エピソード4 昌 (中編)レッツゴー雪山①
あの海の日から、少しだけ時間が経った。
正直に言うと、また誘われるのをどこかで待っていた。
「今度の休みも海行くけど、昌も来る?」
タカさんにそう言われたら、なんて返そう。
あんまり即答するのも変かな、少しだけ考えるふりをしてから頷こうかな。
仕事中、そんなことばかり考えてた。
でも、タカさんの答えは意外なものだった。
「夏は人が多いから行かへん。秋になったらまた行こか」
……拍子抜けした。
私にとっては、日常を全部忘れるくらい特別な一日だったのに。
彼らにとっては、海は「いつもの休日」でしかないんだ。
何も起きないまま、私はあっけなくいつもの日常に突き返された。
副店長としての毎日は、息つく暇もない。
フロアの売上、スタッフの顔色、時々入る面倒なクレーム。
私は「ちゃんと」やる。
ヒールの音を響かせて、背筋を伸ばして、誰よりも冷静に仕事を回す。
周りの年上のスタッフからも「昌さんは本当に頼りになるわ」なんて言われる。
でも。
ちゃんとやればやるほど、心のどこかが、少しずつ退屈に染まっていくのがわかった。
安定した彼氏。
こなしていく仕事。
約束された週末。
これまでの私は、この「凪」のような生活が一番いいと思っていた。
波風立たず、安全な場所で、綺麗に笑っていること。
それなのに、ふとした瞬間に、あの眩しいオレンジ色の夕焼けを思い出してしまう。
ボブ・マーリーの重いベース音と、潮風の匂い。
心から笑ってたあの時間。
あんなに騒がしくて、予測不能で、少しだけ寂しい場所。
あそこにいた時の自分の方が、今よりもずっと、ちゃんと呼吸をしていた気がする。
「……あーあ」
バックヤードの鏡の前で、自分のボブを整える。
鏡に映る私は、相変わらず「デキる副店長」の顔をしている。
でも、その奥にいる二十代の私は、どこか遠くを見つめたまま、ずっと退屈そうに唇を噛んでいた。
そんな時だった。
お直し上がりのスーツを受け取りに、ユカリちゃんがやってきた。
その後ろから、あの嵐みたいな声が聞こえたのは。
最近、ユカリちゃんとはたまに二人でご飯を食べるようになった。
もちろん、タカさんも含めた三人での食事も続いている。
その場に居合わせれば、嫌でも分かる。
ユカリちゃんは、タカさんに恋してる。
初めての、混じりけのない恋。
彼女の瞳は、いつも真っすぐにタカさんに吸い寄せられている。
話を聞く時の、あの熱い視線。タカさんが冗談を言うたびに、世界で一番面白いことみたいに顔をくしゃくしゃにして笑う、その無防備さ。
見ていると、なんとも言えない気分になる。
眩しくて、少しだけ胸が締め付けられる。「私も、あんな時あったな」って。
ただ誰かを好きでいることだけで、足元がふわふわと浮いてしまうような季節が、私にも確かにあったな。
そのせいだろうか。最近、彼といても楽しくない。
付き合って3年の彼は、決して悪い人じゃない。穏やかだし、私の仕事も尊重してくれる。でも、一緒にいても会話が全然広がらない。
「今日、どうやった?」「まあ、普通かな」
そうやって、落としどころの分かっている予定調和な会話を繰り返すたび、私は自分がどんどん「凪」になっていくのを感じる。平熱のまま、どこにも辿り着かない時間。
でも、タカさんといると、空気が動く。
彼が言葉を発するたびに、重力が変わるみたいに。予想もつかない方向に話が飛んで、笑って、時々ハッとさせられるような鋭い言葉が刺さる。そこにいるだけで、私の知らない私が引き出されるような、ざわざわした感覚。
私は大人になって、傷つかないための「安定」を手に入れたはずだった。でも、その安定が、どうしてこんなにも窮屈なんだろう。
ユカリちゃんの真っ直ぐな瞳の先にある「光」と、タカさんの放つ「風」。
そして、その光の輪から少しだけはみ出して、冷めたふりをしている私。
「昌さんも、そう思いますよね?」
ユカリちゃんに不意に話を振られて、私はハッとして我に返る。
「え……? ああ、そうやね。タカさんは昔からそうやもんね」
余裕のある「大人のお姉さん」の仮面を被って、私は少しだけ高くなった声で笑う。
でも、テーブルの下で握りしめた手の中には、さっきから何度も震えているポケベルがあった。
彼からの、何の変哲もない呼び出し。
ユカリちゃんの瞳にある「光」が、タカさんの「風」が、今はひどく眩しくて。
それと同時に、手のひらで震え続けるこの「重たい鎖」が、少しだけ、怖かった。
そして季節は冬になった。
タカさんの周りでは、当然のようにスノーボードの話が持ち上がった。
三泊四日。タカさんの友人たちや、そのまた友人たちも集まる大人数のツアー。
私も、タカさんから直接誘われた。
「昌も行こや。雪山で飲むビール、最高やで」
その話を彼にすると、案の定、烈火のごとく反対された。
「男もたくさんいるのに、三泊四日の泊まりで行く? 常識的に考えておかしいやろ」
彼の言うことは、いつだって正論だ。
「普通」の、そして「誠実」な恋人同士のルールに照らし合わせれば、そんな旅行、あり得ないのかもしれない。
あるかないかで言えば、たしかに「ない」のが正解なんだろう。
でも。
その正論を聞けば聞くほど、私は自分がどんどん透明になって、消えてしまいそうな感覚に陥った。
行きたい。タカさんの作るあの賑やかな空気の中で、私もただの「二十代の女の子」に戻って笑いたい。
迷っているうちに、ついに出発の日が来た。
外はもう、夕方。
集合時間は、もうとっくに過ぎている。
私はまだ、自分の部屋にいた。
結局、返事もできないまま時間が過ぎてしまった。
行きたい。でも、彼に言われた言葉が呪文みたいに頭から離れない。
「男もいるのに……」
「常識的に考えて……」
たしかに、彼は正しいのかもしれない。
でも、その「正しさ」に閉じ込められていると、本当に息が詰まりそうだった。
そのとき、腰につけたポケベルが、無機質な音を立てて震えた。
液晶に浮かんだのは、タカさんの番号。
胸が、一瞬で跳ねる。
「返事もしてない。叱られる」
私は急いで受話器を取り、震える手でかけ直した。
「どうすんの?」
受話器の向こうから聞こえたのは、いつもの軽い声。
私は少し黙ってから、絞り出すように言った。
「……行きたいけど、彼に止められて。ダメだって言われて……」
「昌は、行きたいんやろ?」
真っ直ぐに、そう聞かれた。
「……うん……」
少しの間。
受話器の向こうの喧騒が、少し遠くに聞こえる。
「ほな、迎え行くわ! 用意しとき」
プツッ、と電話が切れた。
え、どういう意味? 呆然として受話器を置く。
まさか、ね。いつもの冗談だと思った。
集合場所の三宮から私の家までは、車で1時間はかかる。今から私を迎えに来たらみんなに迷惑がかかる。物理的に無理がある。
そう思いながらも、私はなぜか、クローゼットから大きなバッグを引っ張り出していた。
しばらくして、家の前に一台の車が止まった。
「エスクード?タカさんの車じゃない?」
クラクションが2回鳴った。
急いで階段を駆け下り、外へ出る。
でも、そこにいたのはタカさんじゃなかった。
「おつかれー! 昌ちゃん、遅いでー!」
窓から顔を出して、にかっと笑ったのは、ヤス君だった。
「え、ヤス君……? なんで?」
「行くで昌ちゃん! レッツゴー雪山やでぇー(笑)」
一瞬、何が起きたのか分からなくて立ち尽くした。
ヤス君の後部座席には、知らない男女がもう二人乗っていて、車内はすでに笑い声とカセットテープの音楽でいっぱいだった。
タカさんは、来なかった。
でも、タカさんは、私を「迎え」に来させてくれた。
「ほら、早く乗り!」
ヤス君に急かされて、私は重いバッグをトランクに放り込み、車に飛び乗った。
車が走り出した。わたしの家が遠ざかっていく。
そこには、私が守るべきだった「正しさ」があったはずなのに。
今は、目の前に広がる夜道の先に、何が待っているのか知りたくて仕方なかった。
初対面なのは後部座席の二人だけで、運転席にはあの海の日以来のヤス君がいた。
少しだけ緊張していたけれど、
「昌ちゃん、お待たせ!タカから指令を受けお迎えにあがりました。間に合ってよかったな」
「あ……はい。お久しぶりです。ホントにありがとう」
それだけで、固まっていた空気がふっと柔らかくなる。
車が走り出して五分。私はもう、彼らの話に混じって笑っていた。
後部座席の二人は初対面のはずなのに、そこには壁なんて一枚もなかった。
(この人たち、どういう関係なんだろう……)
不思議で、でも、たまらなく面白い。
ぎゅうぎゅう詰めの車内。助手席に座る私のすぐ横で、ヤス君がダッシュボードから無線機を手に取った。
「タカー! 忘れ物拾ったでー!」
その言い方に、車内が爆笑に包まれる。
ザザッというノイズの向こうから、聞き慣れたあの声が返ってきた。
「は? なんや、忘れ物って?」
「昌や。俺の車もうパンパンやし、次のパーキングで拾ってくれ」
私は思わず身を乗り出して、ヤス君が持つ無線に向かって叫んだ。
「ちょっと! 私、物じゃないし!」
また車内に笑いが弾ける。
無線越しに、タカさんも楽しそうに笑っているのが分かった。
「了解。……昌、後でな」
その、ぶっきらぼうな「後でな」が、どうしようもなく嬉しかった。
栗東パーキングエリア
冷たい夜の空気が、高揚した頬に心地いい。
大型バスやトラックが並ぶ一角に、タカさんのランクルが止まっていた。
私が近づくと、運転席のドアが開く。
「ようこそおいでくださいました、お嬢様」
タカさんは相変わらずふざけた調子で言ったけれど、その目は少しだけ優しかった。
私はヤス君の助手席から、タカさんの車へと「ハシゴ」する。
シートに深く腰を下ろすと、不思議なほどホッとした。
助手席には、智代さんがいた。
「来れてよかったやん、昌ちゃん」
その声も、冬の夜気の中で驚くほど柔らかく響く。
私は小さく肩をすぼめて、呟いた。
「……遅くなって、ごめんなさい」
「謝ることないって。やりたいことやるのが一番やろ?」
智代さんが軽やかに笑う。
ハンドルを握るタカさんが、前を向いたまま続けた。
「時間は大した問題やない。来たいか、来たくないか。それだけや」
車がゆっくりと本線に戻る。
再び無線機から、茶化すような声が流れてきた。
「タカ、ちゃんと拾ったかー?」
「ああ、受け取ったで。……大事な忘れ物」
また、後ろの智代さんと無線越しにみんなが笑っている。
私は照れ隠しに、窓の外を見た。
夜の高速道路。
暗闇の向こう、遠くの山影にうっすらと白いものが見えた。
雪だ。
さっきまであんなに頭を占領していた、彼氏の正論や、あの部屋の重苦しい空気が、どんどん遠ざかっていく。
私は今、誰に強制されるでもなく、自分の意思でここにいる。
この人たちは、あまりにも自由だ。
そして私は、その自由の渦の中に、いつの間にか入り込んでしまった。
思ったよりも、ずっとあっさりと。




