エピソード5 ヒロコ(中編)
あの日以来、私の茶色の革のスケジュール帳は、お互いの休日が重なるたびに「たーくん」という文字で埋め尽くされていった。
狭いキッチンで肩を並べてご飯を作ったり。目的もなく近所のスーパーへ買い物に行ったり。
時には少し遠出して、東京の不慣れな観光地を巡ったり。なんてことのない公園のベンチで、ただ流れる雲を眺めてのんびり過ごしたり。そして、確かめるように愛し合う。
それは、東京という無機質な砂漠の中で見つけた、信じられないほど満たされた日々だった。
けれど、私たちの間には、目に見えない透明な境界線が引かれている。
私には、大阪に彼がいる。その事実を、私はたーくんに言っていない。
そしてたーくんもまた、私に何も聞かない。あいつに彼女がいるのか、大阪にどんな未練を置いてきたのか。私もまた、口を閉ざしたままだ。
お互いの過去や背景に触れないことは、いつしか私たちの間の暗黙のルール「タブー」になっていた。
気にならないと言えば嘘になる。けれど、問い詰めてこの心地よい綺麗なシャボンの泡のような時間が弾けてしまうのが、何よりも怖かった。今はただ、心も身体も、目の前にある体温だけで満たされていればそれでいい。そう自分に言い聞かせていた。
季節は巡り、空が重く湿り気を帯びる梅雨時。
珍しく朝から雲ひとつなく晴れ渡ったある日のことだった。
私は休日前の仕事帰りに、新宿でたーくんと待ち合わせた。
「な、ヒロコ。ええ店見つけたんよ」
そう言って彼が連れて行ってくれたのは、川口にある彼の家のすぐ近く、路地裏にひっそりと佇む広島焼きの店だった。
鉄板の上でソースが焼ける、鼻の奥をくすぐる香ばしい匂い。
「東京で広島焼き? って思ったやろ。でもここ、本気やから」
たーくんが少年のように笑いながら、大将が手際よくコテを動かす姿に目をやる。
私たちは、大阪の味とはまた違うその熱量を、ハフハフと息を吐きながら頬張った。
ビールで火照った身体に、夜風が心地いい。
「……帰ろか」
「うん」
店を出て、自然に手が重なる。
どちらからともなく歩き出す先は、いつものあのワンルーム。
まだ荷解きが終わっていない段ボールが隅に置かれた、私たちの「秘密基地」。
明日の朝、カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めるまで。
私たちは、境界線の向こう側にある現実を、あえて暗闇の中に置き去りにした。
たーくんの家に着いて、玄関のドアを開けた瞬間だった。
鼻先をかすめたわずかな空気に、私は足を止めた。
(……女が来たな)
それは、私が使っているものとは違う、かすかな化粧品の匂い。あるいは、部屋の空気がわずかに入れ替わったような、目に見えない違和感。
胸の奥がチリッと焼けるような感覚があったけれど、私はすぐにその感情を飲み込んだ。私たちは、お互いの過去も現在も追求しないというルールのないルールで繋がっている。
「なー、たーくん。一緒にお風呂入ろっか?」
あえて明るい声を出し、彼の背中に抱きついた。
「えっ! ……えーけど、狭いぞ?」
少し驚いたような顔をしながらも、たーくんは照れくさそうに笑った。
狭いユニットバスで、お互いの肌をなぞるように洗い流す。湯気に包まれながら見る彼の体は、仕事の疲れを滲ませながらも、どこか少年のままのような危うさを持っていた。
そのまま、湿った髪を乾かす間も惜しむように、私たちはベッドへと潜り込んだ。
たーくんは、いつも通り優しかった。
私の呼吸を読み、私の望む場所を正確に愛してくれる。指先ひとつの動きまで、私を満足させるために尽くされているのがわかった。
(……きっと、今までたくさんの女の子を、こうして幸せにしてきたんだろうな)
ふと、美穂子と真子の顔が脳裏をよぎる。何かあったと聞いたわけではない。
でも彼の中に蓄積された「優しさのテクニック」が、皮肉にも彼の孤独を際立たせているように見えた。
「ねぇ、たーくん。私との……気持ちよかった?」
耳元で囁くと、たーくんは少し困ったように眉を下げた。
「もちろん……。もしかして、俺あかんかった?」
「ううん、いつもめっちゃいい。最高の100点で、大満足!」
私は彼の胸に頬を寄せ、心臓の音を聞きながら言葉を繋いだ。
「……やけど……」
「……やけど?」
「んー……たーくん、私に気、使ってない? すごく嬉しいし、そこってとこに必ず来てくれるけど……」
「…………」
たーくんの体が、わずかに強張ったのがわかった。
「もちろん、今のままでもいい。でもな、もっとたーくん自身を出してええんよ。もっと暴力的になってもいいし、もっと甘えん坊でもいい。私は、全部のたーくんを受け止めるよ」
「…………」
「ほんとのたーくん全部さらけ出してくれたら、120点で優勝やね」
静かな沈黙が流れた。
窓の外を通る車の音が、遠くで聞こえる。
ふと見上げると、たーくんの瞳がわずかに潤んでいるのが見えた。彼は何も言わずに、まるで母親を求める子供のように、私の胸に顔を埋めてしがみついてきた。
「……ヒロコ……」
掠れた声で私の名前を呼ぶ。
その瞬間、彼を覆っていた「完璧なタカさん」という鎧が、音を立てて崩れ落ちた気がした。
今、私の腕の中にいるのは、エリートでも遊び人でもない。ただの、寂しがり屋で不器用な一人の男。
「んー、たーくん……可愛いなぁ」
私は彼の背中を優しく、何度も撫でた。
それから始まった二度目の時間は、これまでとは全く違うものだった。
激しく、剥き出しで、それでいて言葉にならないほど深い優しさに満ちていた。
深夜のワンルーム。
私たちは、お互いの孤独を溶かし合うように、何度も、何度も、名前を呼び合った。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む眩しい光で目が覚めた。
胸元に心地よい重みを感じて視線を落とすと、たーくんが昨夜のまま、私の胸に顔を埋めるようにしてしがみついて眠っていた。
(……まだ、甘えたままや)
その無防備な寝顔を見ていると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。私は起こさないようにそっと、彼の柔らかい髪を指先で優しく撫でた。
しばらくして、たーくんが小さく身じろぎをして目を覚ました。私と目が合うと、一瞬だけ昨夜の自分を思い出したのか、耳まで真っ赤にして照れくさそうに笑った。
「……おはよう。……ありがとう、ヒロコ。大好き」
その真っ直ぐな言葉に、心臓が跳ねる。
「私もだよ、たーくん」
そう喉まで出かかったけれど、私はあえて言葉にはせず、ただ微笑んで彼の頬を両手で包み込んだ。言葉にしてしまったら、この魔法のような関係が「現実」という重みを持ってしまいそうで怖かったから。
「……ヒロコ、シャワーどうぞ。……それとも、一緒に入る?」
「一緒に入る」
私は迷わず答えた。
狭いユニットバスの湯気の中で、私たちはまた、どちらからともなく求め合った。昨夜の激しさの余韻を残しながら、でも今度は光の中で、お互いの存在を確認するように。
「……やばい。ヒロコ、俺、幸せすぎて死ぬかも」
シャワーの音にかき消されそうなほど小さな声で、彼はそう呟いた。
「アホなこと言わんといて。……ほら、私がコーヒー淹れるから、先出て」
バスタオル一枚を体に巻き、キッチンに立つ。
お気に入りの豆を挽き、お湯を注ぐ。部屋中に香ばしい匂いが広がっていく中、ソファに座るたーくんを眺めた。
「な、ヒロコ。今日は一日、俺に付き合ってくれる?」
グリーンのマグカップを差し出そうとした手が、一瞬止まった。
今までのたーくんなら、「どこ行きたい?」「何食べたい?」と、いつだって私を優先して、気を遣ってくれていた。それが彼の優しさであり、同時に壁でもあったはずなのに。
「……いいよ。どこ連れてってくれるん?」
「内緒。でも、絶対気に入ると思うわ」
カップを傾ける彼の横顔は、なんだか吹っ切れたような、自信に満ちたいい男の顔になっていた。
昨夜、私にすべてをさらけ出したことで、彼の中の何かが変わったのかもしれない。
「120点で優勝」なんて、昨夜は冗談めかして言ったけれど。
鎧を脱ぎ捨てた今のたーくんは、私の知らない誰かとの歴史も、大阪に残してきた未練も、全部ひっくるめて愛してしまいたくなるような、抗いがたい引力を持っていた。それともすでに愛してしまったのか……
私は自分の気持ちに気づかないふりをして、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
カレンダーに目をやると、もうすぐ夏休み(お盆休み)がやってくる。1週間くらい大阪へ帰る予定だ。
(……大阪帰ったら、彼の顔、まっすぐ見れるかな)
大阪で私を待っているはずの日常。その中心にいる彼の顔を思い浮かべようとしても、今の私にはこの部屋のコーヒーの匂いと、目の前のたーくんの体温があまりに強烈すぎた。
外は、梅雨明けを予感させるような、抜けるような青空が広がっていた。
この眩しい光が、私の後ろめたさまで全部焼き尽くしてくれればいいのに。そんな無責任な願いを抱きながら、私はたーくんの隣に座り直し彼に体をあずけた。




