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メガネがないっ!

作者: 神代デルマ

 ある二月の朝。


 カーテン越しの日差しに目を覚ました。


 今年一番の寒さが、布団から抜け出すのをおっくうにさせる。



 とりあえずメガネに手を伸ばした。


 オレは極端に目が悪い。重度の近視と乱視で、メガネがないと、近くにいる人の顔ですら、はっきりしなくなる。


 しかし、オレの右手は、枕もとのメガネ置きの上で空を切った。



「……メガネがないっ!」



 オレの名前は、山田耕太郎。


 横浜にある某大学の二年生だ。


 現在は気ままな一人暮らしをさせてもらっているが、実家は長野にある。神奈川に出てきたのは大学に入学してからで、まだ二年にもならない。


 だがオレは、この一人暮らしの二年弱の間に、人生に対するいくつかの大きな教訓を得ていた。


 例えば、「木のまな板は使わない」「新聞の勧誘員に判子を渡さない」「料理を作る時に自分流のアレンジをしない」など、それぞれが貴重で苦い体験から生まれている。


 その中でも、オレが特に遵守しているのが、「メガネは決まった場所において寝る」というものだった。


 なにしろ、メガネの場所がわからないと、見えないんだから捜しようがない。貴重な朝の一、二時間を間抜けな宝探しに費やすことが何日か続き、とうとうオレは陶磁器製のどっしりとしたメガネ置きを購入した。

 夜寝る前には、どんなに酔っていても、かならずこのメガネ置きにメガネをおいて寝る。

 このルールを守るようになって、オレの一限の出席率は格段に上昇した。


 ところが、今朝は、そのメガネ置きにメガネがなかったのだ。運悪く、スペアのメガネも最近踏み割ってしまったばかりだった。



(やばいなー。昨夜、一体何してたっけ? でもって、寝る前どこにメガネをおいたっけ?)


 起き上がると、頭に響くような痛みが走った。


(な、なんだ? オレは、どうしちゃったんだ?)



「あ、起きた。耕太郎くん、二日酔い?」


 突然、ベッドの反対のほうから声がした。


「もう、ひどいよ。夜中にあたしのこと蹴ったでしょ。こんな寝相が悪いなんて知らなかったよ」


 女の子だった。ロングヘアーで、Tシャツにミニスカート姿だ。


 その姿には覚えがない。顔は……はっきり見えなかった。


「き、君、誰?」


 おそるおそる聞くと、女の子は大きな声を出した。



「えーっ、耕太郎くんたらひどいぃー! あたしのこと、覚えてないの!」


 甲高い声が頭に響く。


 しかし、覚えがなかった。


 昨日の事は、この子の事を含め、一切合財、記憶にない。



「そうか、そうか。そうやって都合の悪いことはみんな忘れちゃうんだ」


 女の子が慣れた様子で台所から、水をコップにいれて持ってきてくれる。


「飲めば?」


「あ、ありがとう」


 見回してもよく見えないが、どう考えてもここはオレのアパートの部屋だ。


 広さは1DK。寝られるスペースはこのベッド一つしかない。


 そして、女の子と二人きり。


 オレはTシャツにパンツ。彼女も似たような格好だ。


「あのぉ、決して忘れたふりでごまかそうとか、そういうつもりじゃないんだ。ただ、ホントに記憶がなくて、もし、その、昨日オレが君に何かしたのなら、ちゃんと責任とるつもりだし」


 コップの水を一気に飲み干した。


「何かしたって、何を?」


 女の子が顔を近づけてくる。かすかに汗のにおいがする。


 まともに顔を見れなかった。


「だから、その、あの、なんだ……」


「セックス?」


「したのかっ! しちゃったのかっ!」


 オレは布団から飛び出した。自慢じゃないが、オレはまだ童貞……だったはずだ。


 記念すべきはじめてのナニを、見ず知らずの女の子と、しかもまったく覚えていないなんて!


「うーんと、それよりもまず、耕太郎くん、その元気な息子さんをどうにかしてくれないかな」


「えっ」


「なんか、さきっぽ出てるし」


 女の子が、オレの股間を指差す。


 そこには、元気になったオレのナニがあった。彼女のいうようにパンツから頭がはみだしている。


「いや、ちがう! これは、朝だから。朝勃ちだから。別に今いやらしこと考えてるわけじゃないから」


 あわてて布団で股間を隠した。


「へぇー、朝だったらちゃんと勃つんだ。昨日は、全然勃たなかったのにねぇ」


 えっ、何? それ、どういうこと。


「でも、耕太郎くん、すっかり立派になっちゃったんだね。小さい頃、よく一緒にお風呂はいったじゃない。そのときは、こーんなに小さかったのにね」


「一体何の話を……って、君、もしかして?」


「あ、ヒントあげちゃったかな。だって、いつ気がつくかなーって思って見てたんだけど、耕太郎くん全然気づかないんだもん」


 そういえば、この声や、この喋り方にはなんとなく聞き覚えがあった。



 それに、オレには幼馴染と呼べる女の子は一人しかいない。


 篠崎かすみ。


 家が近所で、母親同士仲が良く、家族ぐるみで付き合いがあった。


 幼稚園から小学校、中学校まで同じで、高校は別になったけど、篠崎さんの二コ下の弟がオレの高校の後輩になったおかげで、ときどき顔を合わせて一緒に遊ぶこともあった。


 活発で、色黒で、でも手足がすらりと細長くて、瞳が落っこちそうなくらい大きかった。オレの初恋の相手だし、ぶっちゃけ六・三・三で十二年、オレは篠崎さんのことが好きだった。


 現在は、名古屋の大学に通っているはずだ。


「君、もしかして、篠崎さん?」


「ピンポーン、やっと思い出した」


 間違いない。篠崎さんだった。


 オレが横浜こっちに出てくる前日に挨拶に行ったきりだから、一年と十一ヶ月ぶりか……



「どうして、篠崎さんがここに?」


「もう、昨日ちゃんと説明したじゃん。あたしね、事情があって、今年こっちの大学を受験することになったの。ところが、泊まるはずのホテルが偽装なんたらで営業停止になって、泊まる所がなくなって困ってたのよ。そしたら、耕太郎くんのおばさんが、じゃあ鍵貸してあげるから耕太郎くんの部屋に泊まっていいよって」



 お母さん。いくら幼馴染だからって、年頃の娘さんに息子の部屋の鍵をポンと預けるなんて……なんという……グッジョブなんだ。


 もう、あんたの老後の面倒は下の世話までオレが見るからな!


「で、そのごめん、昨日勃たなかったって話は……」


「ああ、あの話。聞きたいの?」


 篠崎さんが、再び近寄ってくる。


 布団越しに、オレの足が篠崎さんの太ももに触れる。彼女のTシャツはぶかぶかで、オレの目さえちゃんと見えてれば、十二年間夢に見ていた篠崎さんのポッチリが拝めたに違いなかった。


(くそうっ、なんだってこんな時に限ってメガネがないんだっ!)


 いや待て、そんなポッチリなんて、小さいことを考えてる場合じゃないぞ。ここはもっと視野を広く持って、その先のグローバルスタンダードに対応した展開をしていかなければ……真剣に考えていると、篠崎さんは含み笑いをして言った。



「耕太郎くん、彼女いるよね」


 えっ? そりゃ、オレにも一応彼女くらいいますよ。まだ出来たてで、こないだやっとチューしたばっかりですが。



「昨日、デートしたよね」


 ああ、そういえば、昨日はバレンタインデーだし。二人で横浜デートしたさ。



「ずいぶん、気合入ってたんだって? 脱童貞、狙ってたんでしょ」


 それはまあ、友達にも絶対チャンスだから決めろってけしかけられて、デートプランまで組み立ててもらって、



「彼女も、案外その気だったらしいじゃない」


 なんたって手作りチョコもらったし、ラブホに入る時も全然抵抗されなかったし。極め付けが、「それが噂に聞く勝負下着ですかぁ」っていうくらいのエロ可愛らしい下着だったし。



「でも、勃たなかったんだよね」


 おととい予習したとおり、念入りに前戯して、彼女もいい感じになって、途中までは何もかも順調だったのに……どういうわけか……勃たなかったんだ。



「はい、これで全部思い出した?」


 思い出した。それで彼女に愛想つかされて、ひとり横浜の飲み屋でつぶれるまで飲んだんだった。そこからどうやって帰ってきたかは、まだ思い出せないけど……。



「でも、篠崎さんがなんでそれを知ってるの?」


「昨日、酔っ払って帰ってきた耕太郎くんが延々聞かせてくれたからでしょ。こっちは久しぶりの再会に胸躍らせてたっていうのに、一晩中、酔っ払いの相手させられてがっかりしたわよ」


 オレもがっかりした。できれば思い出したくなかった。


 あー、なんでなんだろ。なんで勃たなかったんだろ。オレそんなナイーブな人間だったっけ?



「彼女の名前、瞳ちゃんだったっけ」


「なんでそこまで知ってるの!」


「昨日、連呼してたでしょ。瞳ちゃん、かぁ。可愛いの?」


「そりゃ、まあ」



 瞳ちゃんは、大学の同級生だ。同じ講義をとること多く、いつの間にか仲良くなった。


 気取らない性格で、すぐに誰とでもうちとけることができる。


 地方出身で、他のクラスメイトに対してなんとなく気後れのあるオレにはまぶしい存在だった。


 ダメモトで告白してOKもらったときは、うれしかったな。世界全部が手に入ったような気がしたもんだ。


 それが、急転直下。


「どうして? ダメなの?」瞳ちゃんは信じられないっていうような声を出して、それから、今まで見たこともない蔑むような顔でオレを見た。


 どうしてって、オレが聞きたかったよ。



「あー、また暗い顔してる。ねぇ、瞳ちゃんと私とどっちが可愛い?」


 言葉に詰まった。


「瞳と篠崎さんは、タイプが全然違うから……」


 ちょっと嘘をついた。正直、瞳ちゃんには篠崎さんの面影があった。


「もう、元気出しなさいよ。わかったわよ。一宿一飯の恩義って奴だ。私が一肌脱いであげる」


「えっ?」


「要するに、初めてだったから上手くいかなかったってことでしょ。じゃあ、一回やっとけば、次は何とかなるんじゃないの?」


「や、やっとくって、な、何を、」


「何って、とぼけたこといっちゃって、さっきからずっとあたってるんですけど」


 篠崎さんは、布団の上からオレの股間をむんずとつかんだ。


 どういうわけか、オレのその部分は心の落ち込みとは裏腹に硬く勃起したままだった。


「で、でも、そんな、わ、悪いよ」


「そんなこといってるから、二十歳にもなって童貞なんでしょ。そ、それにね」


 彼女の声が急に低くなる。


「いつ気づいてくれるかなーって思って見てたんだけど、全然気づいてくれないからいうね。あたし、小学生の頃からずっと耕太郎くんのことが好きだったんだよ」


「えーっ!」


「……だって、そうじゃなかったら、いくら泊まるとこがないからって男の子のウチにきたりしないよ」


 今まで威勢の良かった篠崎さんがもじもじと小さくなっている。



 じゃあ、何か? オレたち、ずっと両想いだったってことか!?


 もしオレに告白する勇気があったら。


 小学生のときも、中学生のときも、高校になってからも、それにオレが最後に会いに行ったあの夜だって、もしオレに勇気があったら。

 

 いや、今だって、遅くはないぞ。



「お、オレも、ずっと篠崎さんのことが好きだった!」


 オレは、篠崎さんの肩をぐっと掴んで抱き寄せた。


 予行練習は、おとといにばっちり済ませてある。避妊具ゴムも買ってある。


 もしかして、昨日上手くいかなかったのは、それは今日のために神様が取っておいてくれたのかもしれない。



「こ、耕太郎くん、ちょっと待って!」


 篠崎さんが、慌ててオレを押しのけた。


「どうして?」


「あ、あの、シャワー浴びたいの。それから、……いいでしょ」


 おー、それは予習したところに出ていたぞ。しかし、実際に目の当たりにすると可愛いにも程がある。


 篠崎さんは、オレの腕をすり抜けてバスルームに消えていった。


 そのスキにオレは昨日着ていたコートを探って避妊具を確保する。


 メガネを探すが、これは見つからなかった。ホテルに忘れてきた可能性が一番高いだろうけど、飲み屋に忘れてきたのかもしれないし、その前のレストランかも、


 しかし、もうそんなことはどうでもいい。


 とうとう、オレも童貞にさよならする日が来たのだ。



 それも、あの憧れの篠崎さんとだ。



 彼女が、近所に引っ越してきた日を今でも覚えている。


 いじめられていた弟を守るために、彼女は路地裏から颯爽と飛び出してきた。大きなひまわりの付いたワンピースに、日焼けした肌。

 

 それからいつのときでも、オレは気が付くと篠崎さんの笑顔を探していた。



 その彼女が、このバスルームの向こうにいる。



 シャワーの音が聞こえてきた。いつも、オレが入っているあの風呂場で、篠崎さんが体を洗っているのかと思うと……昨日ピクリともしなかったオレの股間は、痛いくらいに膨れあがっていた。



 テッテレレーテッテッテッテー



 ケータイがなった。


 こんなときに一体誰だ、と思い、見えない目を画面ゼロ距離まで近づけると、


 母親だった。無視しようかとも思ったが、今日一番の功労者なので、その功績を称えて出ることにする。


「あ、コウちゃん? おかあさんだけど」


「ああ、何か用?」


「何か用って、昨日コウちゃんの部屋に来たでしょ、篠崎さんトコの」


「あ、ああ、びっくりしたよ、ああいうことはちゃんと事前に教えてくれよ」


「ちゃんと留守電にいれといたのよ。コウちゃんが聞いてなかったんでしょ。いつ電話しても出ないし」


「留守電なんか聞かないよ。メールにしてくれよ」


「おかあさん、メール苦手だもん。まあ、とにかくお願いね。廉君、K大学の医学部受験するんだって、すごいわねー」



 えっ? 廉君?



「びっくりよねー。K大医学部なんて、あんたたちの高校ではじめてじゃないの?」


「あの、ええと、こっち来てるの、廉……なのか? 篠崎さん、ていうかお姉さんのほうじゃなくて?」


「何変なこといってるのよ、大学受験にお姉さんが付き添わないでしょ。それにかすみちゃんは今、名古屋でしょ……ちょっと、コウちゃん? もしもし? もしもし?  聞いてるの?」



 ……?


 どういうことだ?


 オレは頭が痛くなって、電話を切った。



 篠崎さんには、2歳年下の弟がいる。


 廉、という名前だ。


 チビでいじめられっこで、いつも篠崎さんやオレの後ろに隠れていた。


 高校では、オレと同じ吹奏楽部に入ってきた。三年生のオレは一学期が終わってすぐ引退したけど、同じテナートロンボーン担当になったんで下心込みでチョコチョコ面倒をみてあげてたっけ。


 テナートロンボーンはリーチが必要な楽器だから、最初の内は「小柄な廉で大丈夫かな」と心配してたんだ。でも、見た目よりガッツがあるらしくオレの卒業の時には結構いい音をさせていた。


 廉は確かに今年受験の歳だ。こっちの大学を受けることもあるかもしれない。


 でもオレの部屋にいたのは、どう見ても女の子だったぞ!


 ただ、メガネのない今のオレでは、「どう見ても」といっても、そんなにはっきりと見えていたわけじゃない。


 髪は長かったし、女の格好してたし……いやまてよ、それって女であるという証拠にはならないんじゃねぇ?


 ああ。もう、二日酔いの頭は物事を深く考えるのには向いていないんだ。



 シャワーの音が止んだ。


 バスルームのドアが開いて、自称篠崎さんが顔を出す。


「耕太郎くん、バスタオル借りていい?」


 オレは、ぴょこんと飛び出した顔を凝視する。でもやっぱり、メガネがないオレにはうすぼんやりと輪郭が見えるだけだった。



「ああ、いいけど、……お前、まさか、廉、なのか?」


 しばしの沈黙。


 遠くで、米軍の軍用機が飛んでいる音がする。



「バレちゃいました?」


 オレの頭の中で、夢とか男のロマンとかがガラガラと音を立てて崩れていった。


「でも、僕、嘘ついてませんよ。耕太郎先輩が「篠崎さん?」って聞いたんで「はい」と答えただけだし。姉貴だとは一言も言ってないですから」


 篠崎さん、ではない篠崎廉がバスルームから出てくる。バスタオルを胸のところで巻いていた。


 なんでお前は、男の癖に上半身までガッチリガードしてるんだ!


「いやー、いつ気づくのかなって思って見てたんですよ。でも耕太郎先輩、全然気が付かないから心配しちゃいましたよ。なんか途中、めっちゃヤる気になってたでしょ、オレ、本気でヤれちゃうんじゃないかってびくびくしてました」


「うるさい、誰がヤるか! ていうか、なんでお前、女の格好なんかしてんたんだよ」


「なんでって、……趣味ですけど」


 廉は、うつむいて少し照れたような声を出した。


 男の癖にカワイ子ぶりやがって。


「趣味って、お前、いつからだよ。オレが向こうにいるときはそんなんじゃなかっただろ」


「誰にも言わなかったんですけどね。なんか、僕、小さい頃から姉貴の服とか着せられて……結構華奢だったから、姉貴より似合うとか言われて、なんかその気になっちゃったっていうか、ずっと興味があったっていうか、憧れてたっていうか。髪の毛は少しずつ伸ばしたんですけど、でもまさか、地元で女装するわけにもいかないじゃないですか、狭い町だし……だから、せっかく受験で出てきたときくらい、いいかなって」


 いいわけないだろーっ!


「あのな、お前そういうの世間でなんていうか知ってるか? オカマっていうんだぞ!」


「でも耕太郎先輩、僕が男だって気がつかなかったじゃないですか」


「それは、メガネがなかったからだっつうの。それに、そういう問題じゃない。おまえの趣味がどうだろうとオレの知ったことじゃないが、なんでオレをだました? その篠崎さんのフリして変に期待させやかって!」


「……耕太郎先輩、昨日すごく落ち込んでたから、女の子のカッコで迫ったら、ちょっとは元気出るかなって。で、でも、姉貴だって勘違いしたのは、先輩が勝手に……」


「何! お前、オレが悪いって言いたいのか! もう許さん! 大体男の癖にキモいんだよ、そのバスタオルを取りやがれ!」


 オレは、廉の胸元に固く結ばれてるバスタオルを引き剥がそうとした。


「きゃあ」


 廉は、妙な声を上げて逃げようとする。


「紛らわしい声をやめろ。どっから声出してるんだ、お前は」


「これは、部活の他に声楽のトレーニングも受けてるから」


「うっさい、黙れ」


 オカマ野郎のくせに妙に力があるせいで、オレたちはもつれあってベッドに倒れこんだ。すかさず馬乗りになって、膝で廉の腕を押さえるとバスタオルに手を掛ける。


「もう、逃げられんぞ」


「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ」


 廉は半分涙目になっていた。


 な、なんだか妙に興奮してくるな。



「お願い、耕太郎くん。こんなヒドいことするのやめて」



 だしぬけに廉が言った。それから顔をそらすと、その頬を涙が落ちた(ような気がした)。


「えっ?」


「お願い、優しくして……」


「お前、いや、君、まさかホントは、篠崎さん?」


 じ、実は、廉が篠崎さんのフリをしているとみせかけて、篠崎さんが廉のフリをしていたのか!


 じゃ、じゃあ、あの「小学校の頃から好きだった」って告白は生きているってことに!



「先輩、ギブ、ギブッす。あー、なんだって、そんな股間をギラつかせてるんですかっ! 勘弁してくださいよ」


 だぁーっ! やっぱり、お前はオカマ野郎かっ!


 勢い良くバスタオルを剥ぎ取ると、やっぱりそこにあったのは結構筋肉質な男の体だった。


 一縷の希望も絶たれたか……。



 窓の外は冬の木枯らしが吹きあれているらしく、電線の揺れる音が聞こえてくる。




 ピンポーン、




 玄関のチャイムが鳴った。


 オレの部屋を訪れる人間といえば、新聞か宗教の勧誘ぐらいだ。


 いつもならこの手合いは無視するんだが、今日は部屋の中にいる人間のほうが普通じゃないんで、出てやることにする。



 ピンポーン、ピンポーン


 はいはい、いま出るよ。



 ドアの外で、声がした。


「あの、山田君! いるのかな」


 瞳ちゃんだ。


 オレは、ドアを開けようとして固まった。


 昨日のことが頭の中によみがえる。ホテルで見せた瞳ちゃんの冷たい表情も。



 ドアの外の声は続いた。


「山田君、あのね、聞いて欲しいの。謝りたいの、昨日のこと。あたし、あんまり経験なくてよくわからなかったから、山田君にひどいこと言っちゃったと思うの」


 な、なんなんだ。


 急な展開でよくわからないが、瞳ちゃんの声が、一転、天使の歌声のような響きで、オレの胸を貫いた。


「友達に聞いてみたりもしたんだけど、男の子はそういうことあるものだって、だから」


 オレはあわててドアを開けた。瞳ちゃんがわざわざ来てくれたこともすごく嬉しかったけれど、このままの勢いだと隣近所に聞こえる大声で昨日のインポ話をされかねない。



「山田君」


 ドアの外で、瞳ちゃんは白いコートをきてポツンと立っていた。


 冬の朝の空気が部屋の中に入ってくる。


 最後に別れてからまだ二十四時間も経ってないのに、ずいぶん久しぶりに会ったような気がした。


「瞳ちゃん」


「ホントに、ごめんね。怒ってる?」


「お、怒ってなんかないよ。オレのほうこそ、なんか、上手くできなくて」


「ううん、そんなことないよ。山田君が勃たなかったのは、あたしの努力不足だと思うの。だって、あたしは山田君の彼女なんだもん。そうだよね」


「も、もちろんだよ」


 瞳ちゃんの表情は真剣そのものだった。



「じゃ、じゃあ、もしよかったら、あたしに昨日のリベンジをさせて下さいっ!」


 そう言うと、瞳ちゃんはオレに思いっきり頭を下げる。


「り、リベンジ?」


「だからっ、彼女として、今日こそ絶対、山田君に勃起してもらいたいって」


「ぼ、勃起って、ちょっと、そういう話は中に入ってよ」


 オレは、急いで彼女を部屋の中に招き入れた。


 瞳ちゃんは寒さのためか、興奮しているのか、頬を真っ赤に上気させている。


「その友達にね、いろいろ聞いてきたの。テクニックとか技とか、だから、今日は自信があるの。必ず、山田君の、アレを勃たせてみせるって」


 勢い込んでそこまで言うと、瞳ちゃんは突然、言葉を飲み込んだ。彼女の視線は一直線にオレの股間に注がれていた。


「ていうか……もう、勃ってますね」


 しまった! オレはまだ起きたばっかりの格好、Tシャツにパンツのままで、さっきからの勃起がずっと続いたままだった。


 そして同時に、オレはもっと「しまった」ことが、あることに気がついていた。



 部屋の中には、あの変態がいるんじゃないか!!



「先輩、お客さんですか? お邪魔ですかね?」


 その「しまった」の素が、早速ベッドから顔を出してくる



 邪魔だぁー! おまえは一万パーセント邪魔だぁー!



「誰かいるの?」


 瞳ちゃんが驚いて部屋の中を覗き込む。


「い、いや、いるっていうか、いないっていうか」


 オレは体をずらして、ひとみちゃんの視線をさえぎろうとするが、廉の奴あろうことか、挨拶に出てきやがった。


「あ、耕太郎先輩の高校の後輩で、篠崎って言います。先輩には昨日一晩お世話になっています」


 おまけに、オレが剥がしたバスタオルをまた几帳面に胸から巻きなおしている。


「昨日一晩……山田君、それって、どういうこと?」


「瞳ちゃん、それ誤解だよ。こいつ、男なんだってば、」


 オレは超特急で廉のバスタオルに手をかけると、胸から一気に引き下げた。


 廉の上半身がむき出しになる


「きゃあ! もう、やめてくださいってさっきからいってるじゃないですか! 乱暴にしないでくださいよ」


「な、こいつ、男だろ! な!」


 オレの必死の説得に、瞳ちゃんは大きく肯いた。


「そうね、男の人ね」


「よかった、わかってくれたんだね?」


「つまり、あたしでは勃たなくて、男の人なら勃つんだね。山田君は」


「えっ?」


「信じられない。あたし、帰る」


 瞳ちゃんは、玄関のドアを開けると脱兎のごとく駆け出していった。


「ちょ、ちょっと待って!」


 あわてて追いかけようとして、オレはまだズボンをはいていないことに気がついた。そうしてズボンをはこうとして片足部分に両足を突っこみ、大きくすっころんでしまった。



 二階の外廊下から、小走りにアパートを出て行く瞳ちゃんの後姿が見える。


 その背中に叫んだ。


「瞳ちゃーん!」


 しかし、彼女は振り返る素振りも見せない。


 オレの叫び声は、冬空と二日酔いの頭にむなしく響いた。




 三十分後。


 オレはベッドの隅っこに体育すわりして、真っ白に燃え尽きたまま動けずにいた。


 相変わらずメガネがないんで時計も見えないが、まだ朝の九時なんだそうだ。


 日曜日なんで講義もないし、バイトもいれてなかった。


 予定通りなら、まだ瞳ちゃんとデートの続きをしているはずだったんだ。



 台所では、廉が何故だか上機嫌で朝食をつくっていた。


 長い髪の毛を二つに結んで、オレのエプロンをつけている。その下は、ピンクのセーターにミニスカート、黒いタイツというどこから見ても女の子の姿だった。


 地元から出てきたときは男の格好をしてたはずだから、男の格好に戻るように意見したのだが、


「昨日、先輩の吐いたゲロかかっちゃったんで洗濯中なんです」


 と言われて、何も言えなくなってしまった。



 まあ、いいさ。


 どうせ、全部オレが悪いんだ。


 きっと、瞳ちゃんを裏切って、篠崎さん(実は廉だったわけだが)とよからぬ事をしようと思ったバチがあたったんだろう。



「朝ごはんできましたよ。ある材料で作ったんで大したものじゃないですけど」


「ああ」


 といっては見たものの、食欲がない。


 動けずにいると、見かねた廉がエプロンを外してベッドにのぼってきた。


「まだ二日酔いです? 頭痛みます?」


「それはもうだいぶいい……」


「ほんとに、ごめんなさい。僕が悪かったです。まさか、あんなことになるとは思わなかったから。お詫びといっちゃなんですが、朝ごはん、頑張って作ったんで、食べてくださいよ」


「……廉が悪いんじゃないさ」


 そう言って、オレはまた一つため息をつく。


 廉は、オレの隣に並んで座った。


「瞳ちゃん、かわいいコでしたね。さすが、先輩の彼女だけあって。ちょっぴり、ていうか、結構、姉貴に似てるんじゃないですか」


「……」


「あーゆーコが、先輩のタイプなんすかね。先輩、姉貴のことずっと好きだったでしょ」


「……気づいてたのか?」


「まあね。小さい時って、よく『かすみちゃんをお嫁さんにする』とかって言ってたじゃないですか。まあ、それは子供の言う事だし、そんなものかなって思ってたんですよ。でも、先輩、吹奏楽部で僕だけに妙に優しかったじゃないですか、だから、ああそうなんだなって、先輩、まだ姉貴のことが好きなんだって」


「……結局、告白一つできなかったけどな。こっちに出てくる前の晩にさ、宇都宮公園に呼び出したんだ。最後だから絶対告白するって気合入れてたんだけど、顔見たら全然びびっちゃってさ。今回もそう。瞳ちゃんなんてめちゃくちゃいいコだし、可愛いし、でも肝心なところで、なんかびびっちゃうのな、オレって」


「好きになりすぎちゃうんじゃないですか。そこが先輩のいいトコっすよ」


「……いいトコなわけないだろ」


「今度は、薬使ってみればいいんじゃないですか?」


「薬?」


「バイアグラとか、間違いなく勃起する奴」


「今度があればな」


 オレは、ベッドの上でごろんと横になった。


 そのまま目を閉じる。



「元気出してくださいよぉ。しょうがないなー、もう、どっか出かけましょうよ。そうだ、横浜。横浜つれてってくださいよ、中華街とか、みなとみらいとか」


「んなとこ、男二人で行くトコじゃねえよ」


「そんなこといわないで、大体、先輩の好みのタイプが姉貴なんだったら、僕だってめっちゃストライクゾーンじゃないですか」


「いくらストライクゾーンだって、ボーリングの玉が飛んできたら打てねえだろ」



 オレの下半身でカチャカチャという音がした。


 目を開けると、廉がオレのズボンのベルトを外そうとしていた。



「な、なにするんだ、お前」


「お詫びです。ご飯も食べてくれないし。さっきの彼女、なんか、技とかテクニックとかっていってましたけど、ちゃんちゃらおかしいです。僕のほうが絶対上手いに決まってます」


「だって、おまえ、男だろ」


「そんなの、手とか口とかだったら男も女も同じじゃないですか!」


「同じじゃないだろ」


「じゃあ、姉貴の声でいきますんで、耕太郎くん、あたしに、ま・か・せ・て」



 さっきから気づいていたが、廉は結構力が強い。上に乗られるとそう簡単には跳ね返せなかった。


 それに、メガネのない今のオレには、女装した廉と篠崎さんとの区別は全然つかないんだ。


「耕太郎くん、ねえ、お願い、力抜いて」


 そうやって迫られると、本当の篠崎さんがいるような錯覚にとらわれてしまう。



 オレは、抵抗するのをやめた。




「お前さ、他の男ともこんなことしてんの?」


 廉の動きが止まった。


「お前って、ホモなの?」


「……けない、」


「んなわけないじゃないですか……冗談ですよ、冗談。何、本気にしてんだか」


 ゆっくりと、廉はオレの体から離れて、ベッドを降りた。怒っているようで、笑ってるようで、泣いてるような声だった。


「廉、お前、泣いてんのか?」


「泣いてないですよ。なにいってるんすか、バカじゃねえ」


「泣いてるじゃん」


「泣いてねえよ。なんだよ、インポの癖に」


 明らかに泣いている。


 手で涙と鼻をぬぐうその姿はまるっきり汚らしいガキだ。オレは黙ってティッシュの箱を差し出した。廉も黙ってティッシュを引き抜くと、大きな音を立てて鼻をかんだ。


 なんだか、出来の悪い弟ができたみたいだった。



 どうしていきなり泣きはじめたんだ、こいつは?


 そんな泣かせるようなこといったか、オレ?




 オレは、ベッドから起き上がってズボンをはきなおした。


「じゃあ、さっさと朝飯食って、オレはでかけるぞ」


「でかけるって、どこへ?」


「メガネを探しにだよ。瞳ちゃんの誤解を解くのも大事だけど、まず、メガネがないと話にならないからな。まずは昨日のホテルだ。場所は山下公園の手前。廉もついてくるか?」


 レシートくらいとっとけば電話をかけられたんだけど見当たらないし、ホテルの名前も記憶に無い。覚えがあるのは場所だけで、直接行くしかなかった。


 まあ、いい気分転換になるだろう。


「一緒に行っていいの?」


「……来たけりゃ来いよ。ただ、そのミニスカートはやめろ」


 男とわかっている奴が、短いスカートをちらちらさせてるなんて気持ち悪いからな。



 廉は、ミニスカートからオレの貸してあげたジーパンに着替えた。


「うーん、丈はぴったりなんだけど、ウエストがユルユルだー」


 などとふざけたことをいいやがる。


 さっきまでビービー泣いてやがったくせに。


 ホントは髪の毛も切ってしまいところだが、そこまでの時間はない。




 朝飯を食い終わると、オレたちはアパートを出た。



 山下公園へは、相鉄線で横浜まで出て、みなとみらい線に乗り換えて元町中華街駅で降りればすぐだ。


 みなとみらい線に乗ると、廉は「すげー、映画みたいー」「電車の中にテレビがあるー」と田舎者丸出しで驚いていた。


「恥ずかしいから騒ぐな」といっても、聞く耳を持たない。


 廉を連れて電車に乗るのは、心配もあった。


 ジーパンをはかせてはみたものの、ほぼ女装した姿の廉が、周りから見て男に見えるのか女に見えるのか、はたまたオカマに見えるのか、メガネがないオレには見当もつかない。


 まあどう見えたって、何かトラブルがあるはずないけどな。横浜の町にはそんな人間はゴマンといる。



 オレたちは、車両の隅に壁にもたれるように立った。普段よりオレたちに向けられた視線(特に若い女の子の)が多いのは確かだった。



 目的地まであと二駅、馬車道通り駅を過ぎた時、ケータイが鳴った。


 ゼロ距離まで目を近づけると、瞳ちゃんからだった。


 あわてて着信ボタンを押す。


「瞳ちゃん!」


「……山田君、今、大丈夫?」


「今、電車なんだけど」


「そう、じゃあ、また」


「待って! ちょっと待って!」


 マナー違反はわかっているけど、そんなことを言っている場合じゃない。


 オレは、しゃがみこんで口元を手で隠しながら話を続けた。


「聞いてくれ。瞳ちゃんは、絶対勘違いしてる」


「勘違いって?」


「さっきのことだよ」


「山田君、男の人と変なことしてた。山田君、ホモなの?」


「ちぃがぁうぅ! オレは、女が好き!女の子が大好きなんだよ!」


 ゴツン!


 廉が、オレの頭に思いっきりげんこつを落とす。


 いかん、つい大声になってしまった。顔を上げると、車両にいる客のほぼ全員がこっちを見ている。明らかに笑われていた。


 オレは、声を低くして続けた。


「ホントなんだ。あれは、高校の後輩がふざけてただけなんだ」


「でも……」


「信じてくれよ」


「あたしじゃ、山田君、勃たないよね」


「大丈夫だよ、あ、あの、そうだ! クスリだ! いいクスリがあるんだって! 今度使ってみよう!」


「……最低」


 ツーーー


 電話が切れた。あわててかけなおそうとしたが、圏外だった。


 ゴツン


 廉が、また思いっきり殴ってくる。



 顔を上げると、周囲の視線が更に冷たくなっていた。



 次の駅で、オレたちは逃げるように電車を降りた。


 廉が、先輩であるオレに向かって容赦ない罵声を浴びせかけてくる。


「信じられないっすよ。僕には恥ずかしいのなんのと言っておいて、何だって、電車の中で『女好きだ』とか『いいクスリがある』とか大声で叫ぶんっすか!?」


 オレは、ただうなだれて後輩からの叱責を聞いていた。


「悪かった。なんか、頭に血が上っちゃって、でも、次の電車すぐ来るから」


「あとひと駅なんだから、出て歩きますよ。また瞳ちゃんからかかってくるかもしれないし」


「悪い」


 先を行く廉の後を追って、オレはエスカレーターをのぼった。


 駅から出ると、ケータイのアンテナが復帰した。オレはあわてて瞳ちゃんにかけなおそうしたが、廉がそれを横から奪い取った。


「なにすんだよ」


「先輩。気がついてないみたいだから、言いますけど」


「は、はい」


「さっきの電話の受け答え、サイテーでしたからね」


「あ、そ、そうか」


 オレも、それはそうかなと思ってはいるんだけど……


「このままじゃ、何回電話したって仲直りなんてできないですよ。どこが悪かったんだか、わかってます?」


 いつになく厳しい口調だった。


「それは、その、どこっていうか……」


「わかってないんですか?」


「いや、その……」


「わかってないなら教えてあげます。まず、第一に、なんですか、あの『女の子が大好き』ってのは。先輩が好きなのは瞳ちゃんなんですか、女の子なんですか、どっちなんです?」


「そ、そりゃ、どっちも好きだけど……」


「あんたは、バカか! ああ、そりゃ、あんたはどっちも好きだろうさ。ただ僕が言ってるのは、電話口で、瞳ちゃんに伝えなきゃならんのは、どっちかって事ですよ!」


「そんなに怒んなよ」


 日本大通駅から元町中華街駅までの間を、オレは廉に説教されながらとぼとぼと歩いた。

 

 目指すラブホテルはちょうど山下公園と中華街の中間地点にある。



 派手なネオンを掲げたラブホテルを見上げて、廉はまたオレに毒づいた。


「初めてラブホテルに行くってのに、よくこんな街中の、人通りの多いところを選びましたね」


「えっ、だ、駄目だった?」


「瞳ちゃん、きっとめちゃめちゃ恥ずかしかったでしょ。0点ですね」


 それから廉はずんずんホテルの中に入っていく。


「ホテルの部屋、何号室でした?」


「303号室。入るのか?」


「僕と二人で入りたいんですか」


「ば、バカいえ」


「何期待してるんですか。昨日のことなんだから、もう掃除もすんで、落し物があればフロントに届けられていますよ。」


 オレがまごまごしていると、廉は代わりにフロントの人と交渉をしてくれた。


「どうだった?」


「昨日の忘れ物にはメガネはないそうですよ。こういうとこの掃除は結構しっかりやりますし、メガネじゃあ係りの人が懐に入れるなんてこともないでしょうから、ここで失くした可能性は低いですね」


なんだかさっきから、廉がまぶしいくらいに大人にみえるぞ。


「廉、おまえ、こういうとこ慣れてんだな」


「地元にもラブホぐらいあるでしょ」


「おまえ、地元ではよく行ってるんだ」


「先輩とは違いますからね」


 げげ、いくらオレが童貞だからって、先輩にそういう言い方するか?


「相手は誰なんだよ。その前にどっちなんだ、男か女か?」


「女に決まってるじゃないですか。吹奏学部の先輩とか、同級生とかですよ」


 こいつ、こんなカッコしてるくせに、部活の女子食いまくってたのかよ!


「じゃあ、オレが知ってる奴もいるか?」


「一番長くつきあってたのは、堀内先輩ですかね。先輩の下の学年の部長だった」


「堀内って、あのフルートの? めちゃくちゃ美人な子だよな」


「僕のほうが美人ですよ」


 廉はきっぱりと言った。


 なんで、そんなモテモテの癖に女装なんてしてるんだ、こいつは?


「次、どうします?」


「えっと、ホテルじゃなかったら、その後行ったバーかな。中華街抜けた先にある」


「じゃあ、行きましょう」


 ラブホテルから出て、オレたちは中華街へ向かった。


 街を歩いていると、何人かの女の子が通りすがりに振り返ってオレたちを、いや、正確には廉を見た。



「あのこ、かわいいねー、男の子かな、女の子なのかな」


 などという声もちらほらと聞こえる。



 すると、さっきまでオレの一歩前を歩いていた廉が、すっと下がってオレの隣にやってきた。


「どうした?」


「なんか、みんな、じろじろ僕のこと見るんで、やっぱ、変なんですかね」


「びびったのか? 堀内より美人なんだろ」


「それとこれとは……」


「大丈夫だよ。みんなが見てるのは、お前が可愛いからだ」


「なっ」


 廉は急に立ち止まった。その顔が真っ赤になっている。


「あ、あの」


「どうした?」


「服つかんでてもいいっすか? っていうか、カップルの振りしてもらえませんか。男ってばれないように」


 ま、そのくらいはいいか。さっきは迷惑かけたしな。


 オレが腕を出すと、廉は服をつかむんじゃなく、腕を組んできた。


 そこまでしていいとは言ってないぞ、と言おうと思ったが、逆転していた上下関係がもとに戻りそうだったので大目に見てやることにした。



 オレたちは、中華街で肉まんを食べ、雑貨屋を冷やかしながらバーにたどり着いた。



 だが、バーは開いていない。人一人いなかった。


 まだ十二時前だから、当たり前か。




「じゃあ、夕方になったらまた来ますか。その間に、どこか他を探します?」


 オレは、昨日のデートコースを頭の中でなぞってみた。はっきりと記憶があるのはラブホテルまでだけど、そこまで滞りなく事が進んだということは、ラブホテルに入るまでは眼鏡があったんだろう。


「いや、思い出したんだけど、眼鏡をなくしたのはホテルより後のはずだ。だから、この飲み屋じゃなかったらもうあてはないってことになる。もういいよ。この店の電話番号メモっといたから、夕方になったら電話するさ」


「そうですか」


「せっかくここまで来たんだ。廉、おまえどっか行きたいところないの?」


「えっ、いいんですか」


 廉は声を弾ませた。


「じゃあ、あれに乗りたい!」


 そうして指差した先には、みなとみらいの大観覧車「コスモクロック21」があった。




「コスモクロック21」は、平成元年の横浜博覧会の際に建造され、博覧会終了後に取り壊されるはずだったが、人気が高かったため一九九九年に現在の位置に移設されている。


「だから、21とは言ってるけど、完全に二十世紀の代物なんだぜ」


 そして、なぜオレがこんなウンチクを知っているかというと、昨日の瞳ちゃんとのデートのために覚えたからだ。


 まさか、二日続けて乗ることになるとは思わなかった。



 この観覧車の入り口にたどりつくために、遊園地に入って鉄塔を階段で上らなければならない。上りきったところで、怪しげなお兄ちゃんに記念撮影をさせられる。その間、廉はずっとオレの腕にしがみついたままだった。


「わー、記念写真だ」


 廉は、わけもわからずはしゃいでいる。


「バカ野郎、あれは後で法外な値段で買わされることになるんだぞ」


「いいじゃないですか、せっかくの記念なんだし。瞳ちゃんには買ってあげたんでしょ」


「あたりまえじゃねぇか。瞳ちゃん、あの写真持っててくれてるかな」


「まあ、今頃、燃えるごみにするか資源ごみにするかで、迷ってるんじゃないですか?」


「おまえ、きついこというなよ」


 ゴンドラがやってきた。廉はオレの隣に乗ろうとしたが、さすがにそれはキモいので、向かい合わせに座らせた。


 ゴンドラがあがり、まず下にある中古車センターが見えてくる。当たり前だが、昨日と同じ景色だ。


 オレがため息をつくと、廉が言った。


「ちょっと考えると気づいていい事だと思うんですけど、先輩って、全然気づかないですよね。」


「なんだよ、オレが鈍いって言いたいのか?」


「いつ気がつくかなと思って見てたんですけど、無理そうなんで教えてあげますよ」


「だから、何をだよ」


「瞳ちゃん、昨日の夜ケンカして、今日の早朝には先輩の部屋を訪ねてきましたよね。そこでまた変なもの見せられて部屋を飛び出して、でも一時間後には先輩のケータイに電話してきたでしょ」


「それで?」


「ここまで言ってもわかんないですか? 瞳ちゃんは、先輩にベタボレってことですよ。仲直りしたいと思ってるわけです。まあ、あせることないですよ」


「そ、そうなの?」


「やっぱり気づかないんだなー。それが先輩のいいところでもあるんですけどね。あ、だんだんベイブリッジ見えてきましたね。あれ? 橋が二つある。どっちがベイブリッジなんですか?」


「青いほう、緑のはつばさ橋」


「おー、近未来っすねー。来てよかったなー」


 廉は窓に張り付いて、外を眺めている。修学旅行に来た中学生かお前は、


(!)


 そのとき、オレはあることを思い出した。


「オレだって、お前が気づいてない大事なことに気がついたぞ!」


「なんです?」


「お前、受験は!? 受験に来たんだろ。K大学の医学部! こんなところで観覧車乗ってちゃダメだろ! 試験いつなんだ? 明日か? 勉強しなくていいのか?」


 廉は笑った。


「ホントだ、先輩でも気づくことあるんだ」


「笑ってる場合じゃないだろ」


「今日の午前中ですよ。もう終わってます」


「何―!」


 オレが立ち上がったんで、ゴンドラがぐらっと揺れる。


「ちょっと、落ち着いてくださいよ」


「だって、午前中って、おまえ」


「うーん、八時開始ですから、先輩が起きたときにはもう試験始まってましたね」


「なんでだよ。それなら、オレなんかおいてサッサと試験に行かなきゃダメじゃないか」


「昨晩の先輩見たら、ほっとけないです。いいんです。今日のは記念受験なんだから。大体、K大医学部なんて、受けたって受かるはずないじゃないですか」


「そ、そりゃ、そうかもしれんけど」


 オレは座席に座りなおした。すると廉は、オレの方に向き直って真面目な顔になった。


「……僕、昨日こっちに出てきたのは、本当は卒業するためだったんです」



「卒業って?」


「僕、小学校に上がる前から、好きな人がいたんです。その人のことずーっと見てて、いつか僕の想いに気が付いてくれるんじゃないかなって。でも、その人は、どうしようもなく鈍い人なんで全然気が付かないんですよ。そのときは結構切ない思いしてたんですけど、今から考えると、それがすごく楽しかったなって。僕、その人のこと見てるときが一番幸せなんだったんです。でも僕が高二になったときに、その人は他県の大学に進学して会えなくなっちゃって。なんとか忘れようと思って、いろいろ他の女の子と付き合ったりしたんですけど、駄目で、長続きしないんですよ。やっぱり、忘れられないってうか。だから、ちゃんとその人にお別れを言わなきゃいけないんじゃないかって。そしたら、新しい一歩を踏みだせるんじゃないかって」


 観覧車は、ちょうど頂上にさしかかっていた。ここからだと、遠くに房総半島までが見える。


 オレは、急にマジモードになった廉に戸惑って、ぎこちない笑顔を作った。


「それが、卒業か。でもさ、別にお別れなんか言わなくても、そいつに好きって告白したらどうなんだ。案外、『私も廉君のことが好きだったの』とか言われて、うまいこといく可能性もあるんじゃないの? 廉くらいモテモテなんだったらさ」


「先輩の、想像力っていうか、妄想力には驚かされますね。それができれば苦労しないですよ。でも絶対無理なんです。無理な人なんです」


 廉は、遠い目をしてゴンドラから海の向こうを眺めた。


 誰だろ?


 廉が幼稚園の頃からつきあいのある人間なら、オレもたいがいは知ってるはずなんだけどな。


 で、今、県外の大学に通ってて、つきあいたくてもつきあえない人……


 もしかして、それって……



「オレも、廉にあんまり先輩めいたことはいえる立場じゃないけどさ。なんてったってオレは童貞だし、お前はヤリチンだし」


「ヤリチンはやめてください」


「わかったよ。でもさ、一つだけ言ってもいいか?」


 廉は黙ってうなずいた。


「お前はさ、折角、そんなに長い間、その人を好きだったんだろ。オレも、お前の姉貴のことが好きでさ、その気持ちをバネにして、いろいろ頑張ったりもしたんだぜ。結局、告白もできなくて惨めな思いをして、いまだってあの時のこと思い出して夜中に目が覚める事だってあるけどな」


 観覧車は、すでに下りにかかっていた。まだ十分高いけどでも頂点ではない。微妙なポジションだ。


「でもね、そういう気持ちが残ってたからこそ、瞳ちゃんに告白だってできたし、それだけじゃなくて、人に優しくすることだってできるようになったと思うんだ。だから、お前が叶わない相手に恋をしていて、それを忘れて前に進みたい気持ちもわかるけど、誰かを好きだった気持ちってそうそう区切りなんかつけられないし、無理に忘れる必要なんてないんじゃないかな」


 今のオレの素直な気持ちだった。まあ、オレみたいにあんまり無様なのもどうかと思うけど。


「じゃあ、僕、ずっと好きでいてもいいんですか?」


「ああ、いいんじゃねぇ。ていうか、好きなものはしょうがないじゃん」


「ありがとうございます」


 廉は、また涙声になっていた。よく泣くガキだ。


 しかし、叶わない恋に身を焦がしている若者なら仕方ないか。


 ここはひとつ、あくまで先輩として慰めてあげよう。


「でもまあ、実の姉を好きになるってのもしんどいもんだよな」


 廉の肩に手を乗せた。


「はあ?」


 それまでハンカチで目頭を押さえていた廉が急に顔を上げる。


「え? 廉の好きな人って、おまえの姉ちゃんじゃないの? だってほら、幼稚園の頃から一緒で、お前が高ニのときからよその県の大学に行ってて、で、絶対に叶わない恋の相手って、篠崎さん以外ありえないじゃん!」


 廉は、肩に置かれているオレの手を振り払うと、天を仰いだ。



「先輩って、ホントに、バカっすね」


「え、ちがうの? 篠崎さんじゃないの?」


「先輩が言ったんですからね。好きな人をあきらめるなって」


「そりゃ言ったよ。言いましたよ」


「僕、絶対あきらめないことに決めましたから」


「お、おう、あきらめんな」


「後悔しても知らないっすよ」



 なんでオレが後悔するんだ? っていうか、廉の好きな人って誰なんだよ。


 問い詰めようと思ったが、ちょうど観覧車のゴンドラが地上に到着した。



 オレたちはゴンドラを降りて、最初にとった記念写真の場所に向かった。

 

 そこには、観覧車に乗った客たちの写真が所狭しと貼られている。


 廉が、「ここにありましたよ」とすばやく写真を見つけてきた。


「なかなか、よく撮れてるでしょ」


 その写真をオレの顔の前に近づけるが、メガネのないオレには、どこがどう、誰の顔なんだかさっぱりわからない。


「メガネがないからわかんねえよ」


 すると、廉は今日何度目かのフレーズを、さも得意そうに繰り返した。


「いつ気が付くかと思って見てたんですけど、全然気が付かないんで言いますね」


「おい、まだ何かあるのかよ!」


 勘弁してくれよ!




「先輩のメガネ。頭の上にあります」



「えっ」


 あわてて頭の上に手をやる。そこには、手馴れたプラスチックの感触があった。


「今日の朝、先輩が朝起きた時からずっと、そこにありました。ホント、先輩を見てるのって楽しいです」


 チクショー、廉の奴、何で早く教えないんだ! じゃあ、ホテルに行ったのだって、バーに行ったのだって、まるっきり全部無駄足だったってことじゃないか!



 とにもかくにも、オレはメガネをかけた。


 はっきりくっきりと形ある世界が、オレの周りに広がってくる。



 そしてオレの目の前には、一枚の写真があった。


 もちろん、大観覧車「コスモクロック21」の記念写真だ。


 だがそこに写っているのは、オレと、見たことのない可愛い女の子だった。女の子はとびきりの笑顔を浮かべながら、オレの腕に腕を絡ませている。


「だ、誰だ、これは!」


 廉から写真を奪い取ると、視線で穴を開けんばかりに凝視した。女の子は、どことなく瞳ちゃんに似ていた。それよりも、高校時代の篠崎さんの方にが似ているかもしれなかった。


「廉、もしかして、このコは……」


 おそるおそる顔を上げると、そこに廉の姿はなかった。


「あ、もしかして、いま、僕のことめっちゃ可愛いとか思ってるんでしょ?」


 女の子は、廉の声でしゃべった。


 いや違う。この女の子が、廉なのか?


「お、お前、廉、なのか?」


「やだなー、惚れちゃいました? これからどうします? 僕ちょっと疲れちゃったから、さっきのホテルで休憩でもします?」


 廉はオレの腕をつかむと、またさっきのように腕を絡めてきた。


 オレにそっちのけはないので、いくら可愛かろうが、男に抱きつかれてもちっとも嬉しくない。


 嬉しくないはずだが、さっきから急に動悸がしはじめている。


 きっと、急にメガネをかけたんで心臓がおかしくなったんだろう。オレの家系はみんな心臓が弱いからな。


 そんなことを考えながら、オレは、オレの頭に浮かんできた気味の悪い妄想を打ち消すのに必死になっていた。


(まさか、廉の好きな奴って……)


 それは、まったくありえない世迷い言だ。なんだってそんなことを思いついたのか自分でも見当がつかないが、オレは思い切って廉に聞いてみた。


「おまえの好きだった奴って、もしかして……オレ?」


 おそるおそる切り出したオレの言葉に、廉はまた、屈託のないとびきりの笑顔を浮かべる。


「やだなー。先輩、ちがいますよー」


「そ、そうだよな。そんなわけないよな。なに考えてるんだろ、オレって」


「好きだった人じゃないですよ。先輩は僕の好きな人です。忘れちゃダメですよ。さっきあきらめないってことに決まったばかりじゃないですか」


 そう言いながら、廉はオレの胸に顔を埋めた。


「僕、もうこっちの大学一コ受かってるんで、春からこっちに越してきますから、よろしくお願いします、ネ」


 周りから見ると、オレたちは仲の良いカップルにしかみえないだろう。


 メガネをかけて、はっきりした視界の中にいる廉は、オレの知ってるかぎり、一番かわいい女の子だ。


 いや、ちがった。一番かわいいかもしれんが、少なくともこいつは女の子ではない。



「ウソだーっ! は、はなせ、このヤロー!」


 オレは思わず叫んだ。その叫び声は、横浜の冬の空にどこまでも響いた。





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