エピソード3 ユカリ(前編)
私は、自分のことをずっと「普通」だと思っていた。
大学も、どこにでもある普通の共学。サークルも、バイトも、人並みに。何かで一番になったことも、特別すごい経験をしたこともない。
友達には、たまに「ユカリって、なんか女子アナっぽいよね」と言われる。最初はからかわれているのかと思ったけれど、どうやら「清潔感がある」とか「誰からも嫌われなさそう」という褒め言葉らしい。
でも、鏡の中の自分を見ても、そんな実感は一ミリも湧かなかった。「今日、顔むくんでるな」とか「前髪、どうしても決まらないな」とか。目につくのは、いつだって自分の足りないところばかり。
それに……私は、男の人と付き合ったことがない。
好きになったことはあるし、告白されたことも何度かあった。でも、いざその人を前にすると、どう笑えばいいのか、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。
自分から縮められない距離を眺めているうちに、いつも恋は終わる。恋愛なんて、ドラマや映画の中だけの、私とは少し遠い場所にあるものだと思っていた。
そんな私が、人生で初めて「自分の意思」で強く選んだもの。
それは、運命を変える一着のスーツだった。
就職活動が始まって、最初に「もう無理……」と泣きそうになったのは、自己分析でもエントリーシートでもなかった。
リクルートスーツ。この、真っ黒で、どれも同じに見える、魔法瓶みたいな服。
「何が正解なの?」
スカートの丈、ボタンの数。黒なら全部一緒じゃないの? と思うのに、値札を見ると1万円も違ったりする。その1万円で、可愛いワンピースとか、欲しかったデニムがいくつ買えるんだろう……なんて考えちゃう私は、やっぱりまだ子供なんだと思う。
母に相談したら、「ちゃんとした百貨店で見てもらいなさい」とお守り代わりの数枚の一万円札を渡された。
少し緊張しながら、デパートの重い扉を開ける。
1階のキラキラした化粧品売り場は大好きだけど、スーツ売り場は全然違った。
なんだか、空気が「ピシッ」としてる。みんな大人で、強そうで、これから戦いに行く人が着る鎧みたいだ。
「私なんかが、ここに来てもいいのかな」
場違いな気がして、思わずカバンのストラップをぎゅっと握りしめた。
そこに、一人の女性が歩いてきた。
黒髪のボブが綺麗で、お人形さんみたいに小柄な人。でも、全然「可愛らしい」だけじゃない。凛としていて、かっこいい。「大人の女性」という言葉がぴったりの人だった。
「いらっしゃいませ。就職活動用をお探しですか?」
その人の声は、テレビの女子アナよりずっと落ち着いて響いた。その瞬間に気づいた。私は、ただ「普通のスーツ」が欲しいんじゃない。この人みたいに、「自信を持って歩ける自分」になりたいんだ、って。
そこで最初に担当してくれたのが、昌さんだった。
色白で、シュッとしていて、落ち着いていて。同性だけど見惚れてしまうくらい、綺麗な人。
「就活用ですか?」
「はい……」
「初めて?」
図星だった。挙動不審だったかな、と顔が熱くなったけれど、昌さんはふふっと少しだけ笑った。
「大丈夫。みんな最初はそんな感じやで」
その言い方がすごく自然で、トゲがなくて、ガチガチだった私の肩から一気に力が抜けた。
昌さんは手際よくジャケットを何着か出してくれた。スカートを合わせ、パンツも試し、鏡の前に立つ。でも、鏡に映る私はなんだかコスプレをしている子供みたいだった。「社会人っぽい格好」はしているのに、中身の私が全然ついていっていない。
でも、昌さんは少しも急かさなかった。
「今日は見るだけでも全然いいよ。一回着てみたら、自分の好みが分かって、次決めやすくなるしね」
その言葉に甘えて、私はその日、何も買わずに帰った。本当は自信がなくて決めきれなかっただけ。なのに、「無理に決めなくていい」と言ってもらえたのが、なんだか認めてもらえたみたいで、すごく嬉しかった。
家に帰ってからも、昌さんのあの凛とした立ち姿が頭から離れなかった。あのスーツを着れば、私もあんなふうに、誰かに優しくできる大人になれるのかな。
数日後。私は吸い寄せられるように、もう一度その百貨店へ向かった。
私はもちろん昌さんにスーツを合わせてもらっていた。
大きな鏡の前で、昌さんが真剣な顔で私のジャケットの肩を直してくれる。
「うーん、もう少し詰めようかな……」と悩んでいる、そのときだった。
「お、就活生やん。気合い入ってるな!」
振り向くと、そこにタカさんがいた。
大きな声と、眩しいくらいの笑顔。
「この人、同期。営業やってんねん」
昌さんが少し呆れたように、でもどこか楽しそうに紹介してくれた。
お店の人じゃない、外の世界を回っている人。なんか自由な空気がある。
タカさんは私のスーツ姿をじっと見ると、にこっと笑った。
「めっちゃええやん! もう内定出そう。僕やったら即採用やわ」
あまりに真っ直ぐに褒められて、恥ずかしくて、でも思わず笑ってしまった。
気づけば、三人で話が盛り上がっていた。
業界の裏話、面接でのちょっとしたコツ、スーツが相手に与える印象のこと。
タカさんは私の拙い話をちゃんと聞いてくれるのに、ちっとも重くならない。
ガチガチに緊張していたはずなのに、私はいつの間にか、友達といるときみたいに普通に笑っていた。
その心地よい勢いのまま、私はついに一着のスーツを決めた。
「お直し上がりの日、また来るやろ?」
タカさんが、ひょいっと顔を覗き込むようにして聞く。
「……はい」
「ほな、その日、三人で飯行こ」
え、と耳を疑った。
店員さんと、営業さんと、客の私。
そんな組み合わせ、あるの?
でも、昌さんが「行こか」と自然に言ったので、私もつられて頷いた。
お直しが終わった日。
出来上がったばかりのスーツを受け取って、私たちは三人で居酒屋へ向かった。
友達同士で行くチェーン店とは違う、少し賑やかで、でも落ち着いた大人の居酒屋。ちょっとオシャレないい感じの、、、
社会人の人と一緒に飲むのは初めてだった。
メニューの選び方も、店員さんへの頼み方も、交わされる会話も。
すべてが少しだけ大人で、お酒が飲めない私まで、なんだか背伸びをしたような誇らしい気分になった。
昌さんは仕事の話をしても優しくて、私の理想の女性そのもの。
そしてタカさんは、ずっと面白いことを言っているのに、ふとした瞬間に真面目な顔をする。
「ユカリちゃん。就活ってな、正解探しすぎんほうがええで」
タカさんのその言葉が、なぜか深く胸に残った。
みんなと同じ「正解」にならなきゃって、ずっと息苦しかった私の心を、その一言がふっと軽くしてくれた気がした。
帰り道。
夜の街を歩きながら、私はぼんやりと考えていた。
タカさんのこと、少し気になる。
ただの憧れかもしれないし、知らない世界を見せてくれる魔法使いみたいに思っているだけかもしれない。
別れ際、私は少しだけ勇気を出して言った。
「あの……これからも、就活の相談、してもいいですか?」
タカさんと、昌さん。二人に向かって、精一杯の勇気。
二人は顔を見合わせて、すぐに大きくうなずいてくれた。
「なんでも相談してな。頼りにしてな!」
「いつでも。何時でも、どんなことでもね」
そう言って、二人はそれぞれのポケベルの番号を教えてくれた。
私はポケベル持ってないので家の電話番号を二人にわたした。
暗くて怖かった就職活動が、今はもう、ただ怖いだけのものじゃない。
だって、また会いたい人が、できてしまったから。




