エピソード7 真希 (後編)
あのドラマの最終回、タカさんがバイト先まで送ってくれたあの夜から、少しずつ時間が経っていった。
いつもより話さないタカさん、肩を並べて歩いたあの距離。
触れそうで触れない、でもお互いの体温を感じるほどに近すぎたあの時間が、いつまでも私の心に棘のように刺さっていた。
「送っていくわ」と言われた時の嬉しさと、それ以上に膨れ上がる胸のざわつき。
私は、ずっと出口のないモヤモヤの中にいた。
学校の外には、私を待っている彼氏がいる。
それなのに、目を閉じれば浮かんでくるのは、六畳一間の部屋の匂いや、タカさんの少し照れたような笑い声ばかり。
タカさんのことを考えてしまう自分に気づくたび、裏切りのような罪悪感と、抑えきれない執着が混ざり合って、自分がひどく汚い人間に思えて嫌だった。
そして私は意を決して彼氏に別れを切り出した。
もうこれ以上、自分を騙しながらタカさんのそばにいることは辛くなってきた。
けれど、現実はドラマみたいに潔くはいかなかった。
「なんで? 理由を言ってくれ」
「急すぎるわ、納得できひん」
彼氏の言葉はどれも正論で、私はただ黙り込むことしかできなかった。タカさんのことが好きになったから——そんな本当の理由、口が裂けても言えるはずがない。
いつもなら、困ったことがあれば真っ先にタカさんと愛莉に相談する。それが私たちのいつもの形。
でも、この泥沼の別れ話のことだけは、タカさんには絶対に言えなかった。
タカさんの前では、いつも余裕のある「可愛い後輩、楽しい親友」でいたかった。
彼氏との揉め事に疲れ果てて、ボロボロになっている自分なんて、絶対に見せたくなかった。
自分の弱さをさらけ出して、彼に幻滅されるのが怖かった。
それ以上に、彼が私の必死さを「重い」と感じて、居心地のいい場所を失ってしまうことが、何より怖かった。
私はたった一人で、終わりの見えない話し合いと、自分の中の罪悪感に、じりじりと焼かれるような夏を過ごしていた。
真夏のけだるい空気の中、愛莉がぽつりと言った。
「なあ、タカさんと美波って……なんかあるんかな?」
その瞬間、心臓が跳ねて、一瞬だけ息が止まりそうになった。
「何言うてんの」と笑い飛ばそうとしたけれど、愛莉の瞳はいつになく真剣だった。
「前から気づいてたけどさ……ずっと、気づかんふりしてた」
愛莉のその言葉に、胸の奥が冷たく凍りつく。
そんなこと、私にだってわかっていた。あの雪山の夜のタカさんの顔も、美波を見る視線も、どこかで気づかないふりをしていただけだ。
でも、私はとぼけた。
「……そーかな?」
声が少し震えていないか、必死で自分を律しながら。
愛莉は、私がドラマの再放送を理由にタカさんの家に通っていたことは知らない。
そしてタカさんも、愛莉には私のことを何も話していない。
私たちは三人、いつも通りに笑い合っているけれど、その実、それぞれが別の場所で「秘密」を抱えていた。
愛莉は美波を疑い、私はタカさんの隣にいた記憶を隠し、タカさんは誰にも本当のことを言わない。
仲良し三人グループという薄い氷の上に立って、私たちはいつ壊れるともしれない関係を、必死で維持していた。
愛莉の視線が痛い。
私だけは「タカさんの特別」だと思っていた。でも、それは美波も同じだったの?
それとも、愛莉だって、本当は、、、??
街は花博一色で、どこか浮かれた空気に包まれていた。
そんな熱気に背中を押されるように、私は思いきってタカさんを誘ってみた。
「花博、行かへん?」
タカさんはいつものように軽く笑って、でも、返ってきた言葉は私の期待とは少し違っていた。
「えーよ。……愛莉も誘う?」
その瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
三人でいるのは楽しい。いつものこと。でも、今の私に必要なのは、グループの中の「後輩」としての立ち位置じゃなかった。
「……二人がいい」
少しだけ勇気を出して、わざとらしく甘えたふりをして言った。冗談めかさないと、本当の気持ちがこぼれ落ちてしまいそうだったから。
タカさんは、ほんの少しだけ間を置いて、私をじっと見た。
そして、すべてを見透かしたような、それでいて優しい顔で笑った。
「デートやな」
その一言に、凍りつきそうだった心がどれほど救われたか。
彼にとって、それがただの言葉の綾だったとしても、その時の私には、暗闇の中に差し込んだたった一つの光のように見えた。
花博の会場は、人酔いしそうなほどの熱気に包まれていた。
色とりどりの花、パビリオンから流れる賑やかな音楽、そして人々の興奮した声。
でも、隣を歩くタカさんの背中を見ているうちに、ふと胸の奥が冷えるのを感じた。
タカさんは、迷わなかった。
初めて来た場所なら少しは戸惑うはずなのに、彼はどこに何があるかを知っている人の歩き方をしていた。近道も、混まないルートも、まるで予習が済んでいるみたいに。
(あぁ、やっぱり。一度来たんや……美波と)
確信に近い予感が胸をかすめたけれど、私は何も聞かなかった。
今ここでそれを問い詰めたら、この「デート」という名前の付いた魔法が解けて、私はただの「五人グループの後輩」に戻ってしまう気がしたから。
楽しかった。でも、楽しくなればなるほど、どこか寂しかった。
それからしばらくして、ようやく私は彼氏と別れた。
あんなに渋っていた彼が、最後は呆気なく手を離した。
でも、私はタカさんにはそのことを言わなかった。
「フリーになったよ」と伝えれば、二人の関係は次のステップに進むのかもしれない。でも、それと同時に、この「曖昧で優しい共犯関係」が終わってしまう気がしたから。
言えば、何かが動き出してしまう。
それは、私が一番望んでいるはずのことで、一番恐れていたことでもあった。
卒業を間近に控えた、ある日のこと。
タカさんが、いつもの冗談を一切封印したような、ひどく真剣な顔で私を見た。
「……卒業しても、一緒にいられるかな?」
その言葉をずっと待っていたはずなのに。
いざ差し出されたその本心を前に、私は少しだけ笑って答えた。
「それは無理だよ、タカさん」
私にはもう、新しい彼氏がいた。
タカさんへの執着を断ち切るように、逃げるように作った、新しい居場所。
自分でも、最低で、ずるい女だと思った。
でも、あの頃の私たちは……。
私の、ぐちゃぐちゃだった心の中は……。
どこかで、この不透明な時間をちゃんと終わらせなければいけないと叫んでいた。
タカさんは、本当は本気で恋をする人だった。
軽薄に見える振る舞いは、彼の繊細さを守るための鎧みたいなもので、一度踏み込めば、そこには驚くほど深くて、逃げ出したくなるほどの純粋さが横たわっている。
タカさんの本気に、ちょっとだけ触れられた。
それだけで、もうお腹いっぱいだったんだと思う。
これ以上踏み込んで、彼の全部を独占しようなていう勇気は、私にはなかったから。
これでいい。これが、私たちのちょうどいい答え。
タカさん、、
タカ、、、
いつも一緒に食べたランチ。
あの真っ白な雪の中で感じた、タカの体温。
ずっと寄り添って見てたあのドラマ。
二人で歩いた花博の、クラクラするような人混み。
全部、私の中にちゃんと残ってる。
一生モノの恋とか、そんな大げさなものじゃないかもしれない。
でも、あの頃の私が必死だったのは本当。
さよなら、タカ
楽しかったよ、本当に。




