第五幕「うん、暴走したセッちゃんを止めに来たよ」
ディーヴァの額に突き付けられる銃口。
勝利を確信したセツカの優越の目に映ったのはしかし、凛とした揺ぎ無いサファイアの瞳。
「なんだ……その目は」
この状況で戦況が覆るとは思えない。だがディーヴァの瞳に諦めの色は微塵も無い。
「気に入らん、なんだその目はっ! 答えろっ!」
引き金に掛けた指に力を込めた瞬間、爆発に似た衝撃波を全身で受ける。ディーヴァの体に巻きついていた鎖が、額に突き付けていた拳銃が、一瞬で弾き飛ばされた。
何事が起きたのかを認識する間も与えず、脇に構えていた長刀を横薙ぎに振るうディーヴァ。咄嗟にセツカは後ろへ大きく飛び退いてかわし、距離を取ろうとするが、最中に見た光景に失策だったと気付かされる。
いつの間にかディーヴァが黒い弓矢を構えていたからだ。
『月影箭』
飛び退いたセツカの着地際を狙い放たれた矢は、黒き浄化の力を纏い高速で空間を貫く。
予測される破壊力は防御という選択肢を許さず、極限の中で双翼を使った着地のタイミングをずらす浮力の捻出を試みる。
辛うじて、直撃を回避したセツカだったが、矢に気を取られ過ぎた。
「しまっ…!」
目の前に長刀を構えるディーヴァの姿。既に構えは攻撃の動作に移行している。刀でその一撃を受け止めようとするが、出来なかった。
冴え渡る渾身の一太刀を止められる物など無く、刀ごと斜めにセツカの体は切り裂かれてしまう。
「ぐぅあっ!」
生物のように、傷を負うとそこから運動能力とアタラクシア、そして肉体を構成している重要なエネルギー、情念が漏れ出し、それが体内から枯渇するとマトリョーシカもディーヴァも必ず死に至る。
大抵は時の経過で情念が枯渇する前に傷は跡形もなく癒えてしまうが、この状況のセツカにそんな猶予はあるはずもない。
止むを得ずセツカはザックリと斬られた胸から肩までの二十センチ近い傷を肩を抱き、抑える様にして体内から漏れ出る黒い液体のような情念の流失を止めようとする。
だがその噴出する血飛沫のような流失はあまり勢いを失さない。返って痛みを増長するだけの行為となり、セツカの表情は苦悶で満ちる。
それでもまだ戦闘を止めないと言わんばかりにディーヴァを睨み付け、よたよたと後ろに下がり、距離を取って体勢を立て直そうとする。
痛々しくて弱々しいその姿をサファイアの瞳は悲しげに見据えていた。
力の差は歴然。ディーヴァの圧倒的な優位は明白である。
しかし長として、秩序を乱し、危害を加えることを厭わなかったセツカへの処置が、この程度では示しがつかない。
止めを刺す必要があった。
そうしなければ他のマトリョーシカが秩序を乱してでも手を汚すことをしてしまうかもしれない。
現に、周囲のセツカを見る目は憎しみと殺意に満ちている。長たる存在に刃を向けることは、それだけマトリョーシカ達にとっては許し難い屈辱である。
「ヌシは……何故このようなことをした」
セツカの動機がやはり分からない。
知ったところで行いに対する制裁に手抜かりなど出来ないが、そもそもこれだけの群衆の中で無謀すぎる。
勝算が有るにせよ無いにせよ、余程の事情が有る筈だ。
だが問われたセツカにそれを答えようとする気配は無い。
始めから、多くのことを知る口ぶりだったが、核心を避けるようにその内容は聞く者に疑問を募らせるものばかりだった。
恐らく何かしら不都合があって詳しくは語れないのだろう。
虫の息で依然、臨戦態勢を取り続けるセツカに、ディーヴァは諦めの吐息を漏らす。
静かに刀を構えた。
「……そうか。もうよい、終わりにするぞ」
その直後、不気味な笑い声。
「ククク……クク……はぁ……はぁ……」
息の上がるその口元が歪んで、顔を上げた両の瞳が見開かれる。
「……なっ!」
サファイアの瞳が衝撃に揺れる。そして歪んだ唇が紡いだのは意味深な文言。
「『戦火』! 契約の履行だっ!」
するとセツカの身体に異変が生ずる。
足元から鈍色の液体が湧き出し、みるみるうちに全身に纏わりついた。
それは徐々に硬質化していき、最終的に爪先から頭の先までを覆う鎧へと変わる。
白と黒の翼はそのままに、重厚な西洋甲冑を纏ったような出で立ちとなったセツカは先程とは打って変わり、ダメージを感じさせない気丈な振る舞いを始める。
「今の私ではやはり……だが簡単に終わらせはしない。クク、腕の一本くらいは貰わんとな」
兜の隙間から覗かせる双眸はいつの間にか真紅を宿し、不気味に愉悦の視線を送る。
(おかしい……ワシは一体何を見せられている?)
繰り広げられた光景に疑問を感じずにはいられない。むしろそれはもっと前から感じていたもので、ここに来て最早ただただ混乱としか言い表せない胸中。
「……!」
変貌を遂げたセツカへ、左右から挟撃を仕掛ける者の影。
ディーヴァから制止されていたとは言え、ここまで堪えていた二人の侍女マトリョーシカ、トキとホムラがついに動いた。
二人とも焦翼を展開し、速力強化の恩恵の下、強襲を掛ける。だがセツカはそれを目で見て確認するでもなく、把握しているかのように立ち回る。
ふと、鎧の一部が液体金属のように流動を始める。さしたる時を掛けずにセツカの手へ集まった鈍色の液体は、歪な剣の形をして直ぐ硬質化。それを握り締め、強襲者達の迎撃に取り掛かった。
まず先行するのは赤茶髪が色彩に鮮烈なトキ。
前傾姿勢で地面に沿うように駆けるその速度はホムラよりも頭一つ抜けて速い。両手に構えたのは二本の黒い短剣。セツカが剣を握っていない方の側面から、接近と同時に一方の短剣で鋭い切り上げを繰り出した。
「っ!」
セツカは見向きもせず、正面を見たまま後ろへ僅かに身を反らすことで攻撃を回避。空振ったトキの腕を重厚な鎧に包まれた腕で掴み取る。逃げられなくした所で、その腹部目掛け、歪な剣を突き刺そうと振りかぶる。
が、そのくらいでトキは窮地には立たされない。
掴む手は強く、とても振り払えないと見るや、逆にそれを支点とし、逆立ちの要領で身体を持ち上げて突きをやり過ごした。
侍女マトリョーシカ、トキの持ち味はスピードと身軽さ。対し、ホムラは武器からも滲み出る通り、パワーと頑丈さが売りである。
数テンポ遅れて大剣を振り上げながらホムラが反対側から切り込んで来る。
片手はトキの腕を掴んでおり、もう片方は突きを空振りした状態。そこへ側面からの奇襲となれば格好の折である。
「ふんっ、下らん」
言って、腕の上に逆立ちをしているトキをホムラの方へ投げ飛ばす。あわや同士討ちとなる刹那に、交差させた短剣で大剣の一撃を凌ぐトキ。ホムラも、寸前で反応して僅かだが振り下ろす速度を減退させる。
味方の黒き刃を思わず受け止め無ければならなくなった二人だったが、その瞬間の隙を狙い済ましたように叩かんとするセツカ。
二人の間、交わる三本の刃の真下に素早く体を滑り込ませた。
『戦火の舞』
低い姿勢から身体を数回転させつつ立ち上がり、最中二人の体を歪な剣で切り刻む。最後に回し蹴りの全方位攻撃のような足技で二人をそれぞれ別の方角へ蹴り飛ばした。
「…雑魚に用は無い、と言ったはずだ」
歯牙には掛けても、意には介さない。そんな希薄な敵意故か、トキとホムラは酷く負傷したようだが殺されたわけではなかった。
その深淵なる敵意を向けるはディーヴァただ一人。セツカの全身全霊はこの場では最も幼く映るこの銀髪の少女にこそ、突き付けられたものだった。
通常のマトリョーシカよりも高い実力を誇る侍女マトリョーシカがこんなにもあっさり、しかも二人掛りで敗北を規すなど、あまりにショッキングな出来事で他のマトリョーシカ達は竦然とした。
守るべきディーヴァに仇名す存在。それを止められるのは二人しかいないと誰しもが思っていたからだ。
こうなってしまった今、最早ディーヴァ以外誰もセツカを止められる者は居ない。
「さあ、続きだ。今度こそ貴様の…」
「ていうか何やってんの?」
再びディーヴァへ戦意を向けたセツカへ突然水を差す声。
その正体に一同は絶句した。
その姿は人間の少女そのもの。セーラー服を身に纏う栗色の髪をしたごく普通の女子高生だった。
そんな、現界にしか居ないはずの、生きた人間がこの冥界に存在することが既に異常だが、その少女は何の前触れも無く忽然と現れ、しかも戦意をむき出しにしているセツカに親しげに話しかけているのだから、もう誰にもこの状況の説明など出来なかった。
「……ちっ、何の用だ」
人間の少女を見るなり、セツカは不満そうに舌打ちをした。
「うん、暴走したセッちゃんを止めに来たよ」
空気は非常に重々しいのだが、少女一人だけは朗らかな口調で語っている。やはり場違いな感が否めない。謎と違和感が気味悪くその場に色濃い霧を停滞させているかのようだった。
「余計な世話だ」
「いやいやダメだよ? セッちゃんさー、今の私達じゃディーヴァは殺せないって、とっくに分かってることなのに、わざわざ手の内さらすようなことしてさぁ。そうゆうの、迷惑!」
「………………」
冷たい兜の内側で何を思い、どのような表情を浮かべているのかは窺い知れないが、僅かな沈黙の後に短く溜息を漏らした。
「興醒めだ、もう引く」
言って踵を返し、ディーヴァに背を向けるセツカ。すると金属が融解していくように鎧が崩れ、白黒の翼も消失。完全に最初の後姿に戻った。
「おおー、セッちゃんえらい! 言うこと聞かなかったら力ずくで止めさせようかと思ってたのにっ」
喜々とする少女を横目に、困惑の表情を浮かべたディーヴァの視線に気付く。
セツカの肩には先程受けた致命的な一撃の痕がまるでない。
破れた衣服だけが、あれは夢幻ではなかったと訴えている。
「待っていろ銀華。次は必ず消す」
そうセツカの言葉が聞こえ視線を動かすと、もうそこに姿は無かった。
大勢が見ている目の前で、音も無く忽然と二人は姿を消してしまった。
「一体、何だったのじゃ……」
敗北とも勝利とも覚束無い、謎と不快感を孕んだ虚しさだけが事の決着だった。