エピソード3 ぷー(中編)
夏前の梅雨時。空は低く垂れ込め、駅のホームにはビニール傘の先端から滴る水滴が点々と模様を作っている。ジメジメとした湿り気が肌にまとわりつく、一年で一番大嫌いな季節。
けれど、今朝の私の心は、雨上がりの水たまりに反射する光みたいに、キラキラと弾んでいた。
「いい予感がする」
根拠なんてない。でも、そう確信できる理由が、今の私にはあった。
あの日、タカさんがお店に現れて以来、店内の景色は魔法がかかったように一変した。
淀んでいた空気はどこかへ消え、フロアには常に心地よい活気が満ちている。これまで素通りしていたはずのお客さんたちが、まるで磁石に吸い寄せられるように次々と足を止める。タカさんが教えてくれた「あえて隙を作る」ディスプレイや、相手を主役にする「一歩引いた」接客。それを私たちがひとつずつ、丁寧な気持ちで実践していくたび、目に見えて結果がついてきた。
「高木さん、この前のコーディネート、お客さんにすごく喜んでもらえたよ! また来るって!」
「今月の予算、このペースなら中旬にはクリアしちゃいそうです!」
バックルームに響く声はどれも明るく、スタッフたちの刺々しかった表情には、プロとしての誇りが宿り始めていた。
仕事が、楽しくて仕方ない。明日が来るのが待ち遠しい。
短大を卒業して、なんとなく就職したこの場所で、こんな風に思えたのは初めてのことだった。
でも、私の心が躍っている本当の理由は、売上の数字だけじゃない。
(……次、タカさんはいつ来るんだろう)
接客中も、自動ドアが開くたびに視線が泳いでしまう。
ネイビーのブレザー、少し緩めに締めたニットタイ、シルバーのボタン。そして、目が合った瞬間に見せてくれる、あのはにかんだような、でもどこか寂しげな笑顔。
彼がお店に来る予感がする日は、朝からメイクのノリが気になるし、休憩時間に鏡を見る回数も、これまでの倍に増えていた。
休憩中、スタッフ専用の狭いロッカーで、私は手帳の隅に書かれたあのポケベルの番号をじっと見つめる。タカさんがさらさらと書き残していった、右下がりの、迷いのない数字。
(「仕事以外も相談乗るで」って、言ってたよね……)
自分から連絡してみてもいいんだろうか。それとも、やっぱり忙しいかな。
社内では相変わらず「神戸から来た期待の若手」としての噂が絶えない。仕事の鮮やかさはもちろん、あの誰に対してもフラットな、飾らない性格だ。
きっと関西には、彼を待っている綺麗な彼女がいるに違いない。私なんかよりずっと彼に相応しい女性が。
ふと、切なさが胸をかすめる。
彼はあくまで本社から送り込まれた「旅人」なのだ。東京のこの喧騒を、ほんのひと時だけ鮮やかに整えて、実績という土産を持って神戸へ帰ってしまう人……。
「ぷー、何ぼーっとしてんねん。口、あいてるで(笑)」
幻聴かと思ったら、本当に背後から声がした。
振り向くと、そこには仕事帰りの少し疲れた、でも射抜くように優しい目をしたタカさんが立っていた。
「あ、タカさん! ……抜き打ちチェックですか?」
「アホ。近くまで来たから、ぷーがちゃんと笑ってるか見に来たんや。お前、たまに一人で変な顔して固まってるからな」
その「ぷー」という呼び方に、心臓が大きく跳ねる。
私を職場の「高木さん」ではなく、一人の女の子として扱ってくれるその響き。彼の前では、私はただの店員ではなく、一人の「ぷー」でいられる気がした。
「……あの、タカさん」
心臓が喉まで競り上がってくる。
今言わなきゃ、明日はもう来ないかもしれない。この「旅人」は、いつの間にか私の日常のすべてを支配していた。
「今日、このあと……お時間ありますか? お祝い行きませんか。売上達成の」
言い終えて、指先がかすかに震える。
タカさんは少し意外そうに目を見開いた後、ふっといつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「ええなぁ。お祝いか。ほな、ぷーの食べたいもん行こっか。何がいい?」
「んー……パスタ、イタリアンとかどうですか?」
「ええなっ! 洒落たもん食お。じゃあ、上がったら迎えに来るわ。待っててや」
東京の夜を彩るネオンが、ガラス越しに私たちの間に落ちる。
閉店後、私たちは新宿三丁目の街を肩を並べて歩いた。行き先は、レンガ造りのクラシックな一軒家レストラン『ELSA』。
都会の喧騒を忘れさせるような落ち着いた雰囲気が、今の私たちの、まだ名前のつかない距離感にちょうどよかった。
「ヤバイ、全部おいしそう。選べないです……」
「欲張りやな(笑)。じゃあ、色々頼んでシェアしよか。俺も腹減ったわ」
運ばれてくる料理は、どれも温かくて絶品だった。
看板メニューのデミグラスソースがたっぷりかかった、とろとろのオムライス。濃厚なトマトパスタ、香ばしいパンの匂い。濃厚なスープ。タカさんは追加でピザも頼んで、「うまいな、これ」と豪快に笑いながら食べている。その食べっぷりを見ているだけで、私の胸はいっぱいになった。
ワインがまわってくると、自分でも驚くほど心のガードが解けていくのがわかった。
テーブルキャンドルの火に照らされた彼の横顔を盗み見ながら、私はずっと喉に引っかかっていたことを口にした。
「タカさん……彼女、いるんですか?」
「……おらんよ」
タカさんはグラスを揺らしながら、さらりと答えた。その「おらん」に、どれほどの嘘や隠し事が混ざっているのか、今の私には測りようもなかったけれど。
「じゃあ、好きな人とかは?」
「たくさんおるな(笑)」
「あ、ズルいですそれ。女遊び、してますか?」
「してへんって。忙しすぎてそれどころやないわ。……ぷーこそ、どうなん? 東京の男は冷たいか?」
「その質問も、ズルいですよ……」
ふとした沈黙の間、タカさんが少しだけ真面目な顔をして、残ったワインを見つめた。
「……俺、いつまで東京おるかわからんしな。明日帰れって言われたら、それまでや」
「……それでもいいですよ。私も、そのつもりです」
酔っているせいか、言葉がするすると零れ落ちる。
「期間限定の恋」なんて、本当は一番苦手なはずなのに。彼が明日いなくなるとしても、今この瞬間、彼の瞳の中に私が映っているのなら、それでいい。
「……酔ってるっしょ、ぷー」
「……少しだけ」
店を出て、あてもなく夜の街を歩く。
深夜に向かう新宿は、昼間よりもずっと優しく見えた。いくつかのホテルを通り過ぎるたび、街灯の光が二人の影を長く伸ばし、重なり、また離れていく。
私がタカさんの顔をじっと見つめ、何かを言おうとしたその瞬間、彼が先に口を開いた。
「……俺んち、泊まる? 狭いけどな」
「……うん」
私は迷わず、彼の腕をぎゅっと組んだ。
新宿駅から電車に乗り彼の部屋へむかう間はお互いあまり話さなかった。
案内されたタカさんの部屋は、想像していた通り、どこか男の子の秘密基地を思わせる空間だった。
床にはまだ荷解きが終わっていない段ボールがいくつか積まれていて、その脇には仕事の資料と、それとは対照的な『サーフィン誌』が置かれている。大阪から持ってきたのか、古いカセットテープの山も見えた。
彼もまた、この街で必死に「自分の場所」を築こうとしているのかなと愛おしさがこみ上げた。
今まで、それなりに経験はあった。けれど、タカさんは驚くほど優しかった。
激しく求め合うというより、壊れ物を扱うように、慈しむように。
私の指先から髪の先まで、ゆっくりと確かめるように。
事が終わった後、彼は私を強く抱きしめるのではなく、ただ隣に寄り添ってくれた。
そして私が眠りにつくまで、彼は魔法を解かないように、私の頭をずっと優しく、一定のリズムで撫で続けてくれた。
その大きな手のひらから伝わってくる体温が、私の孤独を一つずつ溶かしていく。
「おやすみ、ぷー」
その声を最後に意識が遠のく中、私はこの幸せが、梅雨の晴れ間に見える虹のように、一瞬で消えてしまわないことを、ただ静かに祈っていた。
翌朝、目が覚めると、部屋には香ばしいコーヒーの匂いが満ちていた。
キッチンに立つタカさんは、昨夜の優しい彼ではなく、もう「戦う男」の顔をしていた。
「おはよ。コーヒー淹れたぞ。……仕事、遅れるなよ」
彼は手際よくネクタイを締め、鏡の前で自分の表情をチェックする。その背中は、昨夜私を撫でてくれた時よりもずっと遠く、硬いものに見えた。
「タカさん」
「ん?」
「……またご飯行きましょうね」
「もちろんな。連絡してな」
彼は鞄を手に取ると、一度も振り返らずに部屋を出て行った。
残されたのは、わずかな石鹸の匂いと、少しだけ煙の混じった彼の生活の香り。
私は、彼がくれた「魔法」を解かないように、自分の心にきつくリボンをかけた。
たとえ彼が旅人だとしても。たとえいつか大阪に帰ってしまうとしても。
この梅雨の夜に触れた彼の体温だけは、私の心の中に、確かな熱として残り続けるのだから。




