ベッカライウグイス⑨ 私の秘密とユニコーンの襲来
たくさんの道、分かれ道、子どもたちはその中から自分で選んだ道を進むわけです。その道を自由に選ばせてあげるのが、親の一つの役割なのではないでしょうか。成長し、自分で選択した道で、こうして輝いて人生を送っているリスさんの姿を見られて、私は今日、とても幸せでした。
校長先生の言葉を胸に、再びベッカライウグイスでパンを焼く私たちの前に、
ユニコーン登場!
本日のお召し物は、長い舌を突き出した、ふざけたユニコーンの刺繍ポロシャツでございます。
パン生地は、順調に発酵中。
私の疑念も発酵中。
○○小学校の日曜日。リスさんのパン教室は、ただ一点気になる要素を除いては、滞りなく進行していた。
家庭科室は、3階にあった。大きく開けられた窓からは、盛夏に向かう風が気持ちよい具合に入り込む。パン教室は、10時から始められたが、時間を追うに従って、校庭から子どもたちの遊ぶ声が次第に大きく聞こえだした。
私たちが、紅茶のお代わりが欲しくなる頃、パン生地の一次発酵はちょうどいい具合になってきた。
リスさんと私は、そろそろかな、と歓談を切り上げて立ち上がった。
その様子を見た参加者の皆さんも、名残惜しそうに話の輪から離れていき、自分の台に戻った。
リスさんと私は、確認のために各調理台を回る。
濡れ布巾をめくると、小さなボウルの中には、成長したパン生地がぷっくりと詰まっていた。
私は、このときの表面の手触りがなんとも言えず好きである。粉もふっていないのにさらさらで、かつしっとりとしている。薄い表面をよく見ると、小さなガスの粒が散らばっている。
「では、レジュメにある方法で、フィンガーチェックをしてみてください」
リスさんが言うと、皆さんはその代表者を譲り合い、選出された人は、パン生地に恭しく粉をふり、人差し指をそっと入れた。
私が見ると、古賀さんは、なんとも言えない表情でパン生地に人差し指を突き立てている。そんな彼を代表者にしたお母さんたちは、励ますような目で見上げている。
「指を抜いてみて、生地が上に戻ってくるようでしたら、まだ発酵が足りません。反対に、ガスが抜けた感じで生地が沈んでしまうようでしたら、発酵しすぎで酸っぱい匂いがするかと思います。どうでしょうか?」
「だいじょうぶです!」
「だいじょうぶです」
どうやら、一次発酵は問題なく進んでいるようだ。
皆さんは、そっと、ボウルから生地を取り出して、大きなまな板の上に並べる。
「では、取り出した生地にパンチをするのですが……」
ぱちん!!
誰かが、パンチを行った。
タイミングが、バッチリすぎた。古賀さんである。
「……えっと、本当にグーでパンチをするわけではなくてですね、優しく折りたたむようにして、生地の中に溜まったガスを抜いてあげてください」
古賀さんは、粉の付いた手で、頬を覆った。
「だいじょうぶですよ」
「うん、だいじょぶだいじょぶ」
周りのお母さんたちに声を掛けられ、耳を赤くしながら椅子に座り込んだ。
「それから、スケッパーで分割に入ります。もう一度丸くまとめて、ベンチタイムを取ります。ガス抜きで、生地が少し疲れてしまったので、休ませる時間をとるわけです。このときに、再びガスが溜まるように、綺麗に丸めてあげます。少しだけ、表面部分に力を入れて丸めます。少しだけ」
リスさんは、説明していた近くの調理台で、スケッパーを使って生地を適当な生地をとると、実践して見せた。
リスさんの手の中で、パンはあっという間に綺麗に丸まる。
「親ガメは、70グラム、子ガメは30グラムで計量してください。残った分で、頭、手足、尻尾の部分をとります。子ガメのパーツは小さいですが、これもベンチタイムのために丸めます」
リスさんは、調理台を離れるときに、近くのお母さんに小声で言った。
「これは、親カメ分の70グラムです」
「えっ、先生、計らなくて分かるんですか」
リスさんは、恥ずかしそうに答えた。
「仕事なので」
リスさんの技の一つである。
この季節は、室温で大丈夫だと思いますので、そのまま濡れ布巾を掛けておいてください。ガス抜きは、生地の中に入っているガスを一度抜くと、イーストさんはですね、次に、質のいい細かなガスを出すようになります。きめ細かなパン生地になるよう、頑張ってくれます」
皆さんの手の中で、白い生地がくるくると丸められる。
「では、二次発酵の間に、冷蔵庫に入れておいたクッキー生地を、適当な大きさに丸めて伸ばします。餃子の皮のような感じでいいとおもいますが、余り薄いとヒビが入ってしまうので、パンの発酵に負けないくらいの厚みにします。だいたい、3、4ミリくらいあれば大丈夫です。……レジュメには、親ガメ45グラム、子ガメ20グラムと書きましたが、大体で大丈夫です」
私は、つい古賀さんの動向が気になってしまう。古賀さんは、今度は大人しく、お母さんたちに活躍の場を譲って、椅子に座ってレジュメを読んでいた。そして……リスさんを見る。見つめている……。私は、ここでみっちゃんの気持ちが手に取るようによく分かった。リスさんを危険な目に合わせてはいけないのだ、そういう使命感である。
古賀さんは、小さなパーツを丸めるのに
「あっ、……うん、お?」
と苦心していたが、それは皆さんそうであった。特に、子カメはたいへんである。ビー玉のように丸められたパン生地が、まな板の上に並んでいく。
ベンチタイムが終了し、軽くガス抜きした生地を、もう一度丸め直す。
そして、いよいよ、メロンパン生地とクッキー生地、その他パーツの合体作業である。
お母さんたちは、実に手早く器用である。あちらこちらから
「かわいいー」
という歓声が上がり、作業を楽しみながら行っていることが分かる。
お父さんたちや、男性担任の先生たちにはいささか不向きな工程である。普段、細かな作業をしていないとなかなか難しいと思う。
意外に、古賀さんはそれを器用にこなしていたのを、私は目の端にとどめ、その後ろを通り過ぎる。丸めるのは難しそうだったが、パーツを作る手際はよかった。
オーブンは、発酵の温度に温められ、それぞれが作ったカメたちは、庫内で二次発酵の時間を過ごす。カメたちは、膨らんで育つ。
その間に皆さんは後片付けをテキパキとこなし、辺りを布巾で拭き、その布巾を洗って干す。家庭科室は、使われる前の姿に戻して返却されるようだ。
最終発酵が終わり、カメパンは庫内から一度出され、オーブンは温度を上げて予熱される。
「すんごく可愛くなってきたわねー」
「子どもが待ってるけど、私が食べたいー」
「ふふふ。私も~」
楽しいおしゃべりがあちこちで起こる。
カメたちが再び庫内に入ると、バターと小麦の焼ける匂いが漂いはじめた。
「いい匂いですね!」
この匂いに、お父さんたちは敏感に反応し、自分が手塩に掛けたカメたちの出来具合を、そぞろになって待つ。
いよいよ、カメたちが、焼き上がった姿を現した。
次々に、オーブンからかわいらしくお目見えし、調理台に準備された網の上に載せられていく。
壮観である。
パン屋さんに勤めている私も、こんな数のカメパンが並ぶのを見たことがない。調理台の上に乗った、総勢200匹以上のカメパンたち。
こんがり焼けたカメたちは、大小、勇猛果敢にさえ見えた。
皆さんからは、喜びの歓声が漏れる。
「すっごいわね」
「並んでる、並んでる!」
「かっわいい~」
粗熱が取れるのを待って、持ち帰り用の袋が配布される。PTAの方々は、エプロンを外し、帰り支度を始めた。
いつの間にか校長先生が、家庭科室に現われ、後ろからリスさんを見守っている。
リスさんは、カップに温めてあった白と黒のチョコペンで、近くにあったカメに顔を描いた。大きな口でにっこり笑ったカメである。お母さんたちが集まってくる。
「かわいい!」
表情がつくと、かわいさ倍増である。
PTA会長は、パン教室が始まったときのように、両手をメガホンにして頬に当て、教室に呼びかけた。
「チョコペンは、皆さんお持ち帰りになって、ぜひ、お子さんたちと一緒に、カメの仕上げをされてください」
参加者に、二色のチョコペンが配られた。
「名残惜しいですが、リスさんのパン教室、終わりが近づきました。では、校長先生のお話です」
校長先生は、教室の端を通って、前までやってきた。
「もう、職員室までいい匂いが漂ってきてまして、私も待ちきれなくてふらふらっと出てきてしまいました。私の分は……ありますかね……」
「はいっ!大丈夫ですよ、校長先生!」
リスさんに質問をした先生が、手を上げて答えた。
「わぁ、級木先生、ありがとうございます!」
校長先生は嬉しそうだ。
「ご存じの通り、本日講師を務められた、ベッカライウグイスのリス先生は、本校の卒業生です。それとともに、私の教え子でもあるんですね。リス先生が、5、6年生のときに、理科を教えていました。先生はですね、奥ゆかしいタイプの子どもさんで、三つ編みを一本にしていつも後ろに結んでましたね。登り棒をするするっと登る姿が、職員室からよく見えました。まさに、お名前の通り、登るのが上手、なんですが、低学年の子どもたちに順番を譲ってあげたり、お尻を持ち上げて、上に登らせてやったり、そんな姿を覚えています」
校長先生の話に、リスさんは目を大きくして驚いていた。
「それで、リスさんは、将来どんな人になるのかな、と思っていたら、見事
ベッカライウグイスのリスさんになられたわけです。人間には、色んな道がありますし、かつ道はたくさん分かれています。子どもたちはその道を自分で選んで進むわけです。その道を自由に選ばせてあげるのが、親御さんの役割の一つなのではないでしょうか。成長し、自分で選択した道で、こうして輝いて人生を送っているリスさんの姿を見られて、私は今日、とても幸せでした。お父さん、お母さんたちも、きっとお子さんたちが輝く姿を見られて、幸せに感じる未来を、私たちは毎日願っています」
拍手の中、リスさんのパン教室は幕を閉じたのであった。
玄関では、親の帰りと親子カメパンを心待ちにした子どもたちが、大勢待っていた。親たちが見えると、走り寄って迎える子もいる。
「あっ!マーマー!カメパンできた?!」
低学年の子どもたちは、我慢できずに、お母さんの持つ袋を覗き込み、笑顔を見せる。
「いい匂いするー!」
お父さんのお迎えにやってきた子どもも、嬉しそうだ。
そこへ、古賀さんが、お嬢さんなのだろう、高学年と中学年のかわいらしい姉妹に迎えられ、おずおずと袋から自作のカメパンを出して見せている姿があった。
「うっわー上手にできたね!」
姉妹のお姉さんの方から褒められ、ピンク色のユニコーントレーナーを着た古賀さんは、首の後ろに手をやって照れていた。
リスさんと私は、職員玄関で、校長先生、副校長先生とPTA会長さんに見送られた。
「リスさん、今日はありがとうございました!ぜひまた来てくださいね。パン教室ではなくても、待ってますよ!」
校長先生は、再びリスさんに握手を求め、リスさんは恥ずかしそうに笑いながらその手を握った。そうして、私たちは小学校を後にした。
すでに夏の太陽は、地表の湿り気をすべて奪い、午前中に私たちがやってきた歩道は、木蔭に覆われた土も乾いていた。風が吹くと、かすかに砂埃の匂いがする。
たった四時間ほどのパン教室の時間の間に、訪れた小さな変化を、リスさんも私も感じていた。
「校長先生、リスさんのことをよく覚えていましたね」
「ほんとに。びっくりしちゃった」
リスさんの笑顔は幸せそうである。それは、自分が生きていることを喜び、自分の幸せを願ってくれている人がいることを知った幸せだった。
「PTAの皆さん、喜んでくださってましたね」
リスさんは、
「そうね」
と頷き、
「……私、お母さんたちの年齢にけっこう近かったけれど、そういう未来よりも、懐かしく思い出すのは、校庭で遊んでた頃の自分だった……」
リスさんは、続けた。
「ベッカライウグイスが閉店して、仕込みが終わった頃、お母さんがいつも迎えに来てくれたの。校庭にある大きな柏の木も、その頃と何も変わらなかった。砂場で遊んでた自分がいるみたいな気がしたわ……」
私は、小さく頷いて、夏風が物憂い午後の息苦しさを連れてくるのを感じていた。
「……私も、よく校庭で遊んでました。私のところの小学校には、校庭に丘みたいな小山があって、そこで飽きもせず空を見てました。……やっぱり、お母さんが迎えに来てくれて。懐かしい思い出です」
リスさんが、微笑んで私を見た。
「……私たちも、いつか親になるのかな」
そうリスさんが言うので、
「……先のことは、分かりませんけれど、リスさんはなりたいですか、お母さんに?」
と聞いてみた。
リスさんは、やや考えて答えた。
「……うん、そうね。いつかなれたらいいな、って思う。三多さんは?」
「……私は……これから考えてみます」
「リスせんせーありがとう!」
向かいの歩道から、パン教室に参加した親子が手を振ってくれた。私たちも軽く会釈をしながら手を振り返した。
ベッカライウグイスに帰り着くと、リスさんが、明日の仕込みは一人でできるから大丈夫、というので、私は買い物をした後、マンションの自分の部屋へ向かった。
私には、リスさんやみっちゃんに話していないことがある。
みっちゃんたちは、私の面接のときには、色々な質問をしたが、それは主に私の人柄を推し量るためのことに限定した内容だった。どんな勉強をしてきて、どんな仕事をしてきたか、なぜ前の職場を辞めたのか、仕事に何を求めるか、そういう問いに答えた。私の家族関係や、仕事とは関係のない個人的なことは何も聞かれなかった。追々知ることがあるのならそれでいいだろう、という姿勢で、みっちゃんも、弘子さんもさくらさんも私に接した。あの時、羽鳥さんが辞めることになって急にリスさんがたいへんな状況になりそうだったので、短い間でも務めてくれたらそれでいい、と思ったのかも知れない。私も、春にここへやってきて、それからどうするのかどうしたいのか、まだ何も考えていない……。
エントランスを抜け、エレベーターで上階へ上がる。
しんとしたフロアに降り立ち、冷たいドアに鍵を刺す。
「ただいま」
小さな声で帰りを告げても、返事をしてくれる人はいない。コンクリートの中の部屋は、夏だというのに冷えていて、私は窓を開けて外の温い空気を入れる。春には、こんな気持ちではなかった気がする。
私は、ベッカライウグイスの宿舎で寝起きするようになっても、少なくとも三日に一度は、ここへ帰ってきていた。
シューさんは、みっちゃんたちの心配するような人ではない。それは、ここひと月以上一緒に過ごす時間を経て、よく分かった。あそこは、リスさんとシューさんが二人でも、何も問題はないだろう。みっちゃんたちにも、シューさんの人柄や様子は十分伝わっているはずだと思う。
「……この部屋に帰ってこようかな」
口に出していって見る。
「お父さん。お母さん。おばあちゃん……」
私は、私の大事な人たちの、小さな居場所に向かって声を掛けた。新しい果物をお供えして、手を合わせる。
私が生きていることを喜び、私の幸せを願う人たちは、みんないなくなってしまった。
引っ越してきて、四か月が経とうとしている。
私は、小さなベランダに出て、立ち並ぶマンションに切り取られた、不定型な空を見上げた。
翌日の月曜日には、ご丁寧に校長先生からお礼の電話が入り、次の学校便りとPTA会便りには、リスさんのパン教室の様子が写真入りで掲載されると教えてくれた。皆さん喜んでくださったようで、リスさんと私もほっとし、みっちゃんたちはお祝いではないが、お祝いムードだった。
私は、いつ、ベッカライウグイスの宿舎からマンションへ帰ることを話そうか、頃合いを見計らっていた。
シューさんの仕事は順調で、予定より早くドイツへ帰れそうだと、昨夜嬉しそうに話していた。それならば、私が使わせて貰っている部屋は、早く出るに越したことはないだろう。だが、みっちゃんとリスさんが一緒にいるときにそのことを切り出そうとすると、言葉が喉に絡みつき、私はそれを飲み込んでしまう。あの部屋を出なければいけないのに、シューさんだってそのうちドイツへ帰ってしまうのに、それが寂しい。そうして、時間は過ぎていった。
カランコロン
「いらっしゃいませ」
パン教室も数日前の出来事となり、ベッカライウグイスは通常の毎日を過ごすようになった。
「こんにちは」
地域のマダム、赤間さんである。ご本人はいたって庶民感覚で気さくな人柄なのだが、ご主人が医院を開業されているのがマダムと呼ばれるゆえんである。
「小学校のパン教室、大人気だったんですってね!よかったわね、三多さん!」
私は、笑顔で応える。
「ありがとうございます。おかげさまで、私も楽しかったです」
ところが、赤間さんはそこで、声のトーンを曇らせた。今までそんなことは一度もなかったので、私は不思議に思った。
「そういえばなんだけど、……最近リスさんは大丈夫?」
「えっ?……大丈夫、とは……」
赤間さんは、心配そうに眉根を寄せている。
「うーん、まだ、リスさんには言わないでね」
なんだろう。その内容によるが、私は、仕方ないので、頷いた。
「リスさんのことを、色々聞いて回ってる人がいるのよ」
「えっ?!」
私は、驚いた。
「不審者ですか?!」
記憶に新しい言葉である。
赤間さんは、頬に手をやる。
「うーん、そうかな。具体的に、誰って分かっていないからね」
私は、そこで言ってみた。
「大きい人ですか?ものすごく」
赤間さんは、首を振る。
「ううん。そうは聞いていない……」
思わず聞いてしまったが、……そうだろう。シューさんは一緒に住んでいる。では……誰が、何の目的で?
そこへ、工場から焼きたてのクレームダマンドを持って、リスさんが現われた。ラム酒の匂いが辺りに漂う。
「赤間さん、いらっしゃいませ」
赤間さんは、声のトーンを明るくして、リスさんに挨拶をした。
「こんにちは。ちょうどよかったわ、クレームダマンド三つお願いしますね。それと、イギリスパンと、今日は、……ああ、あんこは明日だったわね、残念。あんこの代わりに、クリームパンを三つ、それと、チーズの……クッペを二つ」
私は、ショーケースを開けて、赤間さんの注文をトレイに載せていった。リスさんは
「ありがとうございます」
と言いながら、パン置き場にクレームダマンドを並べ終わると、再び工場へ戻っていった。
赤間さんは、それを見ると、小さな声で私に言った。
「リスさんを心配させたくないから、内緒で、ちょっと気をつけてみてね」
私は頷いて、
「教えてくださって、ありがとうございます。また、何かあったら、お願いします」
と頭を下げた。
やはり、若い女性の一人暮らしを狙う不審者が多いのだろうか。
リスさんは雇用主であったが、仕事を離れると妹のように可愛い存在に変わりつつあった。あるいは、よい友人でもある。
私たちは、休日には一緒に買い物やカフェに出掛けることもあったし、同じリビングでくつろぐこともあった。リスさんの生活の中での個人的な好みも、この頃では少しずつ分かるようになってきた。多分、リスさんの方も同じだろう。
シューさんがいてくれてよかった。と私はこのとき少なからずシューさんの存在に安堵した。
それにしても、リスさんのこと限定で聞き回っているというのは、このままにしておけないのではないか。みっちゃんは心配性だから、次に弘子さんが来たときに相談してみよう、と思った。
だが、その相談は、無用となった。
その日は、気温が30度の予想だった。この夏初めての猛暑日である。
ベッカライウグイスの庭は、あらゆる植物が繁茂し、花を咲かせていた。大きく開いたペチュニアは、鉢からあふれ出し、赤や桃色の薄い花びらを憂鬱げに温い風に揺らしている。
私は、毎朝、庭に水を蒔くのが習慣だったが、こんな気温の上がる日には、午後からの水やりも必要だろうと、外へ出た。
空気が、温い。
ホースがつながっている水栓を開いて、水を出す。
そのときだった。
「……あの」
突然後ろから話しかけられ、私は驚いてホースを落とした。水が芝生に流れていく。
「こんにちは」
お客さんかな。そう思い、私は、水栓を閉めようとした自分の手を止めた。
でもなんだか……声を……聞いたことがある?……どこで?
私は、そっと顔を上げ、後ろを振り返った。
その顔は、やはり、知らない人である。暑い夏に、切りそろえられた黒髪と涼しげな目が印象的だった。白いポロシャツが、炎天下の下で眩しい。
「あ、いらっしゃいませ。お店は…………」
私は、一瞬息を止めた。
そのとき、私の目に留まったのは、ポロシャツの左胸にある小さなユニコーンの刺繍だった……。
長い、舌を突き出している、ふざけたユニコーン。
まさか……。
その名前は、すでに記憶の彼方にあった。私は、足下がホースから溢れる水に濡れるのに任せたまま、呆然として彼を見つめた。あの時の姿と、今日のは、まったく別人に見えるではないか。ユニコーンを除いては……。
「あ、あの……僕、この前、小学校でリスさんのパン教室に参加した者なんですけど……」
知ってます。
私は、黙って頷いた。
「リスさん、今、お店にいますかね?」
私は、疑問に思った。
なぜ、お店に行って、自分で確認しないのだろう?私は、黙って相手を窺った。
ユニコーンは、慌てた風情を見せた。
「あ、あの、僕、ちょっとパンを買いに……」
パンを買いに来たのなら、庭に来るのは間違いである。挙動が不審すぎる。
不審……。
私は、先日の赤間さんの話を思い出していた。
リスさんのことを聞いて回っているのって……まさか?
私は、やにわにその場から走り出すと、お店に入り込んだ。
重い扉を思い切り開き、力を込めて中から取っ手を引っ張る。
急がないと!!
扉が閉まるやいなや、鍵をぴしゃりと掛けた。
リスさんは、そんな私を見て驚いて言った。
「どうしたんですか?なにか……」
私は、額からこぼれた汗を手の甲で押さえた。
「あの……あの……ユニコーンがっ……!!」
ベッカライウグイスにいた全員が、私を振り返った。




