エピソード1 昌 (前編)
私は、感情で動くタイプじゃない。
自分で言うのもなんだけど、いつもどこか冷めた目をした子供だった気がする。
色白で、黒髪のボブ。
身長は小さめだけど、実年齢より大人っぽいと言われる。
声は少し高くて、緊張すると余計にトーンが上がるらしい。自分では気づかないけれど。
少し人見知りで、少し潔癖。
騒がしい場所は昔から得意じゃない。
でも、仕事には自信がある。
「なんとなく」で済ませたくない。
ちゃんと準備して、ちゃんと観察して、ちゃんと売る。
そのプロセスに嘘をつかないことが、私の誇りだった。
入社して、タカさんと同じ百貨店ビルに配属されたとき、私は確信していた。
私の居場所は、ここだ。
私の担当は、スーツブランド。
人生の節目に着る服。
ビジネスという戦場に向かうための服。
未来を背負う服。
理屈と信頼で積み上げるこのブランドは、私に向いていると思った。
同期の一つ年上のタカさん。
彼は、アウトドアブランドの担当だった。
自由そうな服。
そして、見るからに自由そうな人。
正直に言えば、最初は少し……いえ、かなり苦手だった。
声が大きい。
放っておいても周りに人が集まる。
そして、何がそんなに可笑しいのか、本当によく笑う。
私のいるスーツ売り場は、凛とした静寂がルール。
一方、彼のアウトドア売り場は、まるでキャンプ場のような活気にあふれている。
エスカレーターを一つ挟んだだけで、そこには全く別の重力が働いていた。
朝のエレベーターで乗り合わせると、彼はいつも「おはよ!」と眩しすぎるくらいの笑顔で挨拶してくる。
私はそれに対して、最小限の会釈と「おはようございます」という言葉を返すだけ。
タイプが違いすぎる。
住む世界が違う。
仲良くなることなんて、きっと一生ないだろう。そう思っていた...
私は学生時代からの彼氏がいる。
付き合い始めて3年以上。
大きな喧嘩もしないし、お互いの価値観もわかっている。
関係は安定しているし、決して悪くない。
彼も社会人。
仕事の話をしても「大変やな」と理解してくれるし、週末の予定を合わせるのも、もうルーティンみたいになっている。
そこには穏やかな安心感がある。
でも、最近ふとした瞬間に、自分でも不思議な感情が湧くことがある。
タカさんと仕事の話をしているとき。
「今日、こんなおっちゃんに一式売ったわ!」
「それはタカさんが強引なだけやん」
そんな、何の意味もない、でも火花が散るようなやり取り。
彼氏と過ごす時間は、凪いだ海みたいに静かだ。
一方で、タカさんと話す時間は、予測できない風が吹いている。
売り場を離れて休憩に向かうときや、備品を取りにフロアを移動するとき、どうしても視界に入る場所がある。
エスカレーターの向こう側、タカさんのいるアウトドアブランドの売り場だ。
あそこを見ていると、あることに気づく。
タカさんの店には、やたらと「友人」がやってくる。
それも、ただの知り合いというより、彼の名前を呼んで親しげに笑いかける人たち。
男の人も、女の人も。
しかも、みんな一様に垢抜けていて、目を引くようなイケメンや綺麗な人が多い。
彼らは商品の服を手に取ってあーだこーだと言い合いながら、タカさんと楽しそうに話し込んでいる。
「……世界、違うな」
私は一歩引いた場所から、冷静にそう思う。
私のスーツ売り場に来るお客様は、みんな目的を持って、少し緊張した面持ちでやってくる。友人なんて来ないし、ましてや店内で笑い声を上げることもない。ここは「商談」と「決意」の場所だから。
タカさんの周りにある、あの磁石みたいに人を吸い寄せる空気。
誰とでも境界線を失くして、仕事をプライベートの延長線上に溶け込ませてしまう身軽さ。
私のボブの髪を揺らす空調の風が、あそこの熱気だけは運んでこない。
あそこは、私には一生手が届かない、眩しすぎる「陽だまり」のように見えた。
ある日の仕事終わり。
「飯行こーや」
いつもの軽い調子。
少し迷って、でも、何となく断る理由も見つからなくて頷いた。
連れて行かれたのは、ガヤガヤとした賑やかな居酒屋。
そこには、タカさんの学生時代からの友人だというヤス君とヒロ君、それに同じビルで働く他ブランドの女の子がいた。全部で五人。
最初の十分で、私は確信した。
(この人たち、ヤバイ……)
笑いすぎて頬の筋肉が痛いし、腹筋も限界。ヤス君もヒロ君も、とにかく話のテンポが速くて、面白い。それでいて、さりげなくグラスを空けないよう気遣うあたり、相当に女慣れしている。
私のこれまでの人生では、一度も交わることがなかった人種だな、と頭のどこかで冷静に分析していた。
でも、お酒が進んだ中盤。
空気の色が、不意に変わった。
さっきまでふざけていたはずの彼らが、急に仕事の話を始めた。
今月の売上の推移、自分が思い描く理想の店舗、この業界の未来。
その目は、一点の曇りもなく真剣だった。
「熱い……」
心の中でそう呟いていた。
私の彼氏は、会えばいつも仕事の愚痴ばかり。上司がどうだとか、環境が悪いとか。
でも、目の前にいるこの人たちの口からは、前向きな言葉しか出てこない。
ああ、なるほど。
タカさんのあの圧倒的な売上は、単なる「ノリ」で作られたものじゃないんだ。
この熱量、この仲間、この向上心。
彼を形作っている背景を、ほんの少しだけ覗き見した気がした。
六月。
夏が始まる前の、少し湿った風が吹く頃。
タカさんから海に誘われた。
ヤス君と、智代さん。
智代さんは同じ会社の子供服デザイナーで、一つ上の先輩。学生時代、タカさんと一番仲が良かったグループの一人だと聞いている。
彼らはサーフィンをやるらしい。私はやらないし、泳ぐのもそんなに得意じゃない。
でも、あの居酒屋の夜以来、彼らが見ている景色に少しだけ興味があった。
彼氏にそのことを話すと、案の定「行くな」と言われた。
知らない男の人たちと海に行くなんて、保守的な彼が嫌がるのは分かっていた。
「仕事の付き合いやから」
そう言い訳しながらも、胸の奥には彼に対する小さな背徳感と、それ以上の好奇心が同居していた。
当時は、誰もが腰にポケベルを下げていた時代。
出発の朝、心配そうに私を見る彼に、私は自分でも驚くほど私らしくない言葉を口にしていた。
「何かあったら、ベル鳴らして。すぐ見るから」
いつもなら「大丈夫、信じて」と突き放すのに。
不安定な場所へ踏み出す不安を、彼という「安定」に繋ぎ止めておきたかったのかもしれない。
海へ向かう車内は、カセットテープから流れる聞いたこともないレゲエの音楽と、タカさんたちの笑い声で溢れていた。
窓の外を流れる景色を見ながら、私は何度もポケベルの液晶を確認した。
何も鳴らない。
でも、私の心の中では、今までに聞いたことのない小さな予報音がずっと鳴り続けていた。
海は眩しくて、波の音が驚くほど大きい。
裸足で歩くと、足裏に伝わる砂の温度が柔らかくて心地よかった。
私は持ってきたラジカセを横に置き、FMラジオを小さな音で流しながら、お気に入りの本を開いた。
視界を広げれば、そこには多様な時間が流れている。
沖で波を待つ人。波打ち際を散歩する人。ただ横になって眠る人。犬と走り回る子供に、静かに糸を垂らす釣り人。
誰に強制されるでもなく、みんながそれぞれのやり方で、自由にこの海を楽しんでいる。
ふと思う。
社会人になってから、彼以外と過ごす休日なんてあっただろうか。
いつも彼の好みに合わせ、彼の顔色を伺って過ごすのが当たり前だった。
でも今は、自分のリズムで、自分のためだけに時間を使っている。
「……贅沢だな」
そう呟いた言葉が、潮風にさらわれて消えた。
タカさん、ヤス君、智代さんの三人は、ウェットスーツに身を包むと、迷うことなく沖へと向かっていった。
私は砂浜に座ったまま、持ってきた双眼鏡を覗き込む。
のんびりと、冷静に。いつもの仕事モードのように、彼らを観察する。
正直、もっとナンパな人たちだと思っていた。
海に来て、女の子を追いかけたり、お酒を飲んで騒いだりするのが目的なのかと。
でも、レンズの向こうに映る彼らは、私の予想を裏切っていた。
三人は、真剣に波を待っていた。
タイミングを計り、パドリングをし、一瞬のチャンスを逃さずボードの上に立つ。
そこにあるのは、チャラチャラした遊びじゃない。本気で、没頭している姿。
ああ、この人たちは、遊ぶときも仕事のときと同じなんだ。
誰かに見せるためじゃなく、自分自身の「本気」を楽しんでいる。
誰もが自分のリズムで、この大きな海と向き合っている。
双眼鏡を置いた私の胸には、今まで感じたことのない、新しくて清々しい風が吹き抜けていた。
しばらくして、智代さんが肩で息を切りながら波打ち際から戻ってきた。
「あの子ら、全然休憩なし!アホやわ、ほんま」
そう言って濡れた髪を拭きながら、私の隣に座る。
「昌ちゃん、海楽しんでる? 退屈させてへん?」
智代さんは、太陽をそのまま形にしたような明るい人だ。そして後輩の私が言うのもなんだがとても可愛い。そして優しい。彼女と話していると、自然とタカさんの学生時代の話になった。
「タカな、留年したから会社で後輩になってもーた! 私ら同い年やのに、給湯室で会ったら『先輩!』とか言うてくんねん。アホやろ?」
「あの子ら、女癖も悪いで! 昌ちゃんも気を付けや。すぐ誰にでも優しい顔すんねんから」
と笑い飛ばす智代さんに、私はずっと気になっていたことを聞いてみた。
「……智代さんは、お二人のどちらかが彼氏なんですか?」
「そんなわけないやん! 笑笑! あいつらの彼女なんかになったら、心配で身がもたんわ。いろいろとな……」
智代さんは、かつての「アホアホ五人組」がしでかした、信じられないような失敗談や、めちゃくちゃな遊びの話をたくさんしてくれた。
私の知らない、もっと若くて無鉄砲だった頃のタカさんの話。
私には、安定した彼はいる。でも、こんなふうに笑い合える「男友達」なんて一人もいない。
いいな、と思った。
仕事仲間でもなく、恋人でもなく、ただの「戦友」みたいに笑い合える関係。それが、なんだかとても新鮮で、少しだけ羨ましかった。
「よし、もう一回行ってくるわ!」
智代さんはひとしきり話すと、再びボードを抱えて海へと走っていった。
……少しだけ、置いていかれた気がした。
三人はなかなか戻ってこない。
広すぎる砂浜に、一人。
さっきまであんなに賑やかだったのに、今は波の音だけが耳に刺さる。
夕暮れが近づいているのか、風の温度が、肌をなでる感触が、いつの間にか少しだけ変わっていた。
なんだろう、この感じ。
自由なはずなのに、少しだけ寂しい。
さっき、智代さんが言った言葉が頭をよぎる。
「あいつらの彼女になったら、心配で身がもたん」
私は、一度も彼のことで「身がもたない」ほどの心配なんてしたことがない。
私の恋は、あまりにも安全な場所にある。
遠く、沖の方で波に乗るタカさんのシルエットが小さく見えた。
近づけない。でも、目を離すこともできない。
砂浜に残された私の影が、ゆっくりと長く伸び始めていた。
やっと戻ってきたタカさん
「ごめん、昌のこと忘れてたー!」
屈託のない、あまりにも無邪気な笑顔。
普通なら「失礼な人」なのに、なぜかそんな気にもなれない。
その笑顔が、彼の天性なのか、それとも計算されたものなのか。私にはまだ判断がつかないけれど、とにかく「ずるい」とだけ思った。
私たちは二人で並んで、沈んでいく夕日を眺めた。
鮮やかなオレンジが、ゆっくりと深い紫に溶けていく。
「オレさ、夕焼けから暗くなるまでのこの空の色、一番好きやねん」
キザな台詞のはずなのに、彼の口から出ると不思議と嫌味がない。
ただ、見たままを口にしているような、子供のような素直さ。
私の彼氏は、こんな情緒的な話は絶対にしない。
でも、そんな話をしないのが「普通の大人の付き合い」だと思っていた。
デートと言えばショッピングか映画。そのあとは彼の家でセックスをして、終われば自分の家に帰る。泊まることは滅多にない。なんとなく落ち着かなくて、自分の部屋の清潔なシーツに潜り込みたくなるから。
そのとき、腰につけたポケベルが、無機質な音を立てて震えた。
「……彼氏か?」
「うん……」
少しだけ、沈黙が流れる。
この心地よい空気、ゆるやかに流れる時間を邪魔されたことに、自分でも驚くほどの苛立ちを感じた。
「よっこらしょっと」
砂を払いながら、自分の動揺を悟られないように、少しだけ作り笑いをして立ち上がる。
砂浜を歩き、海の家にある公衆電話へと向かう。
どこからか、ボブ・マーリーのレゲエが聴こえてくる。重たいベースの音が、私の足取りを少しだけ鈍らせる。
受話器を持ち、10円玉を落とす。
ダイヤルを回しながら、さっきまで目に焼き付いていたあの美しい夕焼けを、無理やり心の中から消そうとした。
私はいつも冷静で、感情に流されないはずなのに。
潮風のせいだろうか。
それとも、あのオレンジ色の空のせいだろうか。
私の心は、自覚していた以上に、大きく揺れていた。




