第一幕「……少し野暮用だ。そんなことより」
「あっ! みっけた! ほら、あれそうだよねクイナ」
黄緑色のツインテールをしたマトリョーシカの少女、アイ。彼女が喜々として指差す先には、木の枝になっている真っ黒な姿をした実、『黒死』があった。
彼女は何の警戒もなく不用意にそれに近づいてしまう。
「駄目! アイ!」
危険を察知したもう一人のマトリョーシカ、クイナが声を上げた。直後、枝にぶら下っていた黒死が、枝ごと何かに食いちぎられ飲み込まれてしまう。二人の前にそれは姿を現した。
「あ……あぁ……」
「魔物!」
真っ黒な熊の姿をした魔物と呼ばれる存在、それが木の陰から身を乗り出して立ち上がった。
体長は三メートル近い巨体で、ゆっくりと二人が居る方へ近づいてくる。
(まずい、私達でどうこう出来る相手じゃない……逃げなきゃ!)
状況を冷静に把握し、直ぐに退路を確認するクイナ。
しかしそれとは対照的に、アイはその場に腰を抜かしてへたり込んでしまった。
「ちょっ、アイ!」
恐怖に呑まれ、立つことはおろか、クイナの声すら届かない。
(どうしよう、このままじゃ……!)
戦闘は二人とも得意ではない。
逃げようにもアイを、友を放ってはおけない。だがそうこうしている間にも魔物は迫っている。
「嫌ぁあああー!!」
目の前まで距離を詰めた魔物は今にも襲い掛かりそうな勢いだが、アイは逃げるどころか頭を抱え、地面に塞ぎ込むばかり。
(どうしよう……どうし……)
ふと、熊の挙動が一時停止する。見ると、その重厚な胸板に黒い棒が深々と突き立っていた。
「……えっ?」
疑問符を浮かべるクイナの横を通り過ぎる一瞬の影。
風のように駆け抜けるそれは塞ぎ込むアイを飛び越え、突き立った黒い棒めがけて強烈なとび蹴りを見舞った。
よろめき、数歩後退して距離を取る熊。
華麗な着地から、熊と二人の間に立ち、彼女は振り返った。
「二人とも、怪我はないか?」
「セツ……カ? なんで……ここに……」
彼女の名はセツカ。
二人と同じ冥界のマトリョーシカである。
風貌は眼帯をした黒いポニーテールの凛々しい女性といった風で、服装は黒衣。膝までを覆う靴にショートパンツ、上半身は胸当てと二の腕までの手袋に丈が胸部下までのケープを纏う。
動きやすさ重視の外見から見ても取れるように、彼女の専門は戦闘である。
向き直り熊の方を見ると、体勢を四足にしており、猛進を掛けようとしているように見えた。
先ほどの黒い棒はセツカによる先制攻撃で、槍の形をしていたのだが、それだけでは仕留めきれないらしい。
そう判断するや、セツカの取った行動は不可思議なものだった。
それは虚空を掴み取るような無意味かつ曖昧な動作。
その動作の先、整合性を働かせるかのように一本の黒い刀が出現、初めからそこにあったものを当然掴んだかの如く、握り締める。
さらにその背には、異様な黒い翼まで生えた。
獰猛なうなり声を上げる魔物を落ち着いた様子で見据え、静かに刀を構える。
僅かな膠着。
それを破り、先んじろうとする熊の突進に合わせ、ほぼ同時に駆け出したセツカ。その速度は爆発的に速い。
熊が数歩駆ける間に、その背後まで駆け抜ける圧倒的な速度差。
すれ違い様に両断された熊の体は残骸を残さず、煙のようになってあっという間に霧散してしまった。
繰り広げられたのは、冥界のディーヴァとマトリョーシカだけが扱える黒き浄化の力『アタラクシア』による、圧倒的かつ華麗な狩りの始終だった。
静かに呼吸を整え、刀を払うと、翼と刀の二つが同時に消える。振り返る隻眼に映るのは、ほっと安堵の吐息を漏らすアイと、何処か呆然とした様子のクイナの姿。
「あ、ありがとう、助かったわ……」
クイナは素直に礼を言うが、自身の不甲斐なさとまだ残る恐怖の余韻にうまく平静を取り繕えない。それを見て取ったセツカは掛ける言葉を探すが、飛び切り明るい声がその思考を遮った。
「あれ? セツカ……? セツカだよねっ! わぁ! すっごい久しぶりだね!」
「あ、ああ。怪我は無さそうでなによりだ」
少し涙目ながら、元気に振舞うアイ。察するに恐怖の反動から来る興奮状態か何かのようだ、と判断し、無事二人を救えたことに先ず安堵するセツカ。
三人はかねてからの友人で、とある事情から、セツカだけが二人とは暫くぶりだった。
「でも、どうして狩組のセツカがこんな浅い森にいるの?」
狩組とは、戦闘能力が高い者で編成された魔物を狩ることを主な任務とするマトリョーシカ達のことである。アイとクイナは、狩りの済んだ安全な区域で黒死を探すのが役割の、採組と呼ばれる組に属している。
彼等は千迎樹を中心とし、近い森を浅い森、離れた森を深い森と表現している。
浅い森から深い森の順に魔物狩りを行っていく狩組の性質上、あまり浅い森には姿を現さないのが常。
アイの素朴な問いに、やや答えにくそうに答える。
「……少し野暮用だ。そんなことより」
視線をクイナへと戻す。少し落ち着いたようにも見えるが、心なしか表情が暗い。
掛けるべき言葉かは分からないが、友人として気休め程度でも声を掛けてやりたいと思った。
「気にするな、狩りが済んだばかりの区域で魔物に出くわすなど不運の極みだ」
「……ええ」
気遣ってもらっているのは分かっていた。自分が採組なのも、セツカが狩組なのも。
無力だ、などと嘆いても何も守れないことくらい。
「野暮用って? ひょっとして千迎樹に用があるの?」
すっかりあっけらかんとした様子で聞くアイ。
「ああ……そういえば、二人に案内を頼みたかった」
「案内?」
「実は長い間深い森に滞在していたせいで、すっかり土地勘が鈍ってしまってな」
アイとクイナは顔を見合わせる。深い森にあまり足を踏み入れることの少ない採組にはピンとこないことだった。
そもそも、アタラクシアを使える者は負の情念を感知し、現在どの辺りの区域に自分が居るのかぐらいは判別できる。冥界の森で冥界のマトリョーシカが迷子になるなど考えにくいのだ。
とはいえ、恩人の言うことであり、友人の頼みとあらば断る理由は無い。二人は快諾することにした。
「わかったわ、ついて来て」