春に花を結ぶ
同窓の男に、大層美しい青年がいた。
男子たるもの壮健たれと噛んで含めて教え込まれる我々の中にあって、色白でしなやかなその体格は、何も知らない者からすれば軟弱と謗られることさえあったが、彼を知る者は、または少しでも彼を知ることさえできれば、そのような口は二度と聞けなくなるであろう。
何を隠そう、他ならぬ私がそうであった。彼と同じ時期に入学した私は、少なくとも最初のうちは、丈ばかり高いがぽきりと折れそうな、線の細いなよやかなその男を、内心では随分と侮った。
周囲もおおよそそのように彼を見ていたようだったし、裕福な家系の次男坊だか三男坊だか、そのような彼の出自もまた、謗りの意見に妬みを加えて熱させた。本人はそれらを全く気にした風がなかったが、それにもやっかみを加速させる作用があったように思う。
彼の名を、藤倉深春といった。
私が彼に初めて声をかけたのは、全ての授業が終わって、先生方の御用事も片付いた時分、遠くの空の茜色が、夜の群青に取って代わられるはざまの時間帯だったと思う。
弓道場を通りかかった時、こんな時間だというのに、人影があった。丈ばかり高くて肩は薄い、そんなのは諸先輩方にも見たことがない。すぐに「あの男だ」と察した私は、奴に早く去れとでも怒鳴りつけてやろうと、そちらへ早足を向けた。ここには、あの男のなよなよとした薄笑いにひびを入れてやろうという愚かな下心が多分に含まれていたことを今ならば懺悔もできようが、当時は義憤にかられたつもりであった。
ところが、だ。
奴の姿が、薄闇の中にしろい像を結んではっきりと立ち上がったとき、私ははたと足を止めることになる。なぜなら、弓を構えてまっすぐに立つその男の、藤倉深春の、なんと、なんと美しいことか。
はっきりとした目鼻立ちの、その白さは今や最後の黄金色に照らされて、複雑怪奇な影を落とし、すっきりとした鼻梁は不気味なほどに静かだった。さながら観音の如くにうっすらとだけ開いた瞼は、どこも見ていないはずなのに、私の一挙手一投足が、その眼差しに囚われたかのように感じた。
やがて彼はつういと弓に矢を番え、きりきりきりと引き絞る。瞼は未だ伏せられており、しかしながら彼の動作には一切の無駄も迷いもなかった。それだけで、彼がどれだけ熱心に弓を修めてきたのか、私にはよくわかった。
ひょう、と、矢が飛んだことに気づいたのは、藤倉深春のまなこが見開き、たん、と、的の方からひとつ、衝撃を孕んだ音がしたからだった。
私は慌ててそちらを向いた。すると、的の中央に矢がひとつ、寸分の狂いもなく、あった。
詰めていた息を吐くことも忘れて、私は見入った。私には剣の心得しかなかったが、それでも、この男の弓が素晴らしいものであることはわかった。
「どうだったかい」
唐突にかかった声に、私はひどく驚いた。一拍遅れて声の方を振り向くと、藤倉深春が私の方を向いて、穏やかに微笑んでいた。男に使うのが正しいのかは今となってもよくわからないが、白菊のような、という言葉がまさにふさわしいと思った。
「どう、とは」
「熱心に見ていてくれたようだから」
過度に集中しているように見えたが、彼は最初から、私が見ていることを知っていたらしかった。
今更ここで感じを悪くするのもおかしなことだと、私は素直に言った。
「素晴らしかった」
「本当かい」
「本当だ」
藤倉深春は嬉しそうに笑った。
「君に褒められると嬉しいよ。君の剣術はいつも素晴らしいから」
屈託なく笑う藤倉深春に、私はすっかり毒気を抜かれてしまった。彼は軟弱で、ひよわかもしれないが、少なくとも間違いなく、素晴らしい弓の使い手だ。彼の修練には、敬意を払うべきだと思った。
私は自らの名を名乗ると、藤倉深春は知っていると笑った。
「うちの学年で一番強いと有名なんだ、君のことを知らないわけがないよ」
それが、私と藤倉深春との出会いだった。
それから、私と藤倉君は、しばしば時間を共にした。それは勉学であったり、食事であったり、はたまた余暇の一時であったりした。
そうして知ったことだが、彼は確かに同年代の男と比べれば軟弱なたちではあったものの、まるでその代わりのように、あらゆる学問に深い知識を持っていた。
周囲からの彼の評価が、軟弱者から賢人へと変わるのにそう時間はかからなかった。そしてまた、彼のもの柔らかな人柄もまた、それを後押ししたように見えた。
私たちにも下の学年がいくつか入って来た頃、藤倉君が何度か体調を崩して、寄宿舎から彼の自宅に下がったことがあった。藤倉君を慕う学友も増えてはいたものの、一番仲が良いだろうからとの先生からの指名で私が呼ばれ、何度か藤倉君の家に課題を届けたこともあった。
彼の家は、大きな洋風の建物だった。西洋風の古びた建物に、彼は一人で住んでいるようだった。
「人がいると落ち着かないんだ」
彼はそう言ったので、ならば寄宿舎はもっと落ち着かないだろうにと思った。すると彼は私の内心を見透かしたように笑いながらこう言った。
「君たちは僕と対等でいてくれるだろう。僕は、人に傅かれるのが苦手なんだよ」
彼はとつとつと、身の上話をしてくれた。
ひどくやんごとない血統の妾腹の子であること。その高貴な家柄に、次男坊として生まれたこと。妾腹ではあったものの、母は彼の記憶にも残らないほど早くに亡くなり、父の元に引き取られたこと。父の正妻は驚くほど良くできた女性で、母を亡くした自分を憐れみ、長男と同じように自らを育ててくれたこと。
「僕は生まれつき体が弱くてね。この深春という名前は、実母が僕につけた名前なのだけど、それは、僕があまりにも虚弱だったからなんだよ」
藤倉君は、秘密を共有する時にするように、密やかな声で私に言った。
「幼子の夭逝を防ぐために、あえて女の名前をつけるという……そんな風に名付けられるくらいには、僕は昔から、か弱かったんだ。主治医の先生に言わせれば、なぜこんなに丈高く成長したのか理解ができないのだそうだよ」
学舎で見る制服姿ではなく、ゆったりとした着流しで笑う彼は、たおやかな名にふさわしいしなやかさを持っていた。少なくとも私にはそう見えた。いや、きっと私以外の者でもそう思うだろう。
だが、私はそれらを口にすることを躊躇い、口をつぐんだ。
「君が羨ましいと、ずっと思っていたんだよ。君は強いから。僕と同じくらいの背丈なのに、君の体は僕よりもずっと勇壮だ」
私は何も言えなかった。間違いなく、私は過去に、彼をひ弱と侮っていたのだから。
彼は、初めて言葉を交わしたあの日と同じように、終わりかけの茜色に照らされて、白い肌を金色に染めていた。
私はそれを、とても美しいと思ったが、口にすることは憚られた。私は言葉を交わしたその時から、偽らざる本心から、彼のことをそう思っていたのだが、それが彼を慰めるとは、到底思えなかった。
私は言い訳がましく、学舎で待っていると告げて、彼の屋敷を後にした。
長期の休みに入る頃になると、周囲はにわかにざわめき立つ。私は初めの半分を学舎で、終わりの半分を実家で過ごすことにしていたから、周囲ほど急き立つ心地はなかったが、それでも彼らの浮き足の気持ちはわかった。
その頃、深春は学舎を休みがちになった。と言っても、彼は毎夏そのような風だったので、先生方も生徒らも、少しばかりの心配はしても、いつも通りといったところだった。他ならぬ深春自身が、「またか」といった風に笑っていたので、私も黙って彼の屋敷と学舎を往復する日々を送っていた。
「医師を目指すものがこの為体はよろしくないね」
勉学と弓術においては学舎で一目置かれるようになっていた深春は、私を迎えた洋風外縁の屋根下で、まだ高い日を避けるように影に入ってそう呟いた。
医者の不養生というやつかと言えば、小さく笑って頷いていた。
「君は軍人かい」
私もまた、頷いた。
入学したての頃、体格はともかく身の丈に関しては同じくらいだったのが、今や私の方が深春よりも頭ひとつ大きかった。深春は時折私を見上げては、少し悔しそうにしていた。
「夏のお休みには、実家に帰られるんだろう」
いつもの習慣になっていた、軒先の長椅子にかけてやる談笑の折、深春はそう言った。ぬるくなった緑茶を喉に流し込み、私は頷いた。いつも通りのことだからだ。
「でも、どうしてお休みいっぱい向こうにいないんだ」
深春が続けたその問いに、私は動きを止めた。
向こう、庭の青い紅葉が揺れている。てっきり、深春も同じものを見ていると思っていたのに、ちらりと視線を走らせれば、深春は私を見つめていた。
日差しを浴びるのもつらそうな白い肌に汗が滑る。薄い唇の向こうに白い歯が覗いている。唇が嫌に赤く見えた。背もたれに体重を預けてだらしなく座る彼の瞳は、しかし真剣に、真っ直ぐに私を見つめている。
夏の日は落ちるのが遅い。しかし、その遅い日差しが滑り落ちる中で律儀に投げた金色が、またしても深春の頬を濡らしている。汗の滲んだ頬に、首に、そして………。
「ああ」
不意に、深春が声を上げた。
「日が落ちる。帰った方がいいよ」
私は空を見た。群青が染み出して空を侵食してゆく。追い立てられた金は未練がましい茜を吐いて、空の向こうに消えてゆく。
私は、ふと、言った。
「深春」
立ち上がって茶碗を片付けていた深春が私の方を向く。
「夕刻に、何かあるのか」
深春は動きを止めた。その間にも、空は夜に染まってゆく。
薄暗くなってゆく中で、私は確かに見た。
深春の肌に、茜ならざる赤が落ち、広がってゆくのを。
「なにも、ないよ」
嘘だ。
私は直感した。
だが、その直感よりも先に、なにか、見てはならぬものを見たような心地がして、それで強く喉が締め付けられて、ただ、そうか、とだけ言った。
「身体に気を付けて」
それをお前が言うのかと、言ってやりたい気もしたが、私は黙って頷くと、深春の屋敷を後にした。
その道中、私は決して振り返ることはしなかったが、深春がじっとこちらを見ていることは気配でわかっていた。
私にはその眼差しが、とても、とても、……
秋、涼しくなってくると、深春の体調もいくらかましになったようだった。といってもこの頃には、もはや寄宿舎から通うよりも自宅から通うことの方が増えていた。というのも、宿舎の方にも水道を通すため、工事が行われていたのだが、その工事の折りに彼の部屋を工具などを置くための物置として借りたいという打診があったのだ。宿舎こそ新しいもののやけに入り組んだ地形に立っているため、掘立て小屋を建てるのにも一苦労なのだろうと、深春とその同部屋の連中は、それを快く受けて、各々別の部屋に散ったのだ。その際深春は、慣れたものだからと自分の家から通うことにした、というわけだった。
あの夏の日から、私が深春の家に行くことはなかったが、それを除けば、私と深春は、深春が体調を崩す前と全く同じように過ごしていた。
……いや、嘘だ。
あれから、私は、時折深春を避けた。彼もどうやらそれに気づいているようだったが、それを咎めるようなことはしなかった。
私は剣道場で、彼は弓道場で、それぞれ技を磨くことが増えた。
銀杏の葉が落ち始めた頃、随分と久しぶりに、深春に会った。もうすっかり日も落ちて、茜は群青にすげ代わり、瓦斯灯が灯り始める頃だった。
「やあ、元気そうだね」
お互い様だろうと言うと、深春は朗らかに笑った。
きっちりと制服を着込んだ彼は、その上から外套を羽織っていたが、それでも少し寒そうに見えた。私は黙って自分の襟巻きを解くと、彼の首にかけて軽くゆわえた。
「君は寒くないのか?」
「今のお前を見ている方が寒い」
深春はそれ以上何も言わずに襟巻きを少し正した。 また風邪を引かれても困る、と、冗談めかして言おうとしたが、それは喉元で止まった。それは彼にとって、とても繊細な部分を抉りそうな気がしたからだ。
もっとも、そんな私の付け焼き刃の気遣いなど、聡い深春にはお見通しだった。
「流石にこのくらいで風邪をひくほどか弱くはないよ、僕は」
ぱっとそちらを見ると、まるで悪戯事を完遂した弟たちと同じ目をしていたので、思わず呆れて息を吐いた。
それでもおとなしく襟巻きに巻かれたままの深春と共に、廊下を歩きながらぽつぽつと話をした。
私たちの間には、不思議な気まずさと、それから奇妙な高揚があった。
深春が軍医の指南を受けた話をすれば、私は軍人も混ざる剣道の大会に出たことを話し、私が弟たちの悪戯に手を焼く母の話をすれば、深春は兄嫁の懐妊の話をした。そうやっていくつかの話題が交差して、それらが終わる頃、私たちは学校の門の前まできた。右に曲がれば深春の、左に曲がれば私の帰路だ。
そこでふと、私と深春は黙り込んだ。私は元々口数の多い方ではなかったので、私が黙り込むのは珍しいことではなかったが、いつも静かな小鳥の囀るように滑らかな語りでものを言う深春が黙り込むのは、とても珍しいことだった。
私は、深春の目をじっと見つめていた。深春もまた、私の目をじっと見つめていたからだ。
では、また明日、という、ただその一言が喉につかえて苦しかった。
深春が、私の手をとらえた。硬く分厚い私の手に比べたら、途方もなく白く滑らかで繊細な、しかし間違いなく弓を引くものの手が、私の手をとらえた。彼の手は、私とさほど変わらない大きさをしていた。
その時、私は初めて、深春が手袋をしていないことに気づいた。
「寒くは、ないのか」
また明日の代わりに、私はそんなことを口走っていた。びくりと震えた深春の手が、おずおずと離れていくのを反対に捕まえた。彼の手は可哀想なほど冷たく凍えていて、震えていた。
私は再び彼を見たが、彼は俯いていたために、目が合うことはなかった。
「送っていく」
私は言った。
「倒れられては困る」
彼が何かを言う前に、私は彼の手を引いた。すっかり夜になったこの群青に、今日ほど感謝したことはなかった。
それから、私たちは黙って、ただ歩いた。深春の手には私の体温が移り、多少人間らしい温度になっていた。
彼の屋敷は少し人通りを避けたようなところにある。だからそれにかこつけて、私は彼の手を離さなかった。深春がそれをどう思っていたかはわからないが、それでも、手が離れることはなかった。
やがて彼の屋敷が見えて来て、茜すらない暗闇に立つ、瓦斯灯の頼りない明りのみに照らされたその威容に負けじと胸を張り、私はなお、深春の手を引いていた。
ついたぞ、と、声をかけるのも妙な心地がして、玄関前の石畳に着いてもなお、そうしたままだった。
「深春」
そう呼ぶと、手の中にある彼の手が、小さく握られたような気がした。そこで私は振り返り、頭ひとつ下にある深春の顔を見下ろした。
「深春」
再び呼ぶと、深春はやっと、ゆるゆると、酷く緩慢に、顔を上げた。白い顔は相変わらず美しく、儚げだった。
「ついてしまったね」
その瞬間、私の胸に到来したのは、あまりにも切実な、爪の先で掻きむしられるような切望だった。胸に詰まった臓物を全て呑み込むかのような衝動に、私は目眩すら覚えた。
私にはその衝動が、何を望んでいるのかを計りかねた。己が身のうちのことだというのに随分とおかしな話だが、しかしそうとしか表現できなかった。
それでも動くことができたのは、ともすれば奇跡に近しいものだったのかもしれない。それは、剣を振るう時の直感に近かったように思う。
ともかくも、私はその瞬間、彼の手を握り、強く引いて、己のもう片方の腕で引き寄せて、抱き込んだ。
迷子になった弟を見つけ、泣きじゃくりながら飛び込んできたその小さな体を抱きとめた時、または、階段から転がり落ちて来たご婦人を受け止めた時、人生にたった二回しかないその瞬間のどちらでもなく、私は生まれて初めて、自分の意思で他者を、深春を抱擁した。
自分の行動に、自らが一番戸惑った。数瞬ののち、私はひどく後悔した。ついで、慌てて彼を解放しようとした。
その途端だ。
深春の腕が、確かな意思を持って、私の身体をかき抱いた。
私たちは、そのまましばらくの間、そうしていた。
それから、間違いなく、私と藤倉深春の間柄は変わった。
男子たるもの、ゆくゆくは妻を娶り子をもうけることが甲斐性なのだというそれそのものに異論はいまだない。それでも、私はどうにも、かの男をこそ愛しているのだろうとは、いかに人心の機微に疎く、惚れた腫れたの類とは無縁のまま、ひたすら武術に生きて来た私にもわかった。
同時に、それと同じものを、藤倉深春もまた、その身のうちに飼っているということも。
それを思えば、己が身のうちに巣食うそれもまた喜びに満ちてのたうつのである。
私と彼は、それまでとは全く変わらずに過ごした。それは別段特別な理由があったというわけではない。私たちにとって、巣立ちの時は程近く、私たちは急き立てられていたのだ。この学舎を拠り所に生きていられる時間はそう長くはない。桜の花が咲く頃には、私たちは道を分かつ。
私たちは廊下ですれ違うたび、或いは放課の時刻になればそのたび、互いの近況をかわしながら指を触れ合わせた。冬の寒い時期が幸いして、それを見咎められることはなかった。そもそも二人とも、人目がある時にはつとめて普段の学友として振る舞った。私たちのことを見咎めるものがいないように、注意を払った。深春はそれが心底楽しいようだった。
「君の弟さんたちが悪戯をするとき、こんな心地なものなのかな」
彼はくつくつ笑いながら、物陰で私の指に唇で触れた。薄い唇が触れる感触はいつでもくすぐったく、しかし彼の薄い皮膚を私の無骨な指が傷つけやしまいかと、私はそればかり気になった。
私が彼の手を握る時、私はその指を折ってしまわないかとばかり気にかけていたから、それがより彼を面白がらせた。
「僕だって弓を射るんだよ」
「それは知っているが」
「ほら、僕の指の長さは、君とほとんど変わらない」
「太さは大人と子どもほど違う」
そして時々、私と深春は彼の屋敷に行った。ここでは誰も私たちを見ない。ひとたび扉を潜れば、深春は私にもたれかかった。
折れそうな肢体でありながらも地にまっすぐ足を立て、意思持つしなやかな白樺のように立つ男が、甘えるように私にもたれることがたまらなかった。
私は時々たわむれに、弟にしてやるように、彼の身体を抱え上げてやった。彼は屈託なく笑った。悪戯好きな弟を思い出して思わず微笑むと、彼もまた満足そうに笑った。
「幼い頃は家からほとんど出られなかったから」
彼は体が弱かったから、と、幼い頃の彼に思いを馳せる。私は昔から、兄の背を追って剣ばかりを手にしていた。海軍につとめる叔父から泳ぎの手習を受けたり、陸軍につとめる従兄弟から体の鍛え方を習ったりしたが、それら全ては剣のためだったように思う。
彼は私のもの思いを察したのか、私の腕の中で身動きをして、私の顔を見上げた。
「兄と遊んだこともなかったけど、兄と遊ぶのはこんな心地だったのだろうか」
私は深春を見下ろした。
なぜだかそれは、あまり愉快ではなかった。
私は深春を抱える腕を緩めて、彼をそっと下ろした。
私はそっと彼の頬に手をかけると、人差し指でそっと、その繊細な唇を二度、軽く叩いた。
深春はひどく驚いた顔をして、それから。
私はその唇に己のそれで触れる寸前に、喉の奥を鳴らすように低く言った。
「私はお前の兄ではない」
ふと、触れたのはほんの数秒だった。それでも、どちらからともなく吐き出した息は、あまりにも充足に満ちていた。
「……そうだね。兄は、このようなことはしない」
そうだろう、と、笑う私に彼もまた笑った。
春。
私たちはあの学舎を発つ。別れの季節に桜は麗しく、人の心に寄り添うように揺れていた。
「もうすぐ、あの学舎ともお別れだね」
彼の屋敷の応接間で、私と深春は窓の向こうの桜を見ていた。藤倉邸の庭先には、見事な枝垂桜が咲いていた。
「君ともお別れか」
私は黙って頷いた。私の任地と、彼の行く医学学校は、随分と離れた場所にあった。
私は軍人に、彼は軍医になるのだ。
「僕が軍医になったら、君の近くにいられるかもしれないね」
「そう都合良く任官はされないだろう」
洋長椅子にかけて彼の淹れた茶を啜りながら、私は言った。太陽はいまだ天高く、新緑の青々とした輝きがまぶしい。
「手紙を書くよ」
深春は笑った。それから、ふと静かになる。私は桜から目を離して、彼の方を見た。深春は、ひどく真剣な顔をしていた。しかし、その白い肌は、常ならぬ赤みを浴びている。
それには見覚えがあった。それは、秋より前のあの日の赤。
私は、ゆっくりと茶碗を盆に戻した。
私は、ゆっくりと、手を伸ばした。
深春の手が、私の手に重なる。それを引き寄せれば、彼は容易く私の元に落ちて来た。
「夕刻に、なにがあったのか、今ならば、聞いてもいいか」
赤が、より深くなる。
深春は言った。
「君が、僕に、口付けを………」
してくれるなら、とでも続けるつもりだったのか、私にはもはやわからない。ただ、私はそうした。あの秋に比べて、私も深春も、大人になった。
啄み、誘い出し、吸い付き、吸い上げる。思うさまそうした。私が満足して唇を離すと、彼はくったりと、私に体を預けていた。
「軟弱だな」
「こればっかりは、君が強すぎるんだよ……」
か細い非難を受け流し、その頭を撫でる。
それで、と促すと、彼は私の上で何度かみじろいだ。
「……君が、帰る、たびに」
か細くて、小さくて、それでも確かに耳朶を打つ、彼は不思議な声をしていると思った。
「君を思って、身体が熱を……持つから。だから、その、自分を、宥めていたんだよ」
夕刻のたびに。
あの時はそれを見抜かれたと思って……。
彼の懺悔を前にして、私の胸を震わせたそれを、一体何と表そうか。いかに文学に明るい深春とて、それを叶えることはできまい。
私は笑った。
「残念だが」
おずおずと上がる彼の顔を見ると、彼の瞳の中で、私はひどく悪戯な顔をしていた。
「それは夕刻ではなく、昼に叶うようだ」
私は彼に覆い被さると、彼の息が整うのを待った。どうせまたすぐ乱すのに。
枝垂れ桜の淡い色が、やがて茜に染まるまで、私たちはそうして二人だった。
終
愛や恋やを書くのは苦手なのですが、ずっと頭の中にいた二人を形にできてよかったです。
r18部分は書けませんでしたが、いつかそちらも書けたらいいなと思います。