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僕はこうしてつくられた  作者: rion_so_so


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エピソード1 ぷー(前編)

それは、あまりに唐突な訪れだった。

ある春の夕暮れ、西日が店内のハンガーラックを長く、オレンジ色に染め上げていた時間。春風と共に、彼は現れた。迷いのない足取りで。


私は東京の郊外、多摩の静かな住宅街で生まれ育った。短大を卒業してからは、大きな志があるわけでもなく、ただ流されるように就職活動を終えた。タカさんと同じアパレル会社に東京採用として入社し、今は新宿駅に直結したファッションビル内のレディースカジュアルの店頭で販売員として働いている。毎日、同じような服を畳み、同じような挨拶を繰り返す。私の人生は、そんな平坦な毎日の積み重ねだと思っていた。


「高木さん?だよね。神戸から来ましたタカです。今日からここを担当させてもらうことになった。よろしくな」


彼が挨拶に来た瞬間、店内の空気の密度が明らかに変わった。社内ではすでに「最年少で東京支社に乗り込んできた、神戸本社の秘蔵っ子」として噂になっていたけれど、目の前に立つ彼は、私が想像していた「鼻持ちならないエリート」とはまるで違っていた。


ふと見ると、彼の着ているネイビーブレザーの袖口のボタンが、今にも取れそうに力なく揺れている。


「あ、ボタン……」


私が小さく声をかけると、彼はレジ横の備品棚を指さし、


「悪い、針と糸、ちょっと借りるで」


と言うなり、カウンターの隅でチクチクと縫い始めた。


「まー、アパレルの男やしな。これくらい自分でできんと、服に失礼やろ」


そう言って、少し照れくさそうに、でも誇らしげに笑う。その飾らない、指先にまで神経の通った仕草に、私は思わず目を奪われた。

彼は、それまで見てきたどの営業マンとも決定的に違っていた。隙のない三つ揃えのスーツで威圧するのではなく、履き込まれたチノパンに、仕立てのいいブレザー、そして絶妙な緩さのニットタイ。教科書通りのアイビースタイル。でも、それが単なる流行の模倣じゃないことは、ディテールを見ればすぐに分かった。

今の主流なら、紺のブレザーには「金のメタルボタン」が定番だ。けれど彼は、わざわざそれを、落ち着いた鈍色の「シルバー」に付け替えていた。


(わざわざ、全部付け替えてる……。流行に自分を合わせるんじゃなくて、自分の正解に服を合わせてるんだな)


これまでの担当営業には、売上表の数字だけを見て「もっと声出しを徹底しろ」と説教を垂れたり、現場の在庫状況を無視して無理な発注を押し付けたりする嫌な大人が多かった。けれど、自分の服を自分の手で直し、細部にまで静かなプライドを宿らせるこの人なら、もしかしたら信じてもいいのかもしれない。


「ここは支社からも近いし、またちょくちょく寄るわ。困ったことあったら何でも言うてや」


少しだけはにかんで、関西弁のイントネーションを残したままそう言った彼の笑顔は、東京のビル風を忘れさせるほど、不思議な温かさを帯びていた。



それから数週間後のこと。朝、目が覚めた時から心の奥に薄暗い霧が立ち込めているような気分だった。私の予感は、悪いときほどよく当たる。

ここ最近、お店の売上が目に見えて落ち込んでいた。什器の配置を変えてみても、マネキンのコーディネートを最新の雑誌通りに組んでみても、お客さんは素通りしていく。店内のBGMだけが虚しく響く時間が続き、スタッフ同士の会話もどこか刺々しくなっていた。追い打ちをかけるように、今日はタカさんが巡回に来る日だった。


(……やっぱり、売上のことで叱られるのかな。怖いな)


お昼前、春風とともにタカさんが現れた。その瞬間、沈んでいた店内の空気に少し緊張がはしる。


「お疲れ! 高木さん、今日はええ天気やな。休憩ランチ行こか」


眩しいほどの笑顔で誘われ、私は生きた心地がしないまま、連れられて近くの喫茶店へ入った。


向かい合って座っても、心臓の鼓動が耳の奥にまで響いてくる。タカさんは運ばれてきた大盛りのカレーを


「うまいな、ここ」


と言いながら頬張り、世間話をするばかりで、一向に本題に入ろうとしない。

耐えきれなくなった私は、自分から絞り出すように切り出した。


「タカさん……あの、売上、全然ダメで。本当に、すいません」


謝罪の言葉と共に俯く私に、彼はスプーンを置いて、真っ直ぐに私の目を見た。


「ん? なんで謝るん。何か理由があるはずやろ。高木さんは原因は何やと思う?」


責めるような口調ではなかった。むしろ、一緒に難しいパズルを解こうとしているような、純粋な好奇心に満ちた響き。私は戸惑いながら


「わからないんです……何をやっても響かなくて」


と、情けない答えを返した。すると、タカさんは残りのコーヒーを一気に飲み干し、事も無げにこう言った。


「そっか。一人で考えても煮詰まるだけや。じゃあ今日一日、俺も一緒に店立ってみるわ。一緒に原因さがそーぜ」


店に戻ると、タカさんはすぐに上着を脱ぎ、白シャツの袖を捲り上げた。


「この通路、あえて少し狭くして『溜まり』を作ろうか。お客さんが足を止める理由を作るんや」


「ディスプレイ、この一番地味なベージュのニットに、あえてこっちの派手なスカーフをラフに巻いてみて。隙を作るんや」


彼の指示は具体的で、そして驚くほど論理的だった。指示通りに動くと、死んでいた商品たちが、まるで息を吹き返したように活き活きと見えてきた。そして、店内の「気」が整った絶妙なタイミングで、一人、また一人とお客さんが吸い寄せられるように入ってきた。


「いらっしゃいませ!!」


タカさんの腹の底から響くような、明るい声。それはマニュアル通りの無機質な挨拶ではなく、心から目の前の人を歓迎しているのが伝わる響きだった。


「その色、お客さんの肌の色にめっちゃ合いますよ。ちょっと鏡合わせてみません?」


「デート用ですか?羨ましいなぁ!僕ならイチコロですね!笑笑」


強引な売り込みではなく、相手を主役にする魔法。その空気感にお客さんたちの表情がみるみる緩んでいく。気づけば私も他のスタッフ達も、その心地よいリズムに飲み込まれていた。


「いらっしゃいませ!」


自然と大きな声が出て、笑顔がこぼれる。売らなきゃという義務感ではなく、この空間をお客さんと一緒に楽しみたいという純粋な気持ち。販売の仕事が、こんなにも心が躍るものだったなんて、私は入社して初めて知った気がした。


入社一年目で全社表彰されたという伝説は、伊達じゃなかった。彼の背中を見ているだけで、接客の本質――それは技術ではなく、相手への敬意と自分自身の楽しさであること――を教わった気がした。結局、その日の予算は、夕方を待たずしてあっさりとクリアしてしまった。



閉店作業を終え、レジの締め作業をしていると、タカさんが


「今日はよう頑張ったな。ご褒美に、ご飯行かへん?」


と誘ってくれた。正直、少し迷った。

今まで本社から来た営業マンたちは、下心丸出しでご飯に誘い、当然のようにホテルまで連れ込もうとするような人ばかりだった。どうせ数年で東京からいなくなる「旅人」だと、私たち現地採用のスタッフを軽んじているのが透けて見えていた。でも、タカさんは何かが違う気がした。


「オレな、大阪の先輩から聞いてた店あんねん。ずっと行ってみたかったんや。付き合ってや」


タカさんのペースに乗せられ、夜の新宿の街を歩く。


「ほんま、人だらけやな。みんな、どこへ帰るんやろな…」


ぽつりと漏らした言葉に、彼の抱える一抹の孤独が見えた気がした。混雑した大ガード下の横断歩道で、彼はさりげなく私を人波からかばうように肩を引き寄せた。その手に嫌な感じは一切なく、ただ「守らなきゃ」という自然な優しさだけが伝わってきて、胸の奥が少しだけ熱くなった。


着いたのは、新宿の路地裏にひっそりと佇む老舗**『洋食アカシア』**。

もっと気取った高級店に行くのかと思っていたけれど、そこは古き良き東京の匂いがする、どこか懐かしい雰囲気の店だった。

運ばれてきたのは、名物のロールキャベツ。普通のコンソメスープ煮とは違い、たっぷりと白いクリームシチューがかかっている。


「これこれ、これが食べたかったんや」


タカさんが嬉しそうにスプーンを入れる。口に運ぶと、濃厚で、でもどこか素朴で優しい旨みが広がって、お腹の底から、そして今日一日張り詰めていた心の底から、ほっこり満たされていった。


食後のコーヒーを飲みながら、私は夢中で話した。自分の生い立ち、郊外での退屈な学生時代、将来へのぼんやりとした不安。

こんなに会社の人に色んなことを、それも自分の弱みまで話したのは、初めてだった。タカさんは時折「へぇー」「なるほどな」と相槌を打ちながら、面白そうに聞いてくれた。


「何か困ったり悩んだりしたら、いつでも言ってな。仕事以外も相談乗るで。俺もこっちに来て、実はまだ友達一人もおらんねん(笑)」


タカさんはそう笑って、私の手帳の隅にポケベルの番号をさらさらと書き込んだ。


「高木さんも、なんかな……今日から『ぷー』って呼ぶわ」


「ぷー? なんですかそれ、プーさんみたい(笑)」


「そう、ぷー! ほのぼのしてて、ええやん。なんか、ほっとする響きやろ?」


「…………もしかして…………高木ぷー…………」


「……………………ばれたか!笑笑」


夜、駅の改札で別れた後、一人で中央線に揺られながら思った。

今朝、家を出る時に感じたあの「嫌な予感」。

あれは、ただ売上を心配していただけじゃない。私の凪いでいた平坦な人生に、この「タカさん」という強烈な、でも温かい風が吹き込むことへの、本能的な恐怖と、それ以上の期待が混ざり合った予兆だったのか。


手帳に残された、少し右下がりのクセのある数字の羅列を見つめる。


私の新しい時間が、今、チクタクと確かな音を立てて動き始めた。








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