元勇者、驚愕しつつも護衛を続ける
「Osiris」
幽界にへと送られる者の怨嗟に満ちた声のような、そんな詠唱が響く。
それは、とある神話において主神の地位に立ちながらも、悪神であった弟に殺された幽界の王。
本来は農耕民族の主神らしく豊穣の神だった一柱が、死者を司る神へと堕とされたという一例だ。
相対するは、ゴブリン。
ランクはDマイナス。人間の三分の一程度の緑色に彩られた体躯を持ち、原始的な本能で人を襲う、説明はいらないであろうメジャーモンスターだ。
珍しく一匹でうろついていたのが運の尽き、とウシルに補足されたゴブリンは、その粗雑な剣を抜いてウシルとアセトの二人を威嚇する。
「グギャギャギャッッ!!」
ここは広い草原。右手50メートルほど先に森があり、そこに逃げ込むことが出来れば生存率は上がりそうなものだが、ゴブリンは分からないのか、それとも戦うことを選択したのか。
そこまで俺が考えたところで、ウシルが先に動いた。
「『死者の書』」
瞬間、ゴブリンの中で抗い難い恐怖が心の奥から沸き上がった。
あたかも、下手に動けばいつかの安息を奪われると宣言されたような、失うことへの恐怖が。
恐怖でガチガチに体が固まってしまったゴブリンは、迫り来る刃を避けることが出来なかった。
「やったっ!」
「やったねお兄ちゃんっ!」
喜ぶ二人とは対照的に、俺とエギスは周りを警戒しながら声を交わしていた。
「『死者の書』、か。確か、死んだ後に必要な事が書いてあるんだっけか?」
「そうだね。たしか……42柱の神々に、生前犯した罪の『否定告白』を行うときに、無罪放免にしてもらうための回答が書かれているんじゃなかったかな」
『死者の書』。
『墓壁紋様』、『棺柩文』に連なる死者のための本で、主に死者の副葬品として用いられた。
その目的は、魂が無罪を認められ、Osirisによって来世の幸福が約束されるのを手助けするためだ。
そこには、無罪となるための方法論の他にも、裁きの庭で行うべき事、幽界での生活において気をつけること等が描かれており、いかに幽界の王の機嫌を損ねず、来世で復活するかに焦点が当てられている。
「つまり……幽界の王が『死者の書』の答えをねじまげ無罪を認めなくすることで、次の幸福を失う恐怖を直接魂に叩き込んでいるという訳か……?」
俺の呟いた推論に、エギスも半分同意するように頷く。
「うん、詳しいことは分からないけど明らかにゴブリンは萎縮してたよね。相手に本気を出させない、そういう系統の技なんだと思う」
そしてエギスの言葉に、正確にはその一部分に、俺は渋面を作った。
「技……。やっぱり、『模倣神技』本体は別のものか」
「たぶんね。『死者の書』はわたしの『石化剣閃』と同じで、もともと備わっていた能力を制御しただけのような気がする」
そんな話をしている中ウシルとアセトは、こちらをチラチラと覗き見しながら森の方へと進んで行く。
喜びもそこそこに切り上げたのだろう。
基本的に、俺とエギスは兄妹の方針決定に関与しない。
それは、エギスが街の壁を出るときに宣言したことだった。
「これは、あの子たちに経験を積ませてあげる依頼だからね」とは、その時のエギスの言葉だ。
俺もその言葉に納得してエギスについて行っている、のだが。
「本当に大丈夫なのか? あんなに先行させたら、咄嗟の援護が間に合わないぞ?」
「それで良いんだよ。覚えるためには、実際に体験するのが一番だからね。それに、回復薬もあるから、死ぬ心配もないから、これでちょうどいいくらいだよ」
俺の心配そうな声にも、エギスの意見は一貫していた。
俺の方はそう言われれば、納得するしかない。どうやら、エギスは後輩育成に一家言を持っているようだった。
考えてみれば、いくら『護衛』依頼が好きだからって、エギスでも最初の方はっこういう依頼で商人等の護衛の演習をしてきたはずだ。
そんな経験の中で、最適と思える距離感を導き出せたのあれば、従うことに是非はない。
「なら良いんだ、俺がちょっと心配だっただけだな」
「そうだねヒロ。ちょっとはあの子達を信頼してあげよう?」
森の中に入って行けば、魔物の出現傾向も変わる。
平地や草原で多く見られる魔物から、より生態系の複雑になった、森の魔物へと。
森の中に入った瞬間、待ち構えていたかのように襲ってくるのは、一角刺兎。
兎の強力な後ろ脚を利用して高速で飛び、頭の鋭い角で貫くメジャーモンスターだ。
こいつへの対処は至って簡単だが、どうするのかと俺はウシルとアセトの行動に注目する。
奇襲された時というのはパニックに陥りやすい。こういうところが適性を見極める鍵になる、というのは俺でもわかる。
「きゃっ……!」
狙われたのは、アセト。それはそうだろう、どう考えたって後衛の方が狙いやすく感じるだろう。
ほとんど幸運……という訳ではなく、視界の端に一角刺兎が写った瞬間反射的に屈んだアセトのすぐ上を、褐色の毛玉が飛んで行く。
兎、というと白い体毛に赤い目というイメージがあるかもしれないが、そういうアルビノのような姿は降雪地帯にしかおらず、しかも冬毛の場合のみだ。つまり、雪に擬態するための姿だと言うことが出来るだろう。
一応雑食ではある訳だが、食物連鎖のそう上位にいる訳ではない一角刺兎にも擬態の必要性はある。つまり、森の中で目立たない体毛が生えている訳だ。角を除けば愛くるしいことに代わりはないが。
「このっ!」
ウシルも捉えていたか、または妹の悲鳴に反応したか、剣を抜いて盾を構えている。
ウシルの基本的な戦闘方法は、左手の小型円盾で敵を抑えつつ右手の片手剣で倒す、よくあるスタイルのようだ。
アセトも素早く立ち回り、一角刺兎と自分の間にウシルを挟み込むよう退避する。
「どこだ……?」
一角刺兎はもう、森の茂みへと隠れてしまって姿は見えない。ただ、まだこちらを狙っていると考えて間違いはないだろう。
がさり、と茂みが動く。それも、一角刺兎が消えた方向から少しズレただけ、引き返してきたと考えるのならちょうど良い場所でっ!
「……!」
咄嗟にウシルが盾をそちらに向けた瞬間、褐色の毛玉が飛びついてくる。
これは駄目だ、と俺は思う。
一角刺兎の角の強度は折り紙付きだ。十分な助走距離に裏打ちされた速度があれば、軽装くらいなら簡単に突き破る威力を持つ。貫通能力だけで言えば、一角刺兎の突進はかなり上位だと言える。あれくらいの小型円盾なら瞬時に突き破られるだろう。
だが。
「『死者の書』っ!」
恐怖が一角刺兎を縛る。空中での姿勢制御が揺らぎ、かすかに軌道がブレていく。
「ここ、だあっ!」
そして、ウシルはその盾で一角刺兎を横に叩き、的確に軌道を誘導する。
そう、ウシルの左斜め後ろに生えている木の幹へとっ!
ズガッ! と音を立てて、一角刺兎が木の幹へと激突する。
そして、動かなくなった。
「ふう……」
ウシルは、張り詰めてた緊張の糸が切れたかのように息を吐く。
一角刺兎は、その貫通能力が故に一度刺さると抜くのが難しい。特に木の幹に刺されば、角だけで全体重を支える、刺さったままの間抜けな姿になってしまう。そうすれば、もう無力化したも同然だ。
ウシルがその片手剣で一角刺兎を倒すのを見ながら、俺は思った。
「バランスが悪いな」
「そうだね、今のところ……」
エギスも呼応するように呟いた。
今までの動きを見る限り、剣士前衛術士後衛のある意味普通のパーティー構成に見える。が、前衛のウシルだけで魔物を倒してしまっている。アセトのサポートが全くないというのは、アセトの『模倣神技』が小回りの効かないものなのか、それともしていなのか。
前者とするなら、アセトに弓を持つなりもう一工夫が必要だし、後者なら問題外だ。
主格となる者をサポートしなければ、勝てる相手にも勝てない。
と、そんな考えが頭をよぎる中、ウシルとアセトが交わした声が俺の耳へと届いた。
「これで三体目だね、お兄ちゃん」
「そうだな、朝の分と合わせて……準備が調った」
「あ、ちょっと待って、盾に傷がついてる」
「ん? さっきの一角刺兎でついたのかな?」
準備が調った?
俺がその言葉に困惑する中、エギスが声を漏らす。
「えっ……?」
その珍しいエギスの言葉に意識が引き戻される中、その残響の余韻が俺の鼓膜を揺らす。
「Isis」
それは、Nileの豊穣を象徴する最高神の一にして、幽界の王が妻。
弟に兄たる夫を殺され、そして復活させた慈愛の反響。
効果は静かだった。
ただただ、ゆっくりと小型円盾の傷が消えていく。
いや、巻き戻っていく。
「再生……?」
俺の口からも、そんな声が漏れた。
目の前で起きた事は、それくらいしか想定することが出来なかったからだ。
「『巻き戻す』、『模倣神技』だと……?」
その珍しい事象に、俺とエギスは立ち尽くしていたのだった。