5話
セリュアンに来て、三日が過ぎた。
ここは、思っていたよりも静かな都だった。
風の音がよく通る。石造りの路地のあいだから、塔の上から、草原の端から、さざめくように流れてくる。
この空気は、少し懐かしい。
私は風魔法を扱う者だ。風を敬い、風に祈ることを、幼い頃から自然に身につけてきた。
セリュアンの人々もまた、風を信仰している。
だからだろうか、ここでは魔力の流れが素直だ。呼吸が深くなる。
この都と私のあいだには、たしかに親和性があるように思えた。
けれど、ここへ来た理由は、単なる居心地の良さではない。
きっかけは、私の里に残る一本の古い巻物だった。
そこには、こう記されていた。
――かつて、風をつかさどる竜がこの都に棲んでいた、と。
もしそれが真実なら、きっとただの上位竜種ではない。
神話に語られるほどの存在ならば、寿命すら超えて、いまだこの空のどこかを舞っている可能性もある。
仮にご存命でなくとも、その血を引く者が残されていれば。
願わくば、その爪の一閃、その翼の一撃――風をまとった戦いに、身を投じてみたかった。
記述によれば、都の東、はるかに連なる山脈がかの竜の棲み処として有力だった。
だが今ではその山々も、鉱山として開発され、坑道が縦横に刻まれているという。
竜が人の営みに身を置くとは考えにくい。もはや、この地上にはいないのかもしれない。
それでも――
竜に会いたくて、私は旅をした。
潮風に包まれた小さな島を発ち、帆船を乗り継ぎ、風を頼りに大陸を越えてきた。
地図にない道を歩き、語られなくなった祠を巡り、風の気配を追いかけて、ようやくここへたどり着いた。
セリュアン――
この古の城塞都市に、風を喚ぶ竜の面影は、果たしてまだ残っているのだろうか。
里の大人たちに教わったことがある。
――外の世界にはギルドというものがある、と。
冒険者や旅人たちが集い、仕事を請け負い、情報を交換する。
特に大きな都市には必ずといっていいほど設けられているという。
それは戦いの契約所であると同時に、人と人とがつながる場でもあるらしかった。
故郷とは違い、大きな建物の数々にまず驚かされた。
石でできた塔や、三階建ての家なんて見たことがない。店先には、色とりどりの果物や金属細工が並び、通りを歩くだけで目に入るものすべてが新鮮で、胸が高鳴った。
香辛料の匂い、焼きたてのパンの香り。空を行き交う風に、それらが混じって鼻をくすぐる。
それだけで、少し笑いたくなった。
あれこれ見て歩くだけでも、旅に出たかいがあったと感じる。
宿屋で出された食事も、寝床も、十分すぎるほどだった。
――けれど、いちばん驚いたのは「お風呂」だった。
温かい湯に、肩まで沈むという行為。
あれは、すごい発明だ。信じられないくらい、気持ちよかった。
里にいたころは、山から引いた川の水を桶に汲んで、それを焚き火でぬるくして、身体を洗っていた。
もちろん、冬は氷が張る。湯気が立つなんて、それだけで贅沢に思えるほどだった。
湯船のなかでぼんやりしていると、自分が何者でもないただの「ひとり」であることを、少しだけ忘れられた。
……もしかすると、だからこそ人はこの都に住むのかもしれない。
風がやさしい。人の声が遠い。なにより、空が広い。
見たことのない景色や体験に、すっかり目を奪われていた。
気づけば三日、風の都の空の下をただ歩いていたことになる。
そして今日、ようやく足を向けた。
ギルド――それは、里の誰もが「外の世界の要」と言っていた場所。
扉を開けた瞬間、その熱気に面食らった。
建物の外観は静かだったのに、中はまるで嵐のようだった。
人の声が飛び交い、鎧が軋み、誰かが笑い、誰かが怒鳴っている。
長机の上では地図が広げられ、壁際には武器を背負った者たちが肩を寄せ合っていた。
冒険者――そう呼ばれる人々。力で糧を得る者たち。
視線を巡らせると、奥の方に掲示板のようなものがあった。
あれだ、と記憶のなかで言葉が浮かぶ。
――この一帯で出没する魔物の情報が集まる場所。
足を向ける。近づくにつれて、紙のざらついた匂いとインクの匂いが鼻をくすぐった。
張り出されたクエストは、どれも知らぬ地名、知らぬ魔物の名前ばかりで、しばらくは目が滑った。
竜――その字を探した。風の竜、空の王、天空の使い――だが、それらしいものはなかった。
諦めかけたとき、ふと目に入ったのが、掲示板の端。
少し古びた紙、けれどまだ有効なままの依頼だった。
『ワイバーン討伐:東部交易路沿いにて出没多数。獰猛につき注意』
紙にはそう記されていた。
角張った筆跡が、やけに実直な印象を与える。所々に雨に濡れた跡のにじみがあり、貼り出されてから少し時間が経っているようだった。
ワイバーン――
神話の竜には遠く及ばぬ。空を飛び、炎を吐きはするが、知性も誇りもなく、ただの獣の延長。
けれど、血に流れるものは確かに「竜種」だ。
かつて空の覇者と恐れられた種の、はるかな末裔。
それに、旅をしてからというもの、ろくに剣を振るっていない。
肌が乾くような感覚。風は感じているのに、身体が鈍い。
「……ちょうどいいかも」
そう呟いて、掲示板から紙を剥がした。
少し厚手の羊皮紙。ざらつく手触りに、覚悟の重みが宿る気がした。
強さを測るには程よい相手。
そして、もし運が良ければ――
何か手がかりが得られるかもしれない。竜に近い存在に触れることで。
視線を巡らせると、部屋の奥に受付の窓口があった。
静かな気配。壁際の喧騒とは別の空気がそこにはあった。
並ぶ書類棚と、光を反射する木製のカウンター。その向こうに、整った身なりの女性が座っていた。
背筋を伸ばし、手を止めずに書類を捌いている。まるで、風の中に在る塔のような人だった。
――あの人に渡せばいいのだろう。
紙を胸元で整え、私はゆっくりと歩き出す。
窓の外から吹き込む風が、髪をかすかに揺らした。
その一陣が、私の背をそっと押した気がして――
私は、ギルドの受付へと向かった。
ギルドを出たとき、陽はもう少し傾いていた。
空の色が淡く変わり始めていて、風が背中を押すように吹いてくる。
私は、ただまっすぐ歩く。
クエストを受けた。場所も確認した。やることは、それだけだ。
受付は、すんなり済んだ。
特に何も言われず、紙を差し出し、手続きを終える。
思えば――この街で、私が言葉を交わしたのは、たった四人目だった。
宿屋の主人、港の衛兵、居酒屋の女将、そして――ギルドの受付嬢。
これが、セリュアンに来てから私が声をかけた、たった四人の人間だった。
別に、話しかけるのが苦手なわけじゃない。
ただ、知らない人が多すぎただけだ。
里にいたころは、違っていた。
朝になれば顔を合わせる人が決まっていて、誰かが何かを始めれば、誰かがすぐに気づいて、声をかける。
名を知らぬ者はひとりもいなかった。名だけでなく、癖や好きな食べ物、ちょっとした噂話まで、風のように家々を巡っていた。
けれどこの街では――歩いても、誰もこちらを知らない。
誰とも視線が合わず、声も届かず、ただ人々が流れていく。
すれ違うだけで、何も起こらない。
それが寂しいわけじゃない。
むしろ、私はこういう場所に来るために旅に出た。
知らない土地で、知らない人々の中で、自分の力を試すために。
でも、ほんの少しだけ、懐かしくなることがある。
名前を呼ばれることもなく、足音だけが石畳に響くとき――
誰かと、ひとことでも交わせたならと、そんなふうに思う時もある。
だからだろうか。
この場所で出会った人の顔が、鮮明に胸に残っている。
……風に吹かれながら歩き続け、目的地に着いたのは、陽が塔の影に沈みかけたころだった。
封鎖された街道の前には、長剣を腰に下げた衛兵が二人。
手を柄にかけたまま、私の姿を見るや、ひとりが一歩前に出た。
「止まれ。通行は制限されている」
警戒は当然だった。私は静かに足を止め、背から槍を外して地に立てかける。
それから、クエスト用紙を取り出して、無言で差し出した。
「……ギルドから。ワイバーン討伐の件で来た」
衛兵は一度だけ眉をひそめたが、紙を受け取って目を通す。
隣と短く言葉を交わし、それから私を見た。じっと、時間をかけて。
視線は、背に戻した槍へと下りた。
その鋼の柄と、使い込まれた布巻きを確かめるように見てから、やがて小さく頷いた。
「通れ。……無理はするなよ」
言葉に、私は黙って軽く会釈する。
足元の封鎖用の縄をまたぎ、草の香る風のなかへと踏み出した。
道の先は、草原が大きく開けていた。
風が吹いている。ずっと、背中を押すように。
けれど、空気の匂いが変わった。――鋭く、乾いて、血のような鉄を含んだ風。
次の瞬間だった。
空を裂くような鳴き声。空を舞う影が、いくつも。
ワイバーンだ。数は――五。いや、もっとか。
空は高く、風は速い。
剣を抜く暇もなく、私はただ、足を地につけた。風を読む。
心が静かだった。
――これだ。これが、私の旅の意味。
恐怖はない。緊張も、たしかにある。けれどそれ以上に、血が、心が、身体の芯が、熱を持つ。
山で鍛えた筋肉が、風に馴染む。
耳が鳴る。鼓動が早まる。だが、不安ではない。
懐かしい。これは懐かしい感覚だ。
自分が「今、生きている」とはっきり知覚できる、この刹那。
竜と呼ぶに足らない。神話にも遠い。
けれど――空を裂いてくる敵を前に、私はようやく、自分を呼び戻す。
意識は、すっと薄れていく。
考えるより先に、身体が動いた。風を読む。槍を振るう。脚を使い、空間を測る。
それ以外のことは、何もなかった。
頭の中は、透明だった。
無心というのは、こういう状態を言うのだろう。
怒りもなければ、興奮もない。ただ、動く。ただ、倒す。ただ、それだけ。
いつの間にか、地上にも人の姿があった。
冒険者たち――鎧を着た者、弓を持つ者、魔法を構える者。
それぞれが、それぞれのやり方で、ワイバーンを狙っている。
けれど、私は地に足をつけていた。
風を背に、槍を手に、地と空の境を守っていた。
それが自分の戦い方だった。
やがて、最後の影が崩れるように落ちた。
静寂が訪れる。
自分の息遣いが、やっと耳に戻ってくる。
心臓の鼓動も、ようやく輪郭を持つ。
私は槍を地に突き立て、そのまま呼吸を整えた。
そのとき、近づいてくる足音があった。
「……おい、解体しないのか?」
声がかかったとき、私はまだ背を向けたままだった。
焼けるような風が過ぎたあとの空気。
地に伏したワイバーンたちの体はまだ温かく、傷口から血が乾ききっていない。
生臭さが、わずかに鼻を掠めた。
足を止めるつもりはなかった。
倒した。それだけで、私の中ではもう終わっていた。
素材がどうとか、価値がどうとか、そういうことに興味はなかった。
ただ風を読み、槍を振るい、そして静けさが戻れば、もうそれでいい。
「この手の死体、滅多に手に入らないぞ。竜の鱗、爪、内臓――どれも希少素材だ。都市部に持っていけば、金貨で山ができるレベルだぞ……!」
声は真剣で、どこか惜しそうだった。
その響きに、ふと足が止まる。
――欲しいんだ。
そう思った。ただそれだけだった。
誰かが、心からそう思っているなら、譲ればいい。私はいらないのだから。
一緒に戦った。言葉は交わしていない。
でも、あの風の中で、同じ敵に向かっていた。
それが理由になる気がした。
「……私にいらない。みんなで分ければ」
そう言うと、私はまた歩き出した。
振り返ることはしなかった。そこにもう、自分の用はない。
「お、おい、本当にいいのかよ!? クエスト達成の証明にもなるんだぞ、それ!」
少し慌てたような声が背後で響く。
でも、もう答えることはなかった。
私にとっての証明は、目の前の風だった。
この手の感触だった。槍の重さと、踏みしめた土の確かさ。
それだけで十分だった。