1話
この地に太陽が昇るとき、街路は黄金に染まり、塔の影は長く細く石畳を這う。ここは風の都、セリュアン。西の山脈を背に、東に果てしない草原を見渡す古の城塞都市。築かれたのはいつの時代か、誰も知らぬ。ただ、中央に聳える風見の塔が千年以上もこの地に風を呼び、空を見守ってきたと、古文書は語る。
セリュアンの朝は、鐘の音から始まる。青銅の鐘が鳴ると、羊飼いが家を出て、果樹園の主が木に手を添え、パン職人が最初の生地を石窯にくべる。風が通るたび、空気には焼きたての穀の香りと草の匂いが混じり合い、町の通りを包んでいく。
人々は石を積んだ家に住み、屋根には風除けの獣像が載っている。装飾は少なくとも、どの扉にも家紋をあしらった木板がかかっており、陽を受けて深く濃い影を落とす。通りには露天の屋台が並び、野菜、果実、干し肉、薬草、羊毛、それに旅の噂話までもが売られる。子どもたちは靴も履かずに走り、犬が吠え、猫が屋根を渡る。生活のすべてが、風の音とともにあった。
人々は風を信仰していた。風は神の息吹であり、声なき導きであると信じられてきた。結婚のときも、誕生のときも、旅立ちのときも、巫女は風の向きを占い、祝詞を捧げる。街の中央に建つ風見の塔の最上部には、四方を指す巨大な風車があり、風の変わり目を告げる度に、街全体がざわつく。今、どの方角から風が吹くか――それは作物の実りを決め、旅人の行方を占い、時には戦を左右した。
市場の奥、彫金師の工房では、銅と銀を鍛える槌音が響いていた。水車が回る音が重なり、細工された風鈴が風に揺れてかすかに鳴る。その向かいでは、編み籠を売る老婆が座り、若者たちは角の酒場に群がって、昨日の夢と、明日の無謀を語っている。
セリュアンには貴族も騎士もいたが、皆、風と共に在ることを何よりも重んじた。身分の高低よりも、風を読む目を持つ者が尊ばれた。書記官も、騎馬隊の長も、商人も巫女も、風が運んだ声に耳を澄ませ、風の兆しを読むことに誇りを持っていた。
街の外れには、古の石碑が立ち並ぶ静かな丘がある。風を鎮める場として、儀式のたびに香が焚かれ、白布をまとった者たちが祈りを捧げていた。そこはまた、かつて竜が現れたという伝承が語られる地でもある。丘の石には、槍を手に竜と対峙する者の姿が掘られていた。風を背にしたその姿は、幾百年の時を経てもなお、剣士や旅人の憧れであった。
風鈴が、細い音を立てて鳴った。
風の都セリュアン、その一角。古びた宿屋の扉が開いたとき、店内のざわめきが一瞬、ひそやかになった。
外から吹き込んだ風が、麦の香りとともに空気を揺らす。灯りがわずかに揺れ、木製の梁が軋んだ。
入ってきたのは、フードを深くかぶったひとりの少女だった。だが、少女というには何かが違う。
その顔立ちは明らかに幼さを残していたが、背は高く、しなやかでよく鍛えられた体が軽装の隙間から覗いていた。肩にかかる布の下、引き締まった腕の筋がわずかに光を拾い、腰に斜めに背負われた槍が、その異質さに拍車をかけていた。
誰とも視線を交わさず、彼女はすっとカウンターの前に歩み寄る。足音もほとんどなく、ただ風に流されるように。
宿屋の女将がちらと視線を上げた。
(……あの顔で、随分と立派な装備ね)
思わずそう思ってしまうほど、その身なりにはちぐはぐな印象があった。
童顔の奥にある無表情は、あまりに無駄がなく、感情を読み取る隙がない。口数も少なそうだと直感的にわかる。
「……ビール」
少女は短く告げた。声もまた、歳相応というには落ち着きすぎている。
女将は一瞬だけ眉を上げ、それから微笑みを浮かべた。
(成人してる……よね? うん、たぶん)
棚から陶器のジョッキを取り出し、泡立つ黄金色の液体を満たして差し出す。
「はい、お代はあとでいいから」
少女は軽くうなずくだけで、それ以上何も言わず、手元に視線を落とした。ジョッキの取っ手を掴んだ手には、固い節と小さな傷跡があった。無骨な手だった。戦場で槍を振るう者の、それだ。
宿屋は、冒険者たちにとってただの寝床ではない。
装備を整え、情報を集め、時に名を売る場所でもある。昼間から酒が出るのも、そうした者たちが昼夜を問わず動いているからだ。
この時間帯でも、店内はそこそこ賑わっていた。
今日は珍しく、誰かが酔っぱらって騒ぎ立てるようなことはなかったが、クエストの報告や金の勘定、あるいは剣の相性について熱く語る声は絶えず、時折混じる笑い声が空気を弾ませていた。
そして、そうした話の合間には、決まってくだらない女の好みの話や、町で見かけた旅芸人の話題などが転がり込んでくる。
「でさ、昨日のあの弓使い、見たか? あの腰つきよ」
「やれやれ、お前は本当に弓の構えしか見てねぇな」
そんな軽口の延長で、ひとりの男が酔いも手伝ってか、ちらとカウンター席に視線を送った。
そして、陶器のカップを持った手を、無造作にそちらへ向けて振る。
「あそこの子も、なかなかの上玉じゃねぇか? あの細っこい背中と来たら――」
言葉の終わりは、隣席の仲間の肘鉄でかき消された。
「やめとけ。命が惜しけりゃな」
「は?」
「見りゃわかるだろ。あの槍の重さと持ち方。素人じゃねぇよ」
「は? どこがだよ」
鼻で笑った男が、再びちらりと視線を向けた。
たしかに、槍はよく研がれた実戦用のものだった。柄に装飾はなく、鞘と背紐の摩耗具合が、それなりの距離を歩いてきたことを物語っている。
背負われたままでも、まるで身体の一部みたいに収まっているのが妙に落ち着かない。
「……顔はただのガキじゃねぇか。あれがそんなに怖いか? 男のくせに、びびってんじゃねえよ」
「勝手にしろよ」
隣の男はそう呟き、酒をひと口啜った。
少女は一言も発さず、ただ静かに酒を口に運んでいた。
酔っ払いは隣の男を一目見て、ふんと鼻を鳴らした。
「つれねぇな」と捨て台詞を残し、椅子を押しのけるように立ち上がると、カウンター席の少女へとふらついた足取りで歩み寄る。
「なあ嬢ちゃん、ひとりか? そんな格好してるが、夜は冷えるぜ。宿はもう取ってんのか?」
口元にはにやけた笑み。酒の臭いを漂わせながら、無遠慮に隣の席へ腰を下ろす。
「嬢ちゃんみたいなのはな、ひとりで寝るより、あったけぇ方がいいと思うんだ。どうだ? 俺の部屋、空いてるぜ。お代は奢る。な?」
ああ、またか――。
女将はカウンターの奥から、その様子を横目に見ていた。
酔っ払いが若い旅人に絡むのは、もはやこの店の日常だ。
相手がそれなりの手練れであれば、軽くあしらって終わる。たまに取っ組み合いに発展しても、常連の誰かが仲裁に入るし、彼女自身が一声かけて収めることもある。
冒険者が多く利用するこの宿では、互いの実力は見た目や噂からある程度判断がつく。
馴染みの顔なら「このくらいは平気」と計れるものだ。
――けれど、今日のその子は違った。
フードを取ったその姿を、女将はまだ忘れていない。
童顔。まるで年端もいかない少女のような顔立ち。
それでいて背は高く、槍を背負い、旅慣れた装備に身を包んでいた。
とはいえ、見た目と本当の力の釣り合いなんて、外からじゃなかなかわからない。
槍を持っているということは、冒険者である可能性は高い――が、初めて見る顔だった。
何者なのかも、どういう性格なのかも読めない。そこが怖い。
(こういうのは、早めに止めておいた方がいい)
女将は心の中でそう判断していた。
大ごとになってからでは遅い。あの酔っ払いは、あまり空気を読む方ではない。
火種になる前に、少し強めに声をかけようと、口を開きかけた――そのときだった。
少女が、まるで何事もなかったかのように、静かにジョッキを口元へと運んだ。
表情ひとつ変えず、隣に座った男の存在など初めからなかったかのように、ただ淡々と、喉を潤す仕草。
その動きに、ひと欠片の動揺もなければ、警戒の色もない。
(……え?)
一瞬、女将の思考が止まる。
まるで、隣にいる男がただの風か何かであるかのように、彼女は一瞥すらくれなかった。
それは無視、というより――完全な不在として扱っているような振る舞い。
そこには、慣れや余裕すら超えた何かがあった。
(あの歳で、なんなの……あの落ち着き)
その冷静さに、かえって女将は踏み出す足を止めてしまった。
これは本当にただの新参か? そんな疑念が、不意に胸を過ぎる。
「お、おい、聞いてんのか?」
酔っ払いが身を乗り出して声をかける。その口調には、すでに苛立ちが滲んでいた。
反応のない相手に、どうにか爪痕を残したいような、そんな幼稚な焦燥。
少女はというと、まったくの無反応だった。
ジョッキの縁を、ほんのわずかに傾ける動作さえも無駄がなく、ゆるやかで、まるで時間の外にいるかのように見えた。
(……酔いが回ってきたか、それとも)
女将の視線が酔っ払いの顔を捉える。
赤らんだ頬は、酒気によるものなのか、それとも無視され続けたことへの羞恥と怒りか。
どちらにせよ、厄介な空気がじわじわと膨らんでいる。
カウンターの端にいた、先ほどまで会話をしていた男が気まずそうにこちらを見ている。
表情に戸惑いと不安が浮かんでいた。だが、彼は立ち上がろうとはしない。ただ、見ているだけだ。
(……助ける気はないのね)
それもまた、よくあることだ。
冒険者というのは、他人の揉め事に首を突っ込むほど、お人好しでもなければ暇でもない。
自分に害がなければ、見て見ぬふりをする。それが彼らの日常の生き方なのだ。
「なあ嬢ちゃん、さっきから無視してるけどよ……」
酔っ払いの声が、ほんの少しだけ低くなった。
何かを探るような、あるいは試すような調子。
だがその言葉の終わりを待たず、少女はゆっくりとジョッキを傾け、最後のひと口を喉に流し込んだ。
そして、無言のまま、腰の小袋から銀貨を数枚取り出し、机の上に静かに置く。
「……ごちそうさま」
それだけを言い、椅子を引いて立ち上がった。
その仕草すべてが、酔っ払いの存在を認識していないように、あまりに自然で、あまりに静かだった。
(これは――火に油よ)
女将は胸の奥で呟いた。
案の定、酔っ払いの顔がみるみる真っ赤になる。
荒くなった呼吸。引きつる口元。
「てめぇ……!」
怒号が飛ぶより早く、椅子が軋む音が響いた。
酔っ払いの拳が、荒々しく振りかぶられる。
だがそれは、最後まで振り下ろされることはなかった。
少女は、ひらりと一歩、軽やかに軸をずらした。
そのまま半身で回るように足を払う。まるで風の一吹き。
酔っ払いの身体は、よろけたように宙を浮き、次の瞬間――
ごつっ
音を立てて床に顔を打ちつけた。
誰も声を出さなかった。店内の空気が、一瞬で張り詰める。
少女はすでに元の姿勢に戻っていた。衣擦れ一つ、乱れのないまま。
槍に触れることすらしていない。ほんの足先だけで、すべてを終わらせた。
「――ったく……」
女将がようやく動き出す。溜息をつきながらカウンターを出ると、倒れた酔っ払いの様子をざっと見てから、客席の方へ視線を向けた。
「どなたか、こいつを裏に運んどいて。寝かせときゃいい」
数人が苦笑混じりに立ち上がる。
店は、ようやく息を吹き返したようにざわめき始めた。
少女はと言えば、もうすでに扉の前にいた。振り返ることもなく、静かに戸口を開けて、外の夜気へと溶けていった。
(やっぱり、ただの子じゃないわね)
女将は、カウンターの上に残された銀貨をひとつ、指先で転がした。
その冷たさが、先ほどまでの一部始終をほんの少しだけ現実に引き戻してくれる。
――槍の少女。あの歳で、あの動きとあの沈着。
風の都にまた、一人、厄介で面白い旅人が現れた。
そんな予感が、銀貨の重みと共に、女将の胸に静かに沈んでいった。