エピソード12 美穂子(番外編)
春と夏の間。
湿度を含んだ風が夜の街を撫でる頃、私と真子はいつもの居酒屋のカウンターに並んでいた。
私たちは結構な確率でナンパされる。
お互い、自分がどう見えれば男が声をかけてくるか、その「隙」の作り方とか知ってるから。適当に話を合わせて、ご飯を奢ってもらう。でも、結局のところ、心に引っかかるような「いい男」にはなかなか出会えない。
真子とはバイト先で出会った。一応、私の方が少しだけ先輩。
けれど同い年ということもあって、会った瞬間に意気投合した。それからはずっと、こうして二人で遊び回っている。高校を卒業してからというもの、私たちの辞書に「退屈」という文字はなかった。
真子にも私にも、同年代の彼氏がいる。
でも、こうして夜の街に繰り出す時は、お互いに「いないこと」にしている。だって、明日はもっといい男に出会えるかもしれないから。笑笑。
「今日は誰も声かけてくれへんな」
真子がグラスを置いたまま、つまらなそうに店内を見渡す。
「そもそも、今日はみんな女連れやな。マジであかん」
「真子お金持ってる?」
「自分のくらいは」
「……」
私はリュックを膝の上に引き寄せて、財布を取り出し中身を数えてみた。……ちょっとヤバイ。給料日前、自分たちの分を払うだけで精一杯な残金に、真子と顔を見合わせて「どうしよ」と無言の会話を交わしていた、その時だった。
「お待たせしましたー」
突然、店員さんが私たちの目の前に、信じられないものを2つ置いた。
真っ白な、超大盛りのライス。
天高く積み上げられたそれは、まさに「マンガ盛り」そのものだった。
「あの……私ら、ライス頼んでないんですけど」
「しかもこれ、大盛り過ぎちゃう? 笑笑」
真子が思わず身を乗り出してツッコミを入れる。店員さんは下を向き、必死で笑いをこらえながら
「あちらの方からです」
と、少し離れたテーブルを指さした。
視線を向けると、そこには男3人と女1人のグループが座っていた。
男3人が一斉に立ち上がり、なぜかモデルみたいにお澄まし顔をキメて、声を揃えた。
「よかったらどうぞ」
「一緒にライス食べませんか?」
「おかずもありますよ」
……何これ。新手のナンパ? ライスでナンパなんて聞いたことない。
店内のお客さんたちも、この「マンガ盛り」の行方が気になっていたみたいで、一気に大爆笑が巻き起こった。
そのグループの女性――智代さんが、呆れたように笑いながら立ち上がった。
「ゴメンな、この子らアホの子やから! 笑笑。よかったら一緒に飲もう!」
智代さんのその一言で、私たちの緊張は一気に解けた。
真子も私も、こらえきれずに笑い出してしまう。
よく見れば、男の人たちはみんな日焼けしたイケメンだし、智代さんはハッとするくらい綺麗なお姉さん。私たちは誘われるまま、吸い込まれるように彼らのテーブルへと移動した。
「この子タカ! こっちがヤスで、ヒロ。で、わたしは智代。よろしくな!」
それが、たーくん、ヤス君、ヒロ君、智代さんとの出会いだった。
今まで私たちの周りにいた、スカした男たちとは全然違う種類の人たち。
仕事の話、遊びの話、どれもがスケールが大きくて、何より話が面白い。というか、面白すぎてお腹が痛いくらい笑い転げた。
いつもナンパしてくる男たちは、下心が丸見えでギラギラした感じの人ばかりだった。でも、この人たちは全然違う。遊びに慣れているけれど、どこかカラッとしていて、純粋に人生を楽しんでいる「カッコいいお兄さんとお姉さん」という感じだった。
「自分ら、いくつなん?」
「カワイイなぁ、名前は?」
「絶対サーファーやろ、その感じ」
「日焼けに茶髪やもんな。大学生?」
「来週、伊勢行く? 波でかいらしいで!」
みんなが代わる代わる、楽しそうに質問してくる。そのテンポの良さに引き込まれて、私と真子はすぐに打ち解けてしまった。
「また飯行こな、チビら」
「来週の伊勢、マジで来るか?」
「……でも私ら、車ないし」
私たちが少し困ったように言うと、たーくんが当たり前のように笑って答えた。
「じゃあ、迎えに行くわ」
楽しい時間はあっという間に過ぎて、お会計の時。私と真子は、空っぽになりかけの財布をおずおずと取り出した。けれど、それを見た彼らは一瞬で顔を見合わせ笑った。
「アホか! チビらに払わせられるか」
そう言って、たーくん、ヤス君、ヒロ君、そして智代さんの4人でスマートに割り勘を済ませてくれた。
「ほな、また来週な。チビ2人組!」
その日から、私と真子はグループの中で「チビ2人組」と呼ばれるようになった。
翌週、私は早速、伊勢の海へと連れて行ってもらった。もちろん真子も一緒。
青い空の下、ボードを抱えて海へ入っていくみんなの姿は、街で会った時よりもずっと輝いて見えた。
みんな、とにかく波乗りがうまい。
けれど、ずっと固まっているわけじゃない。ガツガツ波を追いかける時もあれば、疲れたら各自で浜に上がって休憩する。団体のようで、でも一人ひとりが自立して海を楽しんでいるその距離感が、すごく心地よかった。中でもヒロく君のライディングは圧巻で、素人の私が見ても「すごい……」と声が漏れるほどだった。
少し疲れて砂浜に上がってきた真子と温かい砂の上で並んで座る。
「……なんか、みんなおもろいな」
「かっこええしな。顔面はみんな合格やわ」
「ほんまそれ。たーくんは、なんか放っておけへんカワイイ系やな」
「ヒロ君は……なんていうか、ハンサムゴリラって感じ? 笑」
「わかる! ヤス君は、ちょっと品があるお坊ちゃま系やな」
波打ち際で笑い合う彼らを遠くに眺めながら、女子特有の品定めが始まる。
「なぁ、真子は誰狙いなん?」
「どやろ。みんなモテそうやし、うちらみたいなチビ、相手にされへんのちゃう?」
「それな……。さっきも横で聞いてたけど、仕事の話とか夢の話とか、みんな熱いよな」
「ウチの彼氏とは全然ちゃうわ。……乗り換えたい」
「ウチも。でも、なんかこのグループ、ええ感じよな」
私たちがそんな密談をしていると、沖から智代さんが上がってきた。
濡れた髪をかき上げる姿が、同性から見てもため息が出るほどカッコいい。
「お疲れ! 今日、波けっこうハードやなぁ」
「そ〜ですね! ウチらにはちょいハードル高いです」
「そんなことないで! けっこう乗れてたやん、二人とも」
智代さんはサバサバと笑いながら、私たちの隣に腰を下ろした。
それから、みんなの過去の失敗談や、これまでの旅のエピソードをたくさん聞かせてもらった。どれもこれも破天荒で、お腹が痛くなるくらい面白い。
「……智代さんは、この中の誰の彼女なんですか?」
私が思い切って聞くと、智代さんは「ないない!」と手を振って笑い飛ばした。
「腐れ縁やな。ヒロはきっつい彼女おるし、ヤスは今おるか知らんなぁ? タカは……今は彼女おらんけど、あいつは厄介やな」
「厄介?」
「そのうちわかるわ」
智代さんは、少しだけ意味深に、でも小さく優しく笑った。
「でも、みんな友達としては最高やで。おもろいし、頼りなるし、優しいしな」
智代さんの言葉を聞きながら、私はこの「少し大人の世界」がたまらなく羨ましかった。
ただ楽しいだけじゃない。自由で、優しくて、、でもきっと大人には大人なりの色んな事情や、割り切れない何かがあるんだろうな……。
寄せては返す波の音を聞きながら、私は自分たちが一歩、新しい世界に足を踏み入れたことを実感していた。
真子は、やりたいことを見つけて専門学校に通っている。
それに比べて、私は「なんとなく楽しければいいかな」って、その日暮らしで生きている。
バイト先は、ギャル服のセレクトショップ。
たーくんたちが働いてる会社みたいな背伸びしないと買えないブランド服じゃない。あちこちから安く仕入れてくる、派手な服が並ぶ小さなお店。いつもそこで服を買っていたから、募集の貼り紙を見たときに「まあ、ここでいいか」って応募した。ただ、それだけ。
周りからはよく言われる。
「お前はバイトやから気楽でええな」とか、「責任なくていいよな」とか。
(……ウチだって、がんばりたいのに)
そう思うけれど、じゃあ具体的にどうすればいいのか、何を頑張ればいいのか、自分でもさっぱりわからない。出口のない迷路をずっと歩いているような、ふわふわした落ち着かない毎日。
でも、たーくんや智代さんたちと付き合い出してから、私の中に新しい「色」が混じり始めた。
海で見せる、真剣な横顔。
仕事の話をするときの、熱っぽくて少し難しい言葉。
遊ぶときは子供みたいに全力なのに、私たちのことを守ってくれるときに見せる「強さ」。
「ウチも……いつかはこんな大人になりたいな」
ある秋の日、真子が「バイトを辞める」と言い出した。
専門学校のプログラムで、来年から半年以上も海外へ行くのだという。
正直、ショックだった。あんなにいい加減に生きていたし、一時は「学校なんて辞める」とまで言っていたのに。でも、私には分かっていた。真子を変えたのは、間違いなくたーくんたちとの出会いだ。あの自由で、でもどこか地に足のついた大人たちの背中を見て、彼女の中で何かが弾けたんだろう。
親友が前を向く姿を見て、私の中には焦りと、得体の知れないイライラが渦巻いていた。
そんな時に限って、同い年の彼氏から呼び出しの電話がかかってくる。
悪い奴じゃない。でも、今の私には彼がひどく幼く見えた。会えば、とりあえず体を求めてくる。まあ、だいたいの男はそうだけど、本当にそれだけ。
将来のこと、自分の彼氏のこと、そして家族のこと……。
考え出すと、消えてしまいたいくらいに落ち込んで、暗い部屋で涙が止まらなくなる。最近、心がずっと不安定で、「ウチ、大丈夫かな」って怖くなる。
迷ったけれど、気づけば私は自室の電話を引き寄せ、たーくんのポケベルを鳴らしていた。
いちばん話を聞いてくれそうな気がしたから。……ほんの少しの下心も、なかったとは言えない。
暗い部屋で、電話が鳴るのを待つ。
数分後、静寂を破ってベルが鳴り響いた。
『美穂子? どした? 急ぎか?』
受話器の向こうのタカさんの声は、仕事中なのか、少し忙しそうなトーンだった。
「……たーくん、忙しそうやな。なんでもない、ええわ。またな」
拒絶されるのが怖くて、私は逃げるように電話を切った。
けれど、すぐにまたベルが鳴り響く。
『勝手に切んなや』
すぐにかかってきたタカさんの声は、さっきより少し低くて、落ち着いていた。
『どした? 何かあったんか?』
「……何もない」
『……わかった。今どこや?』
「……家」
『今から出る。梅田まで出てこれるか?』
「……うん、行ける」
『ちょい時間くれ。すぐ行くから。そこでいい子で待っとけよ』
「……うん」
電話を切って、私は慌てて着替え始めた。
「いい子で待っとけよ」
そのぶっきらぼうな優しさが、冷え切った心にじわりと染み込んでいく。
鏡の中の私は、まだ泣きはらした目をしている。
どこへ進めばいいのか分からない。
何になればいいのかも分からない。
梅田の夜風に吹かれて1時間、、、
雑踏の向こうから、仕事帰りのスーツ姿で電車から降りてきたたーくんが見えた瞬間、なんだか堰を切ったように涙が溢れてきた。
たーくんは私の涙に慌てることも、理由を問い詰めることもしなかった。
「とりあえず、メシ行こか」
何事もなかったかのように、そう言って歩き出す。私はただ、黙ってその後ろをついて行った。
店に入ってからのことは、あまり覚えていない。たーくんも何も聞いてこない。
ただ静かに時間が流れて、店を出たあと、彼はふと思い出したように言った。
「先輩がバー開いてん」
連れて行かれたのは**【さっさんのバー】**。
「さっさん、ご無沙汰です」
「おー、タカ! 久しぶりやな。奥の席、空いてるで」
案内されたのは、隣同士で座るタイプの半個室。
触れそうな距離に、少しだけドキッとした。
「ほんで……何かあったか?」
たーくんの、低くて優しい声。
その一言で、私は溜め込んでいたものをすべて吐き出した。
彼氏とのこと、中途半端なバイトのこと、親のこと、そして将来へのどうしようもない不安。
いつの間にかたーくんの腕にしがみついていた。彼は「ウン、ウン」って、私の支離滅裂な話を最後まで丁寧に聞いてくれた。私は最後には泣きじゃくっていたけれど、彼は何一つ否定しなかった。
「さっさん! ごちそうさまでした」
「おー、また来てな。彼女もな! 笑」
「はい!」
外に出ると、憑き物が落ちたみたいに心がスッキリしていた。
「じゃあ、帰ろか」
「……いやや」
「まだ飲み足りんの?」
「今日は帰らん。たーくんと一緒がええ」
「んー……お前、やんぞ」
「ええよ」
「…………」
たーくんは困ったような顔をしていたけれど、結局タクシーを拾って彼の部屋に向かった。
部屋に入ると、そこはサーフボードやスノーボード、ウエットスーツ、マウンテンバイク、、ギッシリ詰まった、まさに「たーくんの秘密基地」だった。
「ねぇ……たーくん」
少しだけ大胆に、私から迫ってみた。
でも、彼は私の肩を優しく押し返した。
「お前、さっき彼の話したばかりやろ」
結局、相手にしてくれなかった。
でも、そのままギュッとして朝まで一緒に寝てくれた。
私の頭を大きな手で撫でてくれているうちに、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
翌朝、まどろみの中でたーくんが笑いながら言った。
「ヤバかったわ。オレ、正直我慢の限界やった。カチンコチン笑笑」
「あー、もう一押しやったな」
なんて、私は布団の中で笑ってたけれど、でも、たーくんが私を「一時の逃げ道」にしなかったその誠実さが、何よりもうれしかった。
それからの私は、自分でも驚くほど迷いがなかった。
きちんと履歴書を書き直し、いつものバイト先へ持っていった。
店長は、私の顔を見るなり「お、やる気になったな!」と笑って、すぐに社員として採用してくれた。
最高の冬は過ぎ、春が来た。
そしてまた次の春、たーくんは東京へと旅立っていった。
私は今、社員として毎日元気に働いている。
あの日、たーくんの秘密基地で、誰よりも優しく私を変えてくれた、たーくんとの夜のこと。
私は絶対、忘れないよ。




