エピソード2 智代(前編)
タカのことは、ずっと見てきた。
学生の頃の、あの青くて痛々しい時代から。
聡美と始まったときも、それが音を立てて崩れていったときも、私はいつも特等席で眺めていた。あんなに本気で人を好きになって、あんなに子供みたいに声を上げて泣いて……。それでも、次の日にはまた無理して笑って強がっていた、あの不器用な背中を。
サーフィンも、スノーボードも、数えきれないくらい一緒に行った。
私がスキーを脱ぎ捨てて、初めてスノーボードに挑戦したとき、ずっと横で板を並べていたのはタカだった。
「智代、エッジ立てろって」
「ほら、目線落とすな。前見ろ前」
何回派手に転んでも、手を差し伸べる。雪まみれになっても、タカは嫌な顔一つせずに何度も同じことを繰り返す。
面倒くさがったりしない。
教えるのがうまいわけじゃないけれど、相手が少しずつ滑れるようになるのを、まるで自分のことみたいに無邪気に喜んでくれる人。
そういうところが、タカなんだと思う。
会社に入って、立場が変わっても、私たちの腐れ縁は続いている。
聡美と別れてからも、あいつがたまに聡美と会っているのを私は知っている。
私はそれを責めないし、何も言わない。
別れたあとの二人がどう向き合おうと、それは二人の聖域だから。
ただ、「ああ、タカらしいな」と思うだけ。
一度懐に入れた人間を、あいつは絶対に自分から切り捨てたりしない。
それは優しさかもしれないし、ただの執着かもしれない。あるいは、一人になるのが死ぬほど怖い、あいつの病気みたいな寂しがりがそうさせているのかもしれない。
五人組のうち、三人に告白された。
自分でも、あの頃の自分がどう見えていたのかはよくわからない。
でも、私は誰とも付き合わなかった。
そのうちの一人とは、一度だけ寝たことがある。
若かったし、お互いに行き場のないエネルギーを持て余していた。
一晩だけの、熱に浮かされたような間違い。
後悔はしていない。それもまた、あの時代の私たちが「生きていた」証拠みたいなものだから。
でも、タカとは違う。
タカとは、絶対に恋愛にならない。
いや、なれない。
あいつの隣にいると、鏡を見ているような気分になることがある。
寂しがりやで、熱くて、でもどこか冷めていて。
自分の弱さを隠すために、誰かを求めてしまうあの必死さ。
「ソウルフレンド」
なんて言葉を使うと、今の時代じゃ少し気恥ずかしいけれど、私たちの関係を言い表すにはそれが一番しっくりくる。
恋人になって、所有し合って、いつか壊れてしまうくらいなら、適当な冗談を言い合って、たまに深い場所で共鳴しているくらいがちょうどいい。
タカは、誰のものでもない。
でも、誰のものでもある。
同じ会社の内定者リストにタカの名前を見つけたとき、私は思わず吹き出した。
「あ、来たんや」って。
就職も結局私と同じ場所に辿り着いたあいつ。
販売員表彰式でタカの名前が呼ばれたときも、驚きはしなかった。「やっぱりな」という確信と、自分のことのように誇らしい気持ちが混ざり合っていた。
壇上のタカは、ネクタイを締めて、ちゃんと社会人の顔をしていた。
でも、その中身――根っこの部分は、学生の頃からちっとも変わっていない。
それを一番感じたのは、いつだったか一緒に電車に乗っていたときのこと。
混み合った車内に、一人の妊婦さんが乗ってきた。
私は(席、譲らなあかんな……)と思いながらも、断られたらどうしようとか、余計なお節介かなとか、そんな自意識が邪魔をして声をかけられずにいた。
でも、タカは違った。
当たり前のような顔ですっと立ち上がって、「ここ座って」と短く言った。
妊婦さんは少し恐縮したように、「あ、大丈夫やで。すぐ降りるから」と遠慮した。
普通なら、そこで「そうですか」と引き下がるか、気まずくなる場面。
でもタカは、にかっと笑ってこう言った。
「ちゃうで!俺、お姉さんに言うてへん。お腹の赤ちゃんに言うてん」
その一言で、車両の空気がふっと緩んだ。周りにいた人たちも、つられて少し笑った。
妊婦さんも、その冗談に甘えるように「ほな、この子に……」と笑いながら腰を下ろした。
ああ……と思った。
私はいつも「優しくなりたい」と思っているのに、言葉に詰まってしまう。
でも、タカのあの「当たり前」は、ただの親切心以上のものだ。
あの日から、私も言えるようになった。「どうぞ」って。
タカにとっては呼吸をするのと同じくらい当たり前の一言かもしれないけれど、あの軽やかさは、本当はすごく難しいことなんだと知っている。
タカはいつも、誰よりも広く周りを見ている。
そして、誰よりも人を思いやる。
だからみんなから頼られるし、面倒な相談も舞い込んでくる。
あいつが笑いの中心にいるのは、ただ騒がしいからじゃない。
そこにいる全員の居場所を、あいつが作っているからだ。
でも、私は知っている。
あいつがたまに、ひどく疲れた顔をすることを。
みんなの真ん中で笑って、誰かの心をふっと軽くして、器用に空気を整えて。
そうやって全方位に神経を配り続けているタカは、時々、電池が切れたみたいに動かなくなる。
一対一で深い話をしたがるわけじゃない。
ただ、何も言わずに隣にいてほしい。
そんな「静かな時間」を、あいつが猛烈に欲しがっている瞬間がある。
一時期、仕事のトラブルが重なった夜。
タカから呼び出されたことがあった。
いつもの居酒屋じゃなく、人気のない公園のベンチ。
あいつは缶コーヒーを握りしめたまま、一言も喋らなかった。
ただ、遠くを走る車のライトをじっと眺めていた。
「……智代、悪いな。呼んどいて」
ポツリと漏らしたその声が、驚くほど細くて、今にも消えてしまいそうだった。
私は何も聞かなかった。
ただ隣に座って、あいつと同じ夜空を見ていた。
あいつは、一人になりたい。
でも、一人になるのが死ぬほど怖いんだ。
矛盾しているけれど、それがタカという人間の、一番柔らかくて脆い部分。
誰にでも優しくて、誰からも頼られる「太陽」みたいなあいつ。
でも、太陽だって夜には沈むし、光を放ち続けるためには、膨大なエネルギーを消費している。
冬、スノーボードに誘われた。
私はタカの助手席に座り待ち合わせのパーキングへ向かった。そこにいたのはタカ以外、全員知らない人たちだった。
少しだけ、胸の奥がざわつく。
私はもともと、知らない輪の中に飛び込んでいくのが得意じゃない。自分をどう見せればいいのか、どの距離感で笑えばいいのか、つい計算して疲れてしまうから。
でも、その日のタカはいつもとは距離感は違った。
あいつは、一日中ずっと私のそばにいた。
リフトに乗る時も、コースを滑り降りる時も、レストハウスで休憩する時も。
私が派手に転んで雪まみれになると、あいつは当たり前のようにボードを止めて、手を差し出してくる。
「まだまだやなぁー(笑)、智代」
そう言って、にかっと笑う。
その一言があるだけで、知らない人たちに囲まれているはずの私は、決して「一人」じゃなかった。
気づけば、あいつが作る柔らかな空気の層に包まれて、私はいつの間にかその場に溶け込んでいた。
白いゲレンデの、激しい人混みの中で。
タカは不思議と、私の位置をちゃんと把握している。
わざとらしくベタベタ触れることはない。けれど、決して遠くへは離れない。
まるで、彼氏みたいだ。
でも、あいつは私の彼氏じゃない。
「ああ、タカは大人になったな」
真っ白な斜面を見つめながら、私はふと思った。
学生の頃の、あの独占欲に振り回されていたタカじゃない。
今のタカは、人を大事にする。けれど、決して独占はしない。相手の自由を尊重しながら、ただ必要なときにだけ、そっと隣にいる。
だから、私たちは恋にならない。
なれないし、なる必要もない。
でも、その代わり。
私たちは、離れることもできない。
たぶん、これが一番「厄介な関係。」
恋人なら別れれば赤の他人になれるけれど、私たちは、この「心地よい距離」のまま、一生離れられない呪いにかかっているのかもしれない。
夕暮れのゲレンデ。
冷え込んできた空気の中で、タカが「ラスト一本、行こか!」と声を上げる。
私はその背中を追いかけながら、この厄介で、けれどかけがえのない関係を、もう少しだけ楽しんでいたいと思った。




