第三章:東京編 プロローグ
東京転勤の辞令を前に、オレの心は激しく揺れていた。
今回の異動は、社内でも約束された出世コース。東京で3年から5年実績を積めば、神戸本社への凱旋と役職が保証される。最年少での抜擢という千載一遇のチャンスを、無下にするわけにはいかなかった。
だが、代償はあまりに大きい。積み上げてきた仲間たちとの時間、そして何よりユカリとの別れ。独占欲の強い彼女と寂しがりやのオレ「遠距離恋愛」という選択肢は自分の性格上、現実的ではなかった。
今の生活のすべてを、オレは手放そうとしている。
かつて田舎から大阪へ出てきた頃、自分を支配していたのは凍えるような孤独だった。何度も折れそうになる心を支えてくれたのは、田舎者と揶揄することなく迎え入れてくれた最高の仲間たち。そして、電池が切れたように動けなくなった夜、いつも隣で甘えさせてくれた彼女たちだった。
「もし、東京へ行かなかったら……」
そんな弱音が頭をよぎることもある。だが、土壇場で逃げ出すなんて死んでも嫌だ。今日までオレは、精一杯の痩せ我慢と「かっこつけ」だけで生きてきたのだから。
愛車のランクルに荷物を積み込み、東名高速を走り抜けた。大阪神戸での色々な思い出が頭をよぎる。渋谷の高層ビル群の間を、ランクルの重厚なエンジン音が低く響く。
新居は、荒川を越えた先にある埼玉県川口市。都心にほど近く、巨大なランクルの駐車場を確保できる場所を選んだ結果だった。狭い駐車場に巨体をねじ込み、エンジンを切る。
「……場違いやな」
この車には、仲間と走った伊勢の砂浜や、信州の雪の匂いが染み付いている。大阪では自由の象徴だったこの車も、ここではただの不便な荷物のように思えた。
翌朝、勤務地の新宿・四谷へ向かう。慣れない通勤電車に揺られた。駅を降り、外堀通りを歩く。新宿の喧騒を背負いながらも、どこか凛とした冷たさを持つ四谷の街並みは、大阪とは違う高い「壁」を感じさせた。
勤務地である新宿・四谷のオフィスは、重厚な神戸本社とは対照的な、機能性だけを追求したようなスリムなビル。そこがオレの新しい戦場だった。
朝礼の時間がやってくる。
静まり返ったフロアの前に立ち、新任の挨拶をおこなった。
「本社から参りました。今日からこちらでお世話になります、……」
精一杯の標準語を混ぜ込み、硬い表情で頭を下げる。拍手の中に、品定めをするような冷ややかな熱が混じっているのを感じた。
その後、上司に連れられてあちこちのデスクへ挨拶に回った。紹介される顔ぶれは、実に多様だった。
「こっちは本社からの転勤組。まあ、君のライバルやな」
「こっちは現地採用の東京組。現場の叩き上げだ」
どこか距離を置いた、完成された笑顔。
本社直系のエリートたちは、オレの「最年少転勤」という肩書きを無機質なデータとして処理し、東京組は「地方から来た余所者」を観察するような目を向けてくる。
挨拶を終えて自分のデスクに座ると、どっと疲れが押し寄せた。
川口のマンションにいる時よりもずっと、自分が透明な箱に閉じ込められているような気がした。
やり場のない視線を逃がすように、ふと窓の外、外堀通りの向こう側を眺めた。
都会のビル群に切り取られた空は狭く、ひっきりなしに流れる車の列は、まるで行き先を急かされている自分自身の焦燥感のようだった。
夜、川口のワンルームに帰り着き、スーツを脱ぎ捨てる。
床に投げ出した荷物の脇で、ふと漏れた独り言が、味気ない壁に撥ね返って自分を撃った。
「……狭いな」
物理的な広さの問題じゃない。大阪のあの部屋には、いつだって「誰か」の体温が満ちていた。
扉を開ければ漂ってくるサーフボードのワックスの匂い。
ふと、窓ガラスに映る自分を見つめる。
俺は……あの頃から、何も変わっていないのか?
俺は……あの場所で、誰かの人生を変えられたのだろうか?
何もかもを捨てて手に入れたこの「出世コース」の先に、一体何が待っているというのか、、、




