ある観覧車の中で
枯れ木の林のど真ん中に、俺は立っていた。木はこれほどあるというのに、何故か足元は灰色がかった硬い土がその姿を晒け出している。
ここが何処か、分からない。学校からの帰り道を歩いていたら、いつの間にか辿り着いていたのだ。空一面に真っ黒い不気味な雲が張り付いていて、太陽が何処にあるのかどころか、昇っているかすらも窺う事ができない。そういう訳で、ここはひどく暗かった。
「誰か……誰か居ないかっ!?」
急に不安になり、俺は思わず声を張り上げて叫んでいた。誰でもいいから、傍に居てほしい。誰でもいいから、俺をこの寂しさから救ってほしい。そんな事を切に願いながら、叫んでいた。
「ここに居る」
不意に後ろから、声が聞こえた。とても大人びた、子供の声だった。助かったような心持ちで、俺は振り返る。しかしそこには、気味の悪い木々が立っているだけだった。俺はその中の一つに歩み寄り、それを背にして休息する事にした。
「お前、名前は何という?」
またも聞こえた、子供の声。今度は頭上から降り注ぐように聞こえた。仰いでみても、暗雲以外何も無い。一体、誰が話しているというのか。
「人に名を尋ねる時は、自分から名乗るべきじゃないのか?」
俺の苛立ちと疑問を、声の主へとぶつける。すると肌寒い空気が一度吹いた後、意外な答えが降ってきた。
「私は、しがない枯れ木だ。お前に名乗る名前など無い」
枯れ木? 枯れ木が喋っているだなんてそんな絵空事、誰が信じるか、と俺は自分の背中を預けている枯れ木へと目線を向けた。本当に声の主が枯れ木だというのなら、恐らくはこの枯れ木が話しているだろうと考えられたからだ。
「それで、お前の名前は?」
またも発された声は、確かに枯れ木の方向から聞こえてくる。まだ完全に信じられる訳ではないが、信じたつもりになって話に乗ってやるくらいならいいかと思えてきた。
「俺は、伊阪拓也だ」
「ならば、拓也。お前は私に何を望む?」
いきなり呼び捨てなのかよ、という不満を飲み込んで、俺はその質問への疑問をそのまま口にした。
「望むって、なんでそんな話になるんだ?」
「何故も何も、お前が私を呼んだだろう?」
「呼んだ……? そんな記憶は……」
と、そこまで言って思い出した。俺が寂しさから助けを呼ぶかのように誰かを求めていた、という事を。それに対してこの枯れ木が応えたのか。
「俺は、誰か話し相手を捜してたんだ」
「ならば別の場所へ行くといい。私と会話する事は推奨できない」
ややこしい言い方するな、と思いながら、俺はその枯れ木から背中を離す。
「じゃあ、何処へ行けばいいんだ? 俺はとりあえず、家に帰りたいんだが」
「家に帰る、か。……それは難しいな」
「ど、どういう事だよ?」
予想もしていなかった言葉に、俺は恐怖を覚えた。それは、家に帰る、という当たり前の行為を否定されたからに外ならない。
また、家に帰れないという事は同時に親しい者達と逢う事ができないという事も意味する。そうなってしまっては、俺が誰よりも大切に想う存在、唯にも逢えなくなる。それだけは避けたいと思った。
だからこそ、俺はその『家に帰れない』という言葉が虚偽である可能性を信じるしかなかった。しかし、その希望はすぐに打ち砕かれる事になる。絶望の真実によって。
「お前は既に、死んでいる。故に、もうお前が元の世界へと戻る事はできない」
一瞬、冷たい風が止んだ。光の無いこの林に、闇が舞い降りてきたような気配を感じた。しかしその一瞬が過ぎると、冷たい風は吹き、闇は何処かへ行ってしまった。すっかり元通りの世界となる。
「冗談、キツいな。俺がどうして死んだっていうんだよ。……そもそも、なんだ? ここは地獄だとでもいうのか?」
「ここは地獄ではない。また、天国でもない」
それを聞いて、安心した。そうとなれば、さっさとこんな所を離れて、もっと人気がある場所へ行こう。人間さえ居れば、交通手段はなんとかなるだろう。灰色の土が少し明るい色に見えてきた、と思ったその時に、枯れ木は更なる言葉を紡ぐ。
「ここは天国と地獄の、分岐点。死者の世の入り口だ」
またも、世界が闇に覆われた気がした。堪らず叫ぶ。
「ふざけんな! なんで俺が死ななきゃならないんだよ!」
「それは、私の知った事ではない。だがお前がどれだけ否定しようとしたところで、ここが死者の世である事実は変わらない」
そんな事、信じられない。信じられるものか。信じて堪るか。
「俺は……そうだ。唯とデートの約束をしてたんだ。……それはどうなるんだよ?」
枯れ木は答えない。俺がその答えを知っている事が解っているかのように。
「あいつの為にも、俺は死ねないんだよ。……デートの約束、破ったら罰ゲームが待ってるからな」
「どうしても、死ねないというのか?」
「勿論だ!」
「何を犠牲にしてでも、か?」
「……ああ」
俺にとって最も大切なのは、唯だ。唯にさえ逢えるのならば、他には何も要らない。俺には唯さえ在れば充分だ。
恐らく、わざわざ俺にそのような問いを与えたという事は、俺は何かを犠牲にする必要があるのだろう。だが、何の為に犠牲にする必要があるかと追及すれば、それは俺が元の場所に帰る為であるに違いないだろう。こいつはきっと、今に俺を救ってくれる。
「お前が本当に何を犠牲にしてでも向こうに戻りたいのか、試させてもらおう」
途端に、景色が揺らいだ。重力が傾いていく。倒れているんだな、と思った時にはもう、俺は意識を手放そうとしていた。
「おい、拓也。起きろよ」
暗闇の中聞こえた、俺の知ってる声。
政治の声だ、と思うと同時に、右頬に冷たい物が当たっている事に気が付いた。
目を開けると、リノリウムの床に俺は倒れている。冷たいと思ったのは、床だったのか。俺はそのまま体を起こし、辺りを見渡す。
いつもの教室が、そこにあった。放課後なのか、少し薄暗い。
天井を見ると、電気は点いていなかった。どうやら、俺は夢を見てしまっていたらしい。何故床で寝ていたのかは解らないが、俺は死んでなどいなかったのだ。きっと、今に唯とも逢える。と、俺は唯の姿を捜そうとして気が付いた。この教室には、俺と政治しかいない。皆、もう帰ってしまったのだろうか。
「なあ、政治。今、何時だ?」
「自分の腕時計を見てくれよ」
左手首を、顔の前に持ってくる。そこに腕時計はなかった。どうやら忘れてきてしまったらしい。それじゃあ、と俺は教室の前の壁、黒板の上を見た。壁掛け用の時計があるべきそこには、何も無かった。ただ冷たい壁がその姿を晒しているだけ。
「あそこの時計は?」
政治に尋ねる。視線はかつて時計があった場所に固定したまま。俺の視界の隅で、政治もそちらを向いた。
「さあ。オレがここに来た時には、既に無かった」
「故障でもしたのか……?」
俺の呟きは静かな空間で、やけに耳に響いた。その音が消えると、またも静寂が空間を支配する。
言うべき事がない。するべき事がない。そんな気がして、俺は帰ろうと荷物を手にしようとした。鞄は自分の机の上に無かったので横に掛けてあるのかと思ったが、手を伸ばしても何も触れられない。もっと手を動かしてみると、机の脚に手がぶつかった。
「……政治、俺の鞄は?」
「言っておくけど、オレのも無い」
俺の質問に、政治は答えではないような答えを返す。なんだよそれ、と思って政治を見た。途端に俺は信じられない物を目にする。
俺の記憶が確かなら東向きであるはずの窓から、太陽が少しだけ顔を覗かせていた。夕焼けのようで若干違う色合いが、空を染める。勿論、夕焼けではないのだろう。太陽は東に沈まない。つまり、朝焼けだ。
どうにも、おかしすぎる。なんで俺は鞄も持たずに、誰もいない教室に朝っぱらから居るのだ。この状況は、有り得ない。
「ところで、拓也」
政治が椅子を引いて、座りながら俺に話し掛けた。
「なんでオレは、死んでいないんだ?」
話が唐突すぎて、俺の頭では理解できない。なんでお前は死んでいると思うんだよ、と頭の中でだけ問い詰める。
「オレは、確かに手首を切って、死んだはずなのに」
無表情で、政治は繰り返す。
「なんでオレは死んでいないんだ?」
手首を、切って?
──死んだ? 政治が?
「ちょ、ちょっと待て! なんで手首なんか切ったんだよ!」
「死にたかったから」
嘘だ! いつも二人で馬鹿騒ぎして、楽しそうにしていた政治が、そんな事を考えるはずがない!
「この世界の苦しみは、楽しみに勝っている。つまらないし、くだらない。……ずっと、夜なんだ。朝日なんか昇らない」
俺は必死になって政治が思ってもいない事を言っていると信じ込もうとした。でも政治の張り付いたような笑みは、動かない。
「ここは、死後の世界なのか? だってあんなにも眩しく朝日が昇っている」
政治は窓の外を眺め、目を細めている。笑みは一層、強くなった。俺は先程まで自分が倒れていたリノリウムの床を見詰める。夢の中で見た色の無い土を思い出す。あの鮮明な記憶を、夢だと言い切れなくなってきた。
「俺も……死んだ?」
二つの可能性が重なる。俺も政治も、死んでいる? そうだと考えると、先程の夢も政治の言葉も、共に正しい事になる。
「拓也も、か」
政治が呟く。
「それにしても、参ったな。死後の世界なんて信じてなかったから、こんな事になるとは思っていなかった」
「じゃあ、どうなると思ってたんだ?」
思ったままの疑問を口にする。朝日は徐々にその姿を現していく。
「無に、なりたかった」
突如、乾いた音が二人の空間に響いた。硬貨を床に落としてしまった時の音によく似ている。音のした方向、つまり足元を見ると、合点がいった。こいつが音を鳴らしたんだな、と。
「拓也、そのナイフで俺を殺せ」
俺は頷く事も返事する事も、ましてや何かを考える事もなく政治が投げて寄越したナイフを拾った。よく切れそうなナイフだな、と思っただけだった。
「もう一度、死ぬんだ」
俺は、政治の目を見る。朝日からの逆光でよく見えなかったが、悲しんでいるように見えた。
「俺には、殺せねえよ」
ナイフは手にしっかりと馴染んでいた。それがやけに恐ろしい。誰かを殺そうと思えば、すぐに殺せそうだ。
「だったら──」
ふと、そこで政治の台詞が途切れた。どうしたのかと思っていると、政治は急に飛び掛かってくる。俺は咄嗟に横へと回避したが、その後ろにある机に何かが当たったのか、またも金属音が響く。
「どうしてもオレを殺したくしてやる」
政治の手に、俺と同じナイフが握られていた。それがまた動く。俺は反射的に後ろに下がった。
「どうする? 早くしないと、先にオレが拓也を殺すぞ?」
張り付いた笑み。悲しんでなんかいない。なんで、そんな顔するんだよ。
「死んで、堪るか!」
肉が裂ける感触を、ナイフを持った手に感じる。政治の胸に、ナイフが生える。すぐに俺の両手は返り血に染まる。政治から呻き声が漏れる。そのまま政治は、崩れ落ちるようにして倒れる。
「俺は、こんな所で死んじゃいられねえんだよ」
吐き捨てるように、言い放った。心臓が冷えたような、妙な恐怖を感じる。政治の体から血溜まりが広がっていく。
「俺は、唯に逢いに行くんだ」
そうだ。唯にまた逢いたいから、俺は政治を殺すのも厭わなかったんだ。唯さえ居れば、それでいいから。何も、要らないから。
政治という、寛げる親友も。
他にする事もないので、教室を去る事にした。適当にぶらぶらしていれば、元の場所に戻る手掛かりも見付かるかも知れない。俺は政治の死体に背を向け、廊下へと通じる扉に手を掛けた。扉に嵌め込まれた曇り硝子は、向こうの景色を見せてくれない。その景色を確かめるように、扉を開いた。
途端に、目の前が真っ暗になる。貧血を起こした時のように、何も見えない。でも足元がぐらつく事はない。不思議で、気持ち悪い感覚だった。そして何の前触れもなく、視界は元通りに回復する。
「拓也、お前も来たのか」
後ろから聞こえた声に、俺は反応しない。いや、できない。目の前の景色が、廊下ではなかったから。自分の家の、自分の部屋だったから。
「死後の世界がこうなっていると、宗教を興した奴に伝えてやりたいくらいだ」
開けた扉も、教室の物ではなくなっている。床もリノリウムからフローリングへと変わり、俺の部屋の天窓からは太陽光が差し込んでいた。天窓の真下で埃が不規則的に舞い踊っている。
「でももう、それは出来ないようだ」
「兄貴……」
声で判る。兄貴の声だって事くらいは。その理屈っぽい言い回しも、生まれてからずっと聞いてきた物だ。死んでも尚、聞きたくはなかった。
「拓也はどうやってここ、つまりあの世へと足を踏み入れたんだ?」
俺の横を通り、勝手に俺の部屋へと足を踏み入れる兄貴。俺もそれを追い掛けながら答える。
「よく分からない。ただ、気付いたらこっちにいた。そう言う兄貴はどうなんだよ?」
「俺は、川で溺れたんだ」
俺の部屋の窓から、兄貴は外を眺める。そこからは家のすぐ傍にある川が見えるはずだ。兄貴は、そこで溺れたのか?
「なあ、拓也。一緒に外、歩かないか?」
外を眺めながら兄貴はそう言った。俺としては早く帰る方法を捜しに行きたいところだが、それが何処にあるのか分からない現状では、行く宛てなどあるはずもない。それなら何処へ行こうが、変わらないはずだ。
俺は一つ頷いて、歩き出した兄貴の後ろを歩いていった。俺の部屋を出て、階段を下り、玄関を抜け、少し歩くだけで俺達は川辺へと辿り着いた。いつも外へ出掛ける度に傍を通るのですっかり見慣れてしまったその川は、いつもと少し違う様子をしていた。穏やかに流れていた水が山道を滑り降りていくそれと似た速さで流れているのだ。
「なあ、拓也」
突然兄貴が語りかけてきた。俺は水面に向けていた目線を兄貴の方向へと移す。そこには笑みを浮かべた兄貴の姿があった。
「お前は、溺れている人間がいたら、助けようとするか?」
「とりあえず何か長い棒とかを捜す、かな」
自慢じゃないが俺は泳げないので、流石に飛び込んで助けたりはできない。その率直な思いを兄貴に告げた。
「じゃあ例えばそれが、何よりも大切な人だったら?」
兄貴の続けての質問に、俺は言葉を失う。唯が、もしこの川で溺れていたら。考えるだけで恐ろしい。きっと俺は自分が泳げない事も忘れて、唯を助けに行くんだろう。
「俺は、放っておけなかった」
兄貴はそう言って、俺に背中を向けた。兄貴なりに悲しんでいるのかも知れないが、顔を見せてくれないので俺は推測するしか方法がない。兄貴の悲しそうな表情を想像して、俺は勝手に同情する。
そんな時だった。何処からか、丸い物体が跳ねながら転がってきた。よく見てみればそれは野球のボールだったのだが、それを投げたらしき人は何処にも見当たらなかった。ただボールだけが転がってくる。
「なあ、たく──」
調度、俺が足元まで来たボールを拾おうとした時、兄貴は振り返った。下げていた俺の頭に、兄貴の背中が当たる。そのまま兄貴は呻き声を一つ上げて、バランスを崩して、川に落ちていってしまった。
「あ、兄貴っ!?」
いつもの川なら、落ちても濡れるだけだ。普段は底が浅いから膝も浸からないくらいなのだが、今は違うらしい。足も届かない程の深さになっている。兄貴が溺れてもがいているから、分かる。
深く、急な流れの川だ。突然落とされた兄貴が溺れるのは、当然な気がする。
俺が何も出来ずに見ていると、兄貴は川の中程にある岩にしがみついた。そのまま水流に堪えている。もしかしたら、俺が手を伸ばしたら、兄貴を助けられるかも知れない。でも失敗したら、俺も共倒れだ。そんな事、絶対にあってはならない。
「俺は、こんな所で死んじゃいられねえんだよ」
自分でも驚く程の冷たい声。兄貴が水流に飲まれて消えていっても、俺の眼は一人しか見ようとしなかった。唯だけをそこに捉えようとしていた。それが俺の全てだからこそ、犠牲にしたんだ。
兄貴という、憧れの存在を。
一先ず落ち着こうと、我が家の扉を開けた。すると前にも感じたあの暗転がまた起きた。世界が一度消えて、また作られるような奇妙な感覚。光が帰ってくると、そこは金色に染められた世界だった。
狭い空間、高い視界、揺れる足元。左右には座席がある。その片方に俺は座った。周りの壁の殆どは硝子窓で出来ていて、眼下の町並みを一望できる。もう沈もうとしている太陽が、それらを切ない色に染め上げている。俺の通う学校も、俺の家の傍の川も。まるで魂を鎮める歌のように、柔らかい色だった。
「この観覧車、懐かしいな……」
無意識的に、一人で呟く。本当に、懐かしいのだ。この遊園地は、唯との初めてのデートで来た場所だった。
朝から色々な場所を巡って。昼飯を食べてからグダグダ話しているうちに陽が暮れていって。もう帰るかと言った俺に、最後に観覧車に乗ろうと返したのは、唯だった。何故かと聞いてみると、二人きりで観覧車に乗るのが、ささやかな夢だったらしい。どうせならもっと凄い夢を持てばいいのに、と思うのだが。
「あれ? ……拓也くん?」
凄い夢って、なんだろう。そんな事を考え始めていると、突然入口の方から声が聞こえた。さっきまで俺一人だったはずなのに。まだ、このゴンドラは頂点に着いたくらいで、地上からは丸々観覧車の直径分あるはずなのに。
「なんで、お前が……?」
本当になんで、お前がここに来るんだよ。空中から乗車とか、有り得ないだろう?
「拓也くん、あたし、死んじゃったみたい」
どうしてそんな事を、平然と言っていられるんだ。
「なんでだよ」
目の前に居る、唯の顔はいつもと変わらない。死んでしまった事がまるでなんでもない事みたいに。
「よくわかんないけど、通り魔かな? ナイフでお腹を『ズドンッ!』って」
「違う! なんでそんな風にしていられるのかを聞いてるんだ!」
唯が、俺の前に座る。微笑みがその顔を支配していた。俺は唯の為に今まで進んで来たというのに。政治も兄貴も犠牲にして、帰る術を捜して来たというのに。こんな結末が待っていたなんて。
「そりゃあ、最後に拓也くんに会えたから」
「最後に……?」
唯の言葉は、おかしい。二人とも死んでいるんだから、この世界で幾らでも会えるはずだ。なんで最後だなんて言うんだ?
「だって、拓也くんはもう帰れるでしょ?」
「帰れる?」
さっきから俺は、オウムみたいに言葉を返してばかりだ。唯がよく分からない事ばかりを話し始めるから。
「この観覧車の一番下は、『地上』に繋がってるんだって。だから、拓也くんは元の場所に帰れるんだよ」
帰れる。今まで俺が望んできた事。誰もかもを踏み台にして、それで尚欲した物。唯にまた会う事。
「じゃあ、唯も一緒に──」
「ダメだよ」
唯の顔に、微笑み以外の何かが混ざる。けれど、唯は口調を変えずに続ける。
「通れるのは、一人だけ。だから拓也くんが、行けばいいんだよ」
一人、だけ? 一緒には行けない? ふざけるな!
「だったら唯が行けばいい! 俺は唯に会えただけで充分だ!」
感情のままに叫んで、はっとした。そこにあった微笑みが、消えてしまったから。
「あたしが居なくたって、世界は失くならないよ」
俺には、分かった気がした。なんで唯がそんな悲しそうな顔をしているか。それはきっと、俺と一緒だ。俺と唯は、同じ事を考えている。
「でも、あたしの世界は──」
「俺の世界は、唯がいないと始まらない」
俺は唯の言葉を遮った。眼下の地上が近付いて来ている。早く唯を説得して、ここから降ろさせなければ。
「唯には、生きていてほしいんだ。例え俺がそこに居なくとも」
ゴンドラは、徐々に地上に近付く。俺は、唯の顔に自分の顔を重ねるように身を乗り出す。これで、最後なんだ。こうして唇同士触れ合う事も、もう二度とない。
音がした。扉が自動で開いた音。でも俺の視界にそんな物は映らない。何も映らない。瞳を閉じて、唯の顔を思い描いているだけだ。名残惜しむように、唯と距離を置いた。
「唯、出て行け」
「ヤダ」
唯は頑として動こうとしない。
「なんなら、あたしが拓也くんを蹴り出してあげてもいいんだよ?」
「なんだよ、それ。脅迫か? だとしたら、全然効果はないな」
そんな事を言い合っているうちに、扉は閉まってしまった。もう、このまま生き返る事は出来ないかも知れない。永遠にこの観覧車の中で時を過ごす事になるかも知れない。そんな事、唯さえ居ればどうでもいい。唯という人物ただ一人が、俺の全てだから。
「今までだって、これからだって……」
唯は、突然の俺の言葉に驚いたのか、俺の顔を見つめてくる。
「ずっと……」
唯の顔が綻んだ。この台詞は、俺がかつて唯に囁いた物だったからかも知れない。続きを言う必要はないんだな、と思うとやけに気持ちが楽になったような気がした。そして、眠気が襲い掛かってくる。
「拓也くん。眠かったら、寝てもいいんだよ」
「そうか。じゃあ……」
俺は唯の言葉に甘えて、一眠りする事にした。なんだか、睡眠薬の効果ってこれぐらいかも知れないと考える程眠かった。意識が柔らかく遠のいていく。俺の頭の中は満足感で満ち溢れていた。
目が覚めると、白だけが目に飛び込んできた。そして胸に鋭い痛みを感じる。
「ここは何処だ」
どうやら俺はベッドに寝転がっているらしい。カーテンで周りを囲まれていて、すぐ近くしか見えない。俺が今着ている服が見慣れないガウンである事等の様々な点から考えるに、恐らくここは病院だ。
「唯は、何処だ」
首を捻って、横を向いた。そこには、黒くて丸い物があった。すぐに気が付く。人の頭が、俺のベッドに突っ伏しているだけだ。俺が起きるのを待っていたら先に寝てしまった、という事だと勝手に推測する。
「拓也くん……?」
目を擦りながら、そいつは顔を起こした。唯の顔が、俺の目に映る。
「よう、唯」
俺は、徐々に記憶を取り戻しつつあった。学校からの帰り道、歩道橋から転落した事を。だから俺は今、病院に居るのだろう。
それにしても、変な夢を見た。死の淵で、自分が死んだ後の世界を夢に見るなど、不思議な事もあるものだ。
俺は何気なく、脇のカーテンを開けてみた。窓の向こうには葉の無い木が立っている。それは俺の夢の始まりを思い出させた。あの喋る木は、一体何者だったのか。夢の中の登場人物の中で唯一、現実のモデルが居ない。その事について色々と考えてみた。
「あれは……神様だったのかもな」
傍に居る唯に、あの夢の事を語った。最初は普通にしていた唯の表情が徐々に変わっていった。それは怒りでも、悲しみでも、ましてや喜びでもない。言葉にし難いようなものに感じられた。
「拓也くんはきっとその観覧車から降りなかったから、神様に認められたんだよ」
唯のその言葉が真実かどうかなんて、俺には分からない。でも、真実だと信じてやってもいいような気がした。
窓の向こうの、雲を見る。雲の向こうに、何かが見えたような錯覚が起こる。その何かに、俺は言ってやる。
「俺は、あんな所で死んじゃいられねえんだよ」
どうも、夜影です。この作品は友人の見た夢を基に、原型を留めているとは言えないほどのアレンジを加えてできた作品です。その友人が『この夢を小説化してくれ』と頼んできたので、ちょうど地獄ネタがやりたかった夜影は好き勝手にやってみたのでした。
ちなみに、この作品は一度書いたものを、プロット以外の情報を破棄して作られたリメイク版になっております。長さは軽く三倍以上になりました。我ながら不思議です。
『恋愛』という『白』と、『臨死』という『黒』を混ぜ合わせたら、やっぱり凄かった、という印象があります。夜影は白黒スタイルが大好きなので。
作品完成 2008.05.02
作品掲載 2008.08.21