6話
しばらくは、困らなかった。
ワイバーン討伐の報酬は思った以上に大きくて、手にした金貨の重みが、しばらくの不安をすっかり遠ざけた。
宿の支払いも、食事も、風呂も――全部、気兼ねなく済ませられる。
毎朝、窓から入る風が少しやさしくなった気さえした。
それでも、時間は余る。
竜の気配はまるでない。風の都と呼ばれるこの地でも、空はただ静かだった。
クエスト掲示板には、小型の魔物退治や、街道の警護といった依頼が並んでいるけれど、どれも血が熱くなるほどのものじゃない。
観光に来たわけじゃない。
そう自分に言い聞かせながら、今日もまた、少女は街路を歩いていた。
石畳は陽に照らされ、柔らかく白んでいる。
風は穏やかで、塔の影は細く伸び、通りには果物を売る声が響いていた。
――退屈というほどではない。ただ、満ち足りすぎている。
そんなことを考えていたときだった。
ふと、ひとつの店の前で足を止める。
軒先には鉄の匂い。壁には槍や剣が立てかけられ、天井からは鍋のような兜が吊るされている。
重い扉の奥からは、カン、カン、と金属を叩く音がかすかに響いていた。
鍛冶屋――。
そういえば、と思う。
こんな大都市の鍛冶屋に、立ち寄ったことはなかった。
きっと、いい装備がある。
いや、あるはずだ。あのワイバーンを倒したあとの今なら、手に入れられる。
風が扉を揺らす。鉄の匂いが、濃くなった。
私は、ゆっくりと扉に手をかける。
扉は、重かった。
押し開けると、すぐに熱気と鉄の匂いが肌にまとわりついてくる。
中は広くはないが、無駄のない造りをしていた。
奥の炉では火が赤々と燃え、年配の職人が大槌を構えて何かを打っている。火花がちらりと跳ねた。
壁際には、さまざまな武具が並んでいた。
槍、剣、斧、ハンマー。
そして鎧。革と金属の合わせ鎧、青みがかった鍛鉄の胸当て、肩を守る装具や、指先まで護る篭手。どれも実戦仕様。飾りではない、命を守るための形。
「……すごい」
小さな声が漏れた。
思わず、足が勝手に動く。
棚のひとつに掛けられた槍――柄にほどよい重さがあり、鍛造の穂先は陽の光を跳ね返して、細く白く光っていた。
一本一本、丁寧に作られているのが伝わってくる。
手に取るだけで、どう動けばいいか、身体のほうが理解する。
装飾は控えめだが、それが逆に「強さ」そのもののように見えた。
――里では、こんなに多くの武具を見ることはなかった。
使える槍があれば、それでよかった。選ぶ余地なんてなかった。
だが今、目の前には選べるだけの余裕と、選ぶ意味がある。
「へぇ……嬢ちゃん、槍使いか」
声に振り向くと、炉の火を背にした鍛冶師が、汗をぬぐいながらこちらを見ていた。
大きな手が油と煤にまみれている。けれどその目は鋭く、こちらの姿勢を一瞬で見抜いているようだった。
少女は少しだけ頷いた。
「……見ていっていいか」
言葉は短く、けれど素直だった。
鍛冶師は唇の端をほんのわずかに上げて、肩をすくめた。
「好きにしな。触っていいが、刃には気をつけろよ。ここのはどれも本物だからな」
再び金床に向き直り、火箸で鉄の塊をつかむと、ごう、と火の音が響いた。
少女はその音を背に、もう一度槍の並ぶ棚の前に戻る。
穂先の形状、重心の置き方、柄の長さや太さ――
細かく比べる。手に取って、構えてみて、戻す。それを繰り返す。
道具を見る目は真剣だった。
戦うためのもの。ただの装飾でも、見栄でもない。
この手で握り、この脚で踏ん張り、この身体で振るう。だからこそ、選び抜かなければならない。
やがて、一本の槍の前で、少女の動きが止まった。
それは、他よりも少しだけ柄が短く、細身だった。
だが、穂先は深く焼き入れされていて、わずかに青みを帯びている。
重さも、鋭さも、まるで自分の動きに合わせて呼吸するかのようだった。
「……これ」
小さくつぶやいた言葉は、届かなくとも、自分の耳にはしっかりと残った。
そのとき、後ろから鍛冶師の声がした。
「試したいなら、裏庭に丸太置いてある。好きにするといい」
静かな声だったが、不思議と力があった。
少女はゆっくりと振り返り、頷いた。
鍛冶師は、再び金床に向き直りながら、手でひょいと裏手の戸口を示す。
重たい扉を抜けると、そこには土の匂いと木の香りが混じった、小さな空間が広がっていた。
背丈を超えるほどの太い丸太が、三本、少しずつ間を空けて立てられている。
その一本の前に立ち、少女は槍を構えた。
風が吹く。
構えを崩さずに、呼吸を整える。
片足を引き、軸を低く。穂先が微かに唸る。
――突き。
風を断つ音がした。
槍が丸太に食い込み、深く、静かに止まった。
手に残る感触は、柔らかい。だが確かに、鋭い。
槍が、こちらに応えてくれる。自分の動きに沿って、意志を持つように動いてくれる。
少女は槍を抜き、そのまま静かに一礼した。
別に、今使っている槍に不満があるわけではない。
十分に戦えたし、何度も命を繋いできた。
けれど――
なにせ、あれは自分の里で作られたものだ。
風の通りも悪くはなかったし、手にも馴染んでいたが、小さな島の鍛冶場では限界がある。
材料も限られ、鍛造の技も、道具も、外の世界と比べればきっと素朴すぎるものだった。
強い者はいた。腕の立つ戦士も、狩人も。
けれど、誰もが装備に詳しいわけではなかった。
ましてや、自らの手で作るとなればなおさらだ。
装備を購入し、今まで使っていた槍は、その場で売り払った。
鍛冶師は少し驚いたように眉を上げ、「もったいない」と漏らしたが――少女は首を振った。
「大丈夫。金ならある。今は、これが必要だから」
ワイバーン討伐で手に入れた報酬。
すべてを使うわけじゃない。けれど、これくらいの奮発は惜しくないと思えた。
里を出た意味の一つが、いま、確かに手の中にある。
風が吹くたびに、この新しい槍は微かに鳴る。まるで呼吸しているように、少女の動きに馴染む。
――これなら、もっと遠くまで行ける。もっと強くなれる。
そう思った。
そして、それがきっと――
「竜」に辿り着くための、一歩になると信じていた。




