エピソード2 ヒロコ(前編)
ちょうど一年前のことだったと思う。
関西で飛ぶ鳥を落とす勢いだったギャルブランドが、満を持して東京進出を決めた。その記念すべき一号店の店長として、私はたった一人、辞令を握りしめて新幹線に飛び乗った。
東京の街は、大阪とは流れる血の色が違う。派手な色彩と、どこか冷ややかな視線が交差する新宿のファッションビル。慣れない土地で、売上という数字の鎖に縛られながら、私は毎日必死に「関西の気概」を振りまいていた。けれど、言葉の端々に混じる関西弁を隠そうとする自分に、時折ひどく疲れを感じることもあった。
ある日のこと。
店の外で、妙に熱心にこちらを伺っている男がいた。
カチッとした紺のブレザーに、少し緩めに締めたニットタイ。仕事帰りの営業マンだろうか。でも、ここはバリバリのギャル服の店だ。場違いな男がショーウィンドウをジロジロと眺める姿に、私は少しだけ警戒心を抱いた。
(……何やろ、気持ち悪いな。偵察か何か?)
不審に思いながらも、私は店長としての営業スマイルを貼り付け、あえて自分から距離を詰めてみた。
「どうぞ、よろしかったら中もご覧ください。新作入ったばかりなんですよ」
声をかけると、その男は不意に顔を上げ、眩しそうに目を細めた。
「……ここって、大阪の店やんな?」
その声、その絶妙なイントネーション。一瞬で耳の奥に馴染むような、懐かしくも厚みのある響きだった。
「えっ、知ってはるんですか?」
「知ってる知ってる。というか、友達がそこで働いてるんよ」
驚いて、思わず一歩踏み出す。
「えっ? 誰ですか?」
「美穂子と真子。……知ってる?」
その二人の名前が出た瞬間、私の頭の中でバラバラだったパズルのピースが一気に組み合わさった。大阪の店舗で、あの子たちが休憩時間のたびに、まるでお守りのように、あるいは自慢の恋人のようにその名を口にしていた。
「……えっ。じゃあ、もしかして、たーくん?!」
「えっ?! なんで俺の名前知ってるん?」
男——たーくんは、心底驚いたように目を見開いた。
やっぱり、この人だったんだ。
美穂子は今も店でいきいきと輝いている。真子は夢を見つけてバイトを卒業した。あの子たちの口から、いつも自慢の彼氏のように語られていた「たーくん」が、今、目の前に立っている。
東京という孤独なコンクリートの砂漠で、私は思いがけず、一番純度の高い「大阪の体温」に触れた気がした。緊張の糸がふっと解け、気づけば口が動いていた。
「んー、えーと……とりあえず、ご飯いきません?」
唐突な誘い。でも、この機会を逃したら二度と捕まえられないような気がしたのだ。
「もちろんやな! いつでも! いつ行く?」
被せるような、いい感じのテンポで返事が返ってくる。東京の人間との「丁寧な距離感」に慣れかけていた私にとって、この阿吽の呼吸、会話の「間」だけで心が踊るのがわかった。
「今日は……?」
「19時上がりですけど」
「ええなぁ! ほな、そんくらいにまた来るわ。待っててや」
彼はそう言うと、右手を軽く挙げて爽やかに雑踏の中へ消えていった。
仕事に戻っても、心はふわふわと浮き足立っていた。19時。あの「たーくん」と何を話そう。美穂子たちのこと、大阪のこと。そして、この慣れない東京での毎日のこと。
19時が、待ち遠しくて仕方がなかった。
「ほんで、どこ行きます?」
「なんでもええで。ヒロコさんが決めてな」
19時ちょうど。約束通り現れたたーくんと新宿の街に繰り出す。初対面のはずなのに、不思議とそんな気がしない。大阪の旧友に再会したような、あるいは、ずっと昔に別れた元カレと偶然鉢合わせたような――そんな、どこか懐かしく、そして絶対的な安心感があった。
「たーくん、実は私、月末でお金ないんです。安いとこでもええですか?」
「おう、もちろんや。俺も引っ越したてで物入りやからな。安いとこ、攻めよか」
そう言って二人で足を踏み入れたのは、新宿駅西口にへばりつくように佇む『思い出横丁』。迷路のような路地に、煙と赤提灯がひしめき合っている。
「うわ、ここ……とにかく狭いし、なんか汚い(笑)」
「でも見てや、焼き魚定食500円やで! 東京にもこんな場所あるんやな」
適当な店に滑り込み、肩を寄せ合うようにして座る。ビールで乾杯した後は、堰を切ったようにお互いのことを話し始めた。
大阪の店のこと、美穂子や真子の近況、そして、誰も知る人のいない東京で必死に虚勢を張って生きている今の自分たちのこと。
話して、笑って、また飲む。
気づけば、私はこれまでの東京生活ではあり得ないほど酔っ払っていた。張り詰めていた心の糸が、たーくんの前では、ぷつりと音を立てて切れてしまい、すべてをさらけだしていた。
「……ヒロコ、家どこやっけ?」
「わらび。……蕨ですぅ」
「お、俺は西川口。同じ方向やな。赤羽駅までは一緒や、帰ろか」
電車に乗ったものの、私の視覚はぐらぐらと揺れていた。文字通りベロベロの状態で、つり革に捕まることすらおぼつかない。
「お前、ほんまに帰れるんか? 大丈夫か?」
「……かえられへん。むり。あし、うごかへんもん」
「しゃあないな……。送ったるわ、住所教えて」
「いやや……。部屋、掃除してへんもん。絶対、いやゃ」
我儘な酔っ払いに成り果てた私を、たーくんは困ったように見つめる。
「どーすんねん、お前」
「たーくんとこ行く。明日、休みやし……ええやん」
「…………ぁ----」
翌朝。カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。
見覚えのない天井。でも、シーツからは昨日から嗅いでいた、彼のネクタイと同じ「清潔な石鹸と少しの煙」の匂いがした。
(……やらかした)
恐る恐る体を起こし、部屋を見渡す。服着てるか確認する。そこは川口の、まだ荷解きも終わっていない殺風景なワンルームだった。
私はたーくんのベッドに寝かされていた。じゃあ、彼は――。
ふと視線を落とすと、ベッドの脇、フローリングの床に丸い塊があった。
たーくんは寝袋にくるまって、不自由な姿勢で眠っていた。
「……ぷっ、何これ。可愛い」
思わず笑みがこぼれた。
昨夜、あれだけ泥酔して「泊まる」と絡んだ女を、彼は指一本触れることなく、自分は床で寝てたのだ。
美穂子が、そして真子が、なぜあんなにも熱っぽく「たーくん」のことを語っていたのか。その理由が、この寝袋の塊を見た瞬間に、すべて理解できた気がした。
彼は「与える」人なのだ。自分の居場所を、自分の温度を、惜しみなく誰かのために差し出せる人。
「起きたか。お前、昨日の酔っ払いぶり最悪やったぞ」
寝袋から顔を出したたーくんが、目をこすりながらそう言った。
「うるさいなぁ。……たーくん、コーヒー淹れて」
「あー最悪や(笑)! お前、中身おっさんやな! ヒロコやない、今日から『ヒロシ』や、ヒロシ(笑)」
「ヒロシやない! ヒロコ!! ……もういいから、シャワー貸して。あと、なんか着替えも貸してな」
シャワーを浴びてスッキリした私に、たーくんが放り投げたのは、履き古されて柔らかくなったリーバイス501と、少しだぼだぼのTシャツだった。
借り物の501に足を通す。たーくんの体温が微かに残っているような、ずっしりとしたデニムの重みと独特の感触。 ウエストをベルトでぎゅっと絞ると、彼に後ろから抱きしめられているような、くすぐったい安心感に包まれた。
「似合ってるやん」
たーくんが笑いながら、キッチンに立つ。昨夜の適当な感じとは打って変わって、彼は棚から木製のミルを取り出した。
「ちょっと待ってな。美味いコーヒー淹れるからな」
ガリガリと、静かな部屋に豆を挽く規則正しい音が響く。
ワンルームに広がる香りは、とても深く香ばしい。丁寧にハンドドリップされた琥珀色の液体が、淡いグリーンのミルクガラス製のマグカップに注がれた。
私たちは、ベッドを椅子代わりにして、並んで座った。
私は、少しだけ甘えるように彼の肩に頭を預けてみる。挽きたてのコーヒーの香りと、ほんのりと温かい彼の体温。
「……たーくん。私、東京に来てから、ずっと一人で戦ってる気になってた」
「……俺もそやな……なんか余裕なかったわ」
東京の朝は、相変わらず冷たい空気に満ちている。
窓の向こうには、名前も知らない人たちが忙しなく行き交う無機質な街が広がっている。
けれど、このワンルームに流れる空気だけは、大阪のあの賑やかな路地裏と同じ、確かな熱を持っていた。
私は、この「たーくん」という人のことを、ほんの少しだけ理解できた気がした。




