2話
ギルドの扉を押すと、鈍く軋んだ音がした。
朝の光が差し込むなか、少女は静かに足を踏み入れる。天井の高い石造りの建物の中は、すでに多くの冒険者たちで賑わっていた。
鎧が擦れる音、革靴の足音、笑い声、報酬の分配をめぐる言い争い……そうした喧騒のなかを、少女はまるで波を避けるようにするすると進んでいく。
目的はただひとつ。正面奥の掲示板。
分厚い木板に、羊皮紙がいくつも貼られている。
魔獣の討伐。遺跡の調査。護衛、捜索、回収、時には「呪われた井戸の調査」などという、眉唾ものまで。
少女は立ち止まり、掲示板をひとつひとつ、無言で見上げた。
背負った槍がわずかに揺れる。視線だけが静かに動き、そこに並ぶ依頼文を順に読み取っていく。
顔に感情はほとんど浮かばない。だがその瞳だけが、獣のような研ぎ澄まされた光を帯びていた。
やがて、少女の手が止まった。
一番端、他の依頼よりも少し低い位置に貼られていた一枚。
羊皮紙の角はわずかにめくれ、書き込みもやや古い。けれど、その内容に少女は目を留めた。
それを、ぱっと手に取った。
まるで最初から決めていたかのような、ためらいのない動作だった。
少女はそのまま掲示板を離れ、受付へと向かう。背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、ゆっくりと。
カウンターの向こうにいたのは、柔らかな笑みを浮かべた若い受付嬢だった。
少女に気づくと、丁寧に頭を下げて迎える。
「おはようございます。……ご依頼の受理ですね?」
少女は無言で羊皮紙を差し出す。
受付嬢がそれを受け取る。内容に目を通した次の瞬間、彼女の笑顔がふっと曇った。
――いや、正確には、固まった。
一拍遅れて、再び口元に薄い笑みを戻すが、その頬の緊張と目元の動きが隠しきれていない。
「……こちらの依頼、現在も有効です。確認しますので、少々お待ちくださいね」
声色は変わらないが、明らかに迷いの混じった手つきで手続きを進めていく。
羊皮紙を台帳に写し、刻印印を押し、少女のギルド札に受理印を刻むその作業は、どこか慎重すぎた。
掲示板の近くでは、少女の選んだ依頼を見ていた冒険者たちが、密かにざわつき始めていた。
「……マジかよ。あれ、まだ残ってたのか」
「誰も手出ししないから、てっきり剥がされたもんだと……」
「ってか、あの子、ひとりで行くのか? 初めて見る顔だけど……」
心配げな視線が、受付の方へと向けられる。
中にはあからさまに顔をしかめる者もいた。
「止めてやった方がいいんじゃねぇの?」
「いや……受付が通したなら、もうギルドの責任外だ」
囁きが広がる。
少女は、そんな視線や言葉に気づいているのかいないのか、相変わらず表情一つ動かさず、ただじっと手続きが終わるのを待っていた。
「……はい、受理されました。くれぐれもお気をつけて」
受付嬢が銀の札をそっと返すと、少女は深く一礼することもなく、それを受け取って再び踵を返した。
そのまま、誰にも目をくれずに、ギルドをあとにする。
ギルドの扉が閉まる音がしても、沈黙はすぐには戻らなかった。
掲示板の近くにいた一人の冒険者が、受付を覗き込むようにして声をかける。
「なあ、今の子が受けたやつって……貿易路付近で目撃されたワイバーンの討伐、だよな?」
受付嬢は一瞬だけ視線を伏せ、それから小さく頷いた。
受付嬢は小さく頷いたあと、口を開いた。
「はい……例の、ワイバーンの群れです」
その一言に、近くで聞き耳を立てていた男が肩をすくめて苦笑した。
「ったく……かわいい顔してんのに、死に行くのかよ。もったいねえぜ」
冗談めかしたその口調には、どこか本気の憂いが混じっていた。
「ワイバーンっつっても、ただの竜じゃねぇ。飛ぶからこっちから仕掛けにくいし、地形が悪けりゃどうにもならねぇ」
「軍が出た時だって、相手にすらならなかったって話だもんな……」
受付嬢は手元の帳面に視線を落としたまま、ふっと小さく息をついた。
「……ここは受け付けです。そういう話は、できれば別の場所でお願いします」
男が苦笑しながら言った。
「お前だって、心配してるくせに」
受付嬢は視線を帳面から上げることなく、静かに返す。
「ええ、心配してますよ。それが何か?」
さらりとした口調だった。感情を挟まず、ただ事実を述べるように。
「でも私は、ここで仕事をしているので。あなた方みたいに噂話に混ざる暇はありません」
そこまで言って、ようやく顔を上げた。
「……それに、そんなに心配なら、誰か助けに行けばどうです? もしかしたら、あの子の命を救えるかもしれませんし」
言葉に刺はなかった。ただ、淡々と事実を並べるような声音だった。
だが、その静けさがかえって鋭く響く。
冒険者たちは言葉を失い、しばし沈黙する。
受付嬢は再び帳面に目を落とし、事務的な手つきで紙を一枚めくった。
「……以上です。クエストのご用件がある方は、どうぞお並びください」
冷ややかな朝の空気が、ギルドの空間に薄く満ちていた。
「ふー……」
誰かが深く息を吐いた。その音が、場の静けさのなかでやけに鮮明に響いた。
「……そうだな」
それに続くように、低く落ち着いた声が受付前に届く。
「言われてみりゃ、ごもっともだ。ここで愚痴ってたって始まらねぇ」
声の主は、さきほど皮肉を言っていた男だった。気まずそうに頭をかきながら、掲示板のほうへと歩を進める。
「ここにいる暇な奴ら、やることないなら一緒に来いよ」
男は掲示板の前で立ち止まり、肩越しに振り返る。
「女の子ひとりに任せるってのも、さすがに気が引ける。あの顔で倒れてたら、後味悪すぎるだろ」
数人の冒険者たちが、黙って視線を交わす。すぐには動かないが、その空気には、ささやかな連帯の気配が芽吹き始めていた。
男は受付嬢に軽く手を上げた。
「――あの子、助けてくるわ」
その言葉に、受付嬢はわずかに目を見開いたが、すぐに表情を戻して、小さく一礼した。
「……行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
その声は、先ほどよりもわずかに、温かみを帯びていた。
――思ってたよりも集まったな、と思う。
声をかけた時、誰もついてこなけりゃそのまま一人で行くつもりだった。だが、ざっと見れば十人近くはいる。剣の使い手に、弓の達人。回復術師に、半魔の斥候まで。なんだかんだで、この街も捨てたもんじゃない。
「世間知らずの小娘を助けに行くんだぜ、俺たちはよ」
俺がぼやくと、隣を歩いていた弓使いが鼻で笑った。
「命張る動機としては、悪くないさ。俺はもう少し、ましな理由で死にたかったけどな」
笑い合う余裕なんて、ほんの今だけだ。
ワイバーン――あの交易路を襲った飛竜どもは、ただの獣じゃない。
飛ぶだけで脅威なのに、群れで動いて、しかも連携してくる。牙と爪だけじゃない。あいつらは空から狙って、焔すら吐く。兵団が何度も出たが、結果は同じ。死者だけが増え、封鎖されて何ヶ月も経つ。
それでも、誰かがやらなきゃならない。
「軍も今は使えねぇしな……」
セリュアンを守る将軍たち――風の都の精鋭たちは、今はひとつ南の都市境界に出張ってる。
帝国境の緊張が高まってるとかで、いわゆる『外交』と『牽制』ってやつに駆り出されたそうだ。
だからこの街は、今、無防備に近い。
だからこそ、あの小さな槍の少女が動いたのかもしれない。
「なあ……」
後ろを歩いていた若い男が口を開く。
「お前、あの子の知り合いか?」
「いや、初めて見た。けど、ただの素人じゃねえだろ」
あの目を見ればわかる。あれは、戦場の目だ。
何を見てきたのか知らないが――あの子は、誰かに守られて育ったような顔じゃなかった。
どこかで命を懸けることが、当たり前だったような、そんな冷たい静けさをまとっていた。
「ま、いいさ。いざとなりゃ俺たちが盾になるだけだ」
軽く言ってみせたが、本当のところは分からない。俺たちで間に合うのか、通用するのかすら。
ただ、あの少女をひとりで行かせるのは――どうしても、嫌だった。それだけだ。
風が吹く。街道の向こう、空がじわじわと鈍く曇ってくる。
その向こうに、飛竜の影がある。
俺たちは、歩みを止めずにそこへ向かっていった。
例の交易路に到達した時、俺たちはすぐにその姿を見つけた。
細い背中に長い槍――あの少女だ。
一本道の向こうを、静かに歩いている。肩に力みはなく、淡々とした足取り。その姿を見て、誰かが小さく息を呑んだ。
俺たちは距離を保ったまま、黙って後ろについていく。
風は静かで、木々の葉擦れも聞こえない。
――その沈黙を切り裂いたのは、空からの咆哮だった。
「来たか……!」
反射的に武器を構える。前衛は盾を前に出し、後衛はすでに位置取りを始めている。呼吸を合わせるまでもない。皆、即座に戦闘態勢に入った。
けれど、前を行く少女は――歩みを止めない。
咆哮が、もう一度。
その時、空の雲間から現れた。
黒い影が舞い降りる。風を切る音。鱗の輝き。鋭い鉤爪と、ぎらついた眼。
ワイバーンだ。それも、群れ。
「……おい、嘘だろ……」
誰かが呟いた。
空に浮かぶ影は一体や二体じゃない。確認できるだけで十体近く――全てが空を制し、旋回しながらこちらへと降下してくる。
交易路はすでに封鎖されて久しい。
後方――封鎖のために駆り出された兵たちの列から、何とも言えないおびえた声が漏れた。
「ひ、ひぃ……あんなの、無理だろ……」
その声音は耳障りではなく、むしろ正直だった。俺たちだって、内心では同じものを感じていた。ただ、口に出さないだけだ。
「これだけの数……一人一体くらいじゃねえと、追いつかねえぞ」
誰かが呟く。その言葉に、すぐさま別の声が返った。
「バカ言えって……! 一人一体? 無茶言うなよ。あの堅い鱗に傷ひとつ入れるのに、どんだけ工夫がいると思ってんだ」
俺も心の中で頷いていた。ワイバーンはただの飛竜じゃない。あの黒い個体は特に、鱗が異常に硬いと噂だった。普通の剣じゃ歯が立たないし、弓矢も滑る。火の魔法で焼こうにも、飛び回るせいで狙いが定まらない。
恐怖がじわじわと背中を這う。
だが――それでも、少女は止まらなかった。
一体のワイバーンが群れから滑空してくるのが見えた。
翼を広げ、滑るように風を裂き、まっすぐ少女の元へ。目には明らかな殺意。鉤のように鋭い前脚を振り上げ――獲物を引き裂く動き。
だが、少女は微動だにしなかった。
その瞬間、身体が低く沈む。
風のような動きだった。地を這う影のように、少女は身を捻り、足を軸に滑るように横へと飛ぶ。その動きに、ワイバーンの爪は空を裂くばかりで、彼女に触れることすらできなかった。
そして――その刹那。
少女の手の中で、槍が閃いた。
風を裂き、迷いなく突き出されたそれは、まっすぐにワイバーンの腹部へと突き刺さった。分厚い鱗の隙間を狙いすました鋭い一突き。滑空の勢いもあって、槍は深く深く埋まり、鈍い音を立てる。
「ギャアアァッ!」
甲高い悲鳴を上げ、ワイバーンはもんどり打つように翼をばたつかせた。苦しみに悶えながら空へと舞い戻ろうとする。だが、槍の柄には、まだ少女の手が残っていた。
彼女はその手を離さない。
ワイバーンの上昇に合わせて、少女の身体が地面を離れる。足が浮き、瞬く間に数メートル――いや、それ以上。
「おい、まさか……!」
思わず叫びかけるも、遅かった。
少女は自ら、ワイバーンとともに空へと舞い上がっていた。
空気が震える。風が鳴る。群れのほかのワイバーンたちが、仲間の苦悶に気づき、動きを止めたように見えた。
高く、高く。
槍の柄にしがみつきながら、少女はわずかに身体を起こし、そのまま鞍のようにワイバーンの背中へとまたがった。
空の上、黒い鱗に覆われた巨躯の上で、ひときわ小さなその影が――俺たちには、まるで幻のように映った。
「なんだ、あれ……人間かよ……」
呆然と呟いた声に、誰も答えられなかった。