7話
セリュアンに滞在して、一週間が過ぎた。
竜に関する情報は――まったく、ない。
風の都の名を冠しているのだから、もう少し手がかりがあると思っていたのだが、どうにも拍子抜けするほど静かだった。
ギルドにも、古文書を扱う店にも通ってみたが、目につくのは商人の噂話や街道の治安の話ばかり。風の竜の名など、ひとつも聞こえてこなかった。
……そのかわりに、最近、少しおかしなことがある。
やたらと、声をかけられる。
買い物をしていても、路地を歩いていても、突然「応援してます!」と声を上げられたり、通りすがりに手を振られたりする。
最初は、誰かと間違えられているのかと思った。けれど――何度も続くうちに、どうやら違うらしいと気づいた。
ファンクラブ、なるものまでできたと、人づてに聞いた。
意味はよくわからなかったが、宿屋の主人が笑いながら教えてくれた。
「応援されてるんだよ。街の人たち、嬢ちゃんのこと、なんかこう……誇らしいって思ってるんだろうな」
――誇らしい? 私が?
そう思ったけれど、特に否定する理由もなかった。
別に、嫌われているわけじゃないのなら。
理由はともかく、見知らぬ街で誰かに声をかけられるのも――悪い気はしない。
ならば――いいか。
竜を狩るために、私は里を出た。
伝説の存在に挑むために、この地へ渡ってきたのだ。
けれど、もしこのまま何の情報も得られぬまま時間だけが過ぎるのなら――次の土地へ移ろう。
そう、決めていた。
けれど、セリュアンは――思っていたより、過ごしやすかった。
初めて訪れた大都市。もっと荒々しく、冷たく、他人行儀な場所だと覚悟していたのに、実際はその逆だった。
風がよく通る街は、どこか懐かしさを含んでいて。
誰もが私を知らないはずなのに、すれ違う誰かのまなざしが、ふと故郷の誰かに重なる時がある。
声をかけられれば、返事をして、笑いかけられれば、少しだけ笑みを返すようにもなった。
……こんなふうになるとは、思っていなかった。
竜の気配はない。手がかりも、もう残されていない。
だけどこの街は、私に居場所のようなものをくれた。
いつまでもはいられないと分かっている。旅はまだ始まったばかり。
でも、あと少しだけなら――風の音を聞いていたい。
そう思えるほどには、私は今、ここにいる。
翌日、ギルドの扉を押した瞬間だった。
受付の奥、いつもの場所にいたはずの受付嬢が、ぴたりと顔を上げた。
私の姿を見つけたらしい。
ほんの一拍、目を見開いたかと思えば、次の瞬間には――
「ちょっと待ってて!」
そう叫んで、書類を放り出す勢いで受付台を離れた。
何事かと思うより早く、彼女は足音も軽くこちらへ駆けてきていた。
スカートの裾を揺らしながら、通路をまっすぐ。
まるで、走ってはいけない場所で走る子どものように、けれどまったく悪びれもせず。
私の目の前に来たときには、もう息を弾ませながら言葉を放っていた。
「よかった、いた! あのね――ちょっと、時間ある?」
唐突だったが、声は真剣で。
そして、どこか浮き立つような色をしていた。
私は少しだけ首をかしげ、それから頷いた。
すると、彼女はぱっと笑みを浮かべた。
「話したいことがあるの。少しだけでいいから、聞いてくれる?」
案内されたのは、ギルドの奥にある小さな個室だった。
来客用の応接室だろうか。窓はなく、石壁に囲まれた静かな空間。
木製の机と椅子がひとつずつ、簡素だがきちんと整えられている。
扉が閉められると、受付嬢は一度深呼吸して、それから少し落ち着いた声で口を開いた。
「この前の、ワイバーン討伐の件なんですけど……」
私は頷く。あれから一週間近くが経っている。
「あのとき、一緒に戦ってくれた冒険者たちが、現場に残った素材を回収してくれてて……」
彼女は手元の書類をめくりながら、少し照れたような、けれどどこか誇らしげな顔をした。
「それで……その素材、売却手続きのときに“あなたの名前で”って言ってくれたんです」
受付嬢は、少し声を和らげた。
「ワイバーン、全部あの子が倒してくれたからって。だから当然の取り分だって――皆、そう言ってたんです」
私は一瞬、言葉を失う。
あのときのことを、素材を、名も知らぬ冒険者たちがわざわざ自分のために残してくれていた。
正直、驚いた。
「これが、その分です」
そう言って彼女が差し出してきた封筒は、前回の報酬よりも分厚かった。
手に取ると、重みがある。
中身を見ずとも、それなりの額であることはすぐに分かる。
「……多いな」
思わず漏らした言葉に、受付嬢が小さく笑った。
「ええ、多いです。びっくりしましたよ。こんなの、そうそう出る額じゃないですから」
私も、ふっと息を抜くように笑った。
不思議と、緊張がほどける。
「あなた、街ではすっかり有名人ですよ」
彼女が椅子に手を添えて、どこか嬉しそうに言った。
「ギルドにも、あなたに関する話題がけっこう来てて。あ、ファンクラブの話も聞きました?」
私は、ほんの少しだけ目をそらす。
「ああ……うん。宿の主人が、言ってた」
「ふふ、あの人なら話すだろうなあ。あ、そうだ――」
急に思い出したように、受付嬢がこちらに顔を向ける。
「そういえば、あなたの名前って、なんて言うんですか?」
私は少しだけ、戸惑った。
誰かに自分の名を尋ねられるのは、久しぶりだった。
ここでは、誰も私の名を知らない。だから、聞かれなければ名乗ることもなかった。
けれど今、目の前のこの人は――
私に、名を尋ねてくれた。
「……リューベル」
静かに、けれどはっきりと口にした自分の名が、部屋の空気に染み込んでいくのを感じた。
それは、自分でも少し驚くほど素直な声だった。
受付嬢は目を瞬き、そしてふわりと笑った。
「リューベルさん、ですね。うん、いい名前です」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
ずっと名を呼ばれずに過ごしてきたこの街で、初めて誰かに、自分の名前を言った。
名前を聞かれ、名乗り、覚えてもらう。
それだけのことなのに、まるで小さな灯りがともったような気がした。
「ありがとう。名乗ってくれて」
受付嬢がそう言ったとき、なぜか、風が吹いたような錯覚を覚えた。
リューベルは軽く頷いて、手の中の封筒を見下ろす。
それは、戦った証。自分がここで息をしていたという、ひとつの証明。
きっともう少しだけ、この街にいてもいい。
そう思えた瞬間だった。
リューベルが静かに扉を閉めて退室していったあと、
受付嬢はしばらく扉を見つめたまま立っていた。
何かを確かめるように、そっと息をついてから、ようやく自分の席へ戻る。
ギルドの騒がしさが遠くに聞こえる。
けれど、この片隅だけは不思議なほど静かだった。
椅子に腰を下ろし、帳簿を開くふりをしながら、ちらりと視線を扉へ向ける。
――まだ、誰かを待っているような目つきだった。
やがて、控えめなノックの音。
すぐに、重たい扉が音もなく開く。
入ってきたのは、黒ずくめの服に身を包んだ男だった。
表情は窺えないが、その立ち姿だけで、尋常な人物ではないと分かる。
男は無言のまま机の前に立ち、視線を受付嬢の向こうへ送った。
まるでそこに、まだ誰かがいるかのように。
「……あの子の情報、ちょっとは手に入れたか?」
低く、抑えた声。けれど、尋問めいた鋭さがあった。
受付嬢は少しの間、口をつぐんだあと、小さく頷いた。
「無口な人で、あんまり触れ込めそうになかったけど……名前だけは。リューベルというそうです」
男は短く「ふむ」とだけ返し、少し顎を引いた。
「……これからも、彼女に関して何かがあれば報告をしてほしい。些細なことでも構わない」
受付嬢は顔を上げたが、相手の目を真正面から見ることはしなかった。
「了解しました」
男はそれ以上何も言わず、まるで空気のように静かにその場を去っていった。
扉が閉まる。再び訪れる、静寂。
受付嬢は、ため息をひとつ、深く吐いた。
帳簿の上に手を置きながら、心の中で呟いた。
――リューベル、ね。あの子、どこまで巻き込まれていくのやら。
そしてもう一度、窓のない石の壁をぼんやりと見つめながら、静かに視線を伏せた。