第一章:大阪・学生編 プロローグ
人類が初めて月に降り立ったのが1969年。
その興奮の余韻が残る翌年の、凍てつくような寒い日。
タカは産声を上げた。大きな歴史の片隅で、静かに、けれど確かに。
父は地方公務員だった。
決まった時間に家を出て、決まった時間に帰ってくる。多くを語ることはなかったが、
その無口な背中には、この町で実直に生き、家族を養うという「働くこと」の重みが、
静かな圧迫感とともに宿っていた。
母はスーパーの事務員。穏やかで、おしゃべりなタカの話を途中で遮ることなく、いつも楽しそうに聞いてくれた。
貧乏でもなく、かといって裕福でもない。
欲しいものは少し考えてから買う。
そんな、ごく普通の家庭だった。
三つ上の姉が一人いる。
仲がいいわけでも、悪いわけでもない。
同じ家にいながら、それぞれ別の世界を生きていた。
タカは工業高校の建築科に進んだ。
この時代の田舎では、
それはほぼ「就職」を意味していた。
卒業したら地元の建築会社。
それが当たり前で、疑問を持つ者は少なかった。
学校へ行き、図面を引く。木材の名前を覚え、コンクリートの匂いに囲まれる日々。
建築という確かな形を学ぶほどに、彼の内側では、言葉にできない不確かなズレが膨らんでいく。
学校が嫌いなわけではない。友達とも楽しくやっている。
でも、なにかが違う。
テレビや本の中には、まったく違う青春があった。
都会の若者は、悩み、恋をし、
自分の未来を自分で選んでいるように見えた。
このままでいいのか?
この町で生きて、建築を営み、そして死ぬ。
決まりきった完成図のような未来に、タカの心は激しく拒絶反応を起こしていた。
怖くなった。
同時に、まだまだ知らない世界が確実にあると、人生のベクトルは自分自身でかえるしかないと。
放課後はサッカー部。身体を動かすことは嫌いじゃなかった。
けれど本当は、部屋で本を読んでいる時間のほうが好きだった。
本は、この町の外へ連れ出してくれた。
服、音楽、街、女の子。洗練された空気。
読書は、タカの中に都会への憧れを育てた。
服に興味があった。
ファッション雑誌の街角スナップに掲載されたのが小さな自慢だった
女の子が好きだった。高校生という年頃なら、それは至極当然のことだ。
けれど彼の場合、それはギラついた欲望というより、もっと根源的な「人間好き」に近いものだった。独占したいという所有欲ではなく、純粋で無邪気な、人への好奇心。
心理的にも物理的にも、誰かと距離が近いほうが落ち着く。隣に座り、肩が触れ合うような位置にいることが、彼にとっては一番自然で、心地いい。
それは、かすかな寂しがり屋の本音と、溢れるほどの温かさをあわせ持った、彼だけの性分だった。
彼の周りには、いつも誰かがいた。
友達は多く、そこには男女の区別も垣根もない。年上からはその懐に入る愛嬌を可愛がられ、年下を力で押さえつけるような真似もしなかった。誰に対しても、常に等身大で向き合う。それがタカだった。
上下の序列が何より重んじられ、縦社会の理屈が当たり前だった昭和の時代。
そんな窮屈な枠組みに縛られず、境界線を軽々と越えていく彼の在り方は、少し変わってはいたけれど、誰にとっても不思議なほど心地よいものだった。
工業高校という男ばかりの世界にも、わずかながら女子生徒がいた。
一つ下の学年の、ミキ。
インテリアデザイン科にいた彼女は、透き通るような色白の肌に、いつも穏やかな微笑みを絶やさない、静かな美人だった。
放課後の柔らかな光の中にいた彼女の姿は、今でも驚くほどはっきりと、その輪郭を思い出すことができる。
学校中の誰もが「タカとミキは付き合っている」と信じて疑わなかった。
そして、彼ら自身もまた、自分たちはそういう関係なのだと思っていた。
ミキの部屋に何度か遊びに行ったこともある。けれど、タカは彼女と手をつなぐことさえできなかった。
自分でも不思議だった。他の女の子となら、呼吸をするように平気でキスをして、抱き合うこともできたのに、ミキの前では指先ひとつ動かせなくなる。
大切すぎて、触れるのがためらわれたのか。それとも、自分たちの間にある美しい何かを壊すのが怖かったのか。
理由は、タカ自身にも分からなかった。ただ、そこには決して踏み越えてはならない、透明で揺るぎない「一線」が引かれているような気がしていた。
夏になると、ガタゴトと揺れるローカル線に乗って海へ向かった。
駅からしばらく歩くと、観光客なんて一人もいない、自分たちだけの海が広がっている。
砂はどこまでも白く、水は信じられないほど透き通っていた。その美しさが当たり前だった、あの頃の夏。
隣にはミキがいた。
白い砂浜に座り、波音を聞きながら並んでいるだけで、十分だった。
水着姿の彼女は眩しくて、けれどやっぱり、手をつなぐことさえためらわれる。
透き通る海と同じように、彼女の存在はあまりに純粋で、触れれば形が崩れてしまいそうだった。
高校二年の夏、タカは初めて「大人の世界」の扉を叩いた。
けれどその相手は、あんなに大切に想っていたミキではなかった。
皮肉にも、彼女の友人との間で、衝動に任せた歪な関係が始まってしまったのだ。
秘密は、すぐに露呈した。
数日後、ミキに呼び出されたタカは、逃げ場のない言葉を突きつけられる。
「あの子と、寝たんでしょ」
責めるような刺々しさはなかった。泣いて取り乱すこともなかった。
ただ、凪いだ海のような静けさで、彼女は事実だけを口にした。その淡々とした声が、かえってタカの胸を深く抉った。
タカは、何も言い返せなかった。
否定することも、見苦しい言い訳を並べることも、今の自分にはその資格さえ残っていない気がした。
女っていう生き物は、どうしてこうも鋭いんだろう。
一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
傲慢だったのは、そして何より未熟だったのは、間違いなく自分の方だったのだ。
進路を決定する時期が訪れたとき、タカは服飾系の大学への進学を志望した。
教師たちは誰一人として理解を示さなかった。それどころか、鼻で笑うような冷ややかな態度をとった。
「何のために、わざわざ建築科に入ったんだ」
「もっと現実を見ろ」
投げつけられる言葉を、タカはただ悲しく受け止めていた。
この町から一歩も出ることなく、決まりきった規律の中で生きてきた大人たちが、自分たちの知らない広い世界を「非現実的だ」と決めつけている。その狭い視野が、何よりも空虚に思えた。
母は反対しなかった。
何も言わず、ただ少しだけ寂しそうに微笑んだ。タカのことを心から愛している、穏やかで優しい人だった。
父は、短く背中を押してくれた。
「自分の道を生きろ」
たったそれだけの一言だったが、それだけで十分だった。
進路指導室の教師たちには恵まれなかったかもしれない。けれど、両親という確かな愛に守られていることだけは自覚していた。
だからタカは、大阪の大学を選んだ。
都会を知らないまま、広い世界を知らないまま、この狭い町で一生を終えること。
彼にとっては、その閉塞感のほうが、見知らぬ土地へ飛び込むことよりもずっと恐ろしかった。
———
久しぶりに帰った実家で、すっかり古びた父の車の鍵を借りた。
ハンドルを握り、タカがあの頃のように向かったのは、あの静かな海だった。
水は今も透き通り、砂はどこまでも白い。海は、あの夏と少しも変わらない美しさを保っていた。
けれど、その変わらぬ青さが、今のタカには残酷なほど眩しかった。
海は、こんなにもきれいなのに。
波打ち際で立ち尽くすタカの胸に、空虚な問いが突き刺さる
俺の心はどうだろう。あの頃のように、澄み渡っているだろうか。
ふと、記憶の底からミキの笑顔が浮かび上がった。
あの無邪気で、けれどどこか寂しげだった微笑み。
海は何も答えてくれない。ただ、あの夏と同じ色彩を湛えているだけだ。
永遠に繰り返される、穏やかで静かな波の音。
その圧倒的な不変さを前に、タカは独りごちた。
俺は……何も変わっていないのか




