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僕はこうしてつくられた  作者: rion_so_so


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19/25

エピソード10 智代(後編)

12月。待ち望んでいたはずの冬が、とうに街を白く染める準備を終えてやってきた。


けれど、今の私にその景色を愛でる余裕なんて微塵もない。

仕事は年末に向けて加速し、分刻みのスケジュールと絶え間なく鳴る電話に、私の神経はすり減っていく一方だ。


(……しんど。もう、一歩も動かれへんわ)


平日は、ただ「職責」という鎧を纏って、ペンを走らせ機械的にタスクをこなす。

そしてようやく辿り着いた休日は、まるでコンセントを引き抜かれた電化製品のように、私の「電池」は完全に切れてしまう。


冬の低い日差しがカーテンの隙間から差し込んでも、重たい瞼を持ち上げる気力すら湧かない。

這い出すようにしてベッドから抜け出しても、行き先はソファの上。

冷えた空気の中でブランケットにくるまり、ただテレビの音をBGMにして、また微睡まどろみの中に落ちていく。



そんな忙しい12月の金曜日の夕暮れ、重たい空気の漂うオフィスに、内線電話のベルが鳴る。


『お疲れ、智代。……今日、夜空いてる?』


受話器から聞こえてきたのは、久しぶりに聞く、あの少し調子のいい懐かしい声。一瞬、止まっていた時計の針が動き出したような気がした。明日からは幸運にも2連休だ。電池切れ寸前だったけれど、今の私にはこの閉塞感を破る何かが必要なのかもしれない。


「……ええよ。ちょうど一段落したところやし」

『マジ? 良かった。今日車やから、下の駐車場で待ってるわ』


短いやり取りで電話を切ると、私は憑き物が落ちたように急いで残務を片付けた。数分前までの倦怠感が嘘のように、体が少しだけ軽い。コートを羽織り、吐く息を白く染めながら駐車場へと急いだ。


少し遅れて到着した私の目に飛び込んできたのは、見慣れたランクルの大きなシルエットと、その傍らに立つ二人の姿だった。


タカと、もう一人。


「あ、智代! お疲れな」


手を振ったのは、聡美サトミだった。私の親友であり、そしてタカの学生時代の元カノ。


「聡美?……」


「さっき、偶然あそこの出口でタカと会ったんよ! びっくりしたわー」


聡美は屈託のない笑顔でそう言った。タカも「ほんま偶然やねん。ほな、行こっか」と、相変わらずの調子で運転席のドアを開ける。


「智代、私助手席座ってもええ? ちょっと酔いやすいねん。智代はお疲れやろうから、後ろで広々と使ってや」


当たり前のように助手席に滑り込む聡美。親友としての気遣いなのは分かっている。悪気なんて微塵もないことも。

けれど、私が座りたかったはずのその場所が、今はユカリちゃんでもなく、元カノである親友によって埋まっていく。


「……あぁ、ええよ。気にせんといて」


私は後部座席の重いドアを開け、一人で広いシートに腰を下ろした。

ランクルの高い視界は、後ろからだと少しだけ遠く、歪んで見える。


エンジンの振動が伝わってきて、夜の街が窓の外を流れ始めた。けれど、さっきまで少しだけ高揚していた気持ちはどこかへ消え、代わりに仕事の疲れが鉛のようにどっと押し寄せてきた。


(……私、何しに来たんやろ)


楽しそうに昔話を始めた二人の背中を眺めながら、私はただ、暗い車内で深くシートに身を沈めた。切れたはずの電池は、もう二度と充電されないような気がして、私は窓の外に流れる街灯をただぼんやりと見つめていた。



三宮の少し路地に入ったイタリアン。

タカと親友。しかもタカの元カノ。そんな微妙な組み合わせの二人を前にしても、パスタの味は案外悪くなかった。そして学生時代の戻ったみたいで楽しい。話題は尽きない。あのころの馬鹿げた失敗談や、今の仕事の愚痴。


けれど、笑い声が響くたびに、私の心の電池は着実に減っていくのを感じていた。

店を出て、夜の冷たい空気にさらされた時、聡美が時計を見て言った。


「あ、ごめん! そろそろ彼と待ち合わせの時間やわ。私、行くね」


「おう。またな、」


「智代、今日はありがと! またゆっくり話しょ!」


嵐のように聡美が去っていき、残されたのは私とタカの二人だけ。

とりあえず、駐車場に停めたランクルの車内へと戻る。助手席に座り、ドアを閉めた瞬間に訪れる密室の静寂が、今の私には少しだけ重い。


「……あのな、智代。会社の出口で偶然聡美と会ってな。少し話してたら『私も行く』って言い出して……」


エンジンをかける前に、タカがポツリと言い訳を始めた。

私は助手席に深く体を沈めたまま、鼻で笑った。


「別にええよ。何の言い訳? 笑」


「……いや、なんか……ほんまは、智代と二人でたくさん話したいことあってん」


「あらあら? また甘えん坊かな?」


いつもの調子で揶揄ってみるけれど、タカの顔は笑っていない。

ハンドルを握ったまま前を見つめ、妙に力が入っている。


「そんなんじゃないけど……」


「……ユカリちゃんのこと?」


私がその名前を出した瞬間、タカが弾かれたように私を見た。


「? なんでユカリ知ってるん?」


「こないだ昌とご飯食べたし。筒抜けや」


「……ああー……そうか」


タカは観念したように、小さく溜息をついた。

その「ああー」という響きの中に、今の彼が抱えている何かが透けて見える気がした。けれど、今の私にはそれを丁寧に紐解いてあげるほどのエネルギーは残っていない。


「なぁ、私、超疲れてるんやけど。どうするん? 帰る?」


「んー……」


タカの歯切れの悪い生返事に、私は少しだけイラついた。

仕事の疲れ、後部座席で感じたあの孤独感、そして今更ながらに突きつけられる「タカの新しい生活」の気配。すべてが混ざり合って、投げやりな言葉が口をつく。


「あー、もう面倒くさいなあ。どこでもいいから、どうするん?」


「ホンマに絶対どこでも? 後悔せぇ-へん?」


「どこへでもどーぞ。お任せするわ」


私が目を閉じてそう言うと、タカは短く「わかった」とだけ答え、キーを回した。

重厚なエンジンの音が静かな駐車場に響き、ランクルがゆっくりと動き出す。


夜の神戸、オレンジ色の街灯が流れていく。

行き先を聞く気力もなかった。ただ、この揺れが心地よくて、私は意識が遠のくのを静かに待っていた。



車が走り出すと、車内にはしばらくの間、重い沈黙が流れた。

窓の外を流れるオレンジ色の街灯が、規則正しくタカの横顔を照らしては消えていく。


(……あぁ、こいつも電池切れやな)


ハンドルを握るタカからも、隠しきれない疲労が滲み出ている。

これは、長い話になりそうだ。

ふと気づくと、ランクルは一般道を外れ、高速道路の入り口へと吸い込まれていった。行き先は告げられないまま。けれど、明日から2連休だと思えば「まぁ、いいか」という投げやりな安心感が勝った。


「……ユカリのことなんやけどさ」


タカが少しずつ、絞り出すように話し始めた。

始まりは、ただ「ほっとけない」と思ったこと。純粋で、どこか危うい彼女を「守ってやりたい」と、柄にもなく騎士道精神のようなものが芽生えたのだという。


けれど、現実は想像以上に窮屈だった。


「あいつ、親がめちゃくちゃ厳しくてさ。門限、23時なんよ」

「23時? 大学生やのに?」

「そう。だから、泊まりなんて絶対無理。この夏、何回か海にも行ったけど、全部日帰り。23時までには必ず家に戻さなあかん」


自由を愛し、風の向くままに車を走らせてきたタカにとって、その「23時」という数字がどれほどの重石になっているかは、想像に難くなかった。親との約束を健気に守ろうとするユカリ。それに応えようとして、結局、常に時計を気にしながらハンドルを握るタカ。ユカリを大事にしようと無理して奮闘してるのがわかる。


「おまけに、めちゃくちゃ焼きもち焼かれるし。……あいつにとって、俺が初めて付き合う男やからさ。気持ちは分からんでもないけど……正直、気を使いすぎて……ちょっとな」


タカの口から漏れたのは、若すぎる恋ゆえの、重たい「純粋さ」への嘆きだった。

ユカリは来春から社会人になる。就職も決まり、そうなれば門限もなくなるとタカは言う。来年の春になれば、自由になれる。今はそのための「我慢」の時期なのかなと。


なるほどな、と思った。

真っ直ぐで、自分だけを見てくれる「正解」の女の子。

タカは、そんなユカリちゃんを愛そうとして、自分自身の「自由」という武器を少しずつ削り取っているように見えた。


「……そんなこと、最初から分かってたんちゃうん?」


私が半分呆れ、半分同情を込めてそう言うと、タカは力なく笑った。


「……なんとなく分かってたんやけどな。……わかってたつもりやった……」


暗い車内、高速道路の継ぎ目を越える振動だけが、コトンコトンと小気味よく響く。

タカの悩みは、あまりに健康的で、あまりに世俗的で……そして、今の私には少しだけ眩しすぎた。


「来春、か」


私は窓の外に目を向けた。

流れる景色は真っ暗で、どこへ向かっているのかも分からない。

けれど、ハンドルを握るタカの横顔を盗み見ながら、私は心のどこかで、彼が感じている「疲れ」を、少しだけ愛おしく感じている自分に気づいていた。



何時間経っただろう。窓の外を流れる景色はいつの間にか都会の喧騒を離れ、深い闇に包まれた山あいの風景へと変わっていた。車はひたすら北へ向けて走っている。


重い沈黙はもうそこにはなかった。気づけば、私は自分の将来について語っていた。


「……いつかは、スノボとかスキーとかのアウトドアウェアのデザインをやりたいと思ってるねん」


私の言葉に、タカは前を見つめたまま短く答えた。


「……じゃあ、海外やな。智代ならやれるやろ」


タカもまた、普段の彼からは想像もつかないような、弱音に近い本音を漏らし始めた。


「俺は、ほんまは販売促進とか企画の仕事がやりたいねん。でも現実は、ずっと数字に追われる営業や……。なんでなんかな」


人前では常に明るく、風のように振る舞うタカが見せた、初めてのネガティブな言葉。それが妙に新鮮で、私の胸の奥にすとんと落ちた。


車は中央自動車道を過ぎ、長野自動車道へと入っていた。

お互いのことはよく分かっているつもりだった。でも、こうして二人きりで「これから」のことを、誰にも見せない本音で話し合うのは、これが初めてなのかもしれない。


「……ところで、ここどこ? どこまで行くん?」


ふと我に返って尋ねると、ランクルは上越自動車道の妙高サービスエリアへと滑り込んだ。エンジンが止まると、急に静寂が車内を支配する。


「んー……結構走ったな。なんも考えんとなんとなく走ってたわ!」

「よし!長野やな長野行こ」


タカは大きく伸びをして、少し眠そうに、でも憑き物が落ちたようなスッキリした顔で私を見た。


「ここまで来たら、とりあえず朝ごはんは信州蕎麦やな」


徹夜のドライブ。体は悲鳴を上げているはずなのに、言いたいことを全部吐き出した彼の横顔は、どこか幼い子供のようにも見えた。


「やれやれ……。ほんまに、厄介な子やな」


私は呆れて笑いながら、助手席のドアを開けた。

ひんやりとした山の空気が、熱を持った体に心地いい。

東の空がゆっくりと白み始め、遠くの山脈の稜線が鋭く浮かび上がってくる。


もうすぐ、新しい冬の朝日が昇る。




松本インターを降りる頃には、街はすっかり朝の光に包まれていた。

徹夜で走り抜けた体は、心地よい疲労感を超えて、どこかふわふわと浮いているような感覚だ。


私たちはそのまま松本駅前へと向かった。


「……なぁ、智代。俺、金ないぞ」

「ほんまや。カードはあるけど、現金が心もとないわ」


私たちは二人とも、金曜日の仕事帰りの格好のままだ。財布の中身も心もとない。駅前の銀行のATMが開くのを待つ間、ランクルのシートを倒して、しばしの仮眠をとることにした。


狭い車内、隣で静かに寝息を立てるタカ。

窓の外を通る通勤客たちの足音を聞きながら、私たちは日常のすぐ隣にある「異世界」に迷い込んだような気分だった。


銀行が開くと同時に現金を下ろし、私たちはまず着替えを買いに行った。

カチッとしたスーツやオフィスカジュアルを脱ぎ捨て、お互いに服を選び合う。


「智代、それ似合うやん。いつもより柔らかい感じでええな」


「タカも、そのパーカーの方が『らしい』わ」


まるでお揃いの休日を過ごす恋人同士みたいなコーディネート。そんな「デートごっこ」が、柄にもなく楽しくて、さっきまでの仕事の疲れがどこかへ吹き飛んでいくのが分かった。


タカは相変わらず、誰とでもすぐに仲良くなる。

ショップのお姉さんから「地元の人が行く、本当に美味しいお蕎麦屋さん」を聞き出し、私たちは教えられたその老舗へと向かった。

そこは、どっしりとした構えの古い古民家だった。

太い梁、煤けた天井。静かな空間ですする信州蕎麦は、驚くほど香りが高くて、身体の隅までに染み渡るようだった。


「……なぁ、次どこ行こか」


蕎麦を堪能した後、タカがまたお店の人におすすめのスポットを尋ねた。

返ってきた答えは「白骨温泉」。


「えっ? ……泊まるん?」


タカが宿に電話予約を入れ始めたのを見て、私は思わず聞き返した。


「せっかくここまで来たんやし、一晩くらいゆっくりしようや。明日も休みやろ?」


一瞬、頭の中に大阪に残してきた日常や、彼氏のこと、そしてタカの「23時門限」の彼女のことがよぎった。けれど、タカの真っ直ぐな瞳に見つめられると、そんなことはどうでもよくなった。

今はただ、この「続き」が見たい。


「……そうやね。行こか、レッツゴー温泉やな」


辿り着いた白骨温泉は、深い山の中にひっそりと佇んでいた。

歴史を感じさせる木造の宿。乳白色の湯気が立ち上る露天風呂。

夕食に並んだ滋味豊かな郷土料理に舌鼓を打ち、私は一人、広々とした大浴場に身を沈めた。


(……去年は、あんなに大勢で大騒ぎしてたのにな)


去年の冬、昌ちゃんや真子、美穂子、そして仲間たちと賑やかに温泉に入ったことを思い出す。

あれから、たった一年。

なのに、何もかもが変わってしまった。

ユカリちゃんという新しい存在、昌ちゃんの変化、そして私の心境。

お湯に溶けていくような感覚の中で、私は「永遠に続くものなんて何もない」という冷徹な事実を、けれど不思議と穏やかな気持ちで受け止めていた。


お風呂から上がり、浴衣姿で部屋に戻ると、そこには二組の布団が隙間なく、ぴったりと寄り添うように敷かれていた。


「……なんやこれ。まるで新婚さんやな」


「ほんまやね」


タカが照れ隠しのように笑い、私も小さく笑った。


どちらからともなく、私たちはその一つの塊のような布団の中に潜り込んだ。

窓の外では、冬の夜風が木々を揺らしている。

けれど、この部屋の中だけは、外の世界とは切り離された、誰にも邪魔されない聖域だった。


言葉はもう、いらなかった。


これまでの数ヶ月、お互いに抱えていた閉塞感も、言い訳も、全部脱ぎ捨てるように。


私たちは、夜が明けるまで何度も、何度も愛し合った。


23時の門限も、仕事の責任も、複雑な人間関係も、すべてがこの乳白色の霧の向こうへ消えていった。


この夜、私たちは間違いなく、二人だけの世界の住人だった。



翌朝タカがポツリと言った。


「オレ東京行こうかな」






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