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「もう必要ない」と薬園を追われた令嬢ですが、私の調剤録なしでは王宮の薬が作れないようですよ

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/21

「リアーナ。お前にはもう用がない」


 玉座の間に、エドヴァルド王太子の声が落ちた。

 冷たくはなかった。むしろ事務的で、書類の決裁でも読み上げるような口調だった。


「承知いたしました」


 リアーナ・フォンテーヌは、一度だけ深く息を吸い、そう答えた。

 泣きたいとは思わなかった。六年間、この言葉をどこかで予感していた気がする。


「婚約の件も白紙に戻す。今後お前が薬草園に立ち入ることは許可しない」

「畏まりました、殿下。——ただ一つだけ、お願いがございます」

「なんだ」

「調剤録の引き継ぎをさせていただけませんか。六年分の配合記録と栽培暦がございます。後任の方に直接——」

「そんなものは不要だ」


 横に立つ女がくすりと笑った。

 ロゼッタ・デュラン。半年前に聖女候補として宮廷に迎えられた女性で、エドヴァルドの新しい婚約者候補だった。


「薬草園の管理なんて、侍女にでもやらせればいいのよ。大袈裟ね」


 リアーナはロゼッタの方を見なかった。見る必要がなかった。


「かしこまりました、殿下。調剤録は私物として持ち帰ります。本日中に私室を空けますので」

「好きにしろ」


 それだけだった。六年間、毎朝薬草園に通い、二千百九十日分の調合を記録し、王族七名分の体質と禁忌を暗記し——それに対する最後の言葉が、「好きにしろ」だった。


 リアーナは一礼して、玉座の間を出た。

 回廊に出た瞬間、体が軽くなった。


(……ああ、軽い)


 三冊の調剤録を胸に抱えている。革の表紙はすり切れて、角が丸くなっていた。

 六年分の重さは、思ったより軽かった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 リアーナが王宮薬草園の管理人になったのは、十四歳の時だった。


 フォンテーヌ伯爵家は代々薬学に通じた一族で、リアーナはその中でも飛び抜けた才を持っていた。五歳で薬草の見分けがつき、十歳で解毒剤の配合を暗記し、十二歳の時には王宮付きの薬師が匙を投げた王妃の慢性頭痛の処方を、文献を三日読み込んだだけで組み上げた。


 その才を見込まれ、エドヴァルド王太子の婚約者として迎えられたのが十四歳。同時に王宮薬草園の全管理を任された。

 婚約者というより、薬園の管理人として。

 エドヴァルドが求めていたのは伴侶ではなく、王族の健康を守る駒だった。


 薬草園は広かった。

 百二十八種の薬草を、季節ごとの栽培暦に従って植え替え、収穫し、乾燥させ、配合する。王族七名分の体質に合わせた処方を毎月見直し、季節の変わり目には予防薬を仕込む。

 春は種を蒔き、夏は虫除けの調合に追われ、秋は収穫と乾燥を同時に進め、冬は温室の薬草に夜通し火を焚いた。

 それを六年間、たった一人でやった。


 調剤録には、全てが記してあった。


 一冊目——配合記録。

 全二百三十四件の処方が記載されている。

 王妃のための慢性頭痛薬。月見草の根を三対、甘草を一対、白樺の樹液を触媒にして、弱火で六時間煮詰める。配合比を〇・五でも間違えれば、頭痛は治まるどころか悪化する。

 第一王女の安眠薬。ヴァレリアンの根を秋分の日に収穫したものでなければ、有効成分が三割落ちる。

 国王の胃薬。カモミールとペパーミントの配合は年齢とともに微調整が必要で、リアーナは半年ごとに〇・一単位で比率を変えていた。


 二冊目——栽培暦。

 ラベンダは南棟の三列目に植える。西日が当たると精油の成分が変質するからだ。冬至から四十日後に種を蒔き、春分の翌週に間引く。この工程を一日でも間違えると、翌年の収穫が三割減る。

 百二十八種それぞれに、こうした条件が全て記してある。


 三冊目——納入・禁忌録。

 外部から仕入れる希少薬草の取引先は十七商会。それぞれの輸送条件、保存温度、品質基準がある。そして最も重要な、王族一人一人の薬物禁忌——アレルギー、過去の副作用歴、併用禁止の組み合わせが全て網羅されている。


 これを毎日書き続けた。

 雨の日も、熱が出た日も、エドヴァルドに一度も名前を呼ばれない日も。


 二年目の夏、高熱を出した夜があった。

 三十九度の熱で、指先が震えていた。それでも翌朝の王妃への処方は待ってくれない。リアーナは氷で額を冷やしながら配合を終え、調剤録にこう書いた。

「本日、体調不良により秤量精度に不安あり。念のため二重計量を実施。誤差なし」

 自分の体調すら、薬の品質に影響しないための記録だった。


 泣きたかった日は、数えきれないほどあった。

 でも涙を落とせば、調剤録の紙が波打つ。乾燥薬草の秤量に指先の湿り気が影響する。薬草園の土壌に塩分が混ざる。

 だから泣かなかった。

 泣かない理由が、いつも仕事の中にあった。


「リアーナ、今月の王妃殿下の処方は」

「こちらに」

「うむ」


 毎月、これだけだった。

 処方箋を受け取り、目を通しもせず、そのまま侍従に渡す。六年間で、エドヴァルドが調剤録を開いたことは一度もなかった。

 感謝されたことも、ない。

 一度だけ、王妃から「最近よく眠れるわ」と言われた。それがリアーナの六年間で受け取った、唯一の言葉だった。


 四年目の冬に、事件があった。

 納入業者から届いた乾燥カモミールに、微量のベラドンナが混入していた。通常なら気づかない量——〇・〇八ミリグラム。だがリアーナの鼻はそれを嗅ぎ分けた。六年間、毎日薬草に触れ続けた嗅覚が、わずかな異臭を拾ったのだ。


 即座に全量を廃棄し、納入経路を調査した。業者の倉庫でベラドンナの乾燥棚が隣接していたことが原因だと突き止め、保管基準の改善を求める書簡を送った。

 この一件を調剤録に詳細に記録した。混入量の推定値、検出方法、改善要請の写し、そして今後の受入検査手順の強化案。

 エドヴァルドに報告した。


「そうか」


 それだけだった。

 もし気づかなければ、王妃の薬にベラドンナが混じっていた。〇・二ミリグラムでも、持病の薬と併用すれば心拍異常を起こす。王妃の命が危うかった。

 そういうことを、誰にも気づかれずに六年間やってきた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 追放から三日目の朝だった。


 実家のフォンテーヌ伯爵邸で荷解きをしていたリアーナのもとに、来客があった。


「ヴィクトル・ハイデルベルク公爵閣下がお見えです」


 侍女の言葉に、リアーナは手を止めた。

 ハイデルベルク公爵。隣国ヴェルデン公国の当主にして、外交の要。三年前から王宮薬草園の薬草取引を通じて、書簡のやり取りがあった相手だった。


 応接間に通すと、長身の男が立っていた。

 黒髪に灰色の瞳。整った顔立ちだが、表情には温度がない——と、多くの人間は思う。けれどリアーナは知っていた。この人は、書簡の末尾にいつも一行だけ、薬草園への質問を添えてくる人だった。


「突然の訪問をお許しください、リアーナ嬢。——解任の報せを聞きました」

「お耳が早いのですね、閣下」

「三年間、あなたの処方箋を読んでいました」


 リアーナは、思わず目を見開いた。


「……処方箋、ですか」

「正確には、取引書簡に添付されていた使用上の注意書きです」


 ヴィクトルは懐から、折り畳まれた紙束を取り出した。見覚えがあった。薬草を輸出するたびに、リアーナが手書きで添えていた注意書き——保存温度、使用期限、禁忌事項、そして万が一の副作用が出た場合の対処法。


「これは……私が書いたものですね」

「ええ。読むうちに気づいたのです」


 ヴィクトルの声が、わずかに柔らかくなった。


「注意書きの行間に、書き手であるあなた自身が刻まれていることに」


 リアーナは息を呑んだ。


「『ヴェルデンは冬季の湿度が高いため、乾燥剤を二重にしてください』——これはただの保存指示ではない。届いた先で、誰かがこの薬を正しく使えるようにという配慮です」

「……それは、当然のことです」

「当然のことを、三年間一度も手を抜かずに書き続ける人間は少ない」


 ヴィクトルは紙束の一枚を示した。


「この注意書きには、子供の服用量まで計算されていました。うちの領地に届く薬草は大人用の処方が前提なのに、あなたは『万が一子供が服用した場合の上限量』まで添えていた」

「……子供は体重あたりの代謝速度が違いますから。念のためと思って」

「その『念のため』が、私の領地の子供の命を救いました。去年の冬、侍女の子が誤って薬草茶を飲んだ時、あなたの注意書きがあったから正しい対処ができた」


 リアーナの目が大きく見開かれた。


「知らなかった……そんなことが」

「あなたは知らない。自分の仕事がどれだけ遠くの人間を救っているか」


 ヴィクトルが一歩近づいた。


「私の領地に、薬学研究院を設立する構想があります。——リアーナ嬢、あなたを主任研究員として迎えたい」


 リアーナの心臓が、一拍だけ強く打った。


「さらに言えば」


 ヴィクトルの灰色の瞳が、まっすぐにリアーナを捉えた。


「あなたを迎えに来ました。もう薬草に泣かされなくていい場所へ」


(——この人は、知っている)


 注意書きの筆跡が乱れた日のことを。冬季に届いた処方箋の紙が、微かに波打っていたことを。

 泣けなかった夜に書いた文字を、この人は三年間読み続けていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 リアーナが王宮を去って十日が経った頃、宮廷は静かに崩れ始めた。


 最初に起きたのは、王妃の持病の薬が作れなくなったことだった。


「配合比が分からないのです。月見草の根と甘草の比率が——」

「調べればいいだろう」

「文献には載っておりません。リアーナ嬢が王妃殿下の体質に合わせて独自に調整した処方でして……元の文献の処方では王妃殿下には強すぎるのです」


 エドヴァルドは舌打ちした。

 ロゼッタが「私がやるわ」と名乗り出た。聖女候補として基礎的な薬学は修めている、と自負していた。


 三日後、王妃が寝込んだ。

 ロゼッタが調合した薬は、配合比が微妙に違っていた。月見草の根が〇・三多く、煮詰める時間が二十分短かった。リアーナなら秤に載せる前に指の感覚で分かる誤差だったが、ロゼッタにはそれが分からなかった。

 王妃は一週間、寝台から起き上がれなかった。


 次に崩れたのは、栽培暦だった。

 南棟三列目のラベンダの間引きが三日遅れた。たった三日で、翌月の収穫予定量が二割減ると宮廷薬師が青ざめた。

 さらに温室のローズマリーが枯れた。冬季の水やりの量と頻度が調剤録に書いてあったが、誰もその帳面を持っていなかった。


 しかし最も深刻だったのは、禁忌録の不在だった。


 第二王子の風邪に際して、薬師がトチノキ由来の成分を含む調合薬を処方した。

 リアーナの禁忌録には「王太子殿下——トチノキ花粉アレルギー。風邪薬にトチノキ由来成分を使用する際は、王太子と同じ食卓で薬を扱わないこと。飛散した粉末でも反応あり」と明記してあった。

 誰も、その注意書きの存在を知らなかった。

 第二王子の薬を調合した部屋に、エドヴァルドが入った。

 その夜、エドヴァルドは三日間、寝台から起き上がれなかった。


 宮廷薬師が王太子の枕元で呟いた言葉が、侍従たちの間に広まった。


「集中管理していたのではございません。リアーナ嬢が一人で体制を作り上げたのです。薬草の栽培から配合、禁忌管理、納入検査まで——あの三冊の調剤録と、六年かけて鍛えた嗅覚なしでは、この宮廷の薬は何一つ安全に作れません」


 ロゼッタは黙った。聖女の癒しの力は万能ではなかった。薬の配合を間違えれば、癒しの魔法でも副作用は消せない。

 エドヴァルドは天蓋を見上げながら、初めて思った。

 あの女の名前を、自分は何と呼んでいただろうか、と。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 ヴェルデン公国の首都レーゲンスブルクは、穏やかな街だった。


 ヴィクトルが用意してくれた研究院は、石造りの瀟洒な建物で、南向きの大きな窓があった。朝日が差し込む執務室には、真新しい実験器具と、壁一面の薬草標本棚が並んでいた。

 王宮の薬草園には、窓がなかった。地下の調合室で、ランプの灯りだけで六年間働いていた。


 初日に驚いたことがある。

 研究院のスタッフが、リアーナに挨拶をしてくれた。一人一人が、名前を呼んで。


「リアーナ様、本日からよろしくお願いいたします」

「薬草園の区画をご案内します。ご要望があれば何でもお申し付けください」

「リアーナ様の論文、拝読しました。ベラドンナの検出法、私たちも導入してよいですか」


(……名前を、呼ばれた。仕事を、読まれた)


 王宮では「薬園の管理人」か「フォンテーヌの娘」としか呼ばれなかった。六年間、名前で呼んでくれたのはフォンテーヌ家の侍女だけだった。


 昼食の時間になった。

 食堂に並んだ料理を見て、リアーナは足を止めた。


(これを……先に成分を確認しなくていいの? 毒味も、品質検査も、要らないの?)


 六年間の習慣だった。王宮では、自分の食事の前に必ず薬草園で使う食材の品質を確認していた。虫食いがないか。変色がないか。異物が混入していないか。自分のためにではなく、王族のために。

 ここでは、自分のために、ただ食べていいのだ。


 一口食べた。温かかった。

 ただそれだけのことが、鼻の奥をつんとさせた。

 温かい食事を、温かいうちに食べるのは久しぶりだった。王宮では調合が終わるまで食事を取らなかったから、いつも冷めた皿が待っていた。


「リアーナ嬢」


 ヴィクトルが隣に座った。研究院の昼食を、当主自ら一緒に取りに来ていた。

 王宮では、誰も隣に座らなかった。薬草の匂いが染みついた手で食事をする女の隣には。


「口に合いますか」

「……はい。とても」

「よかった。料理長には、刺激の少ない食材で作るよう伝えてあります」

「……なぜ、そこまで」

「三年間、あなたの注意書きを読んでいた人間ですから。薬草の匂いに長年晒された嗅覚が、強い香辛料で鈍ることは想像がつきます」


 リアーナは箸を置いた。

 この人は、自分の体のことまで、注意書きの行間から読み取っていたのだ。

「この研究院の定時は午後五時です。鐘が鳴ったら帰ってください」

「五時、ですか」

「薬草は逃げません。あなたが健やかでなければ、良い薬は作れない」


 リアーナは箸を置いた。

 目の奥が熱い。


「閣下」

「ヴィクトルで構いません」

「……ヴィクトル様。一つ、伺ってもよろしいですか」

「何でも」

「なぜ、三年間も処方箋を読み続けてくださったのですか」


 ヴィクトルは少し間を置いて、答えた。


「最初は外交の一環でした。取引先の技術水準を把握するために」

「……はい」

「けれど二年目の冬に気づいたのです。注意書きの筆跡が、わずかに乱れた時期があった。ベラドンナの混入事件があった頃です」


 リアーナの指が、微かに震えた。


「筆圧が強くなっていた。文字の間隔が詰まっていた。——けれど内容は、一切手を抜いていなかった」

「……」

「あの注意書きを書いた人は、どれだけ辛くても仕事を投げ出さない人だと思いました。それから毎月、書簡が届くたびに確認するようになりました。まだ王宮にいるか。まだ薬草園を守っているか」


 ヴィクトルの手が、テーブルの上でリアーナの手にそっと重なった。


「解任の報せを受けた日、執務室を飛び出しました。副官には国を空けるなと怒られましたが、聞いていません」


 リアーナは、六年ぶりに涙を流した。

 今度は、紙を汚す心配がなかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 追放から一月後、王宮から使者が来た。


 リアーナは研究院の応接室で、静かに使者を迎えた。

 ヴィクトルが隣に座っていた。


「リアーナ・フォンテーヌ嬢。王太子殿下より、帰国と調剤録の返還を命じます」


 リアーナは背筋を伸ばし、穏やかな声で答えた。


「帰国命令の法的根拠を伺えますか」


 使者が一瞬、怯んだ。


「私はフォンテーヌ伯爵家の令嬢であり、王太子殿下の婚約は既に白紙に戻されております。雇用関係も殿下ご自身が断ち切られました。現在の私に帰国義務はございません」


 使者が口を開きかけたが、リアーナが遮った。


「次に、調剤録について。この三冊は私物です。紙も革も自費で購入し、記録は全て勤務時間外に作成したものです。宮廷から調剤録作成の命令を受けたことは一度もなく、公文書としての提出も求められておりません」


 使者が「しかし、王宮の業務に関する記録であれば——」と言いかけた。


「業務命令として記録を求められたことがあれば、喜んでお返ししたでしょう。ですが殿下は六年間、調剤録の存在すらご存じでなかった。引き継ぎを申し出た際にも『そんなものは不要だ』とおっしゃいました。不要なものの返還を今更求めるのは、法的にも論理的にも無理がございます」


 使者は黙った。


「そして——もう一つだけ」


 リアーナは調剤録の三冊目を開いた。納入・禁忌録。


「こちらの記録を確認されるとよいかと存じます。四年目の冬以降、ロゼッタ・デュラン嬢の実家であるデュラン商会から納入された薬草の三割に、品質基準を下回るものが含まれておりました。私が全て検査し、差し戻しておりましたが——記録がなければ、今後は検査の基準すら分からないでしょう」


 使者の顔が青ざめた。


「もう、遅いのです」


 リアーナの声は静かだった。怒りもなく、悲しみもなく、ただ事実を述べているだけだった。


「六年分の知識と技術は、三冊の帳面には収まりません。私の手と鼻と舌が覚えていることの方が、遥かに多い。百二十八種の薬草の匂いを嗅ぎ分け、〇・一の配合差を指先で測り、王族七名の体質の変化を季節ごとに把握していた——その全てが、私とともにこの国を出ました」


 一呼吸、間を置いた。


「それを『不要だ』とおっしゃったのは、殿下ご自身です」


 使者は何も言えずに去った。


 扉が閉まった後、ヴィクトルが静かに口を開いた。


「リアーナ」

「はい」

「二千百九十日分の調剤録の中に、たった一行だけ、薬の記録ではないものが書いてあった」


 リアーナは目を見開いた。


「三冊目の最後のページ。禁忌録の余白に、こう書いてあった。——『今日、薬草園の白百合が咲いた。綺麗だった』」


 息が止まった。

 覚えている。五年目の春、誰にも見せるつもりなく、つい書いてしまった一行だった。


「その一行を読んだ時に決めたのです」


 ヴィクトルが、リアーナの手を取った。


「六年間、薬と数字だけを書き続けた人が、たった一度だけ美しいものを記録した。——この人を、毎日花が綺麗だと思える場所に連れて行きたい、と」


 リアーナの視界が、滲んだ。


「私と、ここで暮らしてほしい。あなたの研究を支える。あなたの薬草園を守る。そして——あなたの隣で、白百合が咲くのを一緒に見たい」


「……ヴィクトル様」

「返事は急ぎません。ただ——」

「はい」


 リアーナは、涙を拭わずに笑った。


「はい。喜んで」


 笑い方を、忘れかけていたことに気づいた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 翌朝、リアーナは新しい帳面を開いた。


 ヴィクトルが贈ってくれた革表紙の帳面。表紙には銀の箔押しで、百合の紋が刻まれていた。

 王宮時代の調剤録は、擦り切れた茶色の革だった。自分で買った、一番安い帳面だった。


 最初のページに、こう書いた。


 ——ヴェルデン公国薬学研究院 調剤録 第一号。

   記録者 リアーナ・フォンテーヌ。


 ペンを走らせる。今日の薬草園の状態、新しく植え付けた苗の品種、土壌の酸度。研究員たちとの打ち合わせ記録。

 書いているうちに気づいた。文字が違う。

 王宮時代の文字は小さかった。省スペースで、情報量を優先した、硬い文字だった。

 今書いている文字は少しだけ大きくて、丸い。余白がある。


 最後の行に、少しだけ迷って、こう書き加えた。


 ——本日、研究院の庭に白百合の苗を植えた。

   来年の春には咲く予定。

   これは予測ではなく、願いです。


 窓の外で、午後五時の鐘が鳴った。

 リアーナはペンを置き、帳面を閉じた。


 定時だった。

 廊下に出ると、ヴィクトルが立っていた。


「今日は晴れています。帰り道に、街の花屋に寄りませんか」

「……はい」


 リアーナは笑った。もう、笑い方を忘れてはいなかった。

 帰る場所がある、ということの温かさを、リアーナは今日も知った。

読んでいただき、ありがとうございます。


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