第一話
南風が、桜の花弁を巻き上げつつ校内に渡りゆく。夕方に春一番が吹くと聞いていたが存外に心地よいものだと、第五美術準備室の窓に削がれ入る風を頬で受けながら三枝 景正は感じていた。
卓上に広げられた細い部品類が吹き飛ばされないか多少の心配はあったが、僅か数ミリの大きさしか持たない軽装甲観測車のヘッドライトは、どうにか下敷き変わりにしている組立図の折り目にしがみついているようだ。小さな安堵とともに席を立ち、窓へ向かう。プラモデルを作るにあたって換気は必要だが、スチロール樹脂系接着剤の臭い程度ならば、この、半ば倉庫然とした準備室の主も許してくれるだろう。
窓に手をかけつつ空を見上げる。雲は足早に流れ、遠く吹奏楽部の奏でる音が耳に触れ、それに交じりグラウンドからは運動部の声が聞こえる。
外界を拒絶するように青年は窓を閉じる。
胸に、かつて居た場所への郷愁が突き刺さる。歩くたび痛む右足が嘲笑してるようにも、諦めを諭しているようにも感じとれた。
「――歩けるようになるだけでも幸運。柔道への復帰は諦めたほうが良い」
3月の全国高等学校選手権大会団体決勝大将戦、試合中のアクシデントで病院に担ぎ込まれた。診断の結果は齢17歳、内12年を柔道に費やしてきた三枝青年には残酷な告白だった。一縷の望みをかけ持ち前の根性と胆力でリハビリを完了させるも、やはり完治には至れなかった。
自暴自棄になり切れなかったのは、柔道部顧問、恩師である熊谷先生が、育ての親である祖父母に鬼とも形容される体育教師がひたすらに申し訳ないと涙ながらに平伏している様を見てしまったからだ。
5歳の時に両親を事故で亡くしてから祖父の家に移り、厳しく躾けられた。こちらも内心、鬼と形容していた祖父が腕を組みひたすらに顔を伏し体を硬直させていた。あの祖父の眼から涙が零れたのを見てしまったからだ。
育ての親と恩師、2人の鬼を図らずしも泣かしてしまったことに対する申し訳なさと、大一番に怪我をしてしまった自分の不甲斐無さを恥じればこそ、どうしても自棄にはなれなかったのだ。
「ああ、もう来てたのかい」
振り返ると、この第五美術準備室の主、加茂下が居た。美術教師、というよりヨレヨレの白衣と眼鏡と猫背が科学教師を思わせる。年嵩は無いが若々しさも見当たらない冴えない男が寝ぐせ交じりの頭を掻きながら、親しみやすい笑顔を浮かべている。
180度振り返り姿勢を正して一礼をする。心技体を厳しく鍛え上げる柔道部で躾けられた所作だった。
「ぼ、ぼくに対しては、それは、ちょっと、ダイジョブ、かな…」
もっとフランクにしてくれよー。と情けない声で加茂下は身長180cmを超える偉丈夫に懇願するのであった。
この、国際大榎学園は小中高一貫した学園であり、生徒個人の特色を伸ばすことを教育理念としている為、普通科に類する科は無く、体育武道科と文芸美術科に大分化されている。各々、国語数学等、最低限の教育要綱をこなしはするもののほとんどの学習時間が部活動や芸術活動に費やされる。それらを教育する教師たちもその道のスペシャリスト達ばかりであり、学園設立者の資材で整えられた充実した設備もある。また、国際、という冠があるように世界に通じるスペシャリストの教育の為、留学生の受け入れも盛んで、毎年数十人の留学生を受け入れている。
不慮の事故で体育武道科をドロップアウトせざるを得なかった三枝の手を引いて文芸美術科を案内してくれたのが加茂下であった。
「熊谷先生には僕も昔お世話になったからさ」以前そう語ってくれたものの、右も左も分からない文芸美術科の校舎であれやこれやと世話をしてくれている加茂下に恩義を秘める三枝には最敬礼である一礼は欠かす事ができる筈がないのである。
「お、もうほぼほぼ組み上がったんだね」
加茂下は卓上のsd.kfz253を見止め、うまくできてるじゃあないか、と感嘆の声を上げる。
「いえ、履帯が曲がりくねってしまいまして。パーツも2,3点無くしてしまいました」
折角の賜り物を完璧に仕上げきれなかった慙愧の念が三枝の頭を下げさせた。
「いやいや初めてでこれだと大したものだよ」
加茂下は笑いながら三枝の肩を叩く。叩くといっても身長差が20センチほどあるものだから見ようによっては三枝が肩を叩かせるために体を曲げている様にも見えてしまうのであった。
「どうだい模型ってやつは」
加茂下がインスタントコーヒーを啜りながら三枝に尋ねる。
「……まだ、わかりません」
三枝は卓上を掃除しながら返答する。狭い作業スペースの片隅には組み上がったsd.kfz253が鎮座していた。
怪我から復帰しての数週間、加茂下の手配で絵画、音楽、文芸、一通りの部活を体験してみたが、一様にピンとくるものは無かった。というより場違い感に煩わされた。芸術分野の人間とは生きる世界が違うとまで思った。それはそうである。12年間を武道と共に生きた男に詩を謡えというのが酷なのだ。
悶々とした焦燥感に苛まれる三枝に、それならば、と加茂下が持ってきたのがプラモデルと最小限の工具一式であった。
とりあえず作ってみなよ、と差し出された箱の中には、初めて見る精緻な部品がランナーに繋がれて組み上げられる時を待っていた。
三枝は文字通り時を忘れて没頭した。度重なるミスを乗り越え、この数日でなんとか完成に漕ぎつけたものの、組み上がってみたものを見れば、お世辞にも綺麗とは言えない仕上がりの、おんぼろと形容されたほうが相応しい車両だった。
たが
――楽しかった。
そう素直に思える。出来は悪かろうが、模型に集中した時間は三枝に充足感を与えていた。
しかし、武道を諦め、芸術科に入った自分が、半ば遊びのような模型製作に没頭していいのだろうか。と、またも自縄自縛に奔りそうになる。
巨躯をうなだれる坊主頭を見止め、加茂下が笑いながら言った。
「じゃあ、色を塗ってみよう。倉庫に君の先輩たちが使ってた工具や塗料があるはずなんだ。」
面を上げる坊主頭。先生、先輩とは――
「ああ、そういえば、言ってなかったね。僕が新任のころまで模型部ってのはあったんだ。10年くらい前かなー…」
詳しくお聞かせ願えますか。
「設立は1970年代だったっけ。すごく古いよね。途中で休止したり再開したりでいろいろあったみたいだけど」
コーヒーを含む加茂下。自然と姿勢を正す三枝。
「僕が新任の最初の年に模型部の顧問をやっててね。それで新入部員が入らなかったから解散って、感じかな」
看取ったのが僕ってことになるね。と加茂下は笑った。
「そうだ、三枝君は部活動記録って知ってるよね」
毎月の部活動集会で生徒会への提出を義務付けられている書類の事だ。短期間だが柔道部キャプテンだった三枝はもちろん知っている。
「初代模型部部長が立派な人だったらしくてね。それはそれはすごいんだよ。1ページ1ページにみっしりテクニックやアイディアがそれはもう余白もないくらいに書き込まれてるんだ。技術を継承してこその大榎学園模型部だーって」
是非読んでみたい。心からの渇望を覚えた。
「残念ながらその精神が全うに受け継がれはしないんだけど、それでも各々の時代で、インスタントカメラで完成品の写真撮ったり、淡々と購入したプラモデルとかの報告だったり、ただの日記だったりするんだけど」
コーヒーカップを下ろし、どこか懐かしむような眼の加茂下。
「なんだかすごく、青春ってやつを感じたかなぁ」
青春、ですか
「そうだよ、君が柔道に青春を賭けていたように、プラモデルに青春を賭けていた先輩たちも居たんだよ」
倉庫とはいっても巨大な学園内で倉庫と呼ばれる部屋は多い。この第五美術準備室も見る人が見れば倉庫だと言われてしまうだろう。加茂下は倉庫のカギを取りに行ったが、目上の人間が自分の為に労を供することを良しとしない三枝は、勿論、自分が行くと申し出たものの、「どこの倉庫かわからないだろう」と論されてしまえば頷くしかないのだ。おそらく、自分の足を気遣ってくれているのも、一つの要因だろう。
卓上の装甲車をぼんやりと眺める。
(君が柔道に青春を賭けていたように、プラモデルに青春を賭けていた先輩たちも居たんだよ)
先ほど加茂下に言われた言葉が頭を過る。
自分は何はしたいのか。
「――Guten tag」
自分は何ができるのか。
「――Entschuldigung?」
何か聞こえた。
「エット、スィまセー…」
声の聞こえた方に振り返ると
「んっ!」
驚く少女が居た。
透き通るような肌、少し癖のついた銀髪、そして宝石のような蒼い瞳。「人形の如き」という形容詞が使われるべきタイミングを三枝正義17歳はいまここで見出した。
「――なにか」
制服を見ると国際大榎学園の留学生というのは察しがつくものの、この第五美術準備室に用があるとは思えない。そもそも第五という番号は重要度にと比例する。10年間非常勤美術講師の加茂下に割り振られたこの部屋にはさして用は無い筈である。
「エッと、アー…」
日本語がまだ上手く喋れないようだ。焦らせることなく三枝青年は目の前の白磁の少女を見つめる。背丈は150cmに満たないだろう。触れたら折れそうな程、おそろしく線が細い。中等部の生徒だろうか。しかし中等部とも違う制服、おそらく祖国のものだろうか。「アッと、えット」ともじもじと緊張した仕草がかわいらしくもいじらしい。
「ア!」
突然歓声が上がる。sd.kfz253の箱絵を指さして
「German!」
ジャーマン。ドイツである。ということはこの少女はドイツ人か。
「ユー、アー、ジャーマン」
少女を瞳を見つめ、できるだけ優しく語り掛ける。美術学科に入ってからこっち、自分の体躯が無意識に周囲に威圧感を振りまいていることは痛い程判っていた。
目を反らされて若干のショックを受けた。
「Ja…えと、ボクは、ドイツの、ヒトです」
「初めましてドイツの人。私の名前は三枝景正です」
なるだけ聞きとりやすく語り掛ける。貴女の名前は?と聞く前に
「Alberta!ア、ボクは、Albertaイイます」
白い頬にうっすら紅が挿し、長いまつ毛が双眸を隠す。急に大声を出してしまって恥ずかしいのか、細い指を腹部の前で忙しなく交差させている。
「あ、アナタは、German、が、好き、デスカ?」
緊張を圧して、振り絞るようなか細い声での質問。
ドイツとの交流といえば去年まで柔道部に在籍していたドイツ人留学生のカールくらいしか思い浮かばない。真面目な割に誘惑に弱い、図体はでかいくせに怖いものが嫌いで、顎が割れている。別れの時は空港で大泣きしていたあの愛すべきドイツ人。
そういえばこの装甲車もドイツの物か。好きか嫌いかで聞かれれば勿論、
好きだ。と答えると、ドイツの少女はパァっと笑顔を咲かせた。
「Glücklich!ウレシイです!」
胸元で手を組んで感激を示すアルベルタ。
「ウレシイ、です。ドイツの事、好き、のヒトいて」
聞けば今年度から留学生として、親元を離れ、我が身一つで来日して学園の寮に入ったものの、日本に慣れきれず、相談できる近い年代でドイツ語圏の生徒が居らず、若干のホームシックを患っていたそうだ。ゆっくりの片言日本語に甲斐甲斐しくも雑談に付き合う。この小さい体でよく知らぬ異国に来たことを思えば、称賛せざるを得ない。
「Ein Freund、えっとトモダチ、まだデキてなくて、ソノ……」
にほんゴが、ムズカシい、とはにかむ。
人見知りするところがあるのだろう。会話はなんとか繋げることはできるが、対面で話しているのに目を一切合わせようとしない。両の親指は世話しなくのの字を画き回している。
「それで、アルベルタさんは、ここに何の御用ですか?」
表情筋が死んでいると揶揄されることもある三枝青年は意識して笑顔をつくる事を早々に諦めていた。無理して笑顔をつくると余計恐ろしい顔になるのは、以前、柔道部の交流会で少年柔道家に泣かれた苦い過去がある為だ。故に、声色を極力優しく、中等部の少女に語り掛けた。
ア!と思い出したように胸ポケットからメモを出して見せる。
メモには手書きで 第三準備棟1-12 17:00 とあった。おそらくアルベルタは漢字が読めず、添えられた簡略図を頼りに彷徨っていた。時間は刻々と迫っており、二進も三進もいかなくなった人見知りな彼女が、勇気を出して第二美術棟1階で唯一明かりがついていたこの準備室を訪ねたのだろう、と推測した。
第三準備棟はこの棟の裏手にあたることを教えてあげた。ついでに17時を15分過ぎていることも。
アルベルタはドイツ語と片言の日本語で精一杯の謝辞を述べ第五美術準備室を駆け出た。と思ったら半閉じのドアから顔を半分だけ出して
「アノ、ボク、と、トモダチに、なってくれますか…?」
と尋ねた。
勿論だと答えると嬉しそうにDankeと微笑んだ。
タッタッタと小走りの足音を聞いて、妹が居ればあんな感じなのだろうか、と、屈強な体躯を持つ元武道家はひとりごちるのだった。
しばらくして加茂下が帰ってきた。忙しなく後頭部を搔きながらおかしいなあ、おかしいなあと呟きながら。
「鍵が見当たらないんだ。職員室に保管する規則にはなってるんだけど、誰も用は無い筈なんだけどなあの部屋」
と申しますと?
「あの部屋は、僕が顧問を務めた弱小部活動の道具置き場にしててね。廃部になったり、あまり使わないような道具を置くだけの部屋なんだよね」
ちなみにどのあたりにあるんですか、その部屋は。
「この棟の裏手だよ。第三準備棟の1階の一番奥さ」
第三準備棟。過去、とある要因で生徒数が爆発的に増えた時に急造した教室らしい。プレハブ造の2階建てで教室は1フロアに6室が左右に配され12室ある。
今現在は少子化の影響か、物置程度にしか使用されていない。野放図なツタに雁字搦めにされた外観は見てて半ば廃墟を連想させる。
「とりあえずその部屋に向かってみましょう」
三枝の提案は不安と予感から出たものだ。
1-12の元教室現倉庫は、案の定施錠されていた。
「やっぱり鍵かかってるね。もう一回準備室を探してみるよ」
と加茂下。そんな筈があるのだろうか。現に先ほど此処に来るよう指定された少女を知っているのだ。もしやと思い、ドアに顔を近づけ、聞き耳を立ててみる。
――――物音。
「先生、中に誰かが居ます」
「ええっ!そんな馬鹿な」
「確かです。ドアをこじ開けて良いですか?」
プレハブの引き戸に手を掛けてみる。少しのガタを確認した。
「ま、待ちなよ。ドアを壊したら怒られちゃうよ」
慌てる加茂下。普通は無理だと考えるがこの青年ならやりかねない。とっさにそう思えた。
中の気配が確固たるものになった。
「もしかしたら取り返しのつかない事になるかもしれません」
左手の指を引き戸のクッション部にねじ込ませて、右手をドアの枠に手を掛ける。
「ちょっと待って、いま携帯で教頭に…」
「Hilf mir!!!」
――部屋内から見れば引き戸が吹き飛んだ様に見えただろう。プレハブのドアはアルミのレール部分から引き千切られ無残に後方に転がっていた。
「カゲマサ!」
部屋には中年男性が半裸のアルベルタに覆いかぶさっているように見えた。
「中野先生?!なにをやってるんですか?!」
加茂下が中年男性に叫ぶ。そうか、ナカノセンセイか。覚えがある。留学生の世話を担当する語学の教師だ。嫌な目をした大人だと思っていた。
怒りが、血を沸騰させ、体中を巡る。ひと月ほど使わずにいた競技用の各部の筋肉が次々と起き上がる。
「ナカノセンセイは、淫行をなさろうとしているのですか」
一歩迫る巨躯。
「な、なななにを!ド、ドア、ドアをこ、ここ壊し…!」
「ナカノセンセイは」
一歩。
「淫行なさろうと」
一歩。
「ど、どどどけ!私は教師だそ!!おまえみたい、おまえみたいな落ちこぼれが」
「しているのですか」
一歩。転がっていたカメラを踏み砕いた。
足を震えさせながら後退りする中野、迫る三枝。
祖父、三枝権五郎の言葉が去来する。
「景正、男は強くならねばならん」
「強さとは喧嘩が強いとかへこたれない強い気持ちだとか、そんな単純なものじゃあない」
「強ってのは――」
隙を見て三枝の脇を脱兎の如く駆ける中野。
すり抜ける刹那、三枝の左腕は中野の右襟に捻じ込まれていた。
不甲斐無い自分の為に滂沱の涙を流してくださった熊谷先生。
不慣れな自分を甲斐甲斐しく世話してくださった加茂下先生。
――素晴らしい恩師方に比べ、この大人はなんと、なんと矮小なのだ。
三枝景正が抱いている怒りは、己が導くべき留学生を強姦しようとする中野に対する、為すべきことを為さない大人に対しての、子供ならではの憤りなのだ。
為すべき時に為すべき事を為すことができる、それこそが――
左手を捩じ上げる。中野のワイシャツがボタンが飛とばし、断裂の叫び声を上げる。右手で袖を握りこむと同時に捻り上げ中野の重心がカチ上げられる。左足を踏み込み右足が続く。右足に重心を移すと軸として捻り、同時に左足を払いあげる。
払腰。何千何万と繰り返した、淀みの一切無い柔の技が一瞬で中野を宙に跳ね上げた。
無論、受け身を知らない中野は床面のフローリングに叩きつけられることになる。
肺は機能を停止し、内臓すべてが揺さぶられる。運動不足の中年教師が耐えられる衝撃ではない。中野は蛙を潰したような声を漏らすと意識を失った。
加茂下は、三枝がドアを捥ぎ飛ばした瞬間から中野が叩きつけられるまでの数十秒、正に呆気にとられていた。我に返ったのは同じく呆気に取られている半裸の女生徒を見止めたからだ。
「だ、だだいじょうぶかい、キミ」
慌てて駆け寄り、自らの白衣で少女を覆い、無事を確認する。
「良かった。この子は大丈夫みたいだ。」
少女アルベルタは、物語の英雄を臨むが如く、三枝を見つめ続けていた。
加茂下も同じ方を向き、恐る恐る語り掛ける。
「…三枝君。キミ、足は大丈夫?」
その言葉を聞いた刹那、痛みの奔流が三枝景正の意識を飲み込み、その巨体を卒倒させた。
三枝景正が、持ち前の根性と胆力で再びリハビリを完了させ復学してきたのは五月の始めであった。あの時は満開だった桜も、今は潤うほどの緑を湛えて風にそよいでいる。
呼び出されて赴いた理事長室では、何より先に理事長からの謝罪と謝辞を受けた。呆気に取られている自分に、淡々と教頭が事の起こりと中野に対する処罰を述べた。
中野は十数年前、語学力を買われこの学園で働くことになったが、留学生の世話役を買って出たのは3年前からで、それからは、写真を撮って校内新聞に掲載するとの名目で、気の弱そうな女子留学生を個室に撮影することを趣味にしていたそうだ。
「最初は写真だけで満足していたが、段々エスカレートしてきて、アルベルタ・カリウスさんの時についに爆発、関係を迫ってしまった、ということだそうです」
無論、中野は懲戒免職、刑事罰も視野に入れ、過去3年に同じようなことがなかったか徹底的に洗い出している途中らしい。
アルベルタのメンタルケアも学園の心理士が精一杯やってくれているそうだ。
我々、学園運営側の不徳の致すところだ、と深々と謝罪された。
ドアを壊してしまった事への謝罪は、受け入れられるというより賛辞をもって迎えられた。「まさかドアを引き千切るだなんて、さすが元武道家ね」と理事長は笑っていた。
「前途ある貴方の怪我は、学園にとっても、私個人としてもとても残念に思っているの」
理事長室を出ようとしたその時、理事長に呼び止められた。
「でも、自棄にならず自分の出来る事、やりたい事を必死に探している貴方を私達は出来る限り応援はしたい」
加茂下先生からの報告を受けているのだろう。
「――見つけなさいね。私達は待っていますよ」
「おかえり、ヒーロー」
第五美術準備室に入ると、加茂下が愉快そうに声をかけた。
足はどうだい。と加茂下。
ぼちぼちです。と三枝。
再入院中の事と理事長室での事を報告がてら雑談していると、机の上に重なってるノートの束と、クリアケースに収まっている戦車が見受けられた。
「そうそう、それが件の模型部活動記録。中には抜けている分もあるみたいだけど、初代から10年前の分まで、現状揃うのはそれが全部だね。」
此方は?
「そっちの戦車、すごいよね。まるで実車みたいなクオリティだよ。タイガー戦車って言うらしいんだけど、僕は詳しくないからね。きっとその活動記録の中にあるんじゃないかな。卒業制作みたいだし」
身震いを覚えた。先輩方の英知と、実績がいま発掘され、眼前に晒されているのだ。
それと、と大箱を引っ張り、中身を晒す
「先輩方の『遺産』ってのが、それを含め結構見つかってね。僕が把握してなかった分も大分あって…」
箱を引っ掻き回す。タイガー戦車と活動記録もまだ全然見足りないのだが、
「なんとエアブラシ、コンプレッサーも、それとインスタントカメラ。年代ものだけれど」
宝物を見つけた少年のような顔で微笑む。三枝青年も思わず感嘆の声を漏らす。
「動作は確認しているよ。筆や塗料は経年劣化で使えないものも多いけど、まあ買い直すにしても安いもんさ。」
「しかし、エアブラシは此処では――」
換気が悪く、雑多に積み重なった美術用具といえども塗料の飛沫で汚すわけにもいかない。
「そう、ここで使われるのはさすがに困る」
そこで、だ。嬉しそうに人指し指を立てる。
「一つ提案があるんだ」
――Guten tag.
聞き覚えのある声に振り向く。
あの時の少女がはにかみつつ、伏目がちに、だが今度は此方の目をしっかり見つめている。
「やあ、ちょうどいいところに来たね」
お友達さんも、と手を振る
小さな少女の後ろには3人の留学生が見とめられた。
「どうだい、模型部を作らないかい?」
部活動が生徒会に認定されれば部室が使えるし、部費もつく。部員は5人必要だけれど、それはアルベルタちゃんが集めてきてくれた。知ってるかな、留学生は兼部が許されてるんだ。国際交流ってヤツでね――
発掘された遺産の数々の吟味、被害にあった少女の現状確認、模型部設立の提案。それに知らない女性が3人。
突然色々なことが起こり、頭が混乱して、加茂下のお喋りも耳に入ることなく上滑りしてしまっている。
混乱したときは、落ち着いて個々の問題を確実に決着させていくのだ。祖父の教えを思い出した。今確実に決着させることが出来るのは……
アルベルタ・カリウスの小さい両肩を掴み、三枝景正は問うた。
「――君は、同級生だったのか」
国際大榎学園高等部三年生を示す緑のリボンを胸元で揺らし、ドイツから来た少女は顔を真っ赤にさせた。