エピソード4 智代(前編)
3月末、神戸で行われた壮行会。あの日、主役として送り出されるタカを見送ってから、私たちは一度も会っていない。お互い、自分から連絡を入れないまま季節は春を通り過ぎようとしていた。
4月末に一度、仕事で東京へ行く機会があったけれど、あいつは新潟へ出張中だと言われ、すれ違いに終わった。
「あいつ、東京でものすごく数字伸ばしてるらしいで」
社内で聞こえてくる噂は、どれもあいつの有能さを称えるものばかり。
「頑張ってんな。あいつなら当然か」
資料を閉じながら、私は独り言ちた。あいつの要領の良さと、あの人懐っこい笑顔があれば、東京の冷たい空気なんてすぐに自分のものにしてしまうだろう。
けれど、ふと思う。
あいつは本当に元気だろうか。そろそろ、あの寂しがり屋の性質が限界を迎えている頃じゃないだろうか。
私は仕事柄、年に3〜4回は東京へ行く。タカに会う機会はまたすぐに来る。
そう自分に言い聞かせながら、私は7月のカレンダーをめくった。
7月のある夜。蒸し暑い神戸の自室から、あいつのポケベルベルを鳴らした。
「お盆休み、どうするん?」
って本題を聞くために、まずはあいつの様子を探ってみよう。
呼び出し音の後、すぐにかかってきた電話の向こうから、聞き慣れたあの低い声が響いた。
「智代、久しぶりやな」
「タカ、元気にしてた? ちゃんといい子にしてたん?」
笑い混じりに尋ねると、あいつは
「めっちゃいい子やで。……って、俺は子供か(笑)」
と、絶妙な間を置いて返してきた。
「そやね、おこちゃまやな」
「おい。……で、そっちはどないやねん」
「私は相変わらず。ねえ、そっちで彼女とか作ったん? 女の子泣かしてへん?」
「仕事しかしてへんわ! ……たぶん(笑)」
「あやしいなぁ……まあええわ。追求せんといてあげる」
「あやしいってなんやねん……」
電話越しの、いつもの軽口。けれど、私はその声の奥にある「色」を探っていた。
「あ、そやそや。お盆休みはどうするん? 実家か大阪、帰るん?」
「帰らへん。東京におるわ」
あいつの言葉に、私は不敵に口角を上げる。
「ふーん……。実は私、8月8日から東京出張あんねん。そのままお盆休み入るから、東京に残ることにしたわ」
「へー……」
「『へー』ちゃうやろ! どっか旅行とか、ええ感じの場所リサーチしといてや」
「俺はJTBか(笑)?!」
「添乗員、兼、運転手な。ランクル出す準備しとき。連れてってほしいとこ、いっぱいあんねん」
「……はぁーい」
少し面倒くさそうな、でも拒みきれないあいつ特有の返事。
「ほな、また直前に連絡するわ」
「……はぁーい」
受話器を置くと、静まり返った部屋にエアコンの音だけが残った。
もっと寂しそうにしているかと思っていたが、声のトーンを聞く限り、そんな気配は微塵もなかった。
(やっぱり、女か……)
そう直感が告げている。あいつの周りには、いつも誰かの体温があった。
けれど、それを考えても仕方のないことだ。
8月8日。もうすぐ、この目で確かめに行ける。
東京出張と、その後に待つお盆休み。
久々に会う「おこちゃま」が、どんな顔で私を迎えるのか。
そのことだけを楽しみに、私はスーツケースを開いた。
7月末の暑い夜だった。
この季節の神戸にしては珍しく空が凛と澄み渡り、三宮の騒がしい街の灯りに負けないくらい、星たちが鋭い光を放っていた。アスファルトが吐き出す昼間の熱気が、生温い夜風に混じって頬を撫でる。そんな夜、私は親友の昌と久しぶりにゆっくり食事へ行く約束をしていた。
会社を出て、ポートライナーに乗り三宮駅へ向かう。改札の喧騒の中で、見覚えのあるデニム上下の聡美にあった。
「智代! これからご飯? 私も行くわ、お腹空いて死にそう!」
相変わらずの強引なフットワークの軽さで、聡美が当然のように仲間に加わる。
「ちょっと、勝手に決めんといてよー笑笑」
と言いつつ、私はどこか安堵していた。
「そういえば、こんなこと前にもあったな……」
既視感に苦笑いしながら、ふと思い出す。昌ちゃんと聡美。私の大切な親友同士だが、この二人は今日が初対面のはずだ。
私たちは高架下にある、馴染みのお好み焼き屋へ滑り込んだ。
換気扇が頼りなく回る店内は、ソースが焦げる濃厚な香ばしさと、鉄板が放つ暴力的な熱気に満ち、まだまだ現役のおばあちゃんがリズムよくコテを振っている。
「こっちが、昌ちゃん。で、こっちが聡美。二人とも、タカとは腐れ縁やから」
そう紹介すると、二人は一瞬だけ「ああ、なるほどね」という顔をして、すぐに打ち解けた。
冷えた生ビールのジョッキがぶつかり合う。
喉を焼くような炭酸の刺激と共に、女三人の現状報告が始まった。
「あんたら最近、彼とはどうなん?」
そんな定番の問いに、昌ちゃんも聡美も、少し照れくさそうに、でも隠しきれない幸福感を滲ませて「まあ、仲良くしてるで」とはにかんだ。彼女たちの瞳の奥には、安定した日常の光がある。
「智代さんは?」
「たしか結構年上やったよな。結婚とか言われへんの?」
不意に二人の視線が私に集まる。私はジョッキの結露を指でなぞりながら、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
「……私も、まあまあかな」
嘘ではないけれど、決して本当でもない。最近の私と彼の間には、決定的な熱量が欠けていた。会えばそれなりに楽しい。けれど、心の深い場所が震えるような感覚はもうずっと忘れている。形だけの関係、惰性の温もり。そんな微妙な空気を悟られたくなくて、私はあえて声を弾ませて話を逸らした。
ふと、会話が途切れた瞬間に、誰からともなく溜息が漏れた。
「……そういえば、タカがいなくなってから、みんなで集まって遊びに行くこと、ほんまに無くなったよね」
私がこぼした言葉に、昌ちゃんも聡美も深く頷く。
「ほんまやな。昔やったら、誰かが『海行こうぜ』って言ったら、深夜でもランクルの後ろに全員放り込まれて走ってたのに」
「タカがあのデカい車で迎えに来て、無理やり日常をこじ開けてくれてたんな。今はもう、みんなそんな年になったのかな……」
聡美がジョッキを回しながら、少しだけ寂しそうに笑った。
結婚、昇進、あるいは静かな恋愛。私たちはそれぞれに「自分の生活」という守るべき場所を持ってしまった。重い腰を上げてまで、誰かが作った無茶な計画に乗っかる体力も、青臭さも、いつの間にか磨り減っていたのかもしれない。タカという名の強引な「核」を失った私たちのグループは、まるで引力を失った惑星みたいに、それぞれの軌道へと散らばっていった。
「タカは今、東京で何してんのやろな」
聡美がポツリと溢したその一言で、再びテーブルにタカの気配が戻ってきた。
「タカさん、東京でものすごい数字出してるらしいよ」
と昌ちゃんが言う。
「何かわかるわ。あいつの『痩せ我慢』は、ああいう砂漠みたいな街でこそ光るんよ」
私の言葉に、聡美がニヤリと唇を吊り上げた。
「よし、決まり。智代、あんた今度の東京出張で、タカの現状を徹底的に洗ってきて報告な。みんなが大人しくなってる間に、あいつだけが東京で相変わらずガキみたいに遊んでないか、確かめてきて」
「そうやね。寂しがり屋のくせに『一人が最高や』なんて顔してるはず。しっかり化けの皮を剥いできてよ」
昌ちゃんも悪ノリして、空になったジョッキを突き出す。
「わかった、任せとき。特派員として報告するわ」
冗談めかして請け負ったけれど、胸の奥では小さなさざ波が立っていた。
探りを入れるのが、少しだけ怖い。もし、あいつが本当に私の知らない誰かの隣で、あの頃の私たちに見せたこともないような、満たされた「大人の顔」をしていたら。
「じゃあね、報告待ってるし。気をつけて」
お好み焼き屋を出て、夜の街に消えていく二人の背中を見送る。
一人になった途端、高架下の喧騒が急に遠のいた。私は三宮の夜空を、もう一度見上げた。
熱を孕んだ夜風が、湿った髪を揺らしていく。
(タカも、この空を見てるんかな……)
東京の空はビルに切り取られてもっと狭くて、こんな綺麗な星なんて見えないかもしれない。
あいつは今、誰を助手席に乗せ、どんな夜を走っているのか。
「みんなそんな年齢になった」と諦めるには、まだ少し早すぎる気がした。
私は深く息を吸い込み、決意を固めるようにヒールを鳴らして歩き出した。
カバンの中には、東京行きのチケットが、静かにその時を待っている。




