビに出ていたし、別にファンでなくとも多くのテレビ番組に出ていたので毎日どこかで顔を見てしまうような売れっ子芸人であった。よほどの年寄り子どもでなければ日本中の誰もが顔と名前は知っていたのではないだろうか。

この日、彼が店にいたのを見た私は、咄嗟にテレビの突撃訪問か慰問か何かだと思い心踊ったものだ。

店にいた田舎出の学生達にしても東京で生の芸能人に会えてみんなはしゃいでいた。

しかし、Sは確かに数年前は毎日テレビで見る顔であったが、この時期すでに顔を見るまでその存在を思い出しもしなくなっていたような一発屋でもあった。

後に事情を知れば、Sは自分の絶頂期に気持ちまでもが天下人になってしまい、生放送で大御所の先輩芸人に素でタメ口を叩いて喧嘩になるというNGをやらかし、テレビの仕事がなくなり、地方のドサ回りすらもなくなり、半年前に事務所を解雇。その後のSの転落は早く、買ってしまった高級マンションのローンのために、車も、買い揃えた高級家具も順々に売り払ったが、それでも追いつかず、結局住む家を失い、日雇いの仕事を求めて早朝の職安に並ぶ日々を送っていた。要は借金持ちのホームレスになっていたのだ。

そんな状態のSを主任が『面接』で拾ってきたのである。

住み込みで賄い付きという新聞屋の仕事はこういった人達にしてみれば、当に救いの手なのだろう。

「僕は今日からみんなの後輩でーす。先輩方、よろしくお願いしますね。」

上手いというか、これほどの有名人が後輩になって嫌な気がする者はいない。みんな笑顔で大歓迎、気分も大いに盛り上がった。

皆、まだその時には詳しい事情など知らず、ただ笑顔で喜び、「実家に送りたいんで」などと言って、ちぎった大学ノートの紙にサインを書いてもらったりしていた。そして、Sからも何か同じ匂いでも感じ取ったのか、Sはやけに戸田に近づき「今日から友達だね、よろしくね、先輩。」などと言って、肩を組んで笑い、『友達』である戸田の部屋を見に行ったりしていた。

Sは翌朝3時から専業としてしっかりと働いていた。

切羽詰まった人というのは実に必死に働くものである。元芸人のプライドというか、人一倍動いて傍目にもキツそうな時でも目が合えば相手を笑顔にさせるようなニコッとした屈託のない笑顔を見せる。

初日からベテランの専業達と同じに朝3時から夜10時まで、一日四回の出勤で仕事をやり遂げた。学生たちの中には初日の『お疲れ様』と歓迎会を兼ねて、何処かで酒でもご馳走しようと思っていた者もいたようだが、仕事が終わり、初日のSのあまりの疲れた真顔を見て、誰もが何も言わずにそっとしておいたのだった。

二日目もSは朝に遅刻する事なく3時にきちんと出勤してきて、夜の10時まで仕事をしていった。ただ、初日と違って、彼から笑顔が無くなって、ただの中年の顔になっていた。

そして三日目、彼はいなくなった。

朝の3時に店に現れず、毛皮マニアの専業が叩き起こしに行ったが、部屋にSはいなかった。

「ちきしょー!あんのやろー!今度会ったらブチ殺してやらぁー!」

主任は怒鳴り、近くにあった余りの朝刊を破って壁に叩きつけた。

「主任、あいつ、布団まで盗んで行きやがったみたいで部屋ん中空っぽだよ。」

主任は竹刀を持ち出して床やら棚やら力一杯叩いて早朝からバシバシと騒音を立てている。

私たちは黙々と新聞を『組んで』いた。

その日の夜の事であった。

集金の精算が終わり、長屋に戻ろうとしていた私の元に戸田がコソコソっと走り寄って来た。

「なあ、ちょっとええか? ちょっとだけ俺の部屋に来てくれんか?」

戸田がこんな物言いをするときは嫌な予感しかしない。今度は何を拾ってきたのか、まともな物でないのはこの時点で明らかである。しかし、それでも行かないわけにもいかない。もし私が戸田の誘いを袖にした事で、下手をしたら明日の朝には戸田が死んでしまっている事だって十分にあり得るのだから。

なんだか久しぶりに戸田の住む崩れたアパートに行き、その戸を開けると、久しぶりに狂った世界を見てしまった。

異様に真っ白で明るい光を放つ剥き出しの丸型蛍光灯の下、Sが胡座をかいて座っており、あの屈託の無い笑顔で「どうも、お邪魔してまーす。」と言ったのだ。

灯台下暗しとはいえ、店の者に見つかれば殺されるかもしれない状況の中、布団持参でこんな近所に隠れているその根性と思いつきは確かに大物の器なのかもしれないが、この男と関わると自分の人生が大きく狂った方向に進んでしまう事は本能的に感じとれる。

「なあ、この人ん事、なんとか助けられんか?」

戸田も戸田で、相変わらず本当に馬鹿であった。何故こいつの身には堕ちてゆく事ばかりが起こるのだろうか、その時の私の目に一瞬、戸田が特殊な妖怪のように映って見えて鳥肌が立った。

「いや、はっきり言うよ、やめとけ。」

「なんでや?この人、ホンモンのSさんやで。俺、昔からこの人の事テレビで見てたんよ。今、俺の部屋にいるってだけでも物凄い事やろ。」

「お前の言ってる事は分かるよ、でもよ、そんな『憧れの人』と一緒に住んでるからってどうにもなんねーんじゃねえの? この人はもう芸能人でもなんでもないただのオッサンな訳で、ここでお前と暮らしてくんじゃ、お前がこの人の食費とか生活費とか出してやる訳? それでお前が有名になれる補償なんかねーのに。」

私はわざとSに聞こえるようにそう言ったが、Sは自分に都合の悪い話は全く耳には入らない人間のようで、知らん顔して、今にも鼻くそでもほじり出しそうな程、ムカつく顔をしているだけだった。

「この人にはあれだけ有名になった『経験』があるんや。どうやったらあんだけ有名にねれるかっちゅうノウハウは分かっとる訳で、それを教わって俺もいっぺんでいいから売れたいんよ。分かるか俺の気持ち? 一発屋でもなんでもええからいっぺんくらい俺の記録ちゅうか、映像とか世の中に残しときたいんよ。俺が今、この時代に生きてたっちゅう記録をどっかに残したいんよ。」

戸田の言葉は幼いが、真っ直ぐに私たちの気持ちをそのまま言葉にしているかのような芯がある。。しかし、その思いを具現化するために縋る柱がこんな無責任なバカ中年でいいのだろうか?頼る先がこんなものしか得られない戸田に、そして、今の自分の置かれたこのあまりに貧相な環境に悲しくなって、急に泣きそうになった。

「だからって、どうすんだよ。お前、今だって銭湯に行く金もないのに、あいつの飯代とかどうすんだよ。」

「なんとかなる。今だってなんとかなっとるし。死ぬまでは無いわ。そやけど、どうしたらなんとかなるか一緒に考えてほしくてお前に見せとるんや。頼む、ほんとのお願いや。」

私が僅かに言葉に詰まった隙にSが口を挟んできた。

「悪いねぇ、なんか。でも、ちょっといい?僕もさすがに戸田君にまるっきり食わせてもらおうとは思ってなくてさ、ここに住ませてさえもらえれば自分の食う分は自分で稼いで、戸田君にはここの家賃も払おうと思ってるからさ、金の事は心配しなくて大丈夫だよ。」

私は生まれて初めて怒りで体が勝手に動いた。私は真っ直ぐにSに向かって周囲のゴミを蹴散らし行き、座っていたSの胸ぐらを掴んで引き上げた。

「今喋んじゃねーよ、このヤロー。叩き潰すぞオイ。」

「すみません、すみません、分かりました。でも、ちょっとだけ聞いてよ。コレ見て、コレ。」

Sはポケットから一枚のカード出して必死に私に見せようとそれを振っていた。

それはSが店から脱走した際にそのまま持ってきた新聞屋の店員証カードだった。おそらく店に採用された際に配られたのだろう。勧誘をする際など、それを首から下げていないと怪しまれる物である。

「コレがあれば僕は勧誘ができるんです。」

「バカか?テメーはもうどこの新聞屋からも手配かかってんだよ。勧誘できたって契約書持ち込める店が無かったら意味ねぇだろうがよ。テメーは店に顔出した時点で捕まって殺されんだよ。報酬なんか貰える訳ねぇだろ、状況分かれや、バカが。」

「違う。そうじゃなくて、昼間に僕が戸田君の契約書で勧誘して、それを戸田君が店に持ち込んで報酬を貰えばいいんだよ。俺は三割でいい。残りの七割はここの家賃として戸田君にあげるよ。これでも僕はまだある程度顔は知られてるから一日中廻ってれば毎日幾らかは契約採れるはずだ。」

三割や七割がいくらくらいになるか、その時は咄嗟に計算もしなかったが、Sが食えて戸田に収入が入るという金関係の説得に、貧しい私達の気持ちはサッと静かになったのは確かだった。その時は悔しいとか撥ね退けるとか、そんな余裕が無い程に私達は実際に貧しかったのだろう。

それでも啖呵を切った手前、翌日は『試し』という事で、Sの作戦を実行したのだが、この作戦は大当たりで、かつて人気の芸能人が突然家に来て新聞の勧誘などすれば、今後ともの付き合いで簡単に新聞の購読契約くらいしてしまうものなのだろうか、Sは初日に意図も簡単に五件、計二十一ヶ月の契約を採ってきた。その後も毎日三、四件、それぞれ三ヶ月から一年くらいの契約をコンスタントに採ってくるようになった。一日中なら四、五十件は廻っていたのだろうし、その割合で云えば収穫は多くなかったのかもしれないが、平均で半年契約が三件だとしても十八ヶ月分で報酬は一万八千円、どんぶり勘定で三割の六千円をSに渡しても戸田には毎日一万円以上の『家賃収入』が毎日入るような生活が始まったのだ。

店の者たちも、まさか手配者のSと戸田が手を組んでいる等と想像すら出来る者もおらず、只々、戸田の働き振りに感心していた。

Sも戸田も良い生活を送れるようになり、とりあえずこれで良いのかと思われた。しかし、世の中そんなに上手くいくはずもなく、その終わりは突然に訪れる。

このSという人間そのものが浅はかだったのである。

初めて訪れた土地で自分勝手に荒稼ぎ出来るほど世の中は甘くない。それは弱肉強食の動物の世界だってそうなのだから。

そこは昔から『団長一家』の漁場であり、自分の漁場の魚が何者かに捕られて数が減っていれば気が付かない訳がない。

毎日毎日、何十年も街の隅々まで見回ってきた団長にしてみれば、街にある全ての家の中の構造や家族構成は勿論、どの時間にどの道を通る車や人までパターンとして分かると言っていた。

地域の防犯パトロールでもやればこれ以上ない人材でもある。

そんな団長の目に映るいつも通りの景色の中に一点の『ダスト』が入り、それをよく見てみると新聞の勧誘をしていたとなれば、そんな『ゴミ』はサッと拭き取るのは当たり前の事だろう。

ある瞬間から、Sは音もなくこの世界から消えてしまった。

唯一、このSが男らしさを見せたのは、最後まで戸田との関係を口にしなかったようで、戸田には何の被害もなく一人で消滅してくれた事だ。

もう二度とSに会う事はないだろう。

Sが消えたが、戸田は最早、悲しみを感じなくなっていたようで、別になんともない表情で毎日を送っていた。

それから2週間ほど経った日の事、戸田は突然、所長から『無期限の休暇』を言い渡された。

別にSの事がバレた訳ではなく、戸田の実家から店に『父がクモ膜下出血で倒れた』との電話があったのだ。

それでもこの『無期限』には不審な点が多く、専業たちが詮索したのだった。

店から借金を背負った者はたとえ親が死のうが、本人が余命半年と言われようが絶対に休みなど貰えない。それが大原則であり、現に私たち学生も、何用があっても実家からの電話は『里心が付かぬよう』と言って切られ、決して取り次いでは貰えなかった。

戸田の事情を真っ先に仕入れたのはどもりの専業だった。

どもりの話によれば戸田はとっくに学校を辞めており、さらに破産した時点で借金はすでにチャラになっていたのだ。しかし、店主はある程度人間ができていたので、戸田にはその事実を伏せたまま、戸田を事実上の専業として店に置いておき、専業としての給料は戸田が全く見向きもしなかった本人の銀行口座に振り込んで戸田に貯金を作らせていたというのだ。

要はこのまま解雇してもある程度生活ができるくらい貯金が貯まったため、この『一旦解雇』で、後は戸田の気持ちに任せようとしていた。ただ、この時点で本人は自分に貯金がある事など知る由もなく、また、それを知ったらすぐに店を辞めて散財してしまうのは明らかな状態だったため、父の見舞いに実家に帰す際にも一切の事実は告げられないままだった。

それでも、私はその時点で戸田にはSと共に稼いだ金があるだろうと、あまり心配はしていなかったが、そこはやはり戸田である。銭湯に行く金もないまま『家賃収入』で得た金でクロムハーツのブレスレットとアビレックスの革ジャンを買って、残りは一万円を切っていた。どう考えても長崎の離島まで行く片道の資金にすら足りない。

彼なりに知恵は絞ったんだと思う。戸田はすぐにサンシャインシティーにあったトイザらスに行って、有り金の殆どを使って一台のキックボードを買ってきた。それで長崎まで帰ると言い出したのだ。

今思えば狂っているとしか言い様が無いが、あの場所ではみんななんとなく『行けそうな気がした』のだ。

これが戸田との永遠の別れのような気がしたのは戸田を見送って二、三日経ってから感じたもので、みんなで見送った際に戸田は手ぶらで、キックボードのハンドルに皆から餞別に貰ったアクエリアスのペットボトル五本が入った白いビニール袋を下げて池袋から長崎の五島に向けて出発したのだった。

その日から一ヶ月と少しして、戸田は池袋に帰ってきた。

出発後すぐに行き詰まって寺の軒下で夜を明かそうとした時、寺の住職に声を掛けられ、事情を話すと部屋と風呂と食事を与えられたそうだ。このいきなりの発見に味を締めた戸田は昼間のうちはとにかく寺か教会を探してキックボードを漕ぎまくり、夜はタダ飯と暖かい寝床で過ごしながら一ヶ月かかって実家のある長崎五島まで辿り着いたらしい。途中、戸田の身の上を哀れんだ坊主等、直接現金で施しを渡してくる者も多かったそうで、とにかく食い物には困らない快適な旅だったという。

そして、実家に帰ると父はクモ膜下出血が嘘のように奇跡の完全復活をしており、まさか今頃になって息子が見舞いに来るなど思ってもみなかった出来事に驚いて、躓いて転んで右手首を捻挫した。

戸田は旅の話もあって島のスター扱いになり、久し振りに逢った『サキ』から旅費を貢いで貰って、滞在二日で新幹線に乗って早々に池袋に帰って来たのだ。

正直、もう戸田は帰って来ないと思っていたので、またここに帰ってきた戸田を見た時は抱きつきたいくらい嬉しかった。しかし、戸田はこの『行脚』で何かを悟ったようだ。

戸田はそのひと月後に店を辞めて、私たちの前から巣立って行った。

そういう時期だったのだ。年も明け、生き残った学生はみんな一年分の借金は一年で完済出来るように店が計画的に搾取していたので、みんな今年分はこの時期に完済なのだ。次の一年分をまた一気に借りるかどうかは本人次第。年季が明けて出て行ったり、途中で死んだりして学生が減った分だけ、また田舎の貧しい学生に金を貸して補充するだけの事。

この頃、私の知らないうちに都内の別の場所ではある事件が起きていた。

こんな私でも、高校時代に地元で唯一のロックバンドをやっていた事もあり、少しはカリスマ性なんていうものもあったらしい。私が高校卒業と同時に地元では前例の無かった奨学生なんていうもので東京に出ていった事が同世代の連中にはある程度の噂になったそうで、訳も分からないまま私の真似をして奨学生に申し込んで私の後を追って東京に出てきた者が四人いたそうだ。そのうちの一人は高校の頃、毎週のように私の元にデモテープを持って来て「いつかお前に認めてもらえるようなスゲー曲作ってやるからな」などと勝手に若い闘争心をぶつけてくる面白い男で、顔もよく知っている男だった。その男が中野の店で死んだ。飛び降り自殺だったそうだ。

全く音信不通だった地元の友人から店に電話があったそうで、さすがに同級生が死んだ知らせは店主から私に伝えられ、私は折り返し電話を掛けて、それまでの事情をその時初めて知る事となった。

さすがにこの時ばかりは私も真面目に反省をした。私は自分の事ばかりは考えて、思いついたままに行動してきた。それが他人にはどう見えているのかなんて考えもしなかったし、況してや自分の後を追って来ている者がいたなんて想像もしていなかった。先導する者が崖へと続く道を選んでしまったら後から付いて来た者も皆、堕ちてしまう。

戸田が出て行ったこの時すでに、私が来た時のメンバーで残っていたのは松本と私の二人だけになっていた。

どんどん新しい学生が補充されて、学生の人数だけは常に十四人を保っていたが、店も私たちの世代を見て至極反省したらしく、松本より後はミュージシャン厳禁、何を思ったかアニメ学院の生徒限定の店にしてしまっていた。

後日談だが、この軽率過ぎる方針により、店はこの二年後に潰れた。

イメージが軽率過ぎるのだ。現代の漫画家志望に手塚治のような、非力だが情熱と気力のある若者などいやしない。実際にゾロゾロと入ってきた漫画家志望だという田舎出の貧しい若者達の、そのあまりの馬鹿さ加減たるや、栗栖が弁慶のようだったと思えるほど、あまりにひ弱で根暗な奴らしかいなかった。

当然、私も松本も彼らとは目も合わせないような状態だった。

そんなある日曜日の事、私と松本は近所のラーメン屋でラーメンを食っていた。

「まっちゃん、四月から特待決まったって事は店出られるの?」

「まぁねぇ。っていうか、阿部っち、もうとっくに完済してるそうじゃない。辞めないの? それとも俺に気ぃ使ってくれてくれてんの?」

「いやぁ、気は使ってないよ。もう少し、この世界を見てたいなって思ってたら、いつの間にかここまで来ちゃっただけ。」

「まぁ、確かに面白いっちゃ面白いけど、こんなとこ早く出た方がいいでしょ? 長くいると人間おかしくなっちゃうよ。」

松本が高田馬場に引っ越した日、私はその引っ越しを手伝い、最後に上野にあった奨学生の事務所に一緒に付き合った。

こんなにもボロいビルの一角にある事務所に私たちは命までも翻弄されていたのかと呆れるほど寂れた事務所で松本は任期満了の手続きを行い、不忍池の淵にあった小さな中華料理屋で二人だけの送別会を行った。とは言っても、ただ、昼飯を食っただけだったので、その後、私たちは山手線に乗り、新宿方面に戻って行った。

当然というか、松本は明日から朝刊を配らなくてもよい訳であるし、私と共に池袋で降りて、私の部屋に来てこれまでの思い出やら何やらをいつものようにグダグダと話してゆっくりしてゆくものだと思っていた。電車の中でもまるで今までと何一つ変わらずに話を続けていたので、私は二人で部屋に戻って一体何をどう話したら良いのかと少しだけ考えていた。

最後、松本が部屋を出て行く時には私も泣いたりするのだろうか?と、そんな事を思ってみたりもした。

そして、電車が池袋に着き、人の波に乗って私も歩き出す。なんの話の続きだったのか覚えていないが、私がごく当たり前に「それでさぁ、」と言って後ろを振り返ると、そこに松本はいなかった。

降りたドアを見ると、松本はドアのすぐ内側に立っていた。

「え?」と思って、私は慌てて電車に向かって引き返したが、松本はスッと手を上げ「それじゃ、」と言ってドアが閉まった。

やられた。

あまりにもカッコイイ別れ方を持って行かれてしまったと、私は恥もなくホームで大笑いした。

あれから二十年経つが、あれっきり松本にも、他の誰ともすれ違う事すら無い。


仕事の記憶は殆ど残っていない。冬の夜、下板橋駅から熊野町に向かうガードの手前、埋め立てられた川の歩道に車止めの丸い石柱があって、その上に座ってマルボロを吸っていた。集金途中で、ジャージに集金カバンを肩から下げて、不審者みたいな格好だったろう。でも、そのとき実感した。自分が東京に生きていると実感した。田んぼ道でも砂利道でもない、土なんて無いその場所で、状況的にも逃げ出すことの出来ない閉塞間、ただ今日を生きること以外、すべて行き詰まったとき、寒さが心地よくて、タバコが美味かった。

私は一人になってから、そんな日々を繰り返していた。目標だとか、計画だとか、そんなものは何も無くなっていた。

ただ、なんとなくだけど、確信があったのだ。

そしてやっと、その確信は私の信じた通りに訪れた。

下板橋駅から線路沿いの歩道を一人の女が歩いて来た。

「あ、いきなりいたし。」

「よ、久し振り。」

「なんでいきなりいんの?」

「いや、ここにいればいつかお前が来ると思って待ってただけ。」

「馬鹿だ。それで、東京の暮らしはどうなの? なんか面白い事はあった?」

「いや、なんにも無かったよ。」

「もういいでしょ? ねえ、もう帰ろう。」


そうだな、帰るか。


疲れました。文字の制限数一杯で何とか終わらせる事ができましたが、まだ書きたいエピソードが沢山あります。 それらは時代物とかにして、小出しにしてみようかと思っています。

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― 新着の感想 ―
[一言] ラーメン食べながら適当に何か読めるものないかなあ でももうランキングの作品飽きたなあと思っていて短編を文字数多い順にして安易な気持ちで読み始めたら、ラーメンの味も覚えてないし、夜勤明けの夕方…
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