4話
風の都・セリュアンに、奇妙な静けさが流れていた。
あの空を裂いた戦いから、まだ一晩も経っていないというのに――いや、だからこそか。広場の片隅に横たえられたままの竜の亡骸と、それを囲むように集まった人々のざわめきが、逆にこの街の空気を重く染めていた。
ギルドは騒然としていた。
朝の開館と同時に、噂を聞きつけた冒険者たちが雪崩れ込むように受付前に殺到していた。受付嬢の手元には、竜素材の買取を求める依頼書と、「その少女は誰だったのか」という確認の文が山のように積まれている。
「本当にひとりで? 本当に……?」
冒険者のひとりが、信じられないという顔で呟く。
「俺、見たんだよ。あのとき地上にいて、槍を引き抜いて飛んだとき、確かに……見てた。空の中で、竜の上を跳ねて移動してたんだ」
「嘘だろ。どうやったら……あんなの、普通じゃない」
受付嬢は無言で、机の端に立てられた書類束をまとめていた。その手つきも、わずかに震えていた。
冒険者たちの声は、止まることを知らなかった。
「風を読んだって言ってたやつがいたな。竜が動く前にもう動いてたって」
「ていうか、あれ本当に女の子だったのか? 子供に見えたぞ。顔なんて、十五にも届いてない……」
「そんなガキが、竜を……?」
受付嬢は、静かに息を吐きながら、手元の書類束を脇へ寄せた。彼女の耳にも、同じような言葉がいくつもいくつも届いていた。
けれど、そのどれもが今さらだった。
――だって、私はもう見てしまった。
昨日のことだ。まだ日が落ちきらない夕暮れの時間帯、扉の開く音もなく、彼女はふいに戻ってきた。
何かが終わったあとのように、手ぶらで。
……いや、完全な手ぶらではなかった。槍だけは肩にかけたままで、あとは――
「……クエスト、終わった。もう済んだよ」
まるで買い物の報告のように、少女はそれだけを言った。
受付嬢は慌てて机の下からクエスト用紙を引っ張り出し、「証明は……」と訊ねた。規定通りの処理のためだった。討伐対象の肉体の一部を持ち帰る、あるいは目撃者とともに報告する。どちらかがなければ、本来は成立しない。
そのとき、少女はポーチから何かを取り出して、机の上にぽとりと置いた。
――ワイバーンの牙だった。
根元が太く、ところどころ欠けたそれは、白銀色に鈍く光っていた。
受付嬢はしばらく言葉を失って、次にどの手順を踏めばいいかを探すように視線を彷徨わせた。
上位竜種ではない――確かに、あのワイバーンはそう分類されている。けれど、それでもなお「竜」と名のつくものを狩ったなら、それはひとつの偉業だ。中堅の冒険者たちが数人がかりでようやく討ち取る相手。ましてや、あれほどの規模の個体なら、実力者たちにとっても誇るべき戦果のはずだった。
……だからこそ、証明は往々にして見せびらかすものになる。
竜の爪を腰に下げて歩く者。頭蓋の破片を加工して盾にする者。自分の実力を知らしめたいという衝動は、冒険者として自然なものだ。武勲は名声となり、名声は依頼に繋がる。それがこの業界の常識だった。
けれど、彼女は――違った。
牙をひとつ、机の上に置いただけ。
それも、血の気すら残らないように拭われ、どこか寂しいほど無言の証。
第一、証明用に牙を持ち帰るという例は、私の知る限りなかった。視認性も低いし、同定が難しい。通常なら、頭部の骨、爪、あるいは翼膜の一部など――誰が見ても「それ」とわかる素材を選ぶのが定石だった。
受付嬢は迷った末、背後の書棚に目をやった。
そこには、年に一度使うかどうかというほどの古びた素材図鑑が眠っている。装丁は黒革。銀の留め具が鈍く光り、開くには鍵が必要な、いわば半ば儀式のような代物だった。
鍵束を取り出し、かちりと開く音にさえ、周囲の空気がわずかに揺れる。
ページを捲る。重みがある。一枚一枚に、魔獣や竜種の部位と特徴が精緻な図版で記されていた。
ようやく見つけた。
「ワイバーン:上顎第一大臼歯」。根本が湾曲し、表面に独特の螺旋状の溝を持つ――その特徴は、目の前のそれと寸分違わぬものだった。
――間違いない。
これで、手続き上の問題はクリアできる。ギルド規定の「明確な部位による証明」に該当する。
だが――
この素材図鑑を引っ張り出すような案件は、そう何度もあるものじゃない。
普通はもっと、ざっくりした処理で済む。素材屋に持っていけば、金額査定のついでに鑑定士が判断してくれる。受付嬢の手元に戻ってくるのは、加工済みの依頼書類と報酬の明細だけだ。
けれど彼女は、自分で牙を選び、自分の手でそれを差し出した。
「……素材、いらないの?」
思わず訊いてしまった問いに、少女はあっさりと首を振った。
「いらない。もう、要らないものだから」
その声音に、特別な感情は込められていなかった。誇りも、謙遜も、疲れすらも――ただ、事実だけを述べるような響きだった。
私は無言で頷き、机の引き出しから用意していた封筒を取り出した。クエストの報酬。ワイバーン級なら、それなりの金額にはなる。一般の冒険者なら、一年分の生活費にさえなる額だ。
けれど、彼女は封筒を受け取る手にも、やはり何の色も浮かべなかった。
まるで、それさえもただの手続きであるかのように。
「……ありがとう。じゃあ、行くね」
静かな足音だけを残して、少女はギルドを後にした。
その背に、私は「気をつけて」とも「また来てね」とも言えなかった。
言葉が出なかったのではない。ただ、どれも彼女には似合わないと思ったのだ。
それが、竜を討ち果たした者の背中なのだと、私は知った。
その姿に、伝説の始まりの影を――ほんの少しだけ見た気がした。