エピソード11 ユカリ(後編)
付き合ってるんだから、いつまでも「タカさん」じゃなくていいって言われて、少し照れくさかったけど、思い切って呼び方を変えてみた。
「ターくん」
そう呼ぶたびに、彼との距離が少しだけ縮まるような気がして、胸の奥がくすぐったくなる。
ターくんは、思っていたよりもずっと真面目な人だった。
最初は、ランクルでどこへ連れて行かれるんだろうって、心臓の音が聞こえるくらいドキドキしてた。でも、慣れてくると、彼はごく普通の、真っ直ぐで真面目な男の人なんだと分かった。
仕事の話をする時は大人っぽい顔をするのに、ふとした瞬間に少年のように笑う。そのギャップが、私をどんどん夢中にさせた。
ターくんは、私をたくさんの友達に紹介してくれた。
みんなターくんと同じ匂いのする人たち。日焼けした肌、自由な空気、そして少しだけ危うい大人の香り。
そんな輪の中にいると、まだ大学生の私も、なんだか少しだけ背伸びをした「大人の女」になれたような気がして、それが誇らしかった。
夏には、海へ連れて行ってもらった。
ターくん、ヒロくん、ヤスくん。そして、ガンちゃんという、溜息が出るほど綺麗なお姉さん。
みんな波に乗るのが当たり前みたいに、ボードを抱えて海へ入っていく。
私は泳げないから、ビーチでのんびり寝ていた。
持ってきていた双眼鏡を覗くと、遠くの波間にみんなの姿が見える。
中でもガンちゃんは、男性陣に負けないくらい力強く波を乗りこなしていて、本当にカッコよかった。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
浜に戻ってきたみんなは、私にたくさん話しかけてくれた。
「ユカリちゃん、退屈してへん?」
「タカのやつ、ちゃんと面倒見てるか?」
みんな優しくて、ターくんの大切な場所を分けてもらったみたいで、すごく嬉しかった。
でも、不思議なことがひとつ。
あんなにカッコよかったガンちゃんが、翌日からなぜか「マンちゃん」という呼び名に変わっていた。
「なんでマンちゃん?」
不思議に思って聞いてみたけど、ターくんたちは顔を見合わせて「あはは!」と笑うだけ。
大人の世界には、私にはまだ分からない秘密の合言葉があるみたい。
でも、そんなことどうでもいいくらい、私は今の時間が幸せだった。
ただ、この眩しい季節がずっと続いてほしい。
門限の23時が近づくたびに、時計の針を止めてしまいたいと、そればかりを願っていた。
私の父親は、とても厳しい人だ。
学生の間はお泊まり禁止。門限は夜の11時。
もちろん、その約束を何度も破ったことはある。でも、父は決して怒鳴ったり暴力を振るったりはしない。ただ、ひどく悲しい顔をして「……次は気をつけなさい」と静かに言うだけ。それが、怒られるよりもずっと胸に刺さる。余計に父を裏切れない気持ちになってしまう。
でも、いつも母と妹のメグだけは私の味方だった。
一度、ターくんが車で送ってくれたとき、「お茶飲んでいって」と強引に誘って家にあげたことがある。そのときは父が不在だったけれど、母もメグも、ターくんのことを「すごく優しくていい人だね」って気に入ってくれた。ターくんはメグのこともすごく大事にしてくれた。
後日、そのことを父に話すと、父はただ一言「……これからは、男の人を安易に家にあげるのはやめてくれ」とだけ言った。
私はそのことを不満げに、ターくんに伝えた。
するとそれから、ターくんは「絶対」に門限までに私を家へ送り届けるようになった。
「門限、遅れるぞ。行こう」
二人の時間がどんなに幸せでも、ターくんは魔法を解くみたいにそう言う。
私のことを大事に思って、私の家族との約束を守ろうとしてくれているのは痛いほどわかる。でも、私はそれが不満で仕方がなかった。
二人でベッドの中でまどろんでいても、みんなで賑やかにご飯を食べていても、カラオケで一番盛り上がっている最中でも。ターくんは「門限や」と言って、無理やり私を連れ出す。
「いいよ、お父さんに叱られても。私、もっと一緒にいたい」
そう言っても、ターくんは困ったように笑って、私の頭をポンと叩くだけ。
「あかんよ。大事な娘さんを預かってるんやから」
ターくんの優しさが、時々、冷たい壁のように感じることがある。
私は父に嫌われてもいい。わがままな娘だと思われてもいい。ただ、この温もりの中に朝までいたいだけなのに。
ランクルの助手席で、遠ざかっていく夜の街の明かりを見ながら、私はいつも泣きそうな気持ちをこらえていた。私を「正しい場所」へ帰そうとするターくんの真面目さが、今の私には、何よりも寂しかった。
10月。ようやく、私の将来が決まった。
内定をもらったのは、大阪の本町にある雑貨の輸入商社。大きな会社ではないけれど、世界中から集められた可愛いものに囲まれて働けるのが、何よりもうれしかった。
(いつか私も、海外で買い付けとか行けるようになるんかな……)
夢がどんどん膨らんでいく。
来年の春からは、私も「学生」という肩書きを卒業する。23時の門限からも解放される。そうなれば、ターくんや昌さん、あの自由で眩しい大人たちの世界に、少しは追いつけるのかな。そんな期待で胸がいっぱいになった。
嬉しくて、誰かに報告したくて。
私はターくんに連絡するより先に、昌さんの店へと向かっていた。
店に入ってキョロキョロしていると、私が見つけるよりも先に、レジカウンターの奥から聞き慣れた声が飛んできた。
「お、ユカリちゃんやん。元気?」
昌さんは相変わらず、少し気だるそうで、でも全部お見通しみたいな顔をして笑っている。
「昌さーん! 報告しに来ました」
「報告? ……内定出た? それとも、タカさんと別れたん? 笑」
冗談めかして笑う昌さんに、私は慌てて手を振った。
「別れてませんよ、もう! 笑」
「じゃあ、就職決まったんやな。おめでとう」
さすが昌さん、お見通しだ。
自分のことのように喜んでくれるその優しさが、なんだか誇らしかった。
「お祝い、行こか?」
「はいっ!」
元気よく返事をした私の頭の中には、社会人になった自分が、ターくんと朝まで一緒に過ごしている幸せなイメージが浮かんでいた。
阪急ビルの29階にある『鶴橋風月』老舗のお好み焼き。
目の前に広がる夜景と、店員さんの華麗なコテさばきに見惚れているうちに、お祝いの乾杯が始まった。
「内定おめでとう! これでもうすぐ社会人やね」
「ありがとうございます。やっと決まりました……!」
昌さんは、いつも通り自然体で私の話を引き出してくれる。
美味しいお好み焼きを頬張りながら、私は堰を切ったように、これまで誰にも言えなかった胸の内を吐き出した。
23時の門限が苦しいこと。私を家に戻した後、ターくんはそのままどこかへ遊びに行っているんじゃないかという不安。そして、ターくんとの、、、Hのこと。
「……私、経験ないから。ターくん、本当は満足してないんじゃないかって、怖くなるんです」
「ユカリちゃん自身は、満足してるん?」
昌さんにストレートに聞かれて、私は顔が熱くなるのを感じた。
「……はい。びっくりするくらい」
「じゃあ大丈夫だよ。あいつには伝わってるって」
昌さんは笑いながら、でも真剣に答えてくれた。
彼女によれば、ターくんは確かに昔は派手に遊んでいたけれど、彼女に対しては驚くほど誠実で真面目な人なのだという。「彼女がいない時は、まあ、凄かったらしい、、けど笑」と昌さんは悪戯っぽく笑っていたけれど。
でも、一番胸に刺さったのは、昌さんが言った「タカさんは、弱みを見せない人」という言葉だった。
「私にも、弱みは見せへんよ。甘えたりもせぇへんし、相談もしない。そういう人やねん」
その言葉を聞いて、私はひどく自分が幼く思えてしまった。
ターくんは私に心配をかけないように、一人で全部抱えて、私を「正しい場所」へ帰そうとしてくれている。なのに、私はそんな昌さんの余裕にすら嫉妬してしまうのだ。
「……私、自分が嫌になります。余裕がなくて、嫉妬ばっかりして。……実は、昌さんにさえ嫉妬したことあるんです。ターくんと仲良しだから」
言い終えて、自己嫌悪で下を向く私に、昌さんは否定もせず、ただ優しく相槌を打ってくれた。
来春、社会人になれば、すべてが解決するはず。
門限も、この不安も、少しずつ消えていくはず。
そう信じて疑わなかった。
29階の窓の外に広がる、キラキラした大阪の街明かり。
私はただ、昌さんの前で自分の未熟さを曝け出していた。
12月。それは、あまりに唐突にやってきた。
凍てつくような透明な空気の中に、細く鋭い三日月が浮かぶ、星の綺麗な夜だった。
もう寝ようと部屋の電気を消そうとしたその時。
静まり返った団地内に、短くクラクションが2回響いた。
(……えっ、ターくん?まさかな?)
窓を開けて身を乗り出すと、オレンジ色の街灯の下に、あの大きなランクルの影が見えた。私の部屋は3階。見上げているターくんと目が合う。
「遅くにごめん。ちょっと話せる?」
約束もなしに、いきなりやってきた彼。胸の奥がざわついて、心臓が嫌なリズムを刻み始める。私は部屋着の上に慌ててダウンを羽織り、家族に気づかれないよう足音を殺して階段を駆け降りた。
助手席に乗り込むと、車内はいつものように暖房が効いて暖かかった。けれど、ハンドルを握るターくんの横顔は、いつもの彼とは別人のように強張っている。
「大事な話、あんねん……」
(やめて。お願いだから、これ以上何も言わないで)
心の中で叫んでも、言葉は残酷に形を成してこぼれ落ちた。
「別れよ」
「なんで? 私、何か悪いことした……?何で?」
声が震える。必死で理由を探そうとする私に、ターくんは首を振った。
「ユカリのせいちゃう。俺の問題やねん。……来春から、東京への転勤が決まってん」
言葉を失った。この時代、会社からの辞令は絶対だ。断れば今の場所にはいられない。
「……私も、東京行く。私も一緒に行くから!」
「何言うてんねん。やっと見つけた理想の会社、内定もらったばっかりやろ。それを捨ててまで来るなんて、絶対あかん」
「でも……!」
言い返そうとして、彼の顔を見た。
強くて自由で、いつも余裕たっぷりだったはずのターくんが、泣いていた。
声を殺し、大粒の涙を流しながら私を見つめるその瞳を見て、私は、彼がどれほどの覚悟でこの言葉をぶつけてきたのかを悟ってしまった。
もう、何も言えなかった。
ただ、静まり返った車内で二人、流れる涙を止めることができなかった。
ランクルのインパネにあるデジタル時計の「緑色の光」が、暗い車内で泣いている二人の顔をぼんやり照らしている
【0時31分】
あれほど厳格に守らされていた門限は、とっくに過ぎていた。
皮肉なことに、初めて二人で門限を越えた夜が、二人の最後の日になった。
「これメグにあげといて。約束してたから」
最後にメグが欲しがってた赤いチェックのウールのアウトドアジャケットを私にわたした。
春が来た。
私は予定通り社会人としての第一歩を踏み出した。
あの日以来、ターくんとは一度も連絡をとっていない。一度離れてしまえば、声を聞く手段さえ簡単には見つからない時代。彼のいない大阪の街は、どこか色が欠けているみたいに見える。
スーツの窮屈さにも、ようやく慣れてきた4月の終わり。
私は仕事帰りに、大阪・本町の喧騒を抜けて昌さんと待ち合わせた。
あの日――あの凍えるような三日月の下、ランクルの助手席で告げられた突然の別れ。
携帯電話なんてない時代。一度離れてしまえば、もう彼の気配を辿る術はない。夜、ふとした瞬間に受話器を握りしめても、かけるべき番号さえ分からないまま、春はやってきた。
「ユカリちゃん、こっちこっち!」
暖簾をくぐると、奥の座敷から昌さんが手を振っていた。
以前と変わらない、少し気だるげで、でも包み込むような優しい笑顔。
「昌さん、お久しぶりです!」
「お疲れさま。新社会人はどう?仕事、毎日大変やろ」
キンキンに冷えたビールを注文し、まずは乾杯。
慣れない伝票整理や、輸入雑貨の検品の話。私は堰を切ったように話し続けた。でも、居酒屋の賑やかな喧騒の隙間に、どうしても胸の奥に溜まっていた名前がこぼれ落ちる。
「……昌さん。ターくんのこと、何か知ってますか?」
私の問いに、昌さんはジョッキを置き、少しだけ遠くを見るような目をした。
「……東京、行ったで。先月末に荷物まとめて、、、あのランクルで、、」
やっぱり、本当に行ったんだ。
分かっていたことなのに、誰かの口から「事実」として突きつけられると、改めて呼吸が苦しくなる。
「……そうですか」
「最後、泣いてたって言ってたやろ、あいつ。そんなの私も見たことないわ」
「……」
「あいつな、自分でも言うてたわ。ユカリちゃんには、ちゃんとした社会人になってほしかったんやって。自分が原因で、せっかく決まった内定を棒に振るようなこと、絶対させたくなかったんやろうな」
昌さんの言葉が、じわりと私の中に染み込んでいく。
23時の門限。私を必ず家に戻そうとした、あの頑ななまでの「正しさ」。
それは私への遠慮でも、冷たさでもなかった。
彼は、私が大切にしている世界を、私以上に守ろうとしてくれていたのかもしれない。
「……私、もっと一緒にいたかった。お父さんに怒られても、内定を辞めてでも。でも、ターくんはそれを許してくれなかった」
「それがタカさんの『誠実さ』やったんちゃう。自分でも、余裕なかったと思うで。東京行くって決めて、ユカリちゃんを連れて行かれへん自分に、一番腹立ててたんちゃうかな」
居酒屋の窓の外には、残業を終えたサラリーマンたちが忙しそうに歩いている。
23時の門限はもうない。私は今、どこへでも行けるし、誰とでも朝まで過ごせる自由を手に入れた。
でも、その自由を一番分かち合いたかった人は、私の知らない街にいる。
「昌さん、もう一杯……いいですか?」
私は少しだけ背筋を伸ばして、おかわりを頼んだ。
もう泣かない。
ターくんが泣いてまで守ってくれた、私の「新しい生活」。いつか海外へ行く夢。
それを叶えることが、あの日、門限を過ぎたランクルの車内で交わした約束の代わりになるような気がした。
大人への階段を登りきった場所で、私は初めて「自由」の本当の寂しさを知った。
でも、それはきっと、誰もが通り過ぎる春の儀式なのかな、、、




