3話
空が、震えた。
地上から見上げた者たちには、それはまるで幻想のようだった。広がる青空に、黒き影が蠢いている。群れを成すワイバーンたちが空域を占拠し、円を描きながら旋回していた。その中心に、一際異質な姿――少女がいた。
槍はそのまま、ワイバーンの腹に突き刺さったまま――彼女はそれを捨てた。
代わりに、腰の鞘から短剣を引き抜く。
黒い鱗を選ぶように目を細め、今にも背中を跳ね上げそうな竜の動きを読みながら、両脚でがっちりとその巨体を挟み込む。
空を裂くような咆哮がまた一つ、地上に響いた。
黒き群れの旋回が、わずかに乱れる。――少女の存在に、気づいたのだ。空中の掟に従うかのように、複数のワイバーンが緩やかに高度を変え、彼女のいる一角へと収束してゆく。
「今だ、狙えるぞ!」
地上で誰かが叫び、瞬間、冒険者たちの間で一斉に弓が引き絞られる。火球が放たれ、魔力の軌跡が空に線を描く。空を割って飛ぶそれらは、ワイバーンたちの背をかすめ、翼を焦がし、群れの一部にわずかな混乱を生んだ。
けれど――空の中心にいる少女は、まるでそれすら計算に入れていたかのように、微動だにしなかった。
短剣を握る細い指。その手つきは軽く、しかし迷いがなかった。
飛竜の背に跨りながら、彼女はわずかに身を沈め、風の流れと竜の軌道を一体のものとして受け入れている。
真正面からの戦いではない。力任せでもない。
風に乗るように、流れに逆らわず、ただ必要な瞬間に必要な動きをするだけ。
少女の身体は小さい。けれど、動きには一切の無駄がなかった。飛竜のうねりに合わせて重心を移し、背中をはね上げられそうになれば、その動きを利用して跳ねる。まるで、最初からそこにいることを前提に生まれたかのような身のこなしだった。
短剣が、黒い鱗のわずかな隙間を正確に探り出す。
鋭い一閃。血飛沫が、空に弧を描いた。
傷ついたワイバーンが苦悶の声を上げる。急降下を始めるその背で、少女は冷静に足場を変え、片腕でその首筋にしがみつくと、もう一度、短剣を深く突き立てた。
その一撃が致命であることを、誰もが悟った。
飛竜は叫びとともに翼を大きく広げ、よろめきながら旋回――そのまま地上へと墜ちていく。
少女の影が、ふわりと空に放り出された――かに見えた。
だが、彼女の身体は飛竜の背から滑り落ちるのではなく、まるで意図された軌道を描くように、しなやかに反転した。両脚は最後までワイバーンの体躯を挟んだまま。まるで鞍のように、肉と鱗の隆起を利用して固定し、上体だけをくるりと反転させる。
そのまま体をおなか側に引き寄せると、目指したのは一本の槍だった。
まだ突き刺さったままの、自身の武器。
風が激しく吹き上げる中、少女の片腕がすっと伸びる。
「……届くか?」
地上の誰かが呟いたその刹那、彼女の指先が槍の柄をつかんだ。
滑るような体勢のまま、少女はその長柄をぐっと引き抜いた。抜けた瞬間、ワイバーンが悶えるように身体をねじり、激しくのたうつ。少女の身体も、その反動で空へと弾かれた。
だが、それすらも計算のうち。
空中に放たれた体を、少女は引き抜いた槍を支点に一度だけ竜の腹を蹴りつけ、反動で回転する。
そして――旋回していた別のワイバーンの背中へと、躊躇なく飛び移った。
「マジかよ……」
地上から見上げていた冒険者たちが、呆然と声を漏らす。
まるで空中を舞う燕のようだった。力ずくではない、空気を読み、竜のうねりと風の流れを計算し尽くした動き。自分の体重と反動、すべてを武器に変えている。
着地と同時に、少女はもう一度槍を構えた。
振り向いた飛竜の横顔が、敵意と怒気に満ちて唸る。
唸り声を聞いてなお、少女は目を細めるだけだった。怯えも、昂ぶりもない。ただ眼前の獣を見据える、静かな集中――その場に風が吹けば、それだけで竜の方が怯むのではないかと思わせるほどの冷ややかさだった。
ワイバーンが咆哮を上げる。
その瞬間、少女の身体が動いた。頭上に振りかぶられた牙よりも一瞬、速く。
槍を低く構えたまま、ワイバーンの首元に向けて、わずかに踏み込む。重力の流れに乗せるように、滑るような歩法だった。足場となる背の鱗は起伏に満ち、どこかが盛り上がれば、どこかが滑る。だが彼女の足取りには一切のよろけもなかった。
槍が唸る。長くしなったそれが、首の付け根――飛竜の動脈を狙って突き込まれる。
だが、竜もまた容易には応じない。
横薙ぎの翼が迫る。少女の細い身体が吹き飛ばされるかに見えたその刹那、槍の穂先が素早く逸らされ、逆にワイバーンの翼の根元を抉るように滑った。
肉の裂ける音が、風の中で耳を打った。
「片翼を……落とした……?」
遠く、地上からの声が聞こえる。が、それに耳を貸すような余裕はない。
少女は体勢を崩しかけた身体を、瞬時に槍の石突を突き立てることで制止し、次の跳躍に備える。身を引くのではない。竜の動きより、半拍だけ先に出るための、踏み込み。
飛竜の叫びが、今度は怒りよりも痛みに染まっていた。傾いだ翼が均衡を崩し、ゆっくりと高度を落とし始める。だが少女は、それを待たなかった。
次の獲物――次の竜へ。
彼女はすでに背後の旋回を読み、視線を上げていた。
息を、ひとつ。
そして跳ぶ。
宙に放たれたその身体は、真下に落ちることはない。背にした槍の反動を借り、あたかも飛翔するかのように、螺旋を描いて空を裂いた。わずかに近づきかけたワイバーンの側面に、まるで誘われるように滑り込む。
爪が迫る。牙が閃く。だが少女の影は、その全てを躱してゆく。
――いや、それは躱すのではなかった。
風と軌道を、先に読んでいたのだ。
動くより前に、そこへ竜が来ると知っていた。
槍が再び、唸りを上げて突き立つ。
黒い鱗を貫いた穂先が、竜のわき腹に深く食い込む。だが今度は、それだけでは終わらない。
突き立てた槍をそのまま捻り、竜の反応で浮いた胴を一歩分だけ乗り越えると――少女は、竜の首筋へと駆け上がる。
小さな足が、まるで地面を蹴るように、しっかりとした重みをもって鱗を踏む。
刹那、首を振る竜の上で、彼女は一閃――
槍の切っ先が、首の付け根を抉った。
咆哮すら出せず、ワイバーンは翼を引き攣らせ、くぐもった息を吐きながら横転する。
その背から、ふわりと離れた少女の影が、再び空へ舞った。
その連撃。その跳躍。その間断なき戦いぶりに、地上の冒険者たちの意識すら、もはや完全に飲み込まれていた。
「……見失うな! あれはまだ、止まってない……!」
誰かの叫びに応じるように、遠距離の魔導士たちが再び詠唱を始める。弓兵が次の矢をつがえる。火球が竜の注意を逸らし、氷矢が一瞬の隙を生む。だが、それらはすべて――少女の動きの補助でしかない。
空にひるがえる影が、最後の獣を見据えた。
少女の目に映るのは、高度を保ったままこちらを睨む、群れの中でも一際大きな一体。翼の張りも、筋肉の膨らみも、先ほどまでの個体とは段違いだった。おそらく、この一帯を束ねる群れの主。
だが――その目が、わずかに揺れた。
少女を見た瞬間、竜はほんの一瞬、飛翔の軌道を乱した。
それは恐れだった。理解ではない。野生が直感したのだ。この空で彼女に対峙するということが、どれほどの脅威かを。
風が流れた。高度を取る少女の姿が、竜の目前へと迫る。
槍が構えられる。
もう詠唱も援護も、いらなかった。
地上の者たちすら、それを悟っていた。
まるで風そのものが少女の味方であるかのように、群れの空間が開く。彼女は竜の正面から、弧を描いて接近した。
ワイバーンが咆哮を上げ、牙を剥く。
だが、彼女はそれよりも速く、竜の翼の下へと滑り込んだ。
槍が、真下から突き上げる。
その一撃は、狙いすました急所――心臓の付近を穿つ一突きだった。
叫ぶことすらできず、群れの主が傾く。翼がばたつき、均衡を崩した身体が、ゆっくりと高度を落とし始める。
その背に乗ったまま、少女は静かに槍を引き抜いた。
風が止む。
落下する竜の背から、少女の影が再び空へと舞った。
今度は、跳ぶのではない。舞い、降りる。
弧を描くように落ちてゆく彼女の足元に、冒険者たちが一斉に駆け寄る。だが、その顔を見上げる者たちの目には、ただの勝利者を見るような安易な光はなかった。
そこにいたのは、空の中で一騎当千の修羅を貫いた、ただひとりの戦士。
少女は静かに着地した。砂塵が、音もなく舞う。
その手に、血に染まった槍。
群れはもういなかった。風に流されるように、残る数体が高空へと散っていく。
彼女は振り返らず、槍を肩に担ぐと、ただ一歩、地を踏みしめた。
空を制した少女の足取りは、あくまで静かだった。
風が、ようやく落ち着いた。
黒い竜の巨体が、空から打ち落とされたまま、広場の端に横たわっていた。地面にはまだ、血がじんわりと染みを広げている。
冒険者たちは誰もが、その壮絶な光景を前に動けずにいた。武器を構えたまま、詠唱の余韻を引きずったまま、ただただその少女の後ろ姿を見送っていた。
彼女は、何も言わずに歩き出していた。
竜の死体を一瞥することもなく、槍を肩に引っかけたまま、まるで戦いなど最初からなかったかのように。
「……おい、解体しないのか?」
一人の戦士がようやく声を上げた。
「この手の死体、滅多に手に入らないぞ。竜の鱗、爪、内臓――どれも希少素材だ。都市部に持っていけば、金貨で山ができるレベルだぞ……!」
少女は、足を止めない。
そのまま、竜の巨体の傍らを素通りする。
「……私にいらない。みんなで分ければ」
ぼそりと、風に溶けるような声だけが返ってきた。
それだけ言うと、もう振り返ることもなく歩き出す。
「お、おい、本当にいいのかよ!? クエスト達成の証明にもなるんだぞ、それ!」
慌てて誰かが声を上げたが、少女はもう答えない。
「……あれだけの竜を、たった一人で……」
「いや、マジで何者なんだ……。人間なのか?」
「ってか、あの動き見たろ? あれ、普通じゃねえよ……」
冒険者たちは戸惑いと驚愕とを入り混ぜたまま、なおも少女の後ろ姿を見つめていた。
やがて一人がぽつりと呟く。
「まあ、これだけ目撃者がいれば、クエストの証明には困らんだろ……誰かが話せば済むことだ」
「……ああ。たぶん、誰が話しても、あの子の強さは盛り話にしか聞こえねえだろうけどな」
誰もがうなずいた。
それほどまでに、少女の戦いは現実離れしていた。
それでいて――
誰の歓声も称賛も受け取ることなく、まるでそんなものは初めから必要としていなかったかのように。
ただ、風の中を歩くように。
その背中が、ゆっくりと街の中へと消えていった。